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第二章

26 急転

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 人生で一番幸福だったと言えるその翌朝。いつのまにか眠ってしまった俺たちが目を覚ますと、ヒスイは前日より少しだけ幼い印象になっていたけれど、身長も肩幅もほとんど変わらなかった。

 無理のある態勢を長く続けたから、次の日、ヒスイは動くのもしんどそうだった。結局夕べは手をつけなかったごちそうをベッドで食べて、ワインを飲んだ。ヒスイはしんなりしてしまった花束をほどいて、ベッドの上でばらの香りを楽しんだ。
 週明けは二人ともまた同じように仕事に行き、近所の人と顔を合わせれば挨拶をして、いつもの店で野菜と果物を買った。それまでと同じ日常を続けることができた。

 夏は昼間の時間がやたら長く、冬は真っ暗で信じられないくらい寒いその町で、俺たちは気づけば四年の月日を過ごした。



 俺がヒスイを連れてリェタへ逃げてきたのは、俺たちの二人とも言葉がわかるほか、俺たちが前にいたカムリアをはじめとした西側諸国と常に対立状態にあり、西側を拠点とする研究所の出資者たちに見つかりにくいだろうという思惑があったからだ。

 けれど時間は流れ、情勢は変化する。今年リェタの大統領に就任した男は西側に倣った経済発展を望み、西側との国交回復を政策に掲げていた。

 半分の国民はそれを喜び、残り半分は変化を嫌った。

 そんななか俺は、この町に新しくできた私立大学に特待生として入学した。私立ならまともな研究設備が揃っているかもしれない。その目論見通り、あの研究所ほどではないけれど、いくつかは新しい設備があり、テクノロジーや通信網が破壊された後、この国が独自に開発したコンピューターも備わっていた。

 ここで、俺たちの体をもとに戻す方法を見つける。

 研究所からの追手に見つかることを危惧しつつ、俺は仕事を辞めて研究に没頭した。



 翌年。情勢は大きく変化し、今まで閉ざされていた西側への門が開いた。俺たちの住むリェタは西と貿易を始め、西からの観光客がやってくるようになり、商店には今まで見なかった品物が並び始めた。

 とは言っても一度破壊されたテクノロジーはなかなか復旧しないから、インターネットや飛行機が当たりまえだった時代と比べると変化は穏やかだ。それでも確実に世の中は動いていた。

 その日も深夜まで大学の研究室に籠り、日付が変わりそうな時刻に帰宅すると、アパートの入り口で下の階の住民に会った。

「こんばんは」
「こんばんは。今帰りか?」
「ああ」

 挨拶をしながら重い鉄製の共用玄関のドアを開き、一緒に階段を上がる。

「そういえば、昼間見かけない奴らがうろついていてさ」

 何気ない調子で、彼が言った。

「緑の目の東洋人の男が住んでないかって。ヒスイのことかと思ったけど、あの子は茶色い目だからな。でも変わった奴らだったよ」

 息が止まった。

 ヒスイの本当の瞳の色を知っているのは、研究所にいた奴らと、ヒスイが生まれ育った東の島国で関わりがあった人だけだ。

 もう、ここを突き止められた?

 階段の途中で凍り付くように止まった俺を、隣人が振り向く。

「どうした、サーシャ?」
「あ……いや」

 この国にはアレクサンドルもサーシャも無数にいるうえに、俺の容姿は珍しくない。俺を探すのは困難だろう。

 けれど、ヒスイは。

 リェタはほとんど鎖国状態でノヴァテラの本拠地である西側と対立していた。ここでは珍しい東洋人の容姿だけれど、この国に追手は来ないだろうと油断し、偽名を使うことをしなかった。

「さっき、変わった奴らだったって言ったよな。どこが変わっていた?」

 何気ない風を装ってそう質問する。

「まずは言葉。恐ろしく下手くそだったから外国人だ。服や靴もちょっと違っていた。あとはなんだか目がぎらぎらしていて、友達にはなれそうになかった。……知り合いか?」

 心配そうに聞かれて、反射的に首を振った。

「いいや。でもおかしな奴らが入り込んでいるようなら、気を付けた方がいい。外国からきた窃盗団とかかも」
「おいおい。……家族や他の住民にも、注意するように伝えておこう」

 表情を引き締めた彼と別れて、二段飛ばしで階段を上がるとドアを開けた。ヒスイがいつものようにキッチンから顔を出す。帰宅しているからコンタクトは外して、生まれたままの緑青色の瞳が俺を見て笑顔を浮かべた。

「おかえり、サーシャ」
「ヒスイ!」

 もどかしく靴を脱いで駆け寄り、ヒスイを抱きしめた。
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