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図書館の静寂、ポテト
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日向の私の間には、よほど強い縁があるのだろうか。
三度目に出会ったときに思ったけれど、考えてみれば狭い町で行動範囲が似ているだけのことだった。
平日だった。特に用事はなかったけれど、病気だと嘘をついて有給休暇をとっていた。
怠惰だと思う。でも、今日は行けないと思ったから休んだ。
ある意味病気かもしれないな、と、自棄っぱちな気持ちで考えた。
罪悪感を覚えながら、とりあえず外に出てみた。平日の午前も、通勤通学の時間を過ぎてしまうと、人通りが極端に少なくて、のんびりした雰囲気になる。
他に行くところもなくて、結局向かったのは図書館だった。
平日午前中の図書館は、おじいさんの利用者が多い。それも定年退職してか十年も経っていなさそうな、比較的若い(?)おじいさんがソファで新聞や歴史小説を読んでいたり、寝ていたりする。よくよく見回してみても、同年代の女性はほとんど見当たらない。
ここはコミュニティに属せない人たちが時間をつぶしに来るところなのだろうか、と考えて、自分がそれにぴったりはまっていることに気がついた。
どうしようもない。
それでも不思議なもので、図書館の静けさの中では、自己嫌悪の波に飲まれることもない。私は薄い黄緑色のカーペットを踏みしめながら、目に入ってくる背表紙の文字列を眺めていた。
社会学、経済学、法律学……動物学、細菌学、物理学。普段は読まないような分野の本も、一通り眺めてみる。全く興味のない分野でも、意外に読みたい本があって、手に取ってみたりする。しかし、最後はいつも通り、小説のコーナーに戻る。
好きな作家の、新しい本が入っているのを見つけて、私は心の中で静かにはしゃぎながら、ゆっくり本を読めるスペースを探した。ちょうどよく本棚の脇に置かれた四角い椅子が空いていたので、私はそこに座り込んで本を開いた。
しばらくして、肩がつくつくと突かれた。
(こんにちは)
顔を上げると、口パクで挨拶をしている日向がいた。
脇を締めたまま、肘から下をせわしなく動かしている。ペンギンの物まね、ではなく、喜びを示しているらしい。よくもまぁ恥ずかしげもなく子どもっぽい真似を、と思わないでもなかったが、日向がやっているとなぜかさまになっている気がするのだった。
同じ動作で挨拶を返すようなタイプの人間ではないので、私はとりあえず頷いてみる。
そうすると、今度は外を指差してから、自分の口の前で、手のひらをこちらに向けた状態の右手を開いたり閉じたりして見せた。
(いっしょにそとにでて、おしゃべりをしよう)
動作が加われば、口パクも意外と意味が通じるものである。
(いまこのほんをよんでいるから)
私も口パクで返してみたが、日向は首をひねった。
(ほん!)
読んでいた本を指差してみると、日向が、あぁ、という顔をした。
そして、何を思ったのか自分の持っている布の鞄を探り出す。くたくたになった革の財布から取り出したのは、図書館の貸し出しカードだった。
(かりたらいいよ)
日向はカードを指差して、にっこりと笑う。
(わたしはここでよみたいの)
言い返してみるが、またもや日向は首をひねった。どうやら、自分の考えを伝えるスキルはあっても、相手の言っていることを読み取るスキルはあまりないらしい。
(ここでよむの!)
(?)
(こ・こ!)
(ここ、がどうしたの?)
(こ・こ・で・よ・む!)
(?)
(ああ、もう!)
結局、私は面倒くさくなって立ち上がった。
日向が慌てて後ろをついてくる。その嬉々とした様子を見ていたら、なんだか邪険にすることが出来ないような気がして、私は日向と一緒に図書館を出ることにした。
結局本は借りなかった。
私たちは、図書館の向かいにある寂れたショッピングセンターに入って、一番安いファーストフードで二人とも一番安いドリンクを頼んだ。
「ポテト食べたいなぁ……」
席についてから、日向は心底物欲しげに呟いた。
「食べれば?」
「実はお腹の調子が悪い」
「それならコーラなんか頼まなきゃいいのに」
「頼んでから後悔した」
「もう、交換してあげるからこっちを飲みなよ」
図書館のクーラーで身体が冷えていた私は、ホットティーを頼んでいた。黄色い紙のついたティーバッグが入ったままの紙コップを、私は日向に押し付けた。
日向はおとなしく、渡されたホットティーを飲んだ。私は奪い取った紙コップから、ちくちくと舌を刺激する甘い液体をすすった。
店内には、私たちのほかは暇そうに子どもをあやしている親子連れしかいない。
店内に音楽が流れていることなんて気にしたこともなかったけれど、こんなに安い店なのに、意外に無難でお洒落な曲が選択されているものだな、と、しょうもないことを考えていた。
「あったまった?」
あまりに日向が大人しいので、私から話しかけてみることにした。
「うん、ありがとう」
少し赤い顔で、日向が目を細めた。
「お腹の調子が悪いなら、胃にしろ腸にしろ、冷やしちゃだめだよ」
「そうだね。紅茶、ありがとう。苦かったけど、あったまった」
「苦いのは不得意?」
日向は頷いた。
「コーヒーは砂糖を入れても飲めない」
「なんていうか、見た目通りだね」
とても失礼なことを言っているような気がしたが、日向は素直に頷いた。
「そういえば、今日、平日だけどお休み?」
そして、いきなり痛いところをついてきた。
「嫌なこと言うね。さぼったの」
「あー、ごめんなさい」
日向は気まずそうに首の後ろに手を当てた。
「日向は学生なんでしょ」
「うん、夏休み」
「いいねぇ、学生さんは気楽で」
「仕事、楽しくない?」
「楽しかったらさぼらないんじゃないかな」
「ごめんなさい」
見るからにしゅんとして謝られて、私はその態度にイライラした。
その素直すぎる反応に対して。
「まぁ、いいけど」
大人なんだから、と言い聞かせて気持ちとは反対のことを言った。
「何か、悩みとか、あるの? 私でよければ、聞くけど」
「職場の悩みとか、学生さんが聞いて解決出来ると思えないんだけど」
「いや、でも、聞くだけでもと思って」
「職場の上司と不倫してるの。それの絡みでね、色々、面倒くさい」
「それは……良くないよ」
何も知らないくせに日向はきっぱりと言った。
批難するような視線を感じて私はますます露悪的になる。
「良くないから不倫って言うんじゃない? 分かってるけどね、相手の奥さんにバレたら刺されるんじゃないかと思ってるし。でも色々あるんだよね。力関係もあったし、ここで断ったら、後々、とかさ」
「それって不倫っていうよりセクハラなんじゃない?」
「でも私もはっきり意思表示とかしてないし。特別気持ち悪い人じゃないし、仕事出来る人だし、お金も持ってるし。計算もあった上で乗ったのも私だからね。それはね、私も同罪ってことになるんだよ」
「やめたほうがいいと思う。みさきちゃん、それじゃ幸せになれないよ」
何故か妙に熱心に日向は私に訴えかけてくる。
でも私の心には日向の純真さはとどいてこなくて、イライラだけが溜まっていく。
そして諦めにも似た気持ち。
どうして……どうしてこんなに真っすぐなんだろう、この子は。
「私なんて、元から幸せじゃないよ。だいたい、相手のことだって別にたいして好きじゃないし。やめた方がいいって簡単に言うけどさ、やめるのだってパワーがいるんだよ。別れ話して、あっさり別れられたらいいけど、それでも会社で会ったら気まずいし、うまくいかなければそれこそ泥沼なんだよね。今の私にはそんなパワーないんだよ。学生みたいにさ、好きなら好きでいいとか、そういう場所じゃないんだよ。そのまま流されて男に抱かれてた方が楽なときだってあるんだよ。でも、時々どうしようもなく疲れるんだよ。簡単にやめろなんて言わないでくれるかな」
「………それは、わか………ううん、ごめんなさい」
「もういいよ」
「本当に、ごめんなさい。えっと、えっと、そういえば、読書の邪魔だった?」
「今更だなぁ。まあ、邪魔だったね」
「……ごめんなさい」
「もういいよ」
「……いいよいいよって言ってるけど、みさきちゃん、さっきから一つも本当にいいよって思ってないよね」
この一言で私はキレた。
「あんた、喧嘩売ってるの?」
気がついたら、私は立ち上がっていた。
自分でも、ものすごく怖い顔をしていたと思う。
はっと気がついたときには、目の前に、涙を浮かべた日向の姿があった。
「……ごめん」
私は、ぼそっと呟いて、席に座った。
日向が、涙を隠すように俯いて、そのままの状態でつっかえながら話し始めた。
「わ、私、気づくのがいつも遅くて。さっきも会えて嬉しくて、舞い上がっちゃって。頭の中が何かの気持ちでいっぱいになっちゃうと、周りを見たりとかが全然出来ない。失礼なこと言ったり、迷惑が考えられなかったり、後で考えたら嫌になるんだけど。でも、自分でもよくわからないんだけど、みさきちゃんとは仲良くなりたくて、あの、えっと、みさきちゃんには幸せになってほしくて。だから、あの、ごめんなさい」
日向の言葉は真摯だった。それなのに私は自分の右胸のした辺りがもやもやと騒がしくなってくるのを感じた。
「もういいって」
私の口調が強いのに怯えたのか、日向がびくっとして顔を上げた。
私はため息をついた。
「私、日向と話してると、自分がすごい悪人になったような気がしてくるんだよね。だからすぐにイライラするの。意地悪を言うの。日向のことが嫌いなんじゃない。だから気にしないで」
「私のことが嫌いじゃないけど、私といるときの自分が嫌い?」
「そう」
「でも、私はみさきちゃんと仲良くしたい」
「それは困ったね」
投げやりにそう言うと、さすがの日向も黙った。
普通に考えたら絶対言わないくらい意地悪なことを言っている自覚はあった。だからますます私は苛立って、露悪的になる。
これだけ言えばこの子は私から離れてくれるだろう。後から死ぬほど自己嫌悪に陥って、最終的にはなかったことにして記憶にカバーをかけて隠してしまうのだろう。
私は飲み残しのコーラを持って、立ち上がろうとした。
さようなら、善良な人。
その時、俯いていた日向の口から、ぼそっと、漏れるように呟かれた言葉が聞こえた。
「私が不器用で純粋そうに見えるから、そうじゃない自分が嫌になる?」
「……時々、むちゃくちゃ人の痛いとこをついてくるよね。腹立たしいことに」
「私、純粋じゃないもん」
顔を上げた日向は口を尖らせていた。
「不器用なのは認めるけど、だから純粋って訳じゃないもん。みさきちゃんと仲良くなりたいから強引に名刺を押し付けたし、思うように喋れないからイライラしてみさきちゃんに意地悪なことを言ったりしたし、今日だって迷惑かもしれないって本当はちょっとだけ思ったんだけど、みさきちゃんに会いたい気持ちの方が大きかったからみさきちゃんの気持ちは無視して誘ったし」
日向は馬鹿正直に、私に対してした意地悪を告白している。日向が自分の奇々怪々な行動への自覚があったことには多少驚いたが、それにしてもやっていることの一つ一つがあまりにもくだらない。
「それに、そもそも私がみさきちゃんを誘った理由だって!」
「ぷっ!」
「え?」
私が急に吹き出したので、日向が虚をつかれたような顔をした。
「いや、ごめん。言いたいことは理解したつもりだけど、逆に君の善人っぷりが面白くなってきて」
「えぇ?」
「あのね、不純な人間はその程度の悪意を悪意だとは思わないの」
「いや、でもそれは……」
「じゃあ、これからどんな悪いことをして、私を誑かそうとしていたの?」
「う……」
冗談っぽく唇をゆがめて、顔を近づけながら問いつめたら、答えに窮したらしく、日向は顔を真っ赤にして俯いてしまった。
そして、数秒考えた後、水を浴びた犬のように首を振って、その後で意を決したように顔を上げた。
「じゃあ、私、みさきちゃんと仲良くなれない?」
瞳が濡れていた。
……参ったな。
だからこの子は。
大きく大きく、ため息をついた。
「私が悪かった。ごめん」
「ほぇ?」
「いや、っていうか元々私が悪いことは分かってるんだけどさ。仲良くしようよ、そんなに言うなら。でも私、意地悪だよ?」
本当に我ながらなんていうことを言っているんだろうと思うが、もはやこんなふうに皮肉めかさなければ、何も言えないような気がした。
それに対する日向の反応はどこまでもまっすぐで、
「うん!」
星のシャワーでも浴びてきたかのようにきらきらしていた。
その後、ハイになった日向は三十分ほど一方的に喋りまくった。先ほどのやり取りへの自己嫌悪でぐったりした私はひたすら適当に相づちを打ち続けた。内容は他愛もないことだったように思う。日向が人生の中でした最高の意地悪(小学校でグループ分けをするときに日向を仲間はずれにした女子の上履きを、同じような理由で嫌いだった女子の上履きを下駄箱のところで片方ずつ交換しておいたこと)だとか、ファーストフードのポテトは細くてしんなりしているものが好きだが、冷凍食品のポテトを家庭で揚げてもしんなりしないのでどうやって作ればいいのか分からないという話だとか、図書館でこの前人生初のナンパをされたけれど、それがどうみても70歳以上のおじいちゃんで、どうやって断るのが一番平和的で大人な対応なのだろうか、たいそう悩んだことだとか。
コンビニのおにぎりを食べる時、パリパリののりを余さずビニールから取り出すための力加減を会得した過程について話している途中で、不意に日向は叫んだ。
「あ、五時!」
確かに五時だった。
だから何だというのだ。町役場のスピーカーの時報を聞いて帰宅する小学生じゃあるまいし。
と思ったが、聞けば今いるショッピングセンターのタイムセールが五時から始まるらしい。遅くなれば遅くなるほど値段が下がる傾向にはあるが、どうしても必要な総菜はある程度早い時間に確保しておかないと早々になくなってしまうことがあるという。
「ちょっと戦闘モードだから、行くね! あ、また来てね!」
そう言うと、いともあっさり日向は席を立って、地下一階へのエスカレーターを駆け下りて行った。自分が飲んだ分の紙コップは、きちんとゴミ箱に投入して行った。
さっきの涙まで浮かべた力説はなんだったのか、というくらいの潔い別れだった。
いやぁ。いやはや。あはは。
なんというかもう、へらりと笑って見送るしかない。
でも、嫌な気持ちにはならなかった。
日向の脈絡のなさすぎる話に毒気を抜かれたのか、落差のありすぎるアプローチと別れの態度から、日向の変人度を知り、自分の意地悪さがどうでもよくなったのか、両方なのか、どれでもないのか、よくは分からない。
そういえばあの子お腹の調子が悪いって言ってたような気がするけれど、大丈夫なんだろうか。まぁ、あれだけ熱っぽく話していたのだから、身体もあったまっただろう。
そう思いながらカップに残っていたコーラをすする。
氷が溶けて薄くなったコーラは、口の中で控えめに甘く、はじけた。
三度目に出会ったときに思ったけれど、考えてみれば狭い町で行動範囲が似ているだけのことだった。
平日だった。特に用事はなかったけれど、病気だと嘘をついて有給休暇をとっていた。
怠惰だと思う。でも、今日は行けないと思ったから休んだ。
ある意味病気かもしれないな、と、自棄っぱちな気持ちで考えた。
罪悪感を覚えながら、とりあえず外に出てみた。平日の午前も、通勤通学の時間を過ぎてしまうと、人通りが極端に少なくて、のんびりした雰囲気になる。
他に行くところもなくて、結局向かったのは図書館だった。
平日午前中の図書館は、おじいさんの利用者が多い。それも定年退職してか十年も経っていなさそうな、比較的若い(?)おじいさんがソファで新聞や歴史小説を読んでいたり、寝ていたりする。よくよく見回してみても、同年代の女性はほとんど見当たらない。
ここはコミュニティに属せない人たちが時間をつぶしに来るところなのだろうか、と考えて、自分がそれにぴったりはまっていることに気がついた。
どうしようもない。
それでも不思議なもので、図書館の静けさの中では、自己嫌悪の波に飲まれることもない。私は薄い黄緑色のカーペットを踏みしめながら、目に入ってくる背表紙の文字列を眺めていた。
社会学、経済学、法律学……動物学、細菌学、物理学。普段は読まないような分野の本も、一通り眺めてみる。全く興味のない分野でも、意外に読みたい本があって、手に取ってみたりする。しかし、最後はいつも通り、小説のコーナーに戻る。
好きな作家の、新しい本が入っているのを見つけて、私は心の中で静かにはしゃぎながら、ゆっくり本を読めるスペースを探した。ちょうどよく本棚の脇に置かれた四角い椅子が空いていたので、私はそこに座り込んで本を開いた。
しばらくして、肩がつくつくと突かれた。
(こんにちは)
顔を上げると、口パクで挨拶をしている日向がいた。
脇を締めたまま、肘から下をせわしなく動かしている。ペンギンの物まね、ではなく、喜びを示しているらしい。よくもまぁ恥ずかしげもなく子どもっぽい真似を、と思わないでもなかったが、日向がやっているとなぜかさまになっている気がするのだった。
同じ動作で挨拶を返すようなタイプの人間ではないので、私はとりあえず頷いてみる。
そうすると、今度は外を指差してから、自分の口の前で、手のひらをこちらに向けた状態の右手を開いたり閉じたりして見せた。
(いっしょにそとにでて、おしゃべりをしよう)
動作が加われば、口パクも意外と意味が通じるものである。
(いまこのほんをよんでいるから)
私も口パクで返してみたが、日向は首をひねった。
(ほん!)
読んでいた本を指差してみると、日向が、あぁ、という顔をした。
そして、何を思ったのか自分の持っている布の鞄を探り出す。くたくたになった革の財布から取り出したのは、図書館の貸し出しカードだった。
(かりたらいいよ)
日向はカードを指差して、にっこりと笑う。
(わたしはここでよみたいの)
言い返してみるが、またもや日向は首をひねった。どうやら、自分の考えを伝えるスキルはあっても、相手の言っていることを読み取るスキルはあまりないらしい。
(ここでよむの!)
(?)
(こ・こ!)
(ここ、がどうしたの?)
(こ・こ・で・よ・む!)
(?)
(ああ、もう!)
結局、私は面倒くさくなって立ち上がった。
日向が慌てて後ろをついてくる。その嬉々とした様子を見ていたら、なんだか邪険にすることが出来ないような気がして、私は日向と一緒に図書館を出ることにした。
結局本は借りなかった。
私たちは、図書館の向かいにある寂れたショッピングセンターに入って、一番安いファーストフードで二人とも一番安いドリンクを頼んだ。
「ポテト食べたいなぁ……」
席についてから、日向は心底物欲しげに呟いた。
「食べれば?」
「実はお腹の調子が悪い」
「それならコーラなんか頼まなきゃいいのに」
「頼んでから後悔した」
「もう、交換してあげるからこっちを飲みなよ」
図書館のクーラーで身体が冷えていた私は、ホットティーを頼んでいた。黄色い紙のついたティーバッグが入ったままの紙コップを、私は日向に押し付けた。
日向はおとなしく、渡されたホットティーを飲んだ。私は奪い取った紙コップから、ちくちくと舌を刺激する甘い液体をすすった。
店内には、私たちのほかは暇そうに子どもをあやしている親子連れしかいない。
店内に音楽が流れていることなんて気にしたこともなかったけれど、こんなに安い店なのに、意外に無難でお洒落な曲が選択されているものだな、と、しょうもないことを考えていた。
「あったまった?」
あまりに日向が大人しいので、私から話しかけてみることにした。
「うん、ありがとう」
少し赤い顔で、日向が目を細めた。
「お腹の調子が悪いなら、胃にしろ腸にしろ、冷やしちゃだめだよ」
「そうだね。紅茶、ありがとう。苦かったけど、あったまった」
「苦いのは不得意?」
日向は頷いた。
「コーヒーは砂糖を入れても飲めない」
「なんていうか、見た目通りだね」
とても失礼なことを言っているような気がしたが、日向は素直に頷いた。
「そういえば、今日、平日だけどお休み?」
そして、いきなり痛いところをついてきた。
「嫌なこと言うね。さぼったの」
「あー、ごめんなさい」
日向は気まずそうに首の後ろに手を当てた。
「日向は学生なんでしょ」
「うん、夏休み」
「いいねぇ、学生さんは気楽で」
「仕事、楽しくない?」
「楽しかったらさぼらないんじゃないかな」
「ごめんなさい」
見るからにしゅんとして謝られて、私はその態度にイライラした。
その素直すぎる反応に対して。
「まぁ、いいけど」
大人なんだから、と言い聞かせて気持ちとは反対のことを言った。
「何か、悩みとか、あるの? 私でよければ、聞くけど」
「職場の悩みとか、学生さんが聞いて解決出来ると思えないんだけど」
「いや、でも、聞くだけでもと思って」
「職場の上司と不倫してるの。それの絡みでね、色々、面倒くさい」
「それは……良くないよ」
何も知らないくせに日向はきっぱりと言った。
批難するような視線を感じて私はますます露悪的になる。
「良くないから不倫って言うんじゃない? 分かってるけどね、相手の奥さんにバレたら刺されるんじゃないかと思ってるし。でも色々あるんだよね。力関係もあったし、ここで断ったら、後々、とかさ」
「それって不倫っていうよりセクハラなんじゃない?」
「でも私もはっきり意思表示とかしてないし。特別気持ち悪い人じゃないし、仕事出来る人だし、お金も持ってるし。計算もあった上で乗ったのも私だからね。それはね、私も同罪ってことになるんだよ」
「やめたほうがいいと思う。みさきちゃん、それじゃ幸せになれないよ」
何故か妙に熱心に日向は私に訴えかけてくる。
でも私の心には日向の純真さはとどいてこなくて、イライラだけが溜まっていく。
そして諦めにも似た気持ち。
どうして……どうしてこんなに真っすぐなんだろう、この子は。
「私なんて、元から幸せじゃないよ。だいたい、相手のことだって別にたいして好きじゃないし。やめた方がいいって簡単に言うけどさ、やめるのだってパワーがいるんだよ。別れ話して、あっさり別れられたらいいけど、それでも会社で会ったら気まずいし、うまくいかなければそれこそ泥沼なんだよね。今の私にはそんなパワーないんだよ。学生みたいにさ、好きなら好きでいいとか、そういう場所じゃないんだよ。そのまま流されて男に抱かれてた方が楽なときだってあるんだよ。でも、時々どうしようもなく疲れるんだよ。簡単にやめろなんて言わないでくれるかな」
「………それは、わか………ううん、ごめんなさい」
「もういいよ」
「本当に、ごめんなさい。えっと、えっと、そういえば、読書の邪魔だった?」
「今更だなぁ。まあ、邪魔だったね」
「……ごめんなさい」
「もういいよ」
「……いいよいいよって言ってるけど、みさきちゃん、さっきから一つも本当にいいよって思ってないよね」
この一言で私はキレた。
「あんた、喧嘩売ってるの?」
気がついたら、私は立ち上がっていた。
自分でも、ものすごく怖い顔をしていたと思う。
はっと気がついたときには、目の前に、涙を浮かべた日向の姿があった。
「……ごめん」
私は、ぼそっと呟いて、席に座った。
日向が、涙を隠すように俯いて、そのままの状態でつっかえながら話し始めた。
「わ、私、気づくのがいつも遅くて。さっきも会えて嬉しくて、舞い上がっちゃって。頭の中が何かの気持ちでいっぱいになっちゃうと、周りを見たりとかが全然出来ない。失礼なこと言ったり、迷惑が考えられなかったり、後で考えたら嫌になるんだけど。でも、自分でもよくわからないんだけど、みさきちゃんとは仲良くなりたくて、あの、えっと、みさきちゃんには幸せになってほしくて。だから、あの、ごめんなさい」
日向の言葉は真摯だった。それなのに私は自分の右胸のした辺りがもやもやと騒がしくなってくるのを感じた。
「もういいって」
私の口調が強いのに怯えたのか、日向がびくっとして顔を上げた。
私はため息をついた。
「私、日向と話してると、自分がすごい悪人になったような気がしてくるんだよね。だからすぐにイライラするの。意地悪を言うの。日向のことが嫌いなんじゃない。だから気にしないで」
「私のことが嫌いじゃないけど、私といるときの自分が嫌い?」
「そう」
「でも、私はみさきちゃんと仲良くしたい」
「それは困ったね」
投げやりにそう言うと、さすがの日向も黙った。
普通に考えたら絶対言わないくらい意地悪なことを言っている自覚はあった。だからますます私は苛立って、露悪的になる。
これだけ言えばこの子は私から離れてくれるだろう。後から死ぬほど自己嫌悪に陥って、最終的にはなかったことにして記憶にカバーをかけて隠してしまうのだろう。
私は飲み残しのコーラを持って、立ち上がろうとした。
さようなら、善良な人。
その時、俯いていた日向の口から、ぼそっと、漏れるように呟かれた言葉が聞こえた。
「私が不器用で純粋そうに見えるから、そうじゃない自分が嫌になる?」
「……時々、むちゃくちゃ人の痛いとこをついてくるよね。腹立たしいことに」
「私、純粋じゃないもん」
顔を上げた日向は口を尖らせていた。
「不器用なのは認めるけど、だから純粋って訳じゃないもん。みさきちゃんと仲良くなりたいから強引に名刺を押し付けたし、思うように喋れないからイライラしてみさきちゃんに意地悪なことを言ったりしたし、今日だって迷惑かもしれないって本当はちょっとだけ思ったんだけど、みさきちゃんに会いたい気持ちの方が大きかったからみさきちゃんの気持ちは無視して誘ったし」
日向は馬鹿正直に、私に対してした意地悪を告白している。日向が自分の奇々怪々な行動への自覚があったことには多少驚いたが、それにしてもやっていることの一つ一つがあまりにもくだらない。
「それに、そもそも私がみさきちゃんを誘った理由だって!」
「ぷっ!」
「え?」
私が急に吹き出したので、日向が虚をつかれたような顔をした。
「いや、ごめん。言いたいことは理解したつもりだけど、逆に君の善人っぷりが面白くなってきて」
「えぇ?」
「あのね、不純な人間はその程度の悪意を悪意だとは思わないの」
「いや、でもそれは……」
「じゃあ、これからどんな悪いことをして、私を誑かそうとしていたの?」
「う……」
冗談っぽく唇をゆがめて、顔を近づけながら問いつめたら、答えに窮したらしく、日向は顔を真っ赤にして俯いてしまった。
そして、数秒考えた後、水を浴びた犬のように首を振って、その後で意を決したように顔を上げた。
「じゃあ、私、みさきちゃんと仲良くなれない?」
瞳が濡れていた。
……参ったな。
だからこの子は。
大きく大きく、ため息をついた。
「私が悪かった。ごめん」
「ほぇ?」
「いや、っていうか元々私が悪いことは分かってるんだけどさ。仲良くしようよ、そんなに言うなら。でも私、意地悪だよ?」
本当に我ながらなんていうことを言っているんだろうと思うが、もはやこんなふうに皮肉めかさなければ、何も言えないような気がした。
それに対する日向の反応はどこまでもまっすぐで、
「うん!」
星のシャワーでも浴びてきたかのようにきらきらしていた。
その後、ハイになった日向は三十分ほど一方的に喋りまくった。先ほどのやり取りへの自己嫌悪でぐったりした私はひたすら適当に相づちを打ち続けた。内容は他愛もないことだったように思う。日向が人生の中でした最高の意地悪(小学校でグループ分けをするときに日向を仲間はずれにした女子の上履きを、同じような理由で嫌いだった女子の上履きを下駄箱のところで片方ずつ交換しておいたこと)だとか、ファーストフードのポテトは細くてしんなりしているものが好きだが、冷凍食品のポテトを家庭で揚げてもしんなりしないのでどうやって作ればいいのか分からないという話だとか、図書館でこの前人生初のナンパをされたけれど、それがどうみても70歳以上のおじいちゃんで、どうやって断るのが一番平和的で大人な対応なのだろうか、たいそう悩んだことだとか。
コンビニのおにぎりを食べる時、パリパリののりを余さずビニールから取り出すための力加減を会得した過程について話している途中で、不意に日向は叫んだ。
「あ、五時!」
確かに五時だった。
だから何だというのだ。町役場のスピーカーの時報を聞いて帰宅する小学生じゃあるまいし。
と思ったが、聞けば今いるショッピングセンターのタイムセールが五時から始まるらしい。遅くなれば遅くなるほど値段が下がる傾向にはあるが、どうしても必要な総菜はある程度早い時間に確保しておかないと早々になくなってしまうことがあるという。
「ちょっと戦闘モードだから、行くね! あ、また来てね!」
そう言うと、いともあっさり日向は席を立って、地下一階へのエスカレーターを駆け下りて行った。自分が飲んだ分の紙コップは、きちんとゴミ箱に投入して行った。
さっきの涙まで浮かべた力説はなんだったのか、というくらいの潔い別れだった。
いやぁ。いやはや。あはは。
なんというかもう、へらりと笑って見送るしかない。
でも、嫌な気持ちにはならなかった。
日向の脈絡のなさすぎる話に毒気を抜かれたのか、落差のありすぎるアプローチと別れの態度から、日向の変人度を知り、自分の意地悪さがどうでもよくなったのか、両方なのか、どれでもないのか、よくは分からない。
そういえばあの子お腹の調子が悪いって言ってたような気がするけれど、大丈夫なんだろうか。まぁ、あれだけ熱っぽく話していたのだから、身体もあったまっただろう。
そう思いながらカップに残っていたコーラをすする。
氷が溶けて薄くなったコーラは、口の中で控えめに甘く、はじけた。
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神崎未緒里
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