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第二章

18 君が生き生きする場所

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 そうして俺たちはあたりに何もない駅で降りて、乗り合いタクシーで二時間走り、さらにそこからまた乗り合いタクシーを乗り換えた。

 大戦以前に作られたのだろう、ボロボロの車に定員以上の五人の客が乗り込む。助手席にはあきらかに太りすぎのじいさんが収まった。舗装されていない道を走る車の揺れに、ぎゅうぎゅう詰めの座席の皆が「一刻も早く車を降りたい」という顔をしていたが、ヒスイだけは違った。

「すごい! 山がすごくきれいだ。なんてきれいな緑色なんだろう……見て、アレックス」

 窓の外に広がる草原の向こうには、低いなだらかな山々が見えた。まばらに生える低木と山肌を緑に染める草に、ヒスイが感激した声をあげる。

 確かにきれいだけれどそこまで感動を感じていなかった俺は、ヒスイの言葉に改めて山を眺めた。気づけば隣に座る若い男も、その隣の中年の女性も山を見ている。

「雲の影が見えるよ。あの白い線は滝かな⁉」

 興奮しているヒスイの言葉に、新鮮な驚きを覚えた。

 俺だって初めて見る景色だ。けれど、ヒスイのような感動はない。

 でも、昔。まだ十代の頃、難しくて解けなかった問題が解けたり、研究で新しい発見をしたりしたときは、飛び上がりたいくらいに嬉しかった。興奮して眠れない夜もあった。

 いったい、いつからそういう驚きや感動や……瑞々しい心の揺れを失ってしまったのだろう。

 隣に座るヒスイは、キラキラと目を輝かせて窓の外を見ている。

 俺はこの世界に生を受けてもうすぐ五十年になる。長く生きるということは、こういう驚きや感動が自然だんだんと減っていくということでもあるのだろうか。

 それに気づいた瞬間、今まで以上にヒスイが眩しく感じられた。俺がいつのまにか失ってしまった輝きをもつヒスイを、強烈に尊く、愛しく思った。



 二時間走って小さな村へ到着し、やれやれとタクシーを降りて体を伸ばす。タクシーがついた場所には爺さんの孫が迎えに来ていて、車でさらに一時間。だだっ広い畑と草原が広がるばかりの中を走った。今度は羊や牛の群れに囲まれて車が止まり、ヒスイがまた感嘆する。そんなヒスイの反応を、俺も爺さんも、爺さんの孫も微笑ましく見守った。

 畑の中にポツンと建つ古い農家が、爺さんの孫の家だった。

「いらっしゃい、いらっしゃい」

 孫の奥さんだという女性と爺さんの曾孫が俺たちを迎えてくれて、紅茶とビスケットでもてなしてくれる。ヒスイは巨大なティーポットから注がれる紅茶を興味深く眺め、子どもたちがするのを真似して、大きなビスケットを紅茶に浸してかじった。

「これ、おいしいね」

 ヒスイが感心したように言う。素朴な味わいはヒスイの舌に合うようだった。

「このブルーベリーのジャムは母さんが作ったんだよ。これも紅茶に入れて」

 小さな女の子が、ジャムが入ったガラスの器をヒスイの方に押し出してスプーンを差し出す。ヒスイは言われるままにジャムを紅茶に溶かして口をつけ、また「おいしい!」と目を丸くした。

「あんたたち、どこから来たの?」

 赤ん坊を抱いた奥さんと、奥さんのお姉さんという人が興味深げに尋ねてくる。西側からだと答えると、大げさに驚いた。

「へえ。よく入国できたね。だって……」
「確かに国同士の仲は悪いですけど、今は停戦しているので。それから、俺の両親はこの国の出身で」
「ああ、だから。言葉がきれいだからそうだと思ったよ。そっちの子は? 兄弟にしちゃ似てないけど」
「親が再婚して。血はつながってないんですけど」

 これまでに何度もついた嘘を繰り返す。ヒスイは子どもたちがすすめるままに、数種類のハチミツを舐めて味比べをしていた。

「首都には旅行で? それとも、おじいさんやおばあさんに会いに?」
「仕事を探そうと思って」

 そう言うと、皆が顔を見合わせる。

「悪いこと言わないから、首都はやめておいた方がいい。仕事が減って、治安が悪くなってるらしいから」
「首都より、この近くの町のほうがいいんじゃないか。給料は安いけど仕事も多いし、暮らすには困らないよ」

 ハチミツとジャムを紅茶に溶かして、子どもたちと笑いあうヒスイを見る。

 俺の視線に気づいたヒスイが振り向いて、太陽のように笑った。

「サーシャ、リェタってすごくいい国だね。おいしいものがいっぱいだ!」

 すっかりこの国の食べ物が気に入ったらしいヒスイに俺は笑い返し、大人たちを順番に見た。

「仕事と家を探すの、手伝ってもらえますか?」
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