【完結】片恋鳥は初恋の夜を越える

第一章

8：手も服も臭い

「おやすみ。小鳥」
　ふり向くと、スルタンが扉を閉めている最中で、彼はもう僕を見ていなかった。すでに別のことを考えているらしい。
　ぴったりと扉が閉められ、寂しい気分になった。
　僕は、寝所の行為で死ぬんじゃないかと覚悟したが、スルタンにとってはただの逢瀬。名残惜しくもなんともないらしい。
　ここを叩いたらまた開けてくれるだろうか？
　欲望の処理に使われたというのに、すがりたくなる。
　きっと、機嫌を取ってもらえば、彼に壊された自尊心が回復すると僕は思っているのかもしれない。
　やってきた御側衆の男が僕を手招きするので、同じ方向に歩き始めた。
　廊下を曲がると、御側衆が口を開いた。
「やけに早いな。半刻、いや、その半分も過ぎてないぞ」
　そんな短い時間だったのか。
　過ぎてしまえばあっという間だったが、寝台の上にいた時は、永遠にも思えるほどの長さだった。
　幾つかの扉をくぐり、廊下を何度も曲がる。
　まるで迷路だ。
　各所に寝ずの番をする兵がいて、スルタンの寝所を何重にも守っているのがわかる。
「まだ湯浴みの準備もできていない。ここで待て。ついでに、お前を連れ帰るよう、先程の者を呼んでくる」
　御側衆が早歩きで廊下を歩いて行く。
「会いたくないなあ」
　僕は、お気に入りの小鳥とそれ以外の扱いが天地ほども違うプロフがあまり好きじゃない。
　それに、彼は事あるごとに性器を切り取られた僕らを馬鹿にする。
　プロフは、普通の成人男性なのだ。
　通常、小鳥を指導するプロフは、元小鳥が一般的なので、何人かいるプロフの中でも彼の声楽指導が一番下手だ。
　なのに、ローマ法王の持ち物である声楽一座をあいつが率いている。
　噂によれば高貴な生まれで、ローマで悪いことをしていられなくなったから、オスマン帝国中を回る任に就かされたのだとか。
　僕は、プロフのことが嫌いだが、彼の姿を見たら気が緩んで泣いてしまいそうで、それが嫌だった。　
　そして、泣けば叱られるのは分かっている。
　小鳥になるような子供は小さい頃から、声がどこまでも届くよう肺活量が増える訓練を受けている。つまり、鍛えられた肺を使って泣くからとにかくうるさい。
「ん……」
　黙って突っ立っていると、股が次第に濡れていくのを感じた。
　青臭い匂いがする。
　スルタンに放たれた精液が溢れ出てきたようだ。
「手も服も臭い」
　これは自分がスルタンの手に放った精液を拭ったせいだ。
「もう嫌だ」
　何もかも無かったことにしたい。
　一人になりたい。
　姿を消せばまた怒られるのは、分かっている。
　泣いて怒られるのとどっちがいいのか天秤にかけ、僕は廊下を歩き出した。
　新宮殿は呆れるほど、部屋数がある。
　使われていない一室に忍び込んで、ちょっとの間だけ泣かせてくれればそれでいい。
　無我夢中で駆け出して、右に左に思いつくまま曲がると円柱が立ち並ぶ外廊下に出た。
　すぐ隣は広大な庭だ。
　綺麗に刈られた芝生、それに手入れされた花々。
　こんもりとした木立からは水の流れる音が聞こえる。
　新宮殿の外には大きな川がありそれが海へと繋がっているから、そこから水を引いているのかもしれない。
　茂みをかき分けていくと僕の背丈ほどしかない幅の小川があって、僕はそこに身体を浸した。