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第一章
23:僕に謝ってくれたのはラシード様だけだ
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度も言おうと思った。オレが助けてやろうかって。でも、小鳥にお召がかけられる奴はこの広い宮殿に何千人いてもたかが知れている。オレが敵う相手じゃない。機嫌を損ねたら、オレの命だってない。だから、言えなかった。なのに、自分の感情に任せてお前の唇を奪った。ごめん。あそこまで泣かれて、ようやく心の底から悪かったって気づいた」
ラシードが僕の唇を拭う。
「謝らないでよ、僕なんかに。ラシード様。もう取り消しは済んだよ。大丈夫だから」
「オレは、お前と一緒にいたい。けど、何も出来ない」
「そんなことない。いっぱいしてくれた。最初の晩、僕を救ってくれた。それに」
僕は涙を流すラシードを微笑ましい気持ちで見ていた。
「僕に謝ってくれたのはラシード様だけだ」
ラシードは僕の唇を撫で続ける。
「それって、とってもとってもすごいことなんだよ」
「謝ることが、か?」
「うん」
頷くと勝手に目から雫が垂れた。
「お前まで泣くなよ!また、泣かしたって言われる」
「あれ、おかしいな?」
ラシードは、僕の唇を拭っていた人差し指を一本ぴんと立てた。
そして、そこに自身の唇を押し付けてくる。
閉じた瞼の下は、水滴で少し濡れていて、軽く鼻息がかかる。
その指を外して、感覚を味わいたい気分に僕は初めてなった。
僕が目を瞑りかけると、ラシードがさっと指を外し、数歩離れた。
「後日、オレの部屋に来て欲しい。渡したいものがあるから」
「何?」
「何って、いろいろだよ。渡すもん渡すって初日に約束してたし」
僕は分かったと返事をした。
鼓動を早くしていた心臓のあたりが、甘く痺れ始める。
スルタンの言う通りだ。
僕は、恋というものを覚えたのだ。
それは、まだ不確かなものだけれど、きっと。
でも、同時に途方のなく悲しくなった。
別れの日は確実に近づいてきているのだ。
どうやっても、時間は手ですくった砂みたいにさらさらとこぼれ落ちていく。
でも、ラシードが言った後日はやってこなかった。
お召がからない夜でも、庭に行ってみたが彼の姿は無かったのだ。
なぜか、ラシードの部屋に繋がる廊下はどこも、見張りが大勢いて近寄れない。
だから、僕は人気が少ない早朝の時間帯に彼に会いに行ってみることにした。
ようやくたどり着けた恋しい人の部屋はガランとしていた。
引っ越しでもしたみたいに、ほとんどの私物が消え失せていた。
残っているのは持ち運びが大変な寝台や棚など大きな家具ばかり。
寝具もないし、本もない。
「部屋替え?それとも、宮殿を出されたの?」
王子は年齢が二桁になると、太守となって地方を治める。
そうは聞いているが、
「でも、変だ」
僕は呟く。
祝い事なら、忽然と姿を消したような雰囲気を残すだろうか?
門出の席を用意して、小鳥がいるのだから、豪勢な合唱で祝って。そういうことを父親であるスルタンはしてあげるはずだ。
何より、ラシードが僕に何も言わず居なくなるわけがない。
「だって、渡したいものがあるって」
あの時点ではどこかに行くことは決まっておらず、急に決まったのだとしたら。
「嫌な予感がする」
僕は、ラシードの部屋を離れ、御側衆の元へ向かった。
通常なら、スルタンの寝所のすぐ側なので、オスマン帝国の人間ではない僕はどうやっても入り込めない場所だ。
何度もスルタンの寝所に連れて行ってくれた御側衆を見つけ、僕は「スルタンに会いたい」と泣きついた。
ありったけの演技でスルタンに恋い焦がれる異国の弱々しい少年を演じた。
どうしてそんなことができたのか、分からない。
そんな僕を哀れに思ってくれたのか、御側衆は伝えるだけ伝えると言ってくれた。
そして、数日経ってお召があった。
その間、どんなにラシードを探し回っても彼の姿は見えず、誰に聞いても知らないと言われるだけだった。
僕は、スルタンの部屋に入る前から涙を流していて、様子がおかしいことはすぐに知れてしまった。
僕はラシードとずっと会っていたことをスルタンに告げた。
初夜に小川で出会い、部屋に招いてくれ、そこから友だちになったと。
「でも、部屋にいないんです。忽然と姿を消してしまったみたいに」
「いない……?」
スルタンの答えは演技をしているように見えなかった。
父親でありスルタンである男ですら、ラシードの行方は分からないようだ。
その後、唯一スルタンが漏らした言葉は、
「そうか、あの子はこの鳥かごから出されたか」
だけだった。
それから数週間後のことだ。
僕ら小鳥が次の太守の元へ向かったのは。
でも、移動途中で長期の足止めを食った。
スルタン、そうムラト三世が急死したからだ。
各地で太守をしていた王子たちがイスタンブールに駆けつけて、王座を得るために血で血を洗う争いを始めた。
兄弟殺しの始まりだ。
それは、のちの無用な争いを避けるためのこの国の忌まわしき慣例なのだと言う。
大勢の兄弟を殺して頂点に立ったのはメフメト三世。
彼は、兄弟を布袋にいれて海に投げるよう部下に命令したのだという。
そのうち、また太守にもなっていなかった末の王子は、後継争いに加わることもできず、先に殺されてしまったようだという噂を聞いた。
初めて昼にラシードに会いに行ったあの日、おそらく彼はすでに死んでいたのだ。
彼が渡したいと言ったのは何だったのか。
金のネックレス?
宝石が埋め込まれた水差し?
「そんなのいらないよ」
と僕が泣き叫んだところで、その声は届かない。
後継争いに完全に終止符が打たれたのは、西暦千五百九十五年。
十九人の王子の命が消えた夏が終わり、季節は秋になっていた。
ラシードが僕の唇を拭う。
「謝らないでよ、僕なんかに。ラシード様。もう取り消しは済んだよ。大丈夫だから」
「オレは、お前と一緒にいたい。けど、何も出来ない」
「そんなことない。いっぱいしてくれた。最初の晩、僕を救ってくれた。それに」
僕は涙を流すラシードを微笑ましい気持ちで見ていた。
「僕に謝ってくれたのはラシード様だけだ」
ラシードは僕の唇を撫で続ける。
「それって、とってもとってもすごいことなんだよ」
「謝ることが、か?」
「うん」
頷くと勝手に目から雫が垂れた。
「お前まで泣くなよ!また、泣かしたって言われる」
「あれ、おかしいな?」
ラシードは、僕の唇を拭っていた人差し指を一本ぴんと立てた。
そして、そこに自身の唇を押し付けてくる。
閉じた瞼の下は、水滴で少し濡れていて、軽く鼻息がかかる。
その指を外して、感覚を味わいたい気分に僕は初めてなった。
僕が目を瞑りかけると、ラシードがさっと指を外し、数歩離れた。
「後日、オレの部屋に来て欲しい。渡したいものがあるから」
「何?」
「何って、いろいろだよ。渡すもん渡すって初日に約束してたし」
僕は分かったと返事をした。
鼓動を早くしていた心臓のあたりが、甘く痺れ始める。
スルタンの言う通りだ。
僕は、恋というものを覚えたのだ。
それは、まだ不確かなものだけれど、きっと。
でも、同時に途方のなく悲しくなった。
別れの日は確実に近づいてきているのだ。
どうやっても、時間は手ですくった砂みたいにさらさらとこぼれ落ちていく。
でも、ラシードが言った後日はやってこなかった。
お召がからない夜でも、庭に行ってみたが彼の姿は無かったのだ。
なぜか、ラシードの部屋に繋がる廊下はどこも、見張りが大勢いて近寄れない。
だから、僕は人気が少ない早朝の時間帯に彼に会いに行ってみることにした。
ようやくたどり着けた恋しい人の部屋はガランとしていた。
引っ越しでもしたみたいに、ほとんどの私物が消え失せていた。
残っているのは持ち運びが大変な寝台や棚など大きな家具ばかり。
寝具もないし、本もない。
「部屋替え?それとも、宮殿を出されたの?」
王子は年齢が二桁になると、太守となって地方を治める。
そうは聞いているが、
「でも、変だ」
僕は呟く。
祝い事なら、忽然と姿を消したような雰囲気を残すだろうか?
門出の席を用意して、小鳥がいるのだから、豪勢な合唱で祝って。そういうことを父親であるスルタンはしてあげるはずだ。
何より、ラシードが僕に何も言わず居なくなるわけがない。
「だって、渡したいものがあるって」
あの時点ではどこかに行くことは決まっておらず、急に決まったのだとしたら。
「嫌な予感がする」
僕は、ラシードの部屋を離れ、御側衆の元へ向かった。
通常なら、スルタンの寝所のすぐ側なので、オスマン帝国の人間ではない僕はどうやっても入り込めない場所だ。
何度もスルタンの寝所に連れて行ってくれた御側衆を見つけ、僕は「スルタンに会いたい」と泣きついた。
ありったけの演技でスルタンに恋い焦がれる異国の弱々しい少年を演じた。
どうしてそんなことができたのか、分からない。
そんな僕を哀れに思ってくれたのか、御側衆は伝えるだけ伝えると言ってくれた。
そして、数日経ってお召があった。
その間、どんなにラシードを探し回っても彼の姿は見えず、誰に聞いても知らないと言われるだけだった。
僕は、スルタンの部屋に入る前から涙を流していて、様子がおかしいことはすぐに知れてしまった。
僕はラシードとずっと会っていたことをスルタンに告げた。
初夜に小川で出会い、部屋に招いてくれ、そこから友だちになったと。
「でも、部屋にいないんです。忽然と姿を消してしまったみたいに」
「いない……?」
スルタンの答えは演技をしているように見えなかった。
父親でありスルタンである男ですら、ラシードの行方は分からないようだ。
その後、唯一スルタンが漏らした言葉は、
「そうか、あの子はこの鳥かごから出されたか」
だけだった。
それから数週間後のことだ。
僕ら小鳥が次の太守の元へ向かったのは。
でも、移動途中で長期の足止めを食った。
スルタン、そうムラト三世が急死したからだ。
各地で太守をしていた王子たちがイスタンブールに駆けつけて、王座を得るために血で血を洗う争いを始めた。
兄弟殺しの始まりだ。
それは、のちの無用な争いを避けるためのこの国の忌まわしき慣例なのだと言う。
大勢の兄弟を殺して頂点に立ったのはメフメト三世。
彼は、兄弟を布袋にいれて海に投げるよう部下に命令したのだという。
そのうち、また太守にもなっていなかった末の王子は、後継争いに加わることもできず、先に殺されてしまったようだという噂を聞いた。
初めて昼にラシードに会いに行ったあの日、おそらく彼はすでに死んでいたのだ。
彼が渡したいと言ったのは何だったのか。
金のネックレス?
宝石が埋め込まれた水差し?
「そんなのいらないよ」
と僕が泣き叫んだところで、その声は届かない。
後継争いに完全に終止符が打たれたのは、西暦千五百九十五年。
十九人の王子の命が消えた夏が終わり、季節は秋になっていた。
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