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本編

30 ただ会いに来ただけ②

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ここどこだろう。

適当なところで電車から降りて、半ば放心状態で歩き回っていたら、自分がどこにいるかわからなくなってしまった。歩き慣れていない街で無闇に動き回ったのが間違いだったらしい。太陽は既に沈み、辺りは暗くなっている。

あー……もう今日は野宿でもいいか。

ふらふらしながら歩いていると、波の音が遠くから聞こえてきた。音のする方に行けば、白い砂浜と海が見えてくる。

そういえば、クラゲさんに黙ってここに来ちゃった。今どうしているんだろう。心配してるかな。無断外泊したらめちゃくちゃお仕置きされたことあるから、今回もすごく怒ってるかも。寂しかったのかな。

俺も今、すごく心細いよ。

砂浜に腰を下ろして、海を眺める。頭がずきずき痛むから、手で痛む場所を押さえた。擦ってもあまり痛みは軽減しない。この痛みはさっき殴られたからだろうか。それとも。

「気持ち悪……」

父親の顔を思い出して、気分が悪くなる。もう二度と関わりたくない面だったのに。あーあ、最悪。結局離婚してもこうなるんだな。

……もっと早く離婚してくれていたら、こんなことにはならなかったかもしれないのに。いや、寧ろ、子供なんて作らなかったら良かったのに。だったら二人も離婚しやすかっただろうし、俺もこんな思いをしなくて済んだ。

最悪だ。最悪な気分だ。こんなことになるくらいなら、生まれてこなかったほうが良かった。

下ろしていた腰を上げて、波打ち際まで歩いてみる。靴が砂で汚れていた。職場にも履いていく靴だから、後で洗わないと。

海水に手のひらで触れると、冷たかった。夜の海水は氷のように冷たい。先程この手のひらであいつの頬を叩いたことを思い出した。あの時は人を叩いてしまったことに動揺したが、今はあいつに触れた掌が気持ち悪くて仕方ない。

……どうして俺のところに来たんだろう。

向こうがその気になったら、住所なんていつでも調べられるのはわかり切っていた。「助けてほしい」とか言っていたから、きっと金銭関係の用事だろう。

高校の友達は、あいつから連絡が来たと言っていた。あの人は俺の連絡先を調べているらしい。本気で俺のことを探しているんだ。何か良からぬ用事があるに違いない。関わりたくない。だけどそれ以上に、周りの人に父親のことで迷惑をかけたくない。

ため息を吐こうとした時、鞄の中のスマホが鳴り出した。スマホの画面には、非通知の着信が見える。嫌な感じがする。俺はすぐにスマホの電源を落とすと、鞄にしまった。そのまま鞄ごと海に沈めてやろうかな。

少し海が深い場所まで歩いて、水に手を潜らせる。手のひらを擦っても、あいつの感触が手のに残ってる感じがした。

深い海の色を見て、危険な考えが頭に浮かんだ。ぐらりと頭が重くなる。これは流石にまずいとわかっているが、その深い色に目を奪われた。

海の水を両手で掬って呆けていたその時、背後から水の波に襲われる。

「~~~!?」

完全に不意を突かれて、目を丸くする。驚いてる場合ではない。あっという間に水に飲み込まれて、夜の海が視界から消えた。ごぽごぽと水の泡が見える。こんなに煩い水の音を今まで聞いたことがない。海の闇が身体を包み込んで、息が苦しい。足がひっくり返って自分が今どんな体勢をしてるのかもわからない。必死に地面に伸ばそうとした腕は波にさらわれた。やがてどこに地面があるのかもわからなくなる。

し、死ぬ

水を飲んでしまって苦しいのに、水を吐き出すこともできない。ふと目の前に黄色い満月が見えて、反射的にそれに手を伸ばした。

いやだ、死にたくない。さっきは自ら危ないことを考えていたくせに、いざ死が目の前に迫ると生きることしか考えられなかった。

『死にたくないよ』

声の出ない口で呟く。

もう駄目なのか。逃げることしかできない俺への、天からの懲罰なのか。満月に伸ばした手から力を抜きかけたその時、水が音を立てて引いていく。

生きる望みにかけて藻掻き続けていると、ようやく水から抜け出せた。白い砂浜の上に座ったまま咳き込む。

いや、どちらかというと、波のほうが引いてくれたというのが正しいようだ。そのことに気づいたのは、水を飲んで咳き込む俺に近づいてくる彼の顔を見た時だった。

「ゲホ、ゲホッ……くらげ、さ……」
「ユーヤ」

俺の方に丸く伸びている海の水に、見慣れた金色の双眼がついている。軽車両くらいの大きさに膨らんでるクラゲさんの声は、いつもより鋭い。

今までにないくらい、クラゲさんが怒っている。海で溺れている俺を助けてくれた、ということではないのはすぐに理解した。先程の波は明らかに動きが普通じゃなかった。まるで波が意思を持っているように俺を飲み込み、水底に鎮めようとしていた。あれは、クラゲさんの意思だ。

息を整えると、俺はクラゲさんに穏やかに笑いかける。たぶん、そんなに上手な笑顔はできていない。

「ご、ごめん。死のうとしたわけじゃないんだ。ただ、きれいだと思って」

ぎらぎらと金色が光っている。言い訳で逃れられないくらい彼が怒っているのを察して、俺は肩を落とした。

「……できることなら、海に逃げたいって思っちゃって。ごめん。本気で死にたいって思ったわけじゃないんだけど……少しもその考えがなかったのかと言われたら、嘘になる」

俺が白状しても、クラゲさんは目を光らせたままだ。夜の海に光る金色の目は、はたから見れば火の玉に見えるかもしれない。

「クラゲさんにそんなことをさせたいわけじゃなかったんだ。あと、無断で野宿しようとしてごめん。心配させたよね」
「ナニガアッタ」

クラゲさんの声に、びくりと体が震える。滅多に喋らないクラゲさんが、俺を探るために言葉をかけている。

強い語気に押されるがまま、口を開いた。

「父さんが俺に会いに来て……やり直したいとか、今困ってるから助けてくれとか言ってて。追い返そうとしたけど、うまくいかなくて、家を知られたくなくて、逃げてきちゃって」

ついさっきあった事がそのまま口から出てくる。幼児のように覚束ない言葉で、うまくまとめられない内容が、ビー玉のようにころころ転がり落ちていく。笑顔を取り繕うことは、もうできなくなっていた。

海水が顔を伝って顎から下に落ちている。びしょびしょに濡れた髪が冷たい。少し肌寒くなってきたな。

透明な触手が、片方の頬を触ってきた。そこでようやく、頬の痛みを思い出す。

「ああ……これは、さっき殴られちゃった痕だよ。痣になっちゃったのかなぁ。避けきれなくてさ。情けないよね、男なのに」

はは、という自笑が夜に響く。波の音が遠くから聞こえてくる。夜空に浮かぶ三日月は、静かに俺とクラゲさんを見守ってくれた。

「あ、明日になったらちゃんと警察に相談するし、母さんにも連絡するし」

嘘だ。本当は誰にも関わらせたくない。誰にも関わってほしくない。

きっと、暫くしたらあいつも諦めてくれる。きっとそうに決まってる。

胸の前で手を握りしめ、俯いた。暖かい手が首に回って声が漏れる。

『人に頼ることしかできない』というあいつの言葉が、ずっとあとを引きずっている。あいつには言われたくないのに。二度とあんなこと言われたくないのに、

口を開けて硬直してる俺を抱きしめる温かい手が、俺を何者からも守ってくれそうで───思わず縋りたくなる。

「……ああ……っ」

胸が苦しい。目が熱くなって、手でまぶたを抑えた。温かいものが頬を伝う。海水とは違う温度の水が流れて、顎から落ちていく。

強い酒を飲んだあとのように、ぐにゃりと視界が歪む。喉から込み上げてくるものがうまく言葉にできなくて、耐えやまず出てくる嗚咽に殺された。ようやく絞り出した声は、酷くかすれてしまった。

「た、たすけて……!」

半ば叫び声のようなそれが海の波まで響いていく。

俺から溢れ出るその言葉に、ようやくクラゲさんの目の光は淡いものに戻ってくれた。
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