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7 光の裏側
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「ところであなたは、彼のことをファーストネームで呼ぶのですね、プローディさん」
ソファの背もたれに片肘を置き、頬杖をついてエドアルドは訊ねた。
「彼とは、ずいぶん親しかったのですか?」
プローディは一瞬、何を問われているのか理解できない様子で、きょとんとした。やがて覚ったような顔をする。
「いや。ただの医師と患者の関係ですよ、もちろん。しかし、彼はまだ十代で、恐ろしい孤独の中にいたわけです。友達と呼べる仲間もいなかったようですし、逆に、彼の才能に嫉妬する仲間に絶えず囲まれていたわけです。かわいそうな子だと思いました。ですので、私としてはせめて病院に運ばれてきたときくらいは、できるだけ親切にしてやりたいと…私なりに気にかけていたのです。そうしたら、彼の方もいろいろと話してくれましてね。もちろん絵のことばかりですよ、彼は絵のこととなると実に活き活きと話すのです。ラファエロは自分の姓と同じだから親しみを感じるとか、ボッティチェリは突出した画家で、一番尊敬しているとか。彼が肌身離さず持っていた小さな画集を見せてくれながら、そんなことを話してくれましたよ」
「俺には、ボッティチェリは嫌いだと言ったのに」
「は?」
「いえ、こちらの話」
「私は一度アンドレアに、工房を出て絵の仕事はできないものかと聞いたことがあるのです。彼をあのままあそこにおいておくことが良いとはどうしても思えませんでしたので。そうしたら、やはり壁画のことを口にしていましたよ。結局、その道に進んだのですね、良かったですよ」
「ほう。それは面白いエピソードですな」
これまでの話から、このプローディという男が少なからずアンドレアの人生に足跡を残しているということがはっきりした。
「彼にお会いになりませんか?」
エドアルドは切り出した。当然、プローディのほうもそのつもりでいるのだろうと思っていたのだが、彼はまるで今まで思いつきもしなかったという顔をしてエドアルドを眺める。
「そうか。彼はここにいるのか」
その反応が面白くてエドアルドは目を細めた。
「だから、先ほどから彼の話をしているのではないですか」
「いや、それはそうなのですが。なんだか実感がわかなくて。会えるのなら、彼に会いたいです。しかし、なんだか緊張しますな」
エドアルドがいざなうように立ち上がり、ドアへと向かうと、プローディも慌てたように立ち上がる。膝に乗せていた茶の鞄の取っ手を神経質そうに握り直す。
玄関前の広間を抜けて外に出ると、太陽は夕刻にもかかわらず、かえって力いっぱいの赤い光を大地に注ぎかけていた。通常エドアルドは教会へ行くのに表通りには出ずに、鉄柵でできた通用門を使っている。プローディにもその道を案内した。
プローディは時々振り返っては、斜陽の中で飴色に光るオステア城の雄姿に感嘆の言葉を浴びせている。
「歴史を感じさせる城だなあ! よほどしっかりと建てられているのでしょうね。それに、なんて巨大なんだ!」
城は庭園を含めて全体を五メートルの高さを超える城壁に囲まれている。城壁の厚さは一メートルを超える。ジブリオ家と修道院の修道僧、逃げてきた周辺住民を、数々の戦火から守り通してきた城だった。
「ねずみは大丈夫でしょうね、プローディさん?」
「ねずみ?」
「この城には何千匹いるか知れませんよ」
エドアルドが脅すと、ぞっとした表情で鼻にしわを寄せた。実際は清掃者や厨房担当が、ねずみ一匹の滞在も許さず退治に躍起になっているので、エドアルドは姿を見たことも鳴き声を聞いたこともない。
聖堂の内部には、今の主と同じ雰囲気の鎮静とした穏やかさが、ひっそりと沈んでいた。
二段目の高い足場に、胡坐で腰掛けているアンドレアの背中が見えた。相変わらず、肘までの波打つ黒い髪がふんわりと背中を包んでいる。
周囲を眺めれば、以前見せてもらった素描通りの絵がうっすらと出来上がっていて、そろそろ色づけを始めているようだった。その後ろ姿にエドアルドは大声で叫んだ。
「アンドレア! お客様だ!」
驚いたように振り向くと、アンドレアは板の上から身を乗り出してこちらを見下ろす。一瞬、エドアルドに視線を留めた後で、プローディに目を向けた。
「…今、下ります」
落ち着いていて、いつもと変わりない声だ。
身軽に立ち上がって足早に歩き、長いはしごを降りてくる。おそらくビルの三階分はあるだろう。
アンドレアと向かい合うと、プローディが素っ頓狂な声をあげる。
「怖くないの? あんな高いところを、よくそうスタスタと歩けるね!」
挨拶もなく、数年ぶりの再会の第一声がそれかとエドアルドは笑いたくなった。この男は嫌になるほど率直過ぎる。この調子で猪突猛進にコジモ・ファミリーに体当たりしたところで、命は三日と持つまい。
「ご無沙汰しています、トニー」
普段エドアルドに見せるよりははるかに柔らかな表情で、アンドレアは口を開く。
「元気だったかい?」
あらためてプローディが問う。
「ええ。最近、少し頭痛がしますけれど」
「頭痛? それはよくないな。医者に診てもらってるかい?」
「よく効く頭痛薬をもらっていますから、大丈夫です」
そう答えて相手を安心させようとしているのかもしれないが、アンドレアはここに来たときよりもやや痩せたのではないかと、エドアルドは心配になった。
「無理してはいけないよ」
「こちらにはどんな御用で?」
「取材だよ。なんと、しばらくこちらに滞在させていただくことになったんだ。親切なご当主に本当に感謝だよ」
プローディがにこにこしながらエドアルドを見ると、アンドレアも驚いたように視線を追う。
「そうですか。それは、僕も嬉しいです」
「せめて今夜くらいは夕食に出てこないか。彼と一緒にとるからな」
エドアルドの誘いに、アンドレアは首を横に振った。
「いいえ。ここでとります。どうぞ、僕のことはお気遣いなく。またお会いできますよね、トニー」
そう言って握手を求めると、仕事の続きのためにはしごを上っていく。なんともあっさりとした再会だった。
「アンドレアらしいなぁ」
城へ戻っていく道すがら、プローディが微笑みながら呟く。
「彼らしい、とは?」
「夕食に出てこないことですよ。彼は孤高な天才なんです。昔からね。彼を見ていて気付いたことがあります。天才というのは、自ら孤独を被るものなんだって」
うっかりすれば聞き過ごしそうな言葉だったが、真実を穿っていた。
エドアルドは大地に伸びる自分たちの影を眺めながら、はしごを一人上っていくアンドレアの姿を思い浮かべた。彼の怜悧な美しさに、そろそろ自分はまいってしまうのではないかと心許なく感じていた。
ソファの背もたれに片肘を置き、頬杖をついてエドアルドは訊ねた。
「彼とは、ずいぶん親しかったのですか?」
プローディは一瞬、何を問われているのか理解できない様子で、きょとんとした。やがて覚ったような顔をする。
「いや。ただの医師と患者の関係ですよ、もちろん。しかし、彼はまだ十代で、恐ろしい孤独の中にいたわけです。友達と呼べる仲間もいなかったようですし、逆に、彼の才能に嫉妬する仲間に絶えず囲まれていたわけです。かわいそうな子だと思いました。ですので、私としてはせめて病院に運ばれてきたときくらいは、できるだけ親切にしてやりたいと…私なりに気にかけていたのです。そうしたら、彼の方もいろいろと話してくれましてね。もちろん絵のことばかりですよ、彼は絵のこととなると実に活き活きと話すのです。ラファエロは自分の姓と同じだから親しみを感じるとか、ボッティチェリは突出した画家で、一番尊敬しているとか。彼が肌身離さず持っていた小さな画集を見せてくれながら、そんなことを話してくれましたよ」
「俺には、ボッティチェリは嫌いだと言ったのに」
「は?」
「いえ、こちらの話」
「私は一度アンドレアに、工房を出て絵の仕事はできないものかと聞いたことがあるのです。彼をあのままあそこにおいておくことが良いとはどうしても思えませんでしたので。そうしたら、やはり壁画のことを口にしていましたよ。結局、その道に進んだのですね、良かったですよ」
「ほう。それは面白いエピソードですな」
これまでの話から、このプローディという男が少なからずアンドレアの人生に足跡を残しているということがはっきりした。
「彼にお会いになりませんか?」
エドアルドは切り出した。当然、プローディのほうもそのつもりでいるのだろうと思っていたのだが、彼はまるで今まで思いつきもしなかったという顔をしてエドアルドを眺める。
「そうか。彼はここにいるのか」
その反応が面白くてエドアルドは目を細めた。
「だから、先ほどから彼の話をしているのではないですか」
「いや、それはそうなのですが。なんだか実感がわかなくて。会えるのなら、彼に会いたいです。しかし、なんだか緊張しますな」
エドアルドがいざなうように立ち上がり、ドアへと向かうと、プローディも慌てたように立ち上がる。膝に乗せていた茶の鞄の取っ手を神経質そうに握り直す。
玄関前の広間を抜けて外に出ると、太陽は夕刻にもかかわらず、かえって力いっぱいの赤い光を大地に注ぎかけていた。通常エドアルドは教会へ行くのに表通りには出ずに、鉄柵でできた通用門を使っている。プローディにもその道を案内した。
プローディは時々振り返っては、斜陽の中で飴色に光るオステア城の雄姿に感嘆の言葉を浴びせている。
「歴史を感じさせる城だなあ! よほどしっかりと建てられているのでしょうね。それに、なんて巨大なんだ!」
城は庭園を含めて全体を五メートルの高さを超える城壁に囲まれている。城壁の厚さは一メートルを超える。ジブリオ家と修道院の修道僧、逃げてきた周辺住民を、数々の戦火から守り通してきた城だった。
「ねずみは大丈夫でしょうね、プローディさん?」
「ねずみ?」
「この城には何千匹いるか知れませんよ」
エドアルドが脅すと、ぞっとした表情で鼻にしわを寄せた。実際は清掃者や厨房担当が、ねずみ一匹の滞在も許さず退治に躍起になっているので、エドアルドは姿を見たことも鳴き声を聞いたこともない。
聖堂の内部には、今の主と同じ雰囲気の鎮静とした穏やかさが、ひっそりと沈んでいた。
二段目の高い足場に、胡坐で腰掛けているアンドレアの背中が見えた。相変わらず、肘までの波打つ黒い髪がふんわりと背中を包んでいる。
周囲を眺めれば、以前見せてもらった素描通りの絵がうっすらと出来上がっていて、そろそろ色づけを始めているようだった。その後ろ姿にエドアルドは大声で叫んだ。
「アンドレア! お客様だ!」
驚いたように振り向くと、アンドレアは板の上から身を乗り出してこちらを見下ろす。一瞬、エドアルドに視線を留めた後で、プローディに目を向けた。
「…今、下ります」
落ち着いていて、いつもと変わりない声だ。
身軽に立ち上がって足早に歩き、長いはしごを降りてくる。おそらくビルの三階分はあるだろう。
アンドレアと向かい合うと、プローディが素っ頓狂な声をあげる。
「怖くないの? あんな高いところを、よくそうスタスタと歩けるね!」
挨拶もなく、数年ぶりの再会の第一声がそれかとエドアルドは笑いたくなった。この男は嫌になるほど率直過ぎる。この調子で猪突猛進にコジモ・ファミリーに体当たりしたところで、命は三日と持つまい。
「ご無沙汰しています、トニー」
普段エドアルドに見せるよりははるかに柔らかな表情で、アンドレアは口を開く。
「元気だったかい?」
あらためてプローディが問う。
「ええ。最近、少し頭痛がしますけれど」
「頭痛? それはよくないな。医者に診てもらってるかい?」
「よく効く頭痛薬をもらっていますから、大丈夫です」
そう答えて相手を安心させようとしているのかもしれないが、アンドレアはここに来たときよりもやや痩せたのではないかと、エドアルドは心配になった。
「無理してはいけないよ」
「こちらにはどんな御用で?」
「取材だよ。なんと、しばらくこちらに滞在させていただくことになったんだ。親切なご当主に本当に感謝だよ」
プローディがにこにこしながらエドアルドを見ると、アンドレアも驚いたように視線を追う。
「そうですか。それは、僕も嬉しいです」
「せめて今夜くらいは夕食に出てこないか。彼と一緒にとるからな」
エドアルドの誘いに、アンドレアは首を横に振った。
「いいえ。ここでとります。どうぞ、僕のことはお気遣いなく。またお会いできますよね、トニー」
そう言って握手を求めると、仕事の続きのためにはしごを上っていく。なんともあっさりとした再会だった。
「アンドレアらしいなぁ」
城へ戻っていく道すがら、プローディが微笑みながら呟く。
「彼らしい、とは?」
「夕食に出てこないことですよ。彼は孤高な天才なんです。昔からね。彼を見ていて気付いたことがあります。天才というのは、自ら孤独を被るものなんだって」
うっかりすれば聞き過ごしそうな言葉だったが、真実を穿っていた。
エドアルドは大地に伸びる自分たちの影を眺めながら、はしごを一人上っていくアンドレアの姿を思い浮かべた。彼の怜悧な美しさに、そろそろ自分はまいってしまうのではないかと心許なく感じていた。
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