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1章 パパになる

第11話 ミルク

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 襲われていた4人は酷く怯えていた。
 その怯えは自分に向けられているモノだと思っていた。
 目の前にはフィギアのように固まった黒コゲの死体がある。辺りには苦い匂いが漂っている。俺が殺したのだ。
 人生で学んで来た道徳が揺らいだ。
 もう俺は天国に行くことは無いのだろう。
 だけど妻と赤ちゃんを守ることができた。
 盗賊を殺さなければ大切な人が殺されていたかもしれないのだ。
 悪人よりも自分の家族の命の方が大切だった。仕方の無い事だった。
 それなのに膝から崩れ落ちそうだった。だけど倒れたら2度と立てないように思えて踏ん張った。
 
「オギャー、オギャー」
 と赤ちゃんの泣き声が近づいて来た。
 そして俺の横を通り過ぎて行く。
 美子さんは俺を通り過ぎ、怯えた4人のところに向かって行く。
 俺は呆然と妻を見ていた。
 どうして彼女は4人に向かったんだろう?

「淳君」
 と美子さんの叫び声が聞こえた。
「早くコッチに来て」
 えっ? でも俺、彼等に怯えられているよ?
「なにしてるの? 早く来なさい」
 と美子さんが怒鳴った。
 はい、と俺は小さく呟いて美子さんに近づいて行く。
「深い傷を負っているのよ」
 と美子さんが言う。

 白髪の老夫人はお腹を刃物で刺されたらしく、血まみれだった。老紳士が夫人の出血した箇所を必死に抑えている。
 もう1人の男性は腕とお腹を刺されたらしく、老夫人よりも出血量が多い。2人とも死にかけている。
 4人の顔は俺に対して怯えているという訳ではなく、迫っている死に対して怯えているようでも、助けを求めているようでもあった。

「団子は残ってないの?」
 と美子さんが尋ねた。
「無い」と俺は言った。
「それじゃあアレを出して」
「アレ?」
 と俺が首を傾げる。
「もういい。リュックをおろして」
 と美子さんが言った。
 俺は彼女に言われるがまま、リュックを地面に下ろした。
「淳君はネネちゃんを抱っこしといて」
 と妻は言って、スリングからネネちゃんを取り出して俺に差し出した。
 オギャー、オギャー、とネネちゃんは泣いている。
 まだ首もすわっていない小さい生き物。腕に首を乗せるように赤ちゃんを抱っこした。
 ミルクの匂いがする。小さい。
 生きている。当たり前のことを俺は思った。
 
 美子さんはリュックを探って、1つの水袋を取り出した。
「ポーションです」
 と彼女は言って、水袋を老夫人に差し出した。
 美子さんが差し出したのはポーションじゃなかった。彼女がオッパイから出したミルクである。なにを人に飲ませようとしてるんだよ、と俺は思った。だけど口に出して言わなかった。もしかしたらミルクには回復効果もあるかもしれないのだ。

「ポーションじゃあ、この傷は治りませんよ」
 と老紳士が呟いた。
「治るかどうかは飲んでみないとわからないでしょ」と美子さんが言う。
「……私より先に彼に飲ませてあげて」
 と老夫人が言った。
「わかりました」
 と美子さんが言う。

 そして彼女は、もう1人の倒れている男性のところに行った。
 自分の胸から絞り出したミルクを、俺と同じぐらいの西洋系の男性に飲ませた。なんか、すごく変な感じがする。
 だけど人の命がかかっている場面で、それを飲ましたらダメだとは俺は言えない。
 
 俺はネネちゃんの頭の産毛に唇をつけて、思いっきり赤ちゃんの匂いを嗅いだ。大切にしなくてはいけない匂いがする。

 ミルクを飲んだ男性は「やっほー」と叫んで起き上がった。
 みんな目を丸くして男性を見ていた。
 ミルクには回復効果があったみたいだった。
 さっきまで死に際にいたとは思えない笑顔で、「これは本当にポーションかい?」と男性が尋ねた。
「ええポーションよ」と妻が答える。
「これはエリクサーじゃないのかい?」
 と男性が言う。
 エリクサーとは回復薬の最上級のモノである。
「たぶん違うと思う」と美子さんは言った。
 たぶんじゃなくて、絶対に違う。それはミルクである。
「早くエレーザ夫人にも飲ませてやってくれ」
 と復活したばかりの男性が高いテンションで言った。
 俺も飲んだからわかる。彼は体の奥底からエネルギーが溢れ出しているんだろう。

 美子さんが老夫人のところに行った。
 そして彼女は水袋に入ったミルクを老夫人に飲ませた。
「あら」とミルクを飲んだ夫人が言って、起き上がった。
「治ったみたい」
「本当にエリクサーなのかい?」
 と老紳士が尋ねた。
「たぶん、違うと思います」
 と美子さんが答えた。
 さっきから「たぶん」と答えているけど、絶対に違うと言い切るべきである。彼女の胸から絞り出たミルクである。
「なんて言うか、体からエネルギーが溢れ出しているみたいだわ」
 と老夫人が言った。
 老紳士が泣きそうな顔をして、夫人の手を繋いだ。
「もしかして病気も治ったのかい?」と老紳士が尋ねた。
「わからないわ。でも、なんていうか、すごく元気みたい」と老夫人が言う。
「なんてお礼を言っていいのか」
 と老紳士が美子さんを見て言った。
 
 お礼は結構です、と日本人の美徳である奥ゆかしいことを美子さんは言わなかった。
「どこまで行く予定なんですか?」と彼女は馬車を見て尋ねた。
 そして老紳士は隣国の名前を言った。
「ご一緒させていただけませんか?」
 と妻が尋ねた。
「もちろん」と老夫婦が声を揃えて言った。


 俺達は馬車に乗った。
 冒険者らしき2人の男性は御者席《ぎょしゃせき》に座っている。御者席とは馬車を運転する席である。車でいうところの運転席と助手席に2人の男性は座っていた。2人は交代に運転するらしい。護衛と運転手を2人は兼ねているみたいだった。
 後部座席は老夫婦の席だった。俺達も後部座席に乗せてもらっていた。
 乗り心地は最悪だった。壊れかけのジェットコースターに乗っているようにガタンガタンと大きく揺れた。

 美子さんは授乳を隠すための布を体に覆ってネネちゃんにミルクをあげていた。
 向かいの老夫婦が身の上話をしている。
 夫人が病気になり、お店を息子夫婦に譲り、エリクサーを探して旅に出た。だけどエリクサーはどこを探しても見つからず、仕方なく帰って来たらしいのだ。
 エリクサーを探す旅といっても老夫婦はエリクサーが見つからないと思っていた。最後の思い出を兼ねて旅をしていたのだ。

 初めての人殺しで俺の気分は落ち込んでいた。授乳の布から飛び出たネネちゃんの小さい足を優しく掴んだ。

 妻は老夫婦の身の上話を頷きながら聞いていた。
「もしよかったら残りのエリクサーを売ってくれないですか? もちろん今日のお礼もします」
 と老紳士が言った。
「たぶん、エリクサーじゃないと思うんですけど」
 と妻が言う。
 たぶん、と妻は言っている。絶対に違う、と言い切れよ、と俺は思った。
「それはエリクサーだと思いますよ。あるいはエリクサーに近いハイパーポーションかもしれない。普通のポーションでは大怪我は治せない。それに家内は元気になりました」
 と老紳士が言う。
「考えます。私達にも回復薬はコレしかないので」と美子さんが言った。
 コレしかない、というのは彼女の嘘である。今もネネちゃんがミルクをゴクゴク飲んでいる。
「どこで手に入ったか教えてくれないですか?」と老紳士が尋ねた。
「魔物を倒して手に入ったモノなんで、ただの偶然入手したアイテムなんです」
 と妻が、また嘘をついている。
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