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本編

第四話 その距離、零センチ

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手を伸ばせばすぐ届く距離に慶がいる。

けど、
……なんで?

疲れきった頭では、正常に考えることも、咄嗟に行動することもできない。気付いたときには、俺は慶の腕の中にいた。

その距離、零センチ。

想定外の事態に、頭も体も硬直してぴくりとも動けない。ただ俺の耳だけが、慶の小さな呟きを拾った。

「修二……」

その声に含まれた色に、頭の中で警笛が鳴る。

ヤバい。
逃げなきゃ。

俺は体を捩って慶の腕の中から逃げ出した。いや、逃げ出そうとした。

「逃がすかよっ」

唸るように叫んだ慶に腕を掴まれ、その拍子にバランスを崩した俺は、慶ともども空の瓶ケースの山にダイブした。

ガッシャーン

ケースの山が崩れて派手な音を立てる。どうやら背中を打ちつけたたようで鈍い痛みが走るが、そんなことには構っていられない。逃げなきゃ。俺の頭の中にはそれしかなかった。

立ち上がった途端、今度は慶に足首を掴まれてすっ転ぶ。這って逃げようとしたけれど、体格差というものはなんとも残酷なもので、俺よりもガタイのいい慶に上から圧し掛かられてしまえばそれも叶わない。

「い、ってえなっ! 退けよっ!」

俺にできることといえば、虚勢を張って大声をあげることだけ。対して慶は俺の腹に跨り、今にも泣きそうな顔で俺を見下ろしていた。

「修二……」

さっきよりも色を増した慶の声に、体の力が抜ける。

ああ、もうダメだ。
もう逃げられない。

「修二……、俺……」

やめろ。
やめてくれ。

俺は最後の悪あがきに両手で耳を覆い、ぎゅっと目を瞑った。

「俺、お前が好きだ」

それは一年前のあの夏の日と同じセリフ。





あの夏の夜。

「修二……、俺、お前が好きだ」 

俺の唇に触れるだけのキスをして、そう言ったのは、慶。

「もう俺に、話しかけんな」

慶を拒んだのは、俺。





慶に好きだと告げられて、嬉しくなかったわけがない。
嬉しかった。死ぬほど嬉しかった。

けれど慶の気持ちを受け入れて付き合うなんてこと、俺にはできなかった。
俺のせいで慶の人生を歪めてしまうのが怖かった。

男の俺なんかじゃなくて、慶は女を選べる。
俺を好きになったのは、きっと一時の気の迷い。

だって慶はゲイじゃない。
俺とは違うのだから。 

「な、んで……」

それなのに、なんでまた振り出しに戻ってしまうのか。
離れようとしたのに。忘れようとしたのに。逃がしてやろうとしたのに。
なんで、お前は俺のとこなんかに戻ってくるんだよっ!

「なんでだよっ!」

怒りにまかせて慶の胸ぐらを掴むと、慶の顔が泣きそうにぐにゃりと歪む。

「好きなんだ、修二。お前のこと、諦めようとしたけど……。無理なんだ……」
「無理じゃねえよっ!」

俺には無理だけど。お前には無理じゃねえはずだ。
お前は女が好きなんだから。女を選べばいい。

「無理なんだよっ! お前のことが気になってしょうがなくて。お前が好きで。好きで好きでしょうがねえんだよっ!」

ついさっきまで泣きそうな顔をしていたくせに、急に激昂して叫ぶ慶に、俺も負けじと声を張りあげる。

「んなの手に入んねえからって駄々捏ねるガキと一緒じゃねえかっ! すぐに飽きるに決まってるっ!」
「んでだよっ! んなのわかんねえだろ? お前が勝手に俺の気持ちを決めつけんなっ!」
「はっ。女とっかえひっかえしてるくせに。半年以上持ったことねえだろーがっ!」
「しょうがねえだろっ! あいつらはお前じゃねえんだからっ!」
「ったりめえだろっ! 俺は女じゃねえっ!」

俺は男だ。

だから俺なんか捨てられるに決まってる。
どうせ最後には女を選ぶに決まってる。

ああそうさ。これが俺の本音。
慶のためとかなんとかは建前で、本当は全部自分のため。

慶と付き合って、どのくらいもつ? 一か月? 半年? 一年?
それでもうお前なんか好きじゃないって言われたら? 捨てられたら? 

俺はどうすればいい?

考えたくない。
考えるだけでも怖い。
だから俺は慶と離れることを選んだ。
捨てられて忘れ去られる未来より、せめて友達だった過去が思い出として残る未来を選んだんだ。

それなのにっ!

「くっ……、っぅ……」

臆病な自分自身の本音が堰を切って、涙になって溢れ出る。泣きたくなんてないのに、涙が止まらない。慶の前でみっともなく泣き崩れることだけは避けたくて、俺は唇を噛んだ。それでも漏れてしまう嗚咽の声だけが、しんと静まり返った夜の空気に吸い込まれていく。

俺は弱いから。
俺を好きだと言ってくれる慶を、信じるのが怖かった。
いつか失ってしまうものならば、最初からないほうがいい。期待しないほうがいい。そう思った。

俺は狡いから。
遠くから俺へ向ける慶の視線の本当の意味にだって、気づいていない振りをしてた。
そうやってずっと俺を想っていてくれればいいのにと、独りよがりな期待もしてた。
慶の想いに応えるつもりもないくせに。

俺は格好つけだから。
慶の前ではとりわけ格好いい俺でいたかった。
それなのに、慶の前ではとりわけ弱くて狡い俺になる。

弱い自分なんて嫌だ。
狡い自分なんて嫌だ。
格好悪い自分なんて嫌だ。

嫌なのに……。

慶の前で、こんなちっぽけな自分を曝け出して、もう全部ぐちゃぐちゃで、どうしようもない。

「っくしょ……、っ……、んで……、くっ……」
「泣くなよ、修二。泣くな。泣かないでくれ」
「な、いて……、ねっ……し……」

確かに泣いてる。
泣いてるけどそこは指摘すんじゃねえよっ。

困ったような顔で俺を見下ろす慶の顔を睨みつけると、なぜだか慶が嬉しそうに笑った。

「わらっ、て……じゃ、ねえっ」
「だって修二、可愛いから、つい」
「ばっ、……っ?!」

掠め取るように慶に唇を奪われ、驚いて目を見張る。

驚いたのは、慶にキスをされたからじゃない。唇がほんの少し触れるだけのキスに、体中の血が沸騰したみたいに震えたから。もっと欲しいと思ってしまったから。慶との触れ合いをこんなにも渇望していた俺の欲深さに驚いたのだ。驚きすぎて、涙が引っ込むくらいに。

「んな驚くことねえじゃん。亨にはもっとすげえやつしてただろ?」
「あれはちが……」

ちょっと拗ねたように不貞腐れる慶に、つい本当のことを言ってしまいそうになる。機嫌を損ねた慶を宥めるのはいつも俺の役目だったから、条件反射のようなものだ。慌てて口を噤んだ俺に、慶が柔らかな笑みを浮かべた。

「わかってる。亨に聞いた。あれは亨から仕掛けたんだろ?」

俺の大好きだった、今でもやっぱり大好きな慶の笑顔に、心臓がどくんと跳ねる。

どくどくどく……。
慶に気付かれるんじゃないかと心配になるくらい、心臓の音がヤバい。

「ちょ、退けよ」

俺の上に覆い被さる慶を押しのけようと胸に触れた途端、俺と同じくらいヤバいことになっている慶の心臓の鼓動が手のひらに焼きついて、手を離すことも、視線を外すこともできなくなる。

どくどくどくどく……。
ヤバい。まじでヤバい。いろいろヤバい。

「修二……」

ゆっくり近づいてくる慶の顔を避ける術を、俺は知らない。

だって、俺だって、慶に触れたい。慶に触れられたい。
慶の欲に色付く視線に囚われて、慶をもっと感じたい。

けれど触れるはずだったその唇は、寸でのところで阻まれた。

「てっめぇー、修二に何してやがるっ!」

突然現れた京さんが、慶を思い切り蹴り飛ばしたからだ。

「け、慶っ!」

京さんは半端なく喧嘩が強くて、絡まれているところを京さんに助けられたのは一度や二度ではない。でも今回は違う。俺のせいで慶が殴られるなんて冗談じゃない。

俺は慌てて立ち上がり、うめき声をあげて蹲る慶と、今にも慶に殴り掛かりそうな京さんの間に割って入った。

「きょ、京さんっ、やめてよ」
「修二、お前は黙ってろ」
「けど、京さん、違うんだ。そいつは……」
「いいから、俺にまかせとけって。あいつだろ?」

……お前の好きなやつ。

京さんが俺の耳元にそう囁いてウィンクを寄越す。

たった一度だけ、京さんに初めて会った日に、慶への想いを打ち明けたことがあった。それっきり話題にのぼることもなかったし、京さんはもう覚えてないだろうと思っていた。けれど違ったようだ。

「あんた、誰だよ」

すぐ背後で慶の低い声がして振り返る。腹を抱えながら立つのもやっとという風情の慶が、その眼だけはギラギラさせて京さんを見据えていた。

「は? 関係ねえだろ。てか、お前こそ誰だよ」

敵意を剥き出しにして相手を威嚇する京さんは、凄まじい迫力がある。へらへらとおちゃらけている普段の京さんとのギャップが大きいから余計にそう感じるのだろうか。

「なーんてね。知ってるよ、俺、お前のこと。修二の昔のダチだろ? む・か・し・の」

いつもの飄々とした口調に戻った京さんが慶を挑発すれば、まんまと乗せられた慶が声を荒げた。

「うっせー、黙れ!」
「余裕ねえなー、お前。やっぱガキだなー」
「黙れっつってんだよ!」
「お前さー、さっき俺が誰か聞いたよな? 教えてやろうか?」

にやりと笑う京さんに、嫌な予感しかしない。

「ちょ、京さん、一体なに……」

止める間もなかった。

「俺は、修二の初めての男だよ」
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