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第六章

104:それで、彼方をあの家に縛り付けられると思ってた

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「いや。たぶん、ホスピス」
「どういう場所?」
「終の棲家。薬では治らないほど病が進行した人が、緩和を目的として行く場所。俺も直接は聞いてない。でも、片付けをしてたときにそれ系のパンフレットがあって。先生が生きてたとき、色々調べたからさ」
「澤乃井さん。僕らに最後まで言わない気なんだろうね」
「彼方を最後の生徒と思いたいだろうから、きっとな」
「もう、あんまり日にちがないね」
 また涙が溢れそうになって、慌てて彼方は目尻を拭った。
 今日はちょっと、自分は泣きすぎだ。
「だな。仕上がりそうか」
「ぎりぎり。澤乃井さんと連絡取って、行ける日は数時間でもいいからレッスンつけてもらう。ジンが無理な日は、僕、電車とバスで行く」
「おう。喜ぶぞ、きっと」
 黙っていたら、フロントガラスを眺める視界がぼやけてきた。
 だから、うつむく。
「僕は、ジンがあのピアノをただ買い与えたいだけだと思ってた。ごめん」
「最初はそのつもりだったんだ。それで、彼方をあの家に縛り付けられると思ってた。猫を連れて来たのもな。だから、謝る必要なんかねえよ」
 ジンは静かに謝ってくれた。
 それ以降も澤乃井の家には何度か通った。
 ジンが一緒の日もあればそうでない日もあった。
 大型の家具はジン一人ではどうにもならないので、専門の業者が入って運び出していった。部屋は、どんどんがらんどうになっていく。
 最後の日は、ジンがどうしても都合がつかず、彼方一人で行った。
 明日からは澤乃井は、老人ホームへ、つまりホスピスへ移る準備を本格的に始める。
 ピアノが今後どこに行くのかはあえて聞いていない。
 決めるのは、澤乃井だ。
 どうか、いい場所に貰われていって。
 弾かせてくれてありがとう。
 そんな気持ちで溢れている。
 こんなにも一曲に向き合ったことはない。
 澤乃井曰く、彼方は「小手先だけの器用貧乏さん」なんだそうだ。
 確かに、今思えば、曲の上辺だけを知って理解したつもりでいた。
 でも、澤乃井のグランドピアノはそんなことを許さなかった。手抜きをすると、元がいい分、ひどい弾き方が目立ってしまう。
 何度か、澤乃井の前で弾いてそれでもやはりいろいろ直されて。
 帰宅の時間も迫ってきて、彼方は、仕上げた曲を自信を持ってこれから弾くからと澤乃井に宣言した。
 緊張したのは最初の一音だけ。
 滑り出すように手が動く。
 この章は苦労した。
 この部分は踊るような感じがして好きだ。
 ここは、いつも注意された。
 音符を辿っていくと、様々な思い出が蘇ってくる。
 最後の和音を弾き終え、指を離す。
 深く息を付いて、隣の澤乃井を見る。
 彼女は拍手をしてくれた。
 彼方には分かる。
 それは、お目溢しの拍手だと。
 まだまだ、指摘したい部分はたくさんあるはずだ。
 でも、時間は限られていて、彼方はやれるだけやった。
 人生で初めて胸を晴れたような気がする。
 そして、今まで曲を仕上げることに夢中になっていたのだが、この数週間で澤乃井は明らかにやつれていた。それが、今、はっきりと自覚できた。
 たくさん書こ込んだ楽譜を片付けていると、堪えていても目から涙が溢れる。
「彼方君。手を出して。手のひらじゃなく、手の甲」
 右手を出すと、澤乃井はそこにハンコをぽんと打つ。
『よくできました』
 サクラの形をした中に、縦書きの文字が二行。
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