ずっと忘れないから

宇部 松清

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歌に聞き入る

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「ゲンさん、浜風が気持ち良いなぁ」

 自転車を手で押し、章坊ちゃんはそんなことをぽつりとおっしゃいました。
 すぐ隣にはリツカちゃんがちらちらと章坊ちゃんの方を見ています。けれど、当の章坊ちゃんはそんなことに全く気付いておりません。全く困ったものです。

 いつもの場所に自転車を停め、章坊ちゃんはあっしを、ひょい、と持ち上げます。いつの間にか本当にたくましくなられたものです。

 小さい頃の章坊ちゃんはねぇ、そりゃあもう泣き虫でねぇ。
 紀華のりか嬢ちゃんがほら、結構お転婆でしょう?
 景章けいしょうさんのお店にもちょいちょいと顔をお出しになっていてね、「ウチの店は章灯しょうとに継いでもらいたかったのになぁ」なんて景章さん、苦い顔をなさっておいででね。

 あぁ話が逸れましたねぇ。

 何だか最近、色々と昔のことばかり思い出すんですよ。
 不思議なもんですねぇ。
 思い出そうとすると出て来ないのに、ふとした時に思い出すんです。

 そうそう、章坊ちゃんは、昔から暗いところとか、お化けっていうんですかね、そういうのが大の苦手でねぇ。夜のトイレにもちょいちょいと同行させていただいたこともありましたっけねぇ。

 いまでも苦手みたいですけど、さすがに最近はトイレのお誘いはなくなりましたねぇ。身体もだいぶ大きくなりましたし。もう紀華嬢ちゃんを追い越して、景章さんもうかうか出来ませんね、こりゃ。

 あっしはね、こうやって章坊ちゃんと紀華嬢ちゃんの成長を見守っていられりゃ本望ですよ。
 欲を言えばねぇ、章坊ちゃんが可愛らしいお嫁さんをもらって、それで、2人にそっくりなお子さんを授かって、ってねぇ、そういうところまで見届けられたらって、思いますけどねぇ。
 そうそう、紀華嬢ちゃんがお嫁に行くところっていうのも見たいですねぇ。紀華嬢ちゃんはね、華織さんに良く似て、これがなかなかの器量良しなんでございますよ。あともう少し……お淑やかになれば……良いんでしょうがねぇ。いやはや。

 砂の上にちょん、と降ろされました。
 ほんのり暖かくてね、なかなか気持ち良いです。
 章坊ちゃん、いえいえ、別にあっしにばかり構うこたぁございませんて。今日はね、リツカちゃんがいるんですから。

 ほら、デロリス嬢、お前さんもこっちに。
 ここはひとつ、若い2人に任せるとしましょうや。邪魔しちゃいけねぇですよ。

 さ、さ。
 ほら、リツカちゃん。

 あっし達に構わず。さぁ。

 あっしはちょいとばかし休ませてもらいますから。

 ……………………
 ………………
 …………
 ……

 あぁ……良いですねぇ。
 章坊ちゃんのお歌はいつ聞いても。
 今日はまた一段と優しくお歌いになって。
 いつかきっと章坊ちゃんは立派な歌手になるんでしょうねぇ。

 ――え? 飼い主に甘すぎるって?
 いえいえ、そんなこたぁございませんって。一度でも章坊ちゃんのお歌をお聞きになればわかります。 

 何て言うんでしょうね、こう、魂を揺さぶられるって言うんですか?
 あっしには見えますとも、たくさんの人の前でそんな素敵なお歌を歌っている章坊ちゃんの姿が。
 そりゃあもう立派な青年になられてねぇ、お歌の内容はとんとわかりゃしませんけど。でもね、章坊ちゃんは楽しそうに歌うんです。お仲間と一緒にね。たくさんの人に愛されてねぇ。

 ……だったら大丈夫かな、なんて思っちまいますねぇ。
 あっしがいなくったって、章坊ちゃんはやっていける。
 なんて。

 いえ、あっしだってね。わかってますとも。

 たぶん、もうそう長くはないんでしょう。
 無念、とはそりゃ思いますけどね。


 ……章坊ちゃん、嬉しいですけどね、そろそろリツカちゃんのお話、聞いてやって下さいな。大丈夫、そんな今日明日死ぬってこたぁねぇですって。

 大丈夫。
 大丈夫。

 この拳骨、そう簡単にゃくたばりませんって。


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