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第三章

37 出発

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 馬と防寒具を貸してくれた男に礼を言い、馬との別れを惜しんでから、部下たちとアイダイの屋敷へ戻った。ちょうど屋敷にいたラフマンが大喜びでヒスイに抱きつく。ラフマンの頭を撫でながら、ヒスイはアイダイにルイシーの民からもらった不思議な実について話した。一粒取り上げアイダイの手のひらに乗せる。

「この実がベスカの研究を助けるかもしれない。ベスカのところへ行かせて」

 アイダイはアククルの実を興味深く眺めて、しばらくしてから頷いた。

「わかった。実はお前がルイシーへ行っている間にベスカの近況が届いたんだ。セルゲイと会えたベスカは寝る間も惜しんで研究をしているそうだから、傍へ行ってちゃんと休憩を取るように言ってやれ。明日、セルゲイの家まで送らせよう」

 思いがけない話にヒスイの目が丸くなる。それはすぐに弾けるような笑顔に変わった。

「アイダイ……ありがとう!」

 思わず駆け寄って抱きつくと、アイダイが目を白黒させる。そんなヒスイの腰にラフマンが抱きついてコロコロと笑った。

「パパ、びっくりしてる!」

 苦笑しているアイダイを、満面の笑みを浮かべたヒスイが見つめる。

「本当にありがとう」
「この世界を我が物顔で牛耳る奴らの鼻をあかしてやってくれ。――明日の朝、出発だ。今夜はゆっくり休め」

 アイダイに肩を叩かれ、ヒスイは抑えきれない笑みを湛えたまま頷くと、ラフマンを抱き上げた。



 ベスカと離れてから一年。もっと長くかかると思っていたから、一年でまた会えるのは嬉しい。けれど、ベスカと出会ってからはほぼ毎日一緒で、こんなに長い間離れたことはなかった。アイダイの屋敷にいる人たちは皆ヒスイに親切にしてくれたけれど、本当はずっと寂しかった。会いたかった、触れたかった。

 だからヒスイはその晩、酷く疲れていたにも関わらず興奮でほとんど眠れなかった。

 だって、もうすぐベスカに会える。

 翌朝、寝不足の真っ赤な目で食堂に現れたヒスイを見て、アイダイはそうなるのが分かっていたかのように苦笑した。

「そんな顔でベスカに会うつもりか? 目の下の隈を見たら、ベスカが心配するだろう」

 そう言われても、眠れなかったものは仕方ない。

 あくびを噛み殺して紅茶をすするヒスイの前に、トマトとオムレツが乗った皿をアノーラが置いた。

「国境までは車でしばらくかかりますから。道中車の中で寝れば、少しはましになりますよ」

 お礼を言ってフォークを握りアノーラを見上げる。

「アノーラのおいしい食事ともこれでお別れなのは寂しいな。このオムレツも本当においしくて好きなんだ」
「まあ」

 アノーラは嬉しそうにヒスイの頭を抱き寄せた。

「全て済んだら、またここへ戻ってきてくださいね。ここはヒスイさんの家でもあるんですから。ねえ、ボス?」

 アイダイは鷹揚に頷いて、大皿に盛られたブドウを摘まんだ。

「前も言ったが、ヒスイは俺たちファミリーの一員だ。いつでも好きな時に、ベスカと一緒に来ればいい」

 優しいアノーラと大らかにヒスイを受け入れてくれるアイダイに囲まれ、胸の奥がぽかぽかする。彼らと知り合えてよかったと心の底から思った。

 アイダイとアノーラ、そして住み込みの若い男たちとおしゃべりをしながら食事を終えると、アイダイから「俺の部屋へ来てくれ」と呼ばれた。

 荷物をまとめたヒスイがアイダイの部屋を訪れると、重厚なデスクの向こう、革張りの椅子に座ったアイダイがヒスイを手招く。

「これは、お前がラフマンに外国語を教えてくれた礼だ」

 渡されたのは、パスポートとリェタからの招待状だった。パスポートを開いてまずは性別を確かめる。ちゃんと男だった。

 これまでいつもベスカがパスポートを手配してくれていた。偽造とはいえ、自分の手で、自分の力でパスポートを手に入れたのは初めてで、言いようのない満足感に心が浮き立つ。少しの間それを胸に抱きしめたのち、なくさないように鞄の内側のポケットに入れた。

「俺たちはいつでもお前と共にある。お前の危機には絶対に駆け付ける。俺たちは家族だ」

 同じようなことを、ルイシーでもタキが言ってくれた。

 今までずっと家族を持たずにいたヒスイにとって、それはたまらなくうれしい言葉だった。

「……ありがとう、アイダイ。ここに置いてくれたのも、仕事をくれたのも、それからルイシーへ行かせてくれることも」

 礼を言うヒスイに、アイダイは柔らかく微笑んだ。

「どういたしまして。……さあ、もう車の用意は済んでるはずだ。行くといい。ベスカが待っているぞ」
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