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第三章

20:あの通り、整った顔をしているから誘い上手だ

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「あるんですね?」
「名もないフィレンチェの美術商からの依頼で、モデルはなんでもいいから、とにかく俺の絵が欲しいと。時間がかかってもいいから、レオナルド至上最高の作品を、だそうだ」
「もしかして、それ、受けたの?」
 サライが、声を尖らせながら、レオナルドと使者のためにお茶を持っていく。アンジェロはその後ろをのそのそと付いていった。
「保留にした。なんせ、俺の仕事を管理してくれる有能な弟子が出奔中だったからな。暫くミラノにいるそうだから、折りを見て返事をする」
 サライが、ティーカップにお茶を注ぎ出そうとすると、使者はすくっと立ち上がる。
「とにかくマエストロ。最優先は食堂の壁画でもなく、フィレンチェの美術商のわけのわからない絵の依頼でもなく、記念騎馬像の製作ですから。では、お伝えしましたよ」
 そう言って使者は雨の中を出て行ってしまった。
 先ほどよりも雨は随分小降りになっている。雲の色が明るいので、間もなく止むだろう。
「なーにが、お伝えしましたよ、だ!」
 レオナルドは憤慨しながら立ち上がると、居間を出て行った。
 少しして、作業部屋の方から、ベチッ、ベチッと何かを床に打ち付ける音がする。
 きっと、馬の模型に張り付けた粘土を剥がしているのだろう。
 依頼主あっての職人だ。だが、自分が正しいと思って作り始めた作品を、出発点に戻されるのは辛い。憤るのもわかる気がする。
 ほどなくしてレオナルドが戻ってきた。手には大きな素描帳を持っている。紐で閉じられた素描帳には、ぎっしり紙が挟まれてパンパンに膨らんで、紐が今にもちぎれそうだ。
 サライはその素描帳にすぐにぴんときたようで、皮肉気に手を差し出した。
「ああまで言われたのに、教会に行くの?」
「うるせえな、お前は」
 レオナルドはサライに渡しかけていた素描帳を、急にアンジェロの胸に押し付けてきた。
「腕に抱えてなら持てるな」
「マエストロ、本当に、そいつを弟子にするつもりなんだね」
 サライがムッとした顔で言う。
「だったら何だ?」
「別に。好きにすればいい。長旅で疲れたから、今日は寝る」
「そうしろ」
 そっけなく言ってレオナルドは外に向かう。寝室に向けて歩き出すサライの後ろ姿が少し悲しげだ。
『あ、あの。いいの?』
 アンジェロは、レオナルドの後を追いかけ聞いた。
 自分が転がり込んできたせいで、二人の関係がおかしくなってしまうのは嫌だ。
「放っておけ。構われたくてやっているんだから」
 だったら、構ってあげたらいいじゃないか。あんなに綺麗なのだから。
 反発を覚えていると、レオナルドが続けた。
「お前も、サライには注意しろ。ローレンスとやらを失ったばかりで、そう簡単に心は動かないだろうが、サライには悪癖があってな。あの通り、整った顔をしているから誘い上手だ。相手にも愛される。でも、愛されたら最後、全力で嫌われようとする」
 恋愛経験が皆無のアンジェロには、全く意味が分からなかった。
『愛さようとしたくせに、どうして嫌われようとするの? ……オレなら絶対にそんなことしない』
「顔だけで好きになったんだろう? 自分の本性はこんなだぞ、と嫌な面を出して相手を計っているんだ、きっと。美しさが何なのか、絵描き志望なのにわからねえんだよ、あいつは」
 レオナルドは教会に向けて歩き出した。
「それが、哀れで放っておけねえ」
 教会までの道は、芝生がまだ濡れていて緑が色鮮やかだった。
 アンジェロはレオナルドの後を歩いていた。
 どうして、レオナルドが見知らずの他人のアンジェロの面倒を見てくれるのかずっと不思議だったが、さっきの台詞で合点がいった。
 自分も、レオナルドから見ればサライと同じく哀れなのだ。
 茶色い石で組まれた教会もつややかに濡れている。優雅で華やかなフィレンチェとは違って、美しくも勇壮な雰囲気だ。
 もう芸術の世界から足を洗ったはずなのに、隅々まで眺めてしまう。そんなアンジェロにレオナルドが言う。
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