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第一走

2:延長料金一万八千円

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 この街の郊外にある西城大学陸上部の二年生。そして、紬季が中学の時、スポーツ大会で感動して話かけてた相手。 
 短めのショートだった髪は、結べる一歩手前ぐらいまで伸びている。だが、中筆で一気書きしたような気持ちのいい形をした眉や、意思の強そうな瞳もへの字のように口角が下がっている唇も当時のままだ。
 事前に打ち込んでいたのか、海は紬季に携帯のメモ欄を見せてきた。
『風邪で声が出ないので文字で失礼します。俺は貴方が昨日宿泊されたラブホテルヘブンのスタッフです。店長の依頼で来ました。事件に巻き込まれ辛い思いをしている最中に申し訳ないのですが、延長料金一万八千円を支払って頂きたいのです』
 風邪で声が出ないというのは、海の嘘だ。面倒を避けるための彼なりの処世術なのだと思う。中学、高校、大学と断片的に聞こえてくる活躍のニュースに、重度の吃音であることが度々含まれていた。
「……あ、はい」 
 紬季は、『事件』や、『延長料金一万八千円』という文字を読んでその場から消えてしまいたかった。
 何とか声を絞り出して、サコッシュの中を探る。
 指先に触れるのは携帯、ハンドタオル、ハードケースに入れた裏紙を再利用したメモ。
 あれ、財布は??
 もう一回中を……。
「嘘だ。財布が無い??……どうしよう、部屋のカードキー」
 必死になって探していると、急に肩を突つかれびくついた。
 自分でもおかしいと思うほどに身体が激しく揺れる。
 顔を上げると海は、
「すみません」
というように律儀に礼をしてから、紬季に携帯の別のメモ欄を見せてきた。
『この鍵はあなたのですか?』
 続けて、スクロール。
『宿泊された部屋に落ちていました。警察に提出してしまえばこれがあなたの家の鍵だった場合、家に入れなくなって困るだろうと店長が。違う場合は店が警察に届けます』
 海がリュックから取り出したのはビニール袋に入った馬蹄形のキーホルダーで、シリンダー錠がぶら下がっていて、キーホルダーと鍵がぶつかりあってカチャカチャと鳴った。
 その音が、瞬時に今まで感じたことのない恐怖へと変わる。
 例えるなら、全身の血が凍るようなそんな感じ。
「違い、……ます」
 身体の奥から震えがやってきて早く一人になりたくて、海から逃れようとする。
 でも、身体の動きは緩慢だ。
 手をゆっくり持ちあげて、長椅子の手すりをこれまたゆっくり掴んで、慎重に腰を上げる。
 幼少期の頃からこれぐらいのスピードでしか動けない。
  難病指定され、歩くのは普通の人の何倍も遅いし、走ることなんかどうやってもできない。
 だが、薬をちゃんと飲み続ければ平均寿命まで生きられる。
 悲劇性もドラマチックでもない病気だ。 
 身体が勝手にブルブル震えていて、それを止められない。何とか受付まで行き、サコッシュを探って、また気づく。
 そうだ、財布が無いんだった。
 きっと、あの男に持っていかれた。
 医療費も払えないし、部屋のカードキーも入ってるから家にも帰れない。
 頭の中はぐちゃぐちゃになり、受付前で崩れ落ちかけて、紬季はなんとかカウンターの端を掴んだ。
 後ろから支えてくれようとした誰かの手に驚き、過剰に振り払う。
 海だった。
 なんだが自分の反応がおかしい。
 身体の機能が普通の人より劣っているせいで、人に迷惑をかけないよう常に緊張しているのだが、目覚めてからは見えない敵を恐れているように身体が警戒している。
 すっと海が前に出た。
 紬季に携帯を見せながら、リュックから自分の財布を取り出している。
『ここは払っておきます。延長料金の方も俺が建て替えておきます。落ち着いたらヘブンに払いに来てください。俺がいない場合は店長に預けてください』
 紬季は訳が分からなった。
 海は、西城大学の学生なはず。
 陸上部所属で門限のある寮住まい。アルバイトなんてしているはずない。
 まさか、走ることを止めてしまったのだろうか。
 だとしても、ラブホテルの利用客にここまで親切にしてくれるのはおかしい。
 また、海が携帯のメモ欄で話しかけてくる。
『支払が終わりました。迎えの方は来ますか?』
 首を振る。
 沈黙があった。
 彼の表情は『こんな状態なのに、頼れる奴一人もいないのかよ』と言っているような気がして、
「離れて暮らしているので」
と紬季は答えた。
『じゃあ、タクシー乗り場まで送ります。二千円あれば自宅まで行けそうですか?』
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