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第一走

3:身知らずの僕なんかに……ありがとう

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 歩き出した海は、予想以上に追いついてくるのが遅い紬季に気づき少し申し訳なさそうな顔で、自動扉を出た先で待っていた。
 財布から札を出しかけている海に、
「もうここで。ありがとうございました」
と紬季は頭を下げた。
 喋っているはずなのに、他人の声を聞いているようで身体がふわふわする。
 病院で処置を受けたことも、目の前に海がいることも現実感がない。
『でも』というように海が空を見上げる。
 もう完全な夜だ。
 救急搬送の受け入れ先が近くに無くて、山を切り崩して辺鄙な場所に建てられた古い病院まで連れて来られたようだ。ここから、かなり坂を下って行かなければ住宅はない。
 彼はそのことを心配しているようだ。
「大丈夫です」
と紬季は押し切った。
 乗り物に乗れないのだ。
 バスもタクシーも。
 特に電車が駄目だ。
 自宅は駅前なので、ここからだと普通の人なら歩いて二十分で行けそうだが、紬季の場合は一時間はかかりそうだ。今日みたいな身体だとさらにプラス一時間。
『分かりました。じゃあ』
と言うようにペコっと頭を下げた海は、ロータリー前で何度か紬季の様子を伺うために振り返った後、駆け足で坂を下って行った。
「最悪だ」
 海の姿が完全に消えたのを確認して、紬季はヨロヨロと歩き出す。
 昨日から今の今まで、予想できないことの連続で受け止めきれない。
 思い出してはいけないと身体が激しく震えて警告を発しているのに、記憶は勝手に蘇ってくる。
 四つん這いにさせられていて、右手は右足の膝へ、左手は左足の膝にマジックテープのようなもので固定され、全裸なので、腰が高く上がった状態で、排泄部位は丸見え。
 一昼夜、性器を押し込まれるだけの、穴として存在した。
 ようやく自覚した。
 自分は犯されたのだ。
 ボタボタッと涙がこぼれて、止めようにも全然止まらない。
 歩みはさらに遅くなる。
 しゃくりあげるとふらつくのでその度に立ち止まらなければならない。転んだら立ち上がるのにも時間のかかる身体なのだ。朝までに駅前に着けるのかすら怪しくなってきた。
 たまに通り過ぎていく車すら怖くて、しゃがみこみそうになっていると、「タッタッタッ」という足音が聞こえてきて、顔を上げると海が猛スピードで坂道を駆け上がってきていた。
 頬を数度拭って、泣いた痕跡を少しでも消そうとしているうちに彼はもう目の前にいた。
 あれだけの距離を走ってきたのに、息一つ上がっていない。
 また携帯が差し出された。
『さっき、部屋のカードキーがどうのって言っているのを思い出して。もしかしてそれも財布に?自宅に戻れないなら、俺んちに来ますか?』
 ギコギコと耳障りな音を立てて、小太りの中年サラリーマンが自転車で通過していく。
 この二人はこんな場所で何をしているんだという視線を感じて紬季は自然と右手で左腕を押さえて防御するような姿勢を取っていた。
 海は黙って立っていたが、自転車の音が聞こえなくなると、背負っていたリュックから綺麗に折り畳まれたタオルを出してきた。
 それを紬季の頭の上にパサッとかけて、行こうと手招きする。
 一向に止まらない涙を不憫に思ったらしい。
 選択肢は無かった。
 紬季の足で三十分ほどかけてたどり着いた家は、まだ周辺に空き地も残る建売住宅の一角だった。
『ここ姉ちゃんと義兄ちゃんち。俺も居候の身だから、静かに。家の鍵を無くした友達を連れて行くってだけ伝えている』
 携帯を見せられ頷く。
 家の中に入るとピカピカの新築で、トイレの場所だけ先に教えられ、玄関横にある納戸のような場所に連れて行かれた。
 床に直置きされた小さなランプが着けられ、敷きっぱなしの敷布団が見えた。
 海がその下からマットを引き出し横にずらすと、敷布団の方を紬季に向かって指差す。
 そして、納戸の換気扇や部屋の隅にある扇風機を回して出ていったかと思うと、敷布や、枕、それにタオルケットとペットボトルを持って戻ってきた。キャップを外すのに時間がかかっていると、貸してと手を差し出してきて、ギリッと音を立てて開けてくれた。
 紬季がそれを飲んでいる隙に、マットに敷布を引いて枕を起き、タオルケットを広げて、紬季に場所を移るように手で示す。
 先程貸してもらったタオルを抱きしめるようにしてそこに倒れる込むと、海がタオルケットを肩まで引き上げてくれた。
『ゆっくり休んで』
と書かれた携帯を見せられる。
「身知らずの僕なんかに……ありがとう」
 六年前のたった一度きりの会話を、海が覚えているはずがなかった。
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