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第二章

11 眩しく、愛しく、尊い

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 そこは、ノヴァテラにより世界中の街やテクノロジーが破壊される前は、多くの人で賑わったという海岸だった。靴を脱ぎ捨てカーゴパンツの裾をまくり上げたヒスイは膝まで海に浸かり、長い間水の中に立ち水平線の向こうを見ていた。

 いいかげんに体が冷えてしまうだろうと声をかけると、魂が抜けたような顔でざばざばと波をかき分け戻ってきて、砂浜に立ち自分の足元を見下ろした。

「≪島国の出身だって言っていただろう? 海は近くになかったの?≫」

 そう問いかけると、ヒスイは振り返り水平線の向こうを見た。

「≪娼館がある場所は、海から遠かったんだ。俺たちは、本当は娼館から出ちゃダメだから。たまに抜け出したけど、本当に近所をちょっとぶらつくだけしかできなくて。……本で読んだり、お客さんから話を聞いたりしてさ。ずっと見てみたかったんだ。海≫」

 そこでいったん言葉を切ると、深く息を吐きだす。胸に降り積もった何かを、全部吐き出すみたいに。

「≪……足の下が、動いてるみたいだった。海≫」
「≪ああ、ちょっとずつ砂が流れるよな≫」
「≪すごく広い。向こうが見えない≫」
「≪ずーっと行くと、ヒスイの国があるよ≫」

 また、呼吸。

 頬がほんのりピンクに染まる。コンタクトを入れた目が潤んでいる。

 全身で今を生きていると主張している。

 ヒスイの胸の内で何かが大きく揺れるのが、見えるような気がした。

 ああ、惜しいな。どうしてコンタクトなんて入れてしまったのだろう。こんなに表情豊かなヒスイの目は、生まれたままの柔らかな緑色で見たかった。

 ヒスイが眩しくて、愛しくて、尊い。

「≪ヒスイ≫」

 名前を呼んで、砂浜に転がる。首だけ起こしてヒスイと目を合わせ、隣を手のひらでぽんぽんと叩いた。ヒスイはすぐに察して駆けてくると、勢いよく隣に転がる。一緒に春の空を見上げた。

「≪……きもちいい≫」

 呟いたヒスイが、手を伸ばして俺の指を握る。どくんと胸が大きく高鳴ったけれど、それを態度には出さずに目を閉じた。指を掴むヒスイの体温が熱い。少し湿ったヒスイの手が握る部分から、ドクドクと早くなった鼓動が伝わってしまわないか、心配だった。



 海を気に入ったヒスイのために、その晩は海沿いの道に止めた車の中で過ごした。ヒスイは何度も服を脱ぎ捨てて海に入り「冷たい!」と騒いでは砂浜に駆け戻ってきて楽しそうに笑った。俺はと言えば、ヒスイの肌を目にするたびにドギマギして、でもそれを悟られないように広げたバスタオルでヒスイを包み、ポットに入れたお湯でココアを作ってヒスイに渡した。

 ふと目を覚ますと広い空がきれいなラベンダー色に染まっていて、助手席で寝ているはずのヒスイがいなかった。
 また海で遊んでいるのかと、フロントガラスから浜辺を見渡す。砂浜にたたずむヒスイが見えて、車を降りてそばに向かった。隣に並ぶと、ヒスイが明け方の海から俺へと視線を移す。風に髪を煽られ、額を全開にして、ふっと微笑んだ。

「≪アレックスとあそこを出てから、夢の国にいるみたいだ≫」
「≪海くらいで、大げさだよ≫」
「≪大げさなもんか。俺はモーテルに泊ったのも、海を見たのも初めてだ。それから、トラックの荷台に入ったのも≫」

 冗談めかして付け加えられた最後の言葉に、思わず笑ってしまう。

「≪東の島国からここへ来たときに海は見なかったの? 飛行機だったろ?≫」
「≪ずっと薬で眠らされてたから、見てない。ある日娼館にスーツの人達が来て、俺を買い取るって言われて、薬を嗅がされた。気づいたらもうこの国だったよ≫」
「……」

 奴ららしいやり口だ。強引で力づくで嫌悪感しか湧かない。そしてそんな奴らの薄汚い欲望に巻き込まれたヒスイを思うと、胸が潰れそうだった。

「≪だから本当に、海を見たのは初めてなんだ。こんなに広くて大きくて動いてて、触れるし。すごい≫」

 ふいにヒスイの手が伸びてきて、俺の手を掴んだ。

「≪この先もずっとアレックスと一緒にいたい≫」
「≪……≫」

 とっさに何も返事を返せず、隣を見下ろした。コンタクトレンズを外した緑青の目が強い光を放っている。そこから目を逸らせなかった。

「≪アレックス以外の人には、触られたくない。アレックスだけがいい≫」
「≪……ヒスイ≫」
「≪……アレックスは? 俺のこと、どう思ってる?≫」

 それは、君は今この国で俺しか頼る人がいないからだ、とか。逃亡生活で興奮状態にあるから錯覚しているんだとか、ストックホルム症候群の一種だとか、いろんな考えが頭をよぎった。

 でも、ヒスイの目が。ヒスイの目がまっすぐに俺を見ている。俺の何もかもを見透かすみたいに、強くきらいめいて。ヒスイの目が、これは錯覚じゃないと雄弁に告げていた。

 言ってもいいのだろうか。というか、これは夢?

 けれど、俺の手を掴むヒスイの手の感覚は現実だ。ふいに、それが少し汗ばんでいることに気づいた。何でもない顔をしながら、彼がとても緊張していることにも。

「≪……ヒスイ、君が好きだよ≫」

 自分よりうんと年下で小柄の、愛らしい少年に向き直る。ヒスイの細い手を取り、握り締めた。

「≪本当は、もうずっと前から君がかわいくて……好きだと思ってた≫」

 ヒスイの瞳がうれしそうに細められる。その愛くるしい微笑みの中に力強さがあることを、心のどこかで不思議に思った。

「≪俺も。俺も、アレックスが好き≫」

 ヒスイの目がきらめく。誘われるように顔を寄せ、淡い色のくちびるに自分のそれをそっと触れ合わせた。
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