恋とカクテル

春田 晶

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ワインクーラー

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 三十代も後半に差し掛かると、女は恋愛に対するハードルがグッと上がる、ような気がする。周りがどうとか、相手がどうとかではなくて、自分が恋に臆病になる。

 良い恋はいつでもしたいし、良い人がいれば結婚したい。けれどこの歳で相手が自分のことをどう思っているかでいちいちヤキモキしたくないし、関係が拗れて修羅場になったり、周囲を巻き込んで人間関係にヒビが入ったりなどという面倒事もごめんだ。だからなかなか積極的になれないし、ちょっとでも思うところがあるとすぐに引いてしまい、結果なかなか恋愛に結び付かなくなる。
 何より仕事が忙しい。人間働かねば生きていけないし、年齢的に任される仕事も責任も増すばかりなのだ。その上プライベート恋愛面以外はもそこそこ充実している。要するに恋愛に割く体力が圧倒的に足りていない。けれど私のこの言い訳は、友美には通じない。
「出会いがないの?探してないの?恋がしたいなら時間がないなんて逃げてないでアンテナ張ってなきゃ」
 スマホの向こうで友美が言う。友美は私と同じくアラフォーの独身だけれど、なんだかんだ途切れずに彼氏がいる。彼女自身は結婚願望が薄いみたいで、幾つになっても恋ができればそれで良いらしいのが、羨ましくもあり妬ましい。
 私は持ち帰った仕事の手を止めて、テーブルに立てかけたスマホに目をやった。画面に映った友美のアイコンは、彼氏だろう人を絶妙な角度で匂わせている。良い歳して、と思うけれど、匂わせる相手がいない私が言っても僻みっぽくなるだけで指摘もできない。
「アンテナって?友美は普段具体的に何してるの?」
「とりあえずいいなって思ったら、なるべくたくさん話してみて、二人きりになれるよう仕向けて反応を見るでしょう、それで良さそうだったら、出会ったその日にベッドイン」
「嘘でしょ」
「ホント。この歳でカマトトぶったって仕方ないじゃない」
「カマトトなんて久々に聞いたわ」
「私も久々に言った」
「でもそんなの、遊ばれて終わるんじゃないの」
「それはそれで仕方ないわよ、縁がなかったってことで、なかったことにすればいいのよ。大体遊ばれたなんて、若い女じゃあるまいし、お互い様でしょう」
 一晩限りで終わったら、なかったことにしてしまっていいのか。それで、アラフォーは遊ばれたなんて思ってはいけないのか。私は言葉に詰まってしまう。友美の生き方を否定したくはないけれど、私はそこまでドライになれそうにない。
「別に樹里に私と同じことしろなんて言わないけどさ、いないの?ちょっと良いなって思う人」
「いない、ことはない」
 私は通っているジムでよく会う彼のことを思い浮かべる。
「とりあえず食事にでも誘ってみて、良いお友達になれば良いのよ。二、三人そういう人がいればそれだけで心は割と満たされるし、発展すれば儲けもの。」
「同時進行ってこと?」
「別に二股かけるわけじゃないんだから。あくまで友達なら、なんの問題もないでしょう」
「そういうものかなあ」
「そういうものよ。女にも男にも、逃げ道が必要なの」
「逃げ道かあ」
 確かにヤキモキしないで済むし、恋愛に進まなかった時も友達としての関係が続くなら悪くないような気はする。けれどそれは果たして相手のことを真剣に考えていると言えるのだろうか。
「樹里は難しく考えすぎよ。そうね、試しにその気になる人と食事に行けたら、そのあとバーにでも連れてってもらいなさいよ。それでワインクーラーでも頼んだら、彼の気持ちがわかるかもよ」
「ワインクーラー?なんで」
「イイ女の嗜み」
「聞いたことないんだけど」
「はじめて言った」
「わかった、適当なのね」
「さあねえ、ああ、シェリー酒をストレートでもいいわよ」
「話をする前につぶれるわね」
「あ、ごめん彼が帰ってきた。またね」
「はーい、またね」
 友美との通話を終えた後、私はキーボードを叩いて残りの仕事を片付けながら、ジムで会う彼のことを思い出す。今のところ会話らしい会話はそんなにない。よく行く曜日が被るから、挨拶をして、ランニングマシンでちょっとだけ話してあとはそれぞれ別のマシンへ向かう。でもそのちょっとした会話が心地いい人だと思っている。
 友美の言葉を反芻しながら、あれこれ考える。早々にベッドインはともかく、とりあえず友達になれたら、そこから広がる人間関係もあるかもしれないし、待っているだけじゃあ、アラフォーに恋が舞い込んでこないことはわかりきっている。私は力強くエンターキーを押して、肩の力を抜いた。
 翌々日土曜日、案外と、彼はすんなり私の誘いに乗ってくれた。それはたまたま更衣室から出るタイミングが被って、そのまま退室カードを一緒に押して外に出たからなのだけれど、本当にまるで最初から決まっていたみたいに、自然な流れで食事に行くことになった。
「いやあ、誘ってもらえて嬉しいなあ。実は僕も一度ちゃんと話してみたいと思ってたんですよ」
 ニコニコしながら彼が言う、帰りが一緒になった時に、自分も誘おうと思っていたと。社交辞令かもしれないけれど、私はそれだけで嬉しい。
 二人ともジム終わりでシャワーを浴びた後だから比較的ラフな格好だし、気取る必要がなく、且つ周りを気にしなくていいように個室のあるチェーンの居酒屋に入った。大人のデートとしてどうなのよ、と友美の叱責がフルオートで脳内再生されるけれど、勿論気にしない。デートだなんて思ったら、緊張して楽しく会話ができないじゃない。
 実際、肩の力を抜いて挑めたおかげか彼との食事は楽しかった。ランニングマシンの隣同士で話す時に感じた心地よさはやはり間違いではなかったし、対面にいる彼の表情や仕草は今まで見ることの叶わなかったものだけに、私をときめかせる。心の潤いとは、まさにこれのことなのだろう。
「香坂さん、時間まだ大丈夫ですか?」
「え、ええ。もちろん」
 食事を終えて店を出たタイミングで、振り返りざまに彼に聞かれると、私は年甲斐もなく動揺してしまった。それまで紳士的だった彼の態度から、いらぬ想像と友美の「その日のうちにベッドイン」の言葉を振り払って、笑顔をつくる。
「よかったらもう一軒行きませんか、この近くに時々飲みに行くバーがあるんです」
「良いですね、ぜひ」
 彼ともう少し一緒にいられることが嬉しくて、私の顔がわかりやすく明るくなる。彼も、そんな私をみて優しく微笑んでくれた。二月の夜はまだ冷えるけれど、二人の間に暖かい空気が流れている気がして、気持ちよかった。
 バーと聞いてカウンター席だけのかしこまった小さな店を想像していたけれど、彼は意外と広くてカジュアルな雰囲気のお店に連れて行ってくれた。
 L字型のソファー席に腰掛けて、二人ともビールで乾杯をする。先ほど対面で座っていた時より距離が近いので、またしても私の心臓は落ち着かなく鼓動を早め、動揺を悟られまいと澄ました顔でビールを飲む。そんな私はあまり可愛げの無い女のだろう。とはいえ、果たしてアラフォーに可愛げは必要なのか、気になるところだ。内心動揺しながらポーカーフェイスを保っている私とは対象に、彼は相変わらずにこやかに話を振ってくれる。この人はとても聞き上手なんだわ、ますます好感を持ててしまう。
 ビールが空になる手前で、彼が「何かカクテルを頼んでみませんか、僕、ここのバーテンダーさんのカクテルがとても好みなので、是非樹里さんにも味わってみて欲しいです。」と言ったので、私は友美の言葉を思い出した。
「そういえば、もし道重さんとバーに行く機会があれば、ワインクーラーを頼むと良いって友達に言われたのですが、どう言うカクテルなんですかね」
 彼は少し驚いた顔をしたあと、目を細めて私をみた。今までの穏やかな顔よりずっと色気のある男の顔になった気がして、私は呼吸を忘れてしまった。
「樹里さんは、ご友人に僕の話を?」
「あっ、あの、ジムで時々話す人とお友達になりたいなあ、なんて。そう言う話をですね」
 見つめられて、まるでうぶな女の子みたいに焦ってしまい、かなり恥ずかしくなった。口を滑らせた自分を呪っていると、彼がくつくつと笑う。
「なるほど、友達になりたいと思ってくれていたなんて嬉しいですね。頼んでみましょうか、ワインクーラー。ワインはロゼでも赤でもなんでもいいですが、好みはありますか?」
「あ、はい。じゃあ赤で」
 私の返事を受けて、彼が満足そうに笑った。何故そんな風に笑うのかはわからないけれど、その笑顔も良いと思った。私はすっかりやられてしまって、ちょろすぎる自分を嗜めるように、目を瞑って残りわずかなビールを飲み干した。
 目の前に置かれたワインクーラーは、オレンジがかった赤色で、アルコール感も強くなく、とても飲みやすかった。これを飲んだところで、一体彼の何がわかるのか、やはり友美が適当に言っただけなのだなと思っていると、彼がじっとこちらを見つめでいることに気がついた。
「お友達には、どんな話をしていたんですか?」
「えっと、ジムで時々話をする人がいて、もうちょっと話してみたいとか、そんなことですよ」
「本当に、それだけ?」
 本当は恋愛につながるような関係になりたいとまで話をしていたけれど、全部言うわけにもいかず「なぜ?」問う。けれど次の彼の言葉で、私は自分の頬を叩きたくなった。
「このカクテルには、『私を射止めて』と言う意味があります。ご友人が言っていたのは、きっとそのことですね」
 彼は先ほどよりも私の傍に寄ってきて、耳元で囁いた。彼の低く落ち着いたその声と、大胆なカクテルの意味に、私は思わずたじろぐ。
「そ、え……わ、私そんなつもりじゃ」
「僕に恋愛的興味はありませんか?」
「いえ、あの……ないことは、ないです」
 後半はほぼしり切れとんぼだった。恥ずかしくて顔を伏せっていると、彼の優しい声が降ってくる。
「良かった、お友達としてだけだったらどうしようかと。けれど期待が持てるなら、射止められるように頑張らねば」
「からかわないでくださいよ」
「からかってませんよ、本気です。でもひとまずお友達として、よろしくお願いします」
「はい……」
 正直なところ、お友達の枠をとっくに飛び越えて射止められているし恋が始まっていたわけだけれど、彼の重たくない好意が心地よくて、それに甘えてしまった。
「……ちなみに、シェリーでも良いって言われたんですけど、それにはどんな意味が?」
 彼は今度、声を上げて笑った。
「ご友人はなかなか大胆だけれど意地悪なんですね」
「意地悪な意味なんですか」
「絶対に僕以外の男の前で飲まないでくださいね」
「はあ……?」
 シェリー酒の酒言葉をまたしても耳元で囁かれて、今度は足の先まで真っ赤に染まってゆでだこのような自分が出来上がった。友美には今度会ったら説教だ。
「あの、私本当にそんなつもりでは」
「大丈夫ですよ、今夜はホテルに行こうなんて言いません。ゆっくり、お互いのことを知っていきましょう」
「はい……」
 恥ずかしくて穴があったら入りたいのに、入る穴は当然ないし、いつの間にか絡められた指が優しいのにほどけそうになくて、羞恥心よりもときめきが勝ってしまう。
 友美のように即日ベッドインはやはり私には無理だし、友人というわかりやすい逃げ道もろくに作れていないけれど、これで良いのだ、自分にはあれこれ仕掛けずにひとりと親睦を深めていくほうが合っていると結論付けた。

 だって結局、いくつになっても恋の始まりは甘酸っぱい。それこそこのワインクーラーぐらい、もしかしたらもっと。
 彼に視線を移せば、私の指を絡めたまま、先ほど感じた男の色気を潜ませて、再び穏やかな優しい笑みをたたえていた。
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