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平穏を愛した悪鬼

後編:平穏を守る戦いの果てに

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 刹那。

 鬼は異変を感じた。

 何かが、ここに向かってくる。

 それは今まで感じたことのない気配だった。
 人間や動物ではありえない速度で近づいてくるそれは……

 轟音と共に、鬼の前に現れた。

「同種が力を使う気配を感じて来てみれば、やっぱり鬼がいるじゃねぇかぁ!
 珍しい、珍しい! 見に来て良かったぜぇ!」

 現れたそれは、異形だった。
 鬼に似た体型だが、全体的にほっそりとした印象を受ける。
 深い緑の肌。体毛は薄く、かわりに獣の皮を身にまとっているようだ。
 そして……頭には山羊のような角が二本、現れたそれもまた鬼であることを示していた。
 鬼から見て若く見えるその緑鬼は、軽い調子で鬼に声をかける。

「なぁおっさん、おっさんはこの山に住んでるのか?
 近くに人間の村があるじゃねぇか! なんで喰っちまわねぇ? あんまりご馳走だから、大事にとってあるのかい?」

 それは紛れもなく、鬼同士でだけ通じる言葉。
 人間が聞いたところで、よほど特殊な者でなければ吠え声にしか聞こえないだろう。
 初めて見る同種にどう接したものか戸惑いながら、鬼は言葉を返す。

――村を襲ったところで、食べきれないからな。時折山で遭った者を食べるだけで十分だ。

 その言葉を、緑鬼は笑う。嘲笑するかのように。

「そんなもん、残せばいいじゃねぇか! オレなんていくつも村を襲ってるが、はらわたしか喰ってねぇぜ!」

――もったいないな。他の肉はどうするんだ。

「どうも他の部分は、オレの口に合わなくてなぁ。やっぱどうせ喰うなら、美味いものが喰いてぇじゃねぇか。
 残った肉は捨ててるよ。どうせ食べきれねぇし、不味いものなんか喰いたくもねぇ!」

 あぁ、どうもこいつとは仲良くなれなそうだな、と鬼は思う。
 なんなら近くで木に挟まれている人間の男の方が、よほど仲良く出来そうだ。
 もっともお互いの都合上、決して仲良くする事の出来ない間柄ではあるのだが。

「ところでおっさん、この山、良いところだな!」
――まぁ、な。俺もこの山は好きだ。

 自分の気に入っている住処である山を褒められるのは、少し嬉しい。
 しかし鬼は緑鬼の言葉と態度に、どこか不穏なものを感じる。
 そしてその予感は、的中した。

「この山、オレにくれよ!」
――何を言っている?
「頭わりぃなぁ。オレがこの山に住みたいから、おっさんは出てってくれって言ってんの!
 餌場になる人間の住処はけっこう遠くまで続いてそうだし、食い物には困らねぇ。景色も立地も、めちゃくちゃオレの好みだ。
 なぁ、いいだろぉ?」

 鬼には緑鬼の言っていることが、言葉としては理解できても、行動として理解できなかった。
 同種がいる気配を感じたというだけで、短絡的な好奇心で見に来た他所者のくせに。
 この山が気に入ったからと、相手の都合も考えずに自分が貰おうと言うその神経が。
 いや、それ以前に緑鬼の語る価値観の何もかもが……
 鬼には理解、出来なかった。

――それは、出来ない相談だな。俺もこの山は気に入っている。供に住むというなら追い出しはしないが、俺のやり方に従ってもらおう。

 鬼の言葉に、緑鬼は笑みを浮かべた。

「そうかい、わかったよ!」

 快諾したと、思わせる言葉。
 しかしそこに浮かんだのは、凶暴な笑み。

「オレにこの山を渡す気が無いなら、死んでくれよ、おっさん!」

 言いながら緑鬼は地を蹴り、鬼に向かって突進する。

――どこまで短絡的なんだ……!

 迎え撃とうと鬼が構えた瞬間、猛烈な強風が鬼に向かって吹き荒れた。
 おそらく緑鬼が、念力で起こした風だろう。その風圧は鬼の体勢をわずかに崩し、緑鬼の体が風に乗って加速したため、迎撃のタイミングを狂わせる。
 回避に専念しようとした鬼の肩口を、緑鬼の爪が抉った。
 追撃しようとした緑鬼の体を、稲妻が貫く。鬼の念力によるものだ。動きを止めた緑鬼の頬を、鬼の爪が切り裂いた。
 さらに攻撃しようとした鬼の体に、緑鬼が雷が落とす。
 雷の威力は鬼にとって当身程度のものだったが、隙が出来た瞬間に緑鬼の爪が脇腹へと突き刺さった。

「やるじゃねぇか、おっさん。一撃で殺すつもりだったのによぉ!」
――舐めるなよ、小僧。

 怒りをあらわにした鬼の振るった爪を緑鬼が躱し、距離を取る。
 それから始まったのは、壮絶な殺し合いだった。


 * * * *


 初めて見せる、鬼の本気。
 その力は凄まじいものだった。
 鬼の住む山を中心に嵐が吹き荒れ、夥しい数の雷鳴が轟く。
 不自然な力で起こされたそれは、まさに天変地異だった。
 近隣の人間達は、自分達が退治しようとした鬼の祟りなのではないかと恐れ慄き、家にこもって祈りを捧げる者も居た。
 しかしその嵐や雷は山に居る二体の鬼に向けられていたため、人間達に直接の被害が出ることはなかった。
 ただ一人、山で木に挟まれたまま一部始終を見ることになった男だけが独りごちる。

「すげぇな、こりゃあ俺みたいな小物じゃどうしようもねぇ案件だわ……
 先生くらいの人間を何人か集めて討伐隊を組まなきゃ、どうにも出来ねぇな……」

 吹き荒れる嵐の中、激しく争う二匹の鬼。獣じみたその姿を、幾度も稲光が照らす。
 戦いを制したのは、元々山に住んでいた鬼だった。
 緑鬼を地面に組み敷いて、腕の動きを両腕で封じる。
 緑鬼は鬼を跳ね飛ばそうとするが、鬼は全身の膂力と念力を使って圧力をかけ、逃げることを許さない。
 緑鬼の腕に鬼の爪が深く突き刺さり、傷口から黒煙のようなものが滲み出て宙に溶けていった。
 さすがに身の危険を感じたのだろう。緑鬼は首を横に振り、降参の意志を示す。

「参った! オレの負けだ! 出ていくから、この山の周りには、手を出さないから!
 約束するから、だから……許してくれぇっ!」

 けれども鬼は、緑鬼を地面に押さえたまま離さなかった。
 鬼もまた満身創痍だ。緑鬼の言葉を聞き入れる余裕などなかった。
 手を離した瞬間、どのような手段で反撃してくるかわからない。
 仮に今は立ち去ったとしても、次に攻めてこられた時に勝てる保証はどこにもない。
 緑鬼の存在は、鬼にとって自分の平穏を脅かす危険なものでしかなかった。
 そしてその脅威を無くすためには……

 この場で止めを、刺すしかない。

 鬼は緑鬼の首に、容赦なく牙を突き立てた。

「……っ!! …がぁ……っ!!」

 緑鬼の首から、大量の黒い煙のようなものが放出される。
 噛みついた鬼の体に、抵抗を試みる緑鬼によっていくつもの雷が落とされた。
 その攻撃に、ほら見たことか、まだ抗戦の意志があるのだと思いながら、鬼は緑鬼の首により深く牙を突き立てる。
 鬼の脳裏に、自分を悪鬼と呼んだ剣士の言葉が浮かんだ。
 なるほど、同族殺しに手を染める自分は、確かに“悪鬼”なのだろうと思いながら……
 鬼は強く強く、緑鬼の首を噛み締めた。 

 どれくらいの間、そうして噛み締めていたのかはわからない。
 気がつくと緑鬼の体は、跡形も無く消えていた。
 おそらく黒煙となって自然の中に霧散し、溶けていったのだろう。
 空を見れば、念力で集めた雲も散り始め、夕焼け空が見え始めている。

――終わった、か。

 立ち上がった鬼は、しかし体に力が入らないことに気づき、気づくと同時に膝をついていた。
 何事かと体を見れば、あちこちの傷口から黒い煙のようなものが出ていて、空気の中に溶けている。
 体を再生しようと意識を集中するものの、上手く力が入らない。

――これは……もしや……
――俺も、死ぬのだろうか……?

 そう思う間にも、体からどんどん力が抜けていく。
 不思議と痛みは無かった。戦いに集中するうち、痛みさえ麻痺してしまったのかもしれない。
 好きだった空を見上げる。散り始めた雲は夕日に照らされ陰影をつくり、自然が作り出した芸術品として夕焼け空を彩っていた。
 夕焼け空の下には装飾品のような木々の影が見え、風にそよぐ葉の音がする。
 嵐が去ったのを見て、遠慮がちに鳴き始めた虫や蛙達。鳥の声も聞こえる。その声が美しい調べとなって、どこからともなく聞こえていた。
 鬼の愛した自然の安らぎが、死の間際も変わらず、そこにあった。

――もしもこの自然の中に、俺を形作っていた魂が溶けて帰っていくというのなら……
――それはそれで、悪くないのかもしれないな……

 そんなことを思いながら……
 鬼の体は黒煙となって、山の自然の中に溶けていった。


 * * * *


「鬼は、居なくなりましたよ。もう安心して構いません」

 白装束を血に染め、片足を引きずった男が村長に報告したのは、翌日の朝日が昇ってからだった。
 身体を挟んだ木から抜け出し、這うようにして山を下りる頃には、夜が明けていた。
 早朝から農作業をしていた村民に出逢えたのは幸運だった。そうでなければ男は道の途中で倒れこみ、力尽きていたかもしれない。

「本当に、ありがとうございました! そんなになってまで私達のために戦って頂いて、なんとお礼を申し上げて良いかわかりません。本当に、なんと申し上げて良いのか……」
「あぁ、いいんですよ。何と言ったらよいか、鬼も別に、俺が退治したわけではないんでね」
「それは、どういうことですか?」
「本当に、なんと言っていいのかわからないんですがねぇ……」

 二匹目の緑鬼の襲来をこの村長に告げたところで、不安を煽るだけだろう。
 とはいえ嘘をついて鬼討伐を自分の手柄に出来るほど、男は器用な性格ではなかった。
 だからと言って報酬を辞退するほど、お人よしでもないのだが。

「まぁとにかく鬼はもう出ないので、安心してください。報酬は予定通り、ということで」

 そもそも男との戦いで鬼が力を解放したことで緑鬼が来ることになったのだから、責任も功績もあると言えた。
 報酬の額は、山を開拓出来る価値と比べれば微々たるものだったが、男にとっては大金といえるもの。
 しかし男の胸中には、わずかに報酬では割り切れない気持ちがあった。

「もし良ければで、構わないんですがねぇ」
「はい、なんでしょう? 何なりとお申しつけください!」
「あの鬼のために、祠を立てて祀ってやってくれませんか?」
「祠、ですか? あの、悪鬼のために……?」
「まぁ、確かに人を喰らう悪鬼であったことに変わりはないんですがねぇ」

 元居た鬼が戦わなければ、緑鬼は近隣の村人を殺戮し、そのはらわたを喰らっていたことだろう。
 のみならず、自分もあの場で殺されていたかもしれない。
 緑鬼を呼び寄せたのはあの鬼の力だったかもしれないが、この先も人を喰い続けるはずだった緑鬼を葬ったのもまたあの鬼だ。
 命を、救われた。そんな感慨が、確かにあった。 

「もちろんこれまで喰われた人は無念だったろうし、あの鬼にとっては不本意かもしれませんが。
 結果的にあの鬼は、多くの人間を守ってくれた。そんな気もするんですよねぇ……」

 男の希望通り、山頂には鬼を祀る小さな祠が建てられた。
 祠に祀られた鬼はいつしかその土地の守り神とされ、多くの人が手を合わせることになる。

 祠の周りには、昔と変わらず木々が茂り、小鳥のさえずりが聞こえ、爽やかな風が吹き抜けていく。
 鬼の愛した自然が、鬼の溶けていった自然が……
 今も変わらず、そこにあった。


 END
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