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番外編

【番外編】安元さんとの過去話

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一昔前の話。安元さんはまだ副主任で、裕也に惚れかけてるくらいの時点。ストーカーになる前。





社会人になって三ヶ月が経った。仕事を覚えるためにがむしゃらに頑張った日々を風のように駆け抜けて、少し精神的な余裕が出てきた頃のこと。
俺はすごく困っていることがあった。

「鍵田くん」

背後から呼んでくる声が誰のものかを察して、ため息をつきたくなった。機嫌を損ねると面倒な相手が目の前にいるため、それを堪える。声の方に振り返ると案の定、デスク前に座った主任が俺を手招きしていた。

「どうしましたか」
「少しくらい時間はあるだろう?ちょっと話をしようよ」
「いえ、今はちょっと」
「書類の作成かい?まだなにかわからないことがあるのか?それとも、今やらないといけないような急ぎの仕事?」

この俺を放って仕事に行くのかとでも言いたげな表情に、なんとも言えない気持ちになる。

「そういうわけではありませんが」
「じゃあちょっとくらい付き合ってくれてもいいじゃないか。あんまり詰めすぎるのも良くないよ?若い子はすーぐバテるんだから。ああそうだ、聞いてくれよ。今朝、うちの女房もさぁ……」
「…………はあ。そうなんですね」

奥さんの文句を言い出した主任に、小さく相槌を打つ。ああ、今回も逃げられなかった。

この三ヶ月の間、少しだけ世話になったことのある人だ。教育係は別の人だったから、頻繁に顔を合わせていたわけではない。だというのに、この主任はなぜか俺を見かけては呼び止める。そして、長話が始まるのだ。

厄介なのが、他の社員の目が少ないときを狙って俺に絡んでくることだ。暇つぶしなのかなんなのか知らないが、こっちは仕事中なのだ。休憩時間に話しかけてくるならまだしも……いや、それでもちょっと嫌だけど。

というのも、俺はこの主任をなるべく避けたいと思っているのだ。この主任の性格が父親と似ていて、すごく苦手意識があるのである。なるべく関わりたくないし、大ごとにもしたくない。だが俺は未だに、穏便にこの問題を解決する方法がわからない。

こちらから話を切り上げて立ち去ろうとすると、あからさまに不機嫌になる。その時の雰囲気があの父親そっくりで、嫌なことを思い出させた。だから、主任の機嫌をなるべく損ねたくなくて、彼の前では小さくなってじっと我慢することが増えた。

口が上手い人ならば、こういう場面でもうまく切り抜けられるんだろう。こういうとき、自分の口下手さが心底嫌になる。こういう時って、相手の機嫌を損ねないように話を切り上げるにはどうしたらいいんだろう。

最近の趣味の話とか、奥さんと行った観光地の話だとかいう個人的な話から、どこそこの国は信用できないとか政治批判にまで及ぶ話を一方的に聞かせられるだけだ。求められる返事は、さしすせその褒め言葉のみ。ああもうめんどくさ……いや、めんどくさいとか言ったらダメだ。仮にも上司だし。

父親と違って暴力を振るわれるおそれはないが、こんな調子が続いているから、うんざりしてきている。「鍵田くん、腰細いね~」とか言われてべたべた触られるのも慣れたもんだ。はっはっは。

よくわからんが、主任は俺の身体をよく触ってくる。若い子の肌を触るのが好きなのだろうか。最初はそれなりに戸惑っていたのだが、最近はもう減るもんでもないしいい感じってなってきている。姉御にこんなところ見られたら、そんなところで男気見せんじゃねえとキレられそうだ。
だって、拒否ると不機嫌になるんだもんなぁ……。

「あれ、鍵田くん、ネクタイ曲がってるよ」
「えっ?」

ふと、主任に胸元を指さされて、間抜けな声が出る。そこまで目立つ傾きじゃないが、よく見れば確かに曲がっていた。きちんと締めたつもりだったのだが。

「だめだなぁ~。身だしなみチェックは社会人の基本だろ?ほうら、直してあげるからこっちに来なさい」
「い、いえ、自分でやれます。主任にお手数おかけするわけには」

首元に手が伸びてきて、反射的に後退る。他人に首元を触られたことはほぼないから、急に触られそうになったことへの驚きと、不快感があった。

俺が拒否をしたのを見た主任は眉を釣り上げ、怒りの表情を顔に表した。ムキになったのか、強引にも無理やり俺の手首を掴んでくる。

混乱のあまり身体が固まって完全に動けなくなったところで、俺と主任の間に誰かが割り込んできた。肩を掴まれ後ろに体を引かれて、すぐに主任の手が離され、俺を庇うように立つ誰かの背中しか見えなくなる。恐怖の対象が視界から消えたことで、はっと我に返った。

先程掴まれた方の手をもう片方の手で擦りながら、急に現れた第三者を見上げる。誰だろう、と考えたところで、聞き覚えのある声が聞こえた。

「おいおい、うちのかわいい後輩にちょっかい出さないでくださいよ」
「安元さん……!」

俺の教育係の安元さんだ。性格は俺と対照的で彼の行動に戸惑うこともあるが、親身になって相談に乗ってくれる。そのため社員の間で厚い信頼を向けられている人だ。まあ、陽キャのノリにはなかなか慣れないのだけど、この数ヶ月の間でも彼が十分に信頼に足る人であるというのは理解している。

ともかく、安元さんが味方になってくれているらしい。こんなに頼もしいことはない。ここは遠慮なく世話になろう。俺より体格のいい背中に隠れながら、二人の様子をうかがった。

「また奥さんと揉めたんですか。こんなところで愚痴ってないで、奥さんとちゃんと話し合ってきてくださいよ。ネクタイ直してた?主任がそんなことしてきたら、若い子は萎縮するでしょーが。こういうのは、先輩の俺がすることなんで」

安元さんは慣れたように、主任を飄々とあしらいながら、明るい声色のまま言葉を交わす。機嫌を悪くした主任が不満を言うが、そのことに顔色一つ変えずサラリとかわす。その姿は流石というべきか、たまに役職持ちの人と話すときに「安元は出世するだろう」という話を聞いていたから、ああ、仕事の出来以外のこういうところでも評価されているんだろうなという、そんな感心を抱いていた。

「これからこいつと仕事あるんで、このまま俺が貰っていきます。ほら、行くぞー」

気が付けば話がついていたようで、安本さんに腕をとられる。そこでようやく、自分が彼のジャケットの裾を無意識につかんでいたことに気づいた。

安本さんもそのことに気づいたようで、俺の手を見て目を丸くした。が、それも一瞬のことで、彼はいつもの表情に戻ると主任の引き留める声を適当にいなし、俺を連れてその場を後にした。









「びっくりした……お前、主任にあんなことされてたのか」

廊下の角を曲がったところで安本さんは俺に向き直ると、開口一番にそう言った。その表情は非常に複雑そうだ。先ほどの明るい声色はなりを潜め、真面目なトーンだ。こんな安本さんは初めて見る。

「す、すみません。あの、助けてくださりありがとうございました」
「いいんだけどよ……。いっつもああいうのされてるのか?」
「そうですね。俺を見かけては呼び止めて、仕事と関係ない話をされて……こんな地味な男と話したって、何も楽しくないでしょうね」
「いや、それもそうだけど、俺が言っているのはそっちじゃなくて。……いや、まあいいか。いくらでも調べる方法はあることだしな」
「はぁ……?」
「なんでもねぇ。ほら、今のうちにネクタイ直しとけ」

安本さんが自分の首元を指さした。ああ、そうだった。いろいろあって忘れていたが、ネクタイが曲がっているとかどうとかを主任に言われたんだった。

急いでネクタイを解くが、先ほど起きたことばかり考えてしまって指先に集中できない。

「あー、もう。ほら貸せ」

もたもたやってると、焦れたように安本さんが俺の手からネクタイを抜き取った。何から何まで、迷惑をかけっぱなしだ。これ以上時間をとるわけにもいかず、大人しくネクタイを締めて貰ったほうがいいと判断した俺は、申し訳なさで縮こまりながら胸元を差し出し、その場に静止した。

安本さんの腕がこちらに伸びてくる。そして、俺に触れる寸前のところで、手が止まった。

「……?」

不思議に思って彼の顔を見上げる。が、どうしてなのか、目が合わない。あっちこっちを見て俺の顔を見て、言葉を詰まらせている。様子のおかしい彼に首を傾げると、小さいうめき声が聞こえた。た、体調悪いのかな。

なんだか妙な空気になってしまって、すごく気まずい。いや、こんな空気にしたのは紛れもなく安本さんなんだけど。廊下の片隅で流れるよくわからない雰囲気に、目を回してしまいそうだ。

意を決したように、安本さんが口を開く。

「……触ってもいいか」
「は、はい」

俺がうなづくと、安本さんがようやくネクタイをつけ始めた。

どうしてそんなに躊躇ったのかと思ったら、セクハラを気にしてのことだったらしい。今の時代、ハラスメントは大問題になるし、彼が慎重になったのも納得だ。……いやでも、普段はそんなこと気にした様子もなく、肩とか組んできたりしてたような……。

大人しくネクタイに巻かれながら、やけに動揺した様子の安本さんの顔を見ていると彼の顔がほんのり赤らんでいることに気づいた。そのことを指摘する前に、ネクタイを締め終わった様子の安本さんに背中を叩かれる。

「っわ、」
「おら、もう行くぞー。終業時間はまだまだ先だ」

廊下を歩き始めた彼の後ろをついていく形で、慌てて歩き出す。時間をロスしたのは、安本さんも同じだ。速足で進む彼の背中を見ていると、ふと前方から、こんな声が聞こえてきた。

「……次は、主任相手でも、ちゃんと嫌なことはちゃんと嫌だって言えよ」










今後も社内では裕也をさりげなく助ける安本の姿が見られて、その様子をお腐りになられた社員に生暖かい目で見守られていたとか無かったとか。
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