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一章

13話 王子は我慢する

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エリオットを馬車で迎えにきたセバスは、自分の元へ歩いてくる主人の顔を見て、思わず目を逸らした。
目が完全に血走っていたのだ。

それでも、ごきげんようエリオット殿下、などと挨拶してくる令嬢達にはいつもの優しげな表情で、また明日、などと言っているから、これから行く場所よりも、本当に一回医者に見せた方が良い気さえしていた。

馬車に乗り込んだ主人の後に続いて、自身も乗り込む。声をかければ、すぐに馬車は出発した。外の世界と一旦シャットアウトされたエリオットは表情を失っていた。無表情なのに目が血走っている。セバスは久し振りに恐怖を感じて、胃がキリキリと痛むようだった。エリオットは、最小限の動きで口を動かす。

「セバス」

「…は、はい」

「今日は、空が青いな」

「殿下、その、今日は曇りです」

「そうか、道理で目の前が白いと思ったよ」

虚ろな目をしているエリオットは最早どこを見ているかもわからなかった。セバスには主人が最早白黒に見えかかっていた。

「セバス」

「な、なんでしょう…」

「スナイパーライフルが欲しい」

「リリス嬢を狙撃しないって約束が出来るなら考えます」

エリオットはそれっきり話さなかった。もし買い与えていたら、1人の少女の命はヘッドショットで無残に散っていただろうと思うと…目的地に早く着かないかなぁとセバスは考えるのをやめた。遠回りを指示したのは他ならぬ自分であるのだけど、とも思ったりしていた。


目的地に着き、セバスが先に降りる。
続いて降りたエリオットは、

「え?…ここは」

ここがニーベルン家である事を理解して、きょろきょろと周りを見渡し始めた。それを待っていたかのように玄関が開く。


「エリオット様!」

と中からアイリスが出てきた。
そんな中、セバスはしっかりとその目でみていた、玄関からアイリスが出てきたと視認することが可能な最速の反応速度で、エリオットの神経が多分笑顔の伝達をしたであろう事を。

事実さっきまで白黒に見えたエリオットは色鮮やかな絵画に大変身していた。匠もびっくりである。

そんな場面でもエリオットは抱きつくことが出来ない。アイリスの横にはしっかりミシェルが付き従っているからだ。
だが、そんな監視がいるとは言え、今のエリオットにしてみればお邪魔虫無しにアイリスと話せるだけで嬉しかった。

テラスに移動した2人に、ミシェルは茶菓子と紅茶を用意した。それを楽しみながら、談笑していたエリオットだったが、

「…エリオット様?どうなさいました?」

「ん?ああ、な、なんでもないんだ」

急激に仕掛けられた光景に、油断していたが為に大ダメージを食らうことになる。

アイリスの後ろでミシェルとセバスがサイレントでイチャつき始めたのだ。
といっても、ミシェルがベタベタとセバスに抱きついたり、手を握ったり、胸元に頭をグリグリさせているだけで、セバスは動揺して顔を赤くしているだけなのだが。

忘れた頃に同じ手口を使ってくるミシェルにエリオットは昔のトラウマが蘇るようであった。勿論、アイリスにバレないように後ろを睨みつけていたが。

セバスは嬉しいやら恥ずかしいやら殺意を向けられて怖いやら、胃が痛いやら、妻と主の間で板挟みにされていた。そして、スナイパーライフルを買い与えたら、リリス嬢の次に狙撃されるのは自分だと、足を震わせた。

手足の自由がきいていて、閉じ込められているわけでもなくて、更に身分的にも自分が上であるのに、エリオットが絶対に従うしかないこの状況を作り出したミシェルはリリスとは物が違った。

時刻は現在18時を少し過ぎて、周りも暗くなってきた頃。アイリスが席を立ち、テラスから一度出ていったとき、ミシェルがエリオットに話しかけた。

「殿下。本日はニーベルン家に泊まっていただきます」

「…何だって?」

「殿下、今日、この家、泊まります」

「いや耳が遠いわけじゃないから」

普段のエリオットにしたら願っても無いことだが、今回は別だ。ミシェルの監視下に夜も置かれる事になる。

「殿下、我慢が本当に試されるのは、離れた時ではありません。近づいた時です。
貴族の間で流行っているダイエットも同じ理屈なのですよ、近くに食べ物がない、遠い時は誰でも我慢できます。それが近くなった時、目の前に大好物を出された時、我慢できるかが勝負なのです。簡単に言えば、人参を鼻先にぶら下げられた殿下が、手を出さなければいいのです。文字通り手を出さなければ」

「馬を殿下って言い換えるのやめろ。俺が泊まるなんてガルディオス卿が黙ってないだろう?」

「ご安心ください、今閣下の仕事場では「仕事をしないお父様大っ嫌い」の音声がループで流れていますから。レコードの予備も何枚かありますので、帰ってこれないでしょう」


エリオットは湯浴みを終えた後、寝室に案内された。入ったときにベッドが二つある事を疑問に思ったが、その1時間後、同じく湯浴みを終えたアイリスが入ってきた事で全てを悟った。

あの女、目の前に人参をぶら下げやがったと。

「何だか、小さな頃に戻ったような気がしますね」

とアイリスが隣のベッドに腰掛けながらエリオットに話しかけた。
彼女の言う通り、幼い頃はよく一緒に添い寝していたが、16歳になったアイリスにエリオットは平常心で添い寝するなどもう不可能だった。

「ああ、まさか今日こうなるとは、思っていなかったけれどね」

「何もいたしませんからね?」

「善処するよ」

アイリスは顔を赤くしてベッドに潜り込んでしまった。

「冗談だよ。ほら、アイリス拗ねな…寝てる」

エリオットは異常なまでのアイリスの寝付きの良さを忘れていた。それも、彼女は一度寝ると容易には起きないのだ。
寝つきが良く、しかも朝まで寝ている。
エリオットは多少寂しい気もしていた。

だが、久しぶりに見たアイリスの寝顔は可愛らしさと美しさが混ざり合って、エリオットは微笑みながらそれを眺めていた。彼は自身の心が洗われていくようだと、暫しアイリスの寝顔を見つめた。

(おやすみアイリスちゃん人形ありだな)

心が洗われているとは、勿論、彼個人の見解だが。

しかし、

「…んっ」

アイリスが突然発した寝言で、エリオットのスイッチは切り替わってしまった。

(なんだ今の、可愛すぎるだろ!待て待て待て待て、うーわこれはもう、ええ?ダメだろ、これダメだろ。んってなんだよんって!)

そんなエリオットの耳に、

「殿下、見てますからね?」

と、いきなりミシェルの声が聞こえてきた。
急いで辺りを見回すエリオット。
しかし、どこにもミシェルの姿がない。幻聴か?と、頭を軽く振った時、

「上です殿下、上」

と、またもや声が聞こえる。
上?とエリオットが顔を上げると、天井の空いたところからミシェルが顔を出していた。結構大きめの穴が空いている。

「お前それどうやったの?」

「くり抜きました、あとで直します」

「ああ、そう。で、何しにきた」

「殿下を止めに来ました」

「止めにって、息の根をか?」

ミシェルの手にはスナイパーライフルが装備されていた。そんなわけないじゃないですか、と彼女は笑った。


「ご安心ください殿下、麻酔銃です」

「なぁ、俺は熊か?」

「ご冗談を、オオカミか馬でしょう」

エリオットは諦めた。


アイリスが目を覚ました時、エリオットはすでに起きていた。すでに起きていたと言うより、一睡もできなかったと言う方が正しいか。

「エリオット様、おはようございます」

「…あ、ああ、おはようアイリス」

目の下にはものすごいクマが出来ている。
その様子に大丈夫ですか?とアイリスが近寄った。エリオットはあ、幸せ、思いながらも必死に止める。

「ま、待ってくれアイリス。麻酔銃が、それ以上近づいたら麻酔銃が!」

アイリスは麻酔銃?と、反芻しながらも、

「ああ、ミシェルですね…。
でも、大丈夫です」

と、エリオットに手を伸ばした。
え?と、エリオットが疑問に思ったのもつかの間、

「大丈夫なんです!
わ、私から殿下に触れば問題ないんです!」

顔を真っ赤にしながら、アイリスはエリオットを抱きしめた。突然のことにエリオットはコンクリートのように固まる。

その後、少し緊張に震えながら、アイリスはエリオットの頰に軽く口づけをした。

「…いつもの仕返しですわ!」

と、足早に部屋を出て行った。
エリオットは身体が熱くなっていくのを感じ、そのまま意識を手放した。


部屋を出てきた主人に、ミシェルは、

「おはようございます。成功ですね」

と一礼した。
その姿を見たアイリスは、お早うと返した上で、

「あ、ありがとう。でも麻酔銃はやりすぎよ?」

と、まだまだ耳まで真っ赤な顔で諭した。
すみませんと謝りながらも、ミシェルは主人の可愛らしさに口元が緩んでいた。
やられっぱなしは悔しいから、自分も相手を照れさせたいなんて頼んできたときはついアイリスを抱きしめてしまった。

殿下は幸せ者ですよ?と、部屋の中で気絶しているエリオットに対して心で呟いた。

エリオットの禁欲生活は、終わりを迎えたのであった。







「では、教科書の40ページ。シーマナの実の説明文を、エリオット殿下、読んでくださいますか?」

(なぁおい嘘だろ)


訂正、まだ続いていた。
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