青春なんて要らないのに

紐下 育

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October

84

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ドアの鍵が開く音がした。

「おかえりなさい!」

朝も先生の方が早く出発しちゃったから、すごく恋しかった。
やっと会えた先生。
それは先生も同じらしかった。

「ただいま!」

にっこりと笑って、俺の背中に手を回す。

「電車、どうだった?」
「楽しかったです。広瀬といろいろ話せたし。」

「そっか、よかったね。疲れなかった?」

「大丈夫です。楽しかったので。」

できるだけ心配かけないように、答えたつもりだった。
だけど、先生はばっと俺の背中から手を離して、顔を覗き込んできた。
時間が、止まる。
先生の大きな手が俺の顔を包み込んで、顔をそらしたくてもそらせない。
俺の視界いっぱいに、先生の整った顔がうつる。
真っすぐにこちらを向いた榛色の瞳が、俺のことだけを見つめてくる。
どきどきして、何も考えられない。

「もう一回聞くね。疲れなかった?」

にこっと笑っているけど、瞳の奥の感情はわからない、つかめない。

「疲れました…。先生に会いたかった。」

とろけた俺は、完全に絆された。完敗した。
その瞬間、先生の瞳は明るい緑を増した。

「うん。いい子。」

その一言とともに、また、時間が動き出した気がした。今まで気にならなかった換気扇の音とか、そういう小さな雑音すら、耳に入ってきて落ち着かない。
そんな俺とは対照的に、いつもの様子に戻った先生は、それ以上に何も言ってこなかった。


「お、おいしそう!疲れてるのにわざわざ、ありがとうね。」

スーツを脱いで部屋着になった先生と一緒に食卓につく。
あぁ、頑張ってよかった。
今この笑顔を見ることができるのは、世界中の何十億人の中で俺だけだ。

「今日は大学でもなかなかゆうに会えなくて、僕も寂しかったんだ。こうやって家に帰ってくるとほっとするね。」

食べながら、先生は何度も繰り返し「寂しかった」と口にした。まるでつぶやくように。

「今日、俺がお弁当を家に忘れてしまって。早めに学食に行ったんです。さくくんのタイミングと少しずれちゃったと思います。」

「おお、ゆうが忘れるなんて珍しいね。」

「お昼前に気づいて、結構ショックでした。」

「ははっ、ゆうらしいなぁ。そういう真面目なところも好きだけどね。」

こうやって、隙さえあればすぐにきゅんとする一言を放り込んでくる。

「先生と同じお昼ご飯食べる気でいたので…。」

平日のお昼は絶対に同じ食卓を囲むことはできないけれど、一緒のものを食べることができれば、なんというか、つながっていられる感じがする。
そのつながりを自分の不注意によって断ってしまったのが、すごくショックだったんだ。
疲れていたのもある。さっき先生に見つめられていたせいもある。
ちょっとふわふわしてて、勢いに任せて全部本音をぶちまけた。

「ほんっ、とうに、君はかわいいなぁ。」

箸を持ったまま、先生は天を仰ぐ。
綺麗な曲線を描くその頤ですらもかっこよくて、正面からぼーっと眺めていた。
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