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夜崎さんの家3
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それからよろよろと教室に戻り、授業に出席した。当然内容なんか頭に入ってこない。
休み時間になり夜崎さんの教室を覗いたが特徴的な金髪はなかった。
その日のことはもう何も覚えていない。気がついたら自室の布団に顔を押しつけ静かに泣いていた。
「春子?」
ドアがノックされ、私は飛び起き涙を拭った。ドアを開けるとお祖母ちゃんが心配そうな顔をしていた。
「春子、大丈夫かい」
私は大丈夫と言って、お祖母ちゃんを部屋に招き入れた。そういえばお祖母ちゃんにただいまと言わずに部屋に直行したかもしれない。
「大丈夫、何でもない」
「そんなことあるかい。目が真っ赤だよ」
お祖母ちゃんが座りながら私の目を覗き込んできた。
「とても大丈夫な人のようには見えないよ」
「……友達が、夜崎さんが遠くに行っちゃうの。北海道」
お祖母ちゃんに心配させたくなかったが隠し事はできないと思い、素直に話すことにした。話してどうこうできる問題ではないと思うが、吐き出したい。
「そりゃ遠いねえ。でも、今生の別れじゃないでしょ。またいつか会える」
私はゆっくり首を横に振った。
「分からない。もしかしたらもう会えないかも」
気がついたときには夜崎さんのことを洗いざらい話していた。付き合っていることは抜きにして、小さいときの家庭から今日言われたことまで。
「夜崎さんは北海道に行くことは望んでないはず。でも、生き延びるためにって……」
お祖母ちゃんはほんの少しの間天井を見上げ、静かに目を瞑った。
「生きていくためかあ……」
お祖母ちゃんがゆっくり目を開け、私の手をそっと握りしめた。
「お祖母ちゃんにもね、大切な人がいたんだよ」
「お祖父ちゃんのこと?」
「お祖父ちゃんもそれなりに大切だったけどね、もっと大切で愛していた人がいたの」
お祖母ちゃんにも人並みに恋愛をした経験があるのか。でもお祖母ちゃんが結婚した時代は自由恋愛のイメージは結びつかない。
「その人とはどうして結婚しなかったの」
「相手は女性だったの」
私はあまりに驚きすぎてむせそうになった。何だか今の私と似ている気がする。
「でも時代が時代だったから、一緒になることはなかった。それにお金がなくてね、お祖父ちゃんと結婚するしか道がなかった」
お祖母ちゃんは慌てて私に謝ってきた。
「でも、そのお陰で春子が生まれてきたんだから、不幸だったわけじゃないよ」
「大丈夫、ちゃんと分かってる。……それで、その人はどうしたの?」
お祖母ちゃんが遠い目をし、少し涙を浮かべた。
「さあねえ……。どうしてるんだか。生きているのか死んでいるのかも分からない……」
何だか私と夜崎さんの行く先を暗示しているみたいで少し嫌な気持ちになる。
「でもね」
お祖母ちゃんが涙を拭い、私を見据えた。
「もう時代はあのときとは違う。それに、春子もお祖母ちゃんとは違う」
私とお祖母ちゃんは違う……? 大切な人を失うのに?
私ははっとし勢いよく立ち上がった。
「ちょっと出かけてくる!」
夜崎さんの家まで走って行ける距離ではないから電車を使うしかない。急がないといけないのに何とも間抜けな感じがする。でもそのお陰で少しだけ冷静になれた。
夜崎さんの家に着いた頃には辺りは薄暗くなっていた。
呼び鈴を押すが壊れているのか手ごたえがない。勢いに任せドアを力強く叩いた。
「夜崎さん!」
夜崎さんの母親かはたまた再婚相手が出てくるかもしれない。そんなことに構っている余裕はない。男が出て来た場合は間髪入れず股間に蹴りを入れればいい。
扉が薄く開き私服姿の夜崎さんが顔を出した。
「どうして……」
戸惑う夜崎さんを尻目に扉をつかんで全開にした。
「今は一人?」
「そうだけど……」
「行くよ」
「どこに」
「ここを出るんだよ」
目を丸くしている夜崎さんを尻目に、私は土足で上がり込み夜崎さんの部屋へ向かう。その後を夜崎さんが慌てて追いかけてくる。
「春子、無茶言わないでくれ。あたしは……」
夜崎さんの部屋に入り、振り向いた。
「私の家で暮らせばいいでしょ!」
その瞬間、夜崎さんが目を見開き、口をぱくぱくとさせた。
「え、お……。あ?」
「お祖母ちゃんには何も言ってないけど、説得するから。北海道より私たちと暮らした方がいいでしょ?」
「そりゃそうだけど」
「はい決定、荷物まとめて!」
制服と財布があれば事足りるはず。そんなに時間はかからない。夜崎さんがベッドの下からバッグを取り出したとき、ドアが開く音が聞こえた。
「帰ってきた……」
夜崎さんが青ざめた顔をし、「美枝」と呼ぶ声が聞こえた。声から察するに夜崎さんのお母さんだ。
「おい美枝、家の中汚すなよ!」
ずかずかと廊下を歩きこちらに近づいてくる。私は夜崎さんに早く荷物をまとめるように言い、部屋のドアの前に立った。
「聞いてんのかよ」
ドアが開き夜崎さんの母親がそこにいた。私の姿を認めるとしばらく呆然とし、威嚇してきた。
「人の家に勝手に上がり込んで何してんだ!」
私は怯まず睨みつける。
「夜崎さんは北海道に行きません。私が連れて行きます」
「はあ? 勝手なこと言うんじゃねえよ」
「どっちが」
次の瞬間、視界が傾き左頬が燃えるように熱い痛みを感じた。
「春子!」
殴られたと気づくのに時間がかかった。実の子でさえ暴力を振るう人だ、他人に平然と暴力を振るうことに躊躇いはないはずだ。
目の前が涙で霞むし、ちかちかする。
その場に倒れずどうにか踏みとどまり、無言で睨み続ける。
こうなることは分かっていたはずだ。甘い考えを捨てないといけない。
「馬鹿の相手は面倒だなあ」
夜崎さんの母親が背を向け、部屋の外のリビングに向かった。
振り返ると心配そうな顔をした夜崎さんと目が合った。
「荷物は?」
「まとめた」
「行こう」
夜崎さんの手を引きドアを振り返ると、そこにはすでに夜崎さんの母親が仁王立ちし行く手を塞いでいた。しかも手には包丁を持っている。
「殴って分からねえなら、こうした方が分かるか」
夜崎さんの母親が包丁を私の胸に突き出してくる。
よく見ると夜崎さんの母親の顔が赤い。これは怒りと言うよりは酔っているのか。そうでないとこんなこと普通はできないはずだ。
「出てけよ。今なら見逃すぞ」
お酒で酔ってるからってこんなことが許されていいはずがない。夜崎さんは小さいときからこんな恐怖と背中合わせだったのだろうか。
急に怒りが沸いてきた。
「見逃す? それこそこっちの台詞ですよ」
私は包丁に向かって一歩踏み出した。切っ先がわずかに制服に触れる。
「春子、やめろ!」
夜崎さんが叫ぶが私は無視し、さらに一歩踏み出した。包丁の切っ先は制服を貫通し、鎖骨の下に浅く刺さる。
痛くないわけではないが、こんなもの夜崎さんが今まで受けてきた暴力に比べれば大したことはない。
「おい、正気かよ」
夜崎さんの母親がわずかに動揺し、手が震えている。
無言でさらに一歩踏み出そうとしたところで夜崎さんの母親は包丁を引っ込め、後退りする。制服に赤黒いシミが広がっていく。
「なんだよ、お前は」
明らかに動揺している。後一押し。
「夜崎さんは私が連れて行きます」
「お前が決めるな! 美枝、こいつに言ってやれ!」
夜崎さんの母親が必死の形相で叫んだ。私は夜崎さんの母親から目を離さず夜崎さんの答えを待った。後は夜崎さん次第だ。ここまで来た、お願い……。
「あたしは北海道には行かない。春子と一緒に出て行く」
刹那、夜崎さんの母親が顔を真っ赤にし、吠えた。
「てめえ、何考えてんだ! 一緒に来れば安定した生活が手に入るんだぞ! 再婚の条件は……」
「安定した生活?」
夜崎さんが冷静に遮った。
「あたしにはそうは思えない。あんたの再婚相手はあたしにしか興味ないよ。しばらくしたら捨てられるよ」
夜崎さんの母親が今度は顔を真っ青にし、叫ぶ。
「んなわけあるか! あの人は……」
「本当は気がついてるだろ?」
夜崎さんの母親はその場に座り込み深くうなだれた。どうやら夜崎さんの言うことは的を射ているらしい。そして本人は気づかない振りをしていた。
「そう言うわけだから、あたしは出て行くよ」
夜崎さんの母親が顔を上げ、私の後ろを睨んだ。
「親不孝者! これまで育ててきたのに! 恩を忘れたのか!」
「あたしを殺さなかったことだけは感謝するよ」
夜崎さんの母親が包丁を振り上げ、床に突き刺した。それを引き抜き、もう一度。何度も何度も突き刺す。
「出て行け! 疫病神! あんたがいなければ今頃私は自由のはずだったんだ! 二度と顔を見せるな!」
「行こう」
いつの間にか夜崎さんが私の横に立っていた。
本当に身勝手で救えない人だ。
私は夜崎さんの母親から目を離さず慎重に夜崎さんの家を出た。
夜崎さんの家の最寄り駅で電車を待っている。さすがに夜崎さんの母親も追ってくることはなさそうで安心する。
「痛……」
思い出したように包丁が少し刺さった箇所が痛み出した。あのときは必死で何とも思わなかったが、私の血が下着と制服を汚し、お腹の辺りまで流れて固まり気持ち悪い。
「大丈夫か」
夜崎さんが刺された場所の制服を捲り傷口をまじまじと見つめた。
「あたしのために……」
傷口は思ったより浅く血もほとんど止まっていた。
「ありがとう、春子」
夜崎さんがおもむろに刺し傷に口を近づけ、舐め始めた。
「ちょっと! 何してるの」
「血が出てるから」
夜崎さんが目を閉じ下で傷口を何往復もし血を舐めていく。このまま身を任せると何が起こるか分からない……。
「汚いからやめて」
「春子の血が汚いもんか」
私は夜崎さんを突き飛ばし、額に手刀を食らわせた。夜崎さんがぎゃ、と変な悲鳴を上げる。
「血は汚いの! 感染症とか……」
「分かった分かった」
夜崎さんはそう言いながらまた傷口を舐めようと顔を近づけてくる。
タイミング良く電車が滑り込んできてことなきを得た。残念そうな顔をしている夜崎さんと一緒に電車に乗り込んだ。
私の家に着いたときには八時を回っていた。
「おかえり、心配したよ」
お祖母ちゃんが玄関に出て来たと同時に私は三和土で土下座をした。
「お祖母ちゃん、一生のお願い! 夜崎さんをこの家に住まわせて! 夜崎さんは他に行くとこがなくて……」
横で夜崎さんも土下座をする気配が伝わってくる。
「お願いします! 春子の言う通り行くとこがなくて。何でもしますから。働いてお金も入れますから!」
「二人とも、土下座なんかやめてちょうだい」
お祖母ちゃんがおろおろしている様子が目に浮かぶ。私はそっと顔を上げた。
「住むのは何の問題もないよ。ただね……」
何か問題でもあるのだろうか。私は不安になりながらお祖母ちゃんの言葉の続きを待った。
「お布団がないのよ。しばらく春子と同じお布団で寝ることになるけど、いいかい」
そ、そんなこと? 私は一気に脱力し、立ち上がった。見ると夜崎さんもぽかんとしている。
「さ、ご飯できてるから、食べましょ」
そう言うとお祖母ちゃんは台所へ歩いて行ってしまった。
「いいのか、あたしここに住んで……」
「うん、そうみたい」
夜崎さんが安心しきった笑顔を見せた。
「心配するところが布団なんだな」
こういうのは器が大きいと言うのだろうか。変に動じないというか。
「春子のお祖母ちゃんって感じだ」
夕飯はすでに三人分用意されていた。どうして、とお祖母ちゃんに聞くと
「年寄りの勘」
と一言だけ返ってきた。もしかして夜崎さんとの関係まで見抜かれている? さすがにそこまでは……。
傷の手当てだけしてご飯を食べ、お風呂を済ませ後は寝るだけとなった。時間は十時を回り、お祖母ちゃんはすでに寝ている時間だ。
布団の上に夜崎さんと並んで座っているとこれはまるで初夜だなどと変なことばかり考えてしまう。
「春子、本当にありがとう。命の恩人だ」
「ちゃんと働くんだよ。最初はアルバイトでも何でも。働かざる者食うべからずだからね」
改めてお礼を言われると照れくさく、つい話を逸らしてしまった。
「ああ、何だってするよ。家事も炊事も、何だって」
夜崎さんが私の寝間着の首元を覗き込んで来た。
「傷、大丈夫か」
「もう平気」
夜崎さんが私の手に自分の手を重ね、キスをし、押し倒してきた。
「好きだよ、春子」
「私も」
夜崎さんが刺された箇所とは逆の胸を寝間着の上から優しく揉みしだく。
「本当は屋上から飛び降りて死ぬ気なんかなかった。心のどこかで春子が助けてくれるんじゃないかと期待していた」
私は夜崎さんの頭を引き寄せ、キスをした。
「夜崎さんが死ななくて良かった。助けてって言ってくれれば、私は何だってするよ」
「今度からそうする」
私たちはもう一度キスをした。今度は深く、深く。
「夜崎さん、好き」
「……美枝って呼んで」
前に下の名前で呼んだら凄く嫌がったけどどうしたんだろう。
「名前で呼ぶのはあたしの母親くらいだから好きじゃなかった。でも、春子には名前で呼ばれたい」
「……美枝」
「春子」
「美枝、好き」
「あたしも」
またキスをし、美枝の手が下半身に伸びてくる。
この日私たちは何度もお互いを貪った。
休み時間になり夜崎さんの教室を覗いたが特徴的な金髪はなかった。
その日のことはもう何も覚えていない。気がついたら自室の布団に顔を押しつけ静かに泣いていた。
「春子?」
ドアがノックされ、私は飛び起き涙を拭った。ドアを開けるとお祖母ちゃんが心配そうな顔をしていた。
「春子、大丈夫かい」
私は大丈夫と言って、お祖母ちゃんを部屋に招き入れた。そういえばお祖母ちゃんにただいまと言わずに部屋に直行したかもしれない。
「大丈夫、何でもない」
「そんなことあるかい。目が真っ赤だよ」
お祖母ちゃんが座りながら私の目を覗き込んできた。
「とても大丈夫な人のようには見えないよ」
「……友達が、夜崎さんが遠くに行っちゃうの。北海道」
お祖母ちゃんに心配させたくなかったが隠し事はできないと思い、素直に話すことにした。話してどうこうできる問題ではないと思うが、吐き出したい。
「そりゃ遠いねえ。でも、今生の別れじゃないでしょ。またいつか会える」
私はゆっくり首を横に振った。
「分からない。もしかしたらもう会えないかも」
気がついたときには夜崎さんのことを洗いざらい話していた。付き合っていることは抜きにして、小さいときの家庭から今日言われたことまで。
「夜崎さんは北海道に行くことは望んでないはず。でも、生き延びるためにって……」
お祖母ちゃんはほんの少しの間天井を見上げ、静かに目を瞑った。
「生きていくためかあ……」
お祖母ちゃんがゆっくり目を開け、私の手をそっと握りしめた。
「お祖母ちゃんにもね、大切な人がいたんだよ」
「お祖父ちゃんのこと?」
「お祖父ちゃんもそれなりに大切だったけどね、もっと大切で愛していた人がいたの」
お祖母ちゃんにも人並みに恋愛をした経験があるのか。でもお祖母ちゃんが結婚した時代は自由恋愛のイメージは結びつかない。
「その人とはどうして結婚しなかったの」
「相手は女性だったの」
私はあまりに驚きすぎてむせそうになった。何だか今の私と似ている気がする。
「でも時代が時代だったから、一緒になることはなかった。それにお金がなくてね、お祖父ちゃんと結婚するしか道がなかった」
お祖母ちゃんは慌てて私に謝ってきた。
「でも、そのお陰で春子が生まれてきたんだから、不幸だったわけじゃないよ」
「大丈夫、ちゃんと分かってる。……それで、その人はどうしたの?」
お祖母ちゃんが遠い目をし、少し涙を浮かべた。
「さあねえ……。どうしてるんだか。生きているのか死んでいるのかも分からない……」
何だか私と夜崎さんの行く先を暗示しているみたいで少し嫌な気持ちになる。
「でもね」
お祖母ちゃんが涙を拭い、私を見据えた。
「もう時代はあのときとは違う。それに、春子もお祖母ちゃんとは違う」
私とお祖母ちゃんは違う……? 大切な人を失うのに?
私ははっとし勢いよく立ち上がった。
「ちょっと出かけてくる!」
夜崎さんの家まで走って行ける距離ではないから電車を使うしかない。急がないといけないのに何とも間抜けな感じがする。でもそのお陰で少しだけ冷静になれた。
夜崎さんの家に着いた頃には辺りは薄暗くなっていた。
呼び鈴を押すが壊れているのか手ごたえがない。勢いに任せドアを力強く叩いた。
「夜崎さん!」
夜崎さんの母親かはたまた再婚相手が出てくるかもしれない。そんなことに構っている余裕はない。男が出て来た場合は間髪入れず股間に蹴りを入れればいい。
扉が薄く開き私服姿の夜崎さんが顔を出した。
「どうして……」
戸惑う夜崎さんを尻目に扉をつかんで全開にした。
「今は一人?」
「そうだけど……」
「行くよ」
「どこに」
「ここを出るんだよ」
目を丸くしている夜崎さんを尻目に、私は土足で上がり込み夜崎さんの部屋へ向かう。その後を夜崎さんが慌てて追いかけてくる。
「春子、無茶言わないでくれ。あたしは……」
夜崎さんの部屋に入り、振り向いた。
「私の家で暮らせばいいでしょ!」
その瞬間、夜崎さんが目を見開き、口をぱくぱくとさせた。
「え、お……。あ?」
「お祖母ちゃんには何も言ってないけど、説得するから。北海道より私たちと暮らした方がいいでしょ?」
「そりゃそうだけど」
「はい決定、荷物まとめて!」
制服と財布があれば事足りるはず。そんなに時間はかからない。夜崎さんがベッドの下からバッグを取り出したとき、ドアが開く音が聞こえた。
「帰ってきた……」
夜崎さんが青ざめた顔をし、「美枝」と呼ぶ声が聞こえた。声から察するに夜崎さんのお母さんだ。
「おい美枝、家の中汚すなよ!」
ずかずかと廊下を歩きこちらに近づいてくる。私は夜崎さんに早く荷物をまとめるように言い、部屋のドアの前に立った。
「聞いてんのかよ」
ドアが開き夜崎さんの母親がそこにいた。私の姿を認めるとしばらく呆然とし、威嚇してきた。
「人の家に勝手に上がり込んで何してんだ!」
私は怯まず睨みつける。
「夜崎さんは北海道に行きません。私が連れて行きます」
「はあ? 勝手なこと言うんじゃねえよ」
「どっちが」
次の瞬間、視界が傾き左頬が燃えるように熱い痛みを感じた。
「春子!」
殴られたと気づくのに時間がかかった。実の子でさえ暴力を振るう人だ、他人に平然と暴力を振るうことに躊躇いはないはずだ。
目の前が涙で霞むし、ちかちかする。
その場に倒れずどうにか踏みとどまり、無言で睨み続ける。
こうなることは分かっていたはずだ。甘い考えを捨てないといけない。
「馬鹿の相手は面倒だなあ」
夜崎さんの母親が背を向け、部屋の外のリビングに向かった。
振り返ると心配そうな顔をした夜崎さんと目が合った。
「荷物は?」
「まとめた」
「行こう」
夜崎さんの手を引きドアを振り返ると、そこにはすでに夜崎さんの母親が仁王立ちし行く手を塞いでいた。しかも手には包丁を持っている。
「殴って分からねえなら、こうした方が分かるか」
夜崎さんの母親が包丁を私の胸に突き出してくる。
よく見ると夜崎さんの母親の顔が赤い。これは怒りと言うよりは酔っているのか。そうでないとこんなこと普通はできないはずだ。
「出てけよ。今なら見逃すぞ」
お酒で酔ってるからってこんなことが許されていいはずがない。夜崎さんは小さいときからこんな恐怖と背中合わせだったのだろうか。
急に怒りが沸いてきた。
「見逃す? それこそこっちの台詞ですよ」
私は包丁に向かって一歩踏み出した。切っ先がわずかに制服に触れる。
「春子、やめろ!」
夜崎さんが叫ぶが私は無視し、さらに一歩踏み出した。包丁の切っ先は制服を貫通し、鎖骨の下に浅く刺さる。
痛くないわけではないが、こんなもの夜崎さんが今まで受けてきた暴力に比べれば大したことはない。
「おい、正気かよ」
夜崎さんの母親がわずかに動揺し、手が震えている。
無言でさらに一歩踏み出そうとしたところで夜崎さんの母親は包丁を引っ込め、後退りする。制服に赤黒いシミが広がっていく。
「なんだよ、お前は」
明らかに動揺している。後一押し。
「夜崎さんは私が連れて行きます」
「お前が決めるな! 美枝、こいつに言ってやれ!」
夜崎さんの母親が必死の形相で叫んだ。私は夜崎さんの母親から目を離さず夜崎さんの答えを待った。後は夜崎さん次第だ。ここまで来た、お願い……。
「あたしは北海道には行かない。春子と一緒に出て行く」
刹那、夜崎さんの母親が顔を真っ赤にし、吠えた。
「てめえ、何考えてんだ! 一緒に来れば安定した生活が手に入るんだぞ! 再婚の条件は……」
「安定した生活?」
夜崎さんが冷静に遮った。
「あたしにはそうは思えない。あんたの再婚相手はあたしにしか興味ないよ。しばらくしたら捨てられるよ」
夜崎さんの母親が今度は顔を真っ青にし、叫ぶ。
「んなわけあるか! あの人は……」
「本当は気がついてるだろ?」
夜崎さんの母親はその場に座り込み深くうなだれた。どうやら夜崎さんの言うことは的を射ているらしい。そして本人は気づかない振りをしていた。
「そう言うわけだから、あたしは出て行くよ」
夜崎さんの母親が顔を上げ、私の後ろを睨んだ。
「親不孝者! これまで育ててきたのに! 恩を忘れたのか!」
「あたしを殺さなかったことだけは感謝するよ」
夜崎さんの母親が包丁を振り上げ、床に突き刺した。それを引き抜き、もう一度。何度も何度も突き刺す。
「出て行け! 疫病神! あんたがいなければ今頃私は自由のはずだったんだ! 二度と顔を見せるな!」
「行こう」
いつの間にか夜崎さんが私の横に立っていた。
本当に身勝手で救えない人だ。
私は夜崎さんの母親から目を離さず慎重に夜崎さんの家を出た。
夜崎さんの家の最寄り駅で電車を待っている。さすがに夜崎さんの母親も追ってくることはなさそうで安心する。
「痛……」
思い出したように包丁が少し刺さった箇所が痛み出した。あのときは必死で何とも思わなかったが、私の血が下着と制服を汚し、お腹の辺りまで流れて固まり気持ち悪い。
「大丈夫か」
夜崎さんが刺された場所の制服を捲り傷口をまじまじと見つめた。
「あたしのために……」
傷口は思ったより浅く血もほとんど止まっていた。
「ありがとう、春子」
夜崎さんがおもむろに刺し傷に口を近づけ、舐め始めた。
「ちょっと! 何してるの」
「血が出てるから」
夜崎さんが目を閉じ下で傷口を何往復もし血を舐めていく。このまま身を任せると何が起こるか分からない……。
「汚いからやめて」
「春子の血が汚いもんか」
私は夜崎さんを突き飛ばし、額に手刀を食らわせた。夜崎さんがぎゃ、と変な悲鳴を上げる。
「血は汚いの! 感染症とか……」
「分かった分かった」
夜崎さんはそう言いながらまた傷口を舐めようと顔を近づけてくる。
タイミング良く電車が滑り込んできてことなきを得た。残念そうな顔をしている夜崎さんと一緒に電車に乗り込んだ。
私の家に着いたときには八時を回っていた。
「おかえり、心配したよ」
お祖母ちゃんが玄関に出て来たと同時に私は三和土で土下座をした。
「お祖母ちゃん、一生のお願い! 夜崎さんをこの家に住まわせて! 夜崎さんは他に行くとこがなくて……」
横で夜崎さんも土下座をする気配が伝わってくる。
「お願いします! 春子の言う通り行くとこがなくて。何でもしますから。働いてお金も入れますから!」
「二人とも、土下座なんかやめてちょうだい」
お祖母ちゃんがおろおろしている様子が目に浮かぶ。私はそっと顔を上げた。
「住むのは何の問題もないよ。ただね……」
何か問題でもあるのだろうか。私は不安になりながらお祖母ちゃんの言葉の続きを待った。
「お布団がないのよ。しばらく春子と同じお布団で寝ることになるけど、いいかい」
そ、そんなこと? 私は一気に脱力し、立ち上がった。見ると夜崎さんもぽかんとしている。
「さ、ご飯できてるから、食べましょ」
そう言うとお祖母ちゃんは台所へ歩いて行ってしまった。
「いいのか、あたしここに住んで……」
「うん、そうみたい」
夜崎さんが安心しきった笑顔を見せた。
「心配するところが布団なんだな」
こういうのは器が大きいと言うのだろうか。変に動じないというか。
「春子のお祖母ちゃんって感じだ」
夕飯はすでに三人分用意されていた。どうして、とお祖母ちゃんに聞くと
「年寄りの勘」
と一言だけ返ってきた。もしかして夜崎さんとの関係まで見抜かれている? さすがにそこまでは……。
傷の手当てだけしてご飯を食べ、お風呂を済ませ後は寝るだけとなった。時間は十時を回り、お祖母ちゃんはすでに寝ている時間だ。
布団の上に夜崎さんと並んで座っているとこれはまるで初夜だなどと変なことばかり考えてしまう。
「春子、本当にありがとう。命の恩人だ」
「ちゃんと働くんだよ。最初はアルバイトでも何でも。働かざる者食うべからずだからね」
改めてお礼を言われると照れくさく、つい話を逸らしてしまった。
「ああ、何だってするよ。家事も炊事も、何だって」
夜崎さんが私の寝間着の首元を覗き込んで来た。
「傷、大丈夫か」
「もう平気」
夜崎さんが私の手に自分の手を重ね、キスをし、押し倒してきた。
「好きだよ、春子」
「私も」
夜崎さんが刺された箇所とは逆の胸を寝間着の上から優しく揉みしだく。
「本当は屋上から飛び降りて死ぬ気なんかなかった。心のどこかで春子が助けてくれるんじゃないかと期待していた」
私は夜崎さんの頭を引き寄せ、キスをした。
「夜崎さんが死ななくて良かった。助けてって言ってくれれば、私は何だってするよ」
「今度からそうする」
私たちはもう一度キスをした。今度は深く、深く。
「夜崎さん、好き」
「……美枝って呼んで」
前に下の名前で呼んだら凄く嫌がったけどどうしたんだろう。
「名前で呼ぶのはあたしの母親くらいだから好きじゃなかった。でも、春子には名前で呼ばれたい」
「……美枝」
「春子」
「美枝、好き」
「あたしも」
またキスをし、美枝の手が下半身に伸びてくる。
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