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11. 腐女子、お祭りを満喫する

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 翌朝、俺はとても安らかな気持ちで目を覚ました。温かい……。俺は目の前の温もりに再び顔を埋めようとして、ハッと我に返った。
 ラ……ラチカ????? どうしてここに……俺のベッドで一緒に寝てるんだ????? ……というか……俺の手がめっちゃラチカの服を握り締めてますやん……完全に俺のせいですやん……。
 状況証拠を少しでも軽減すべく、ラチカの服からそろ~っと手を離し、できるだけ静かに寝返りを打つと、俺は起き抜けのぼんやりした頭で石造りの天井を眺めた。
 ……そうだった。カノンはもうこの館にはいない。結局のところ、ひどいケンカ別れをしてしまった。数ヶ月後、カノンが帰ってきたとき、俺は今度こそちゃんと仲直りできるだろうか。
 横になったままぐるりと視線を巡らせ、俺は枕元に目をやった。ここに飾られてからたった一日しか経っていないのに、あの絵が見られないことがとても淋しい。自分のせいだとわかっているからこそ、例えトリーが綺麗に修復してくれたとしても、決して元には戻らない絵を見るたびに昨夜の出来事を思い出すだろう。それでもいつか、あのケンカすら懐かしいと笑って言えるようになりたい。過去の出来事を変えることはできなくても、未来次第でその記憶の印象はいくらでも変えることができるのだから。
 俺はもそもそと腹這いになり、今はない絵の隣に置いてあるお手製のカレンダーに目をやった。村にいるとき、石板に枠と週と日の名前を染料で描いただけの簡単なものだ。月の名前はすぐに消せる白い石で毎月書き換えればいいようになっている。今日は照の月に入って二日目、炎の週の闇の日だ。いつも寝る前に今日の日付のところに白い石で×印をつけていたが、昨日はそんな暇もなく寝てしまったのでカレンダーには月の名前しか書かれていない。
 隣のラチカを起こさないようできるだけそうっと身を起こすと、俺は照の月の一日目、炎の週の炎の日のところに白い石で×印を書き込んだ。
「……シルヴァ。起きたのか」
「ラチカ。すみません、起こしてしまいましたね。まだ朝の鐘は鳴ってないから寝てても大丈夫ですよ」
 この館、正確には導きの塔の最上階には巨大な鐘が設置されており、日の出とともに鳴らされることになっている。館や宮殿だけでなく、街の人たちもこの音を合図に活動する、光の都の一日の始まりを告げる朝の鐘だ。窓から差し込む光が少し白んでいても、館の中がこれほど静まり返っているということは、まだ鐘が鳴っていないのだ。
 ラチカは眠そうな目でゆっくりと瞬きを一つすると、俺に向かって小さく手招きをした。
「……ちょっと、来い」
「何ですか?」
 カレンダーの横に白い石を置き、ラチカのほうに身を屈めると、不意にぐいと引き寄せられた。そのままラチカの胸に抱きこまれる。
「ちょっ……ラチカ?」
 文句を言おうとその顔を覗き込んだら、この一瞬の間にラチカは再び眠り込んでいた。どうやら寝ぼけていたらしい。だがまあ、まだ時間はある。この時間は光の季節でも、繋ぎ手の島特有の夜の寒さがまだ少し残っているので、人肌の温もりは眠気を誘う。結局、俺たちは朝の鐘を聞き逃し、蛇の中刻の鐘でようやく目を覚ました。
 慌てて飛び起き、朝の支度をしようとした俺に、ラチカは欠伸をしながら言った。
「大丈夫……。俺とお前は今日、午前中の授業を免除されている。セレストから話があるらしい。絹の下刻にセレストの部屋に行くよう言われている」
「そういうことは先に言ってくださいよ!」
「言う暇なかっただろ」
 どうやらラチカは朝が弱いらしく、起きてからもしばらくベッドに腰掛けたまま動かず、ようやく立ち上がったかと思うとふらふらした足取りで自分の部屋に戻っていった。食堂で合流してもほとんど会話をせず、食べる量も極端に少ない。セレストの部屋に向かう頃になって、やっと会話が成り立つまでに回復した。
「ラチカ、いつもそんな感じなんですか?」
「そんな感じって何だ?」
「朝の屍状態ですよ。俺も朝は弱いほうですけど、ラチカはそれ以上っていうか。昨日は一瞬しか見てませんが、ここまでじゃなかった気がするんですよね。もしかして具合でも悪いんですか?」
 ラチカはちらりと俺を見やったあと、嘆息して言った。
「……確かに朝は弱いが、いつもはここまでじゃない。今日は起きてからずっと世界が揺らいでるっていうか、体がだるいっていうか……。今は大分治ったけどな」
「すみません。やっぱり昨日はよく眠れませんでしたよね。二人で寝るにはベッドが狭かったですし」
「いや。夜はむしろいつもよりよく眠れたっていうか……」
「そうなんですか?」
 何の気なしに聞き返しただけだったのに、ラチカは頬を淡く染めると、少しムキになったように言った。
「お前の体温が、多分、ちょっと、寝入るのにちょうどよかったってだけだ! 多分!」
 ラチカの慌てぶりに目をぱちくりしつつも、俺は従順に頷いてみせた。
「ああ……まあ、そうですね。俺もラチカのおかげでよく眠れました。一人だったら、きっといろいろ考えてしまって、いつまでも眠れなかったと思います。だから昨日は一緒にいてくれて、本当にありがとうございました」
 素直に感謝を述べた俺を見ると、ラチカは何故か肩透かしを食らったような面持ちになり、それからチッと小さく舌打ちした。
「……ったく、お前は本当に察しがいいんだか、悪いんだか……」
「何がですか?」
 ラチカは鋭い目つきで俺を睨むと、低いドスの利いた声で唸った。
「うるせえな。お前は少し黙ってろ」
「ハイハイ。すみませんでした」
 ラチカのガラが悪いのは今に始まったことではないので、俺は適当に受け流していたが、当の本人は急に気になったらしく、おずおずと口を開いた。
「……お前は、その、俺が怖くないのか?」
「…………え?」
 耳を疑うあまり、俺は目を大きく見開くと、ラチカをまじまじと見つめた。
「いや、だから、本当に今更かもしれないが……」
「いやいやいや! むしろ俺がラチカを怖がる要素とか、今までどこかにありました?」
「あっただろ! たった今とか!」
「え……そうでした? すみません。気づきませんでした。今度から気をつけます」
「気をつけるな!」
「ええ~……」
 何か面倒臭いな……という目になった俺に、ラチカが喚く。
「今までだっていろいろあるだろ! っていうか、何もしてなくても、いるだけで怖がられたりとか、よくあるし……」
 だんだん声が小さくなり、最後にはうつむいてしまったラチカに、俺はあっけらかんと言い放った。
「まあ、周りには怖がられてますよね。昨日一日一緒にいれば、それくらいはわかります」
「……そうかよ」
「別に不思議なことでもありませんよね。目つきは悪いし、口は悪いし、ガラも悪いし……」
 凶悪な顔でチッと盛大に舌打ちしてみせたラチカを見ると、俺は思わず指をさして笑ってしまった。
「そう、それ! でも……」
「でも……何だよ?」
 俺はラチカの仏頂面を真っすぐ見上げると、微笑んだ。
「でも、ラチカは優しいですよね。昨日のたった一日で、俺は何度もラチカに助けてもらいました。だからラチカが俺に対してそんなことを気にするなんて、それこそ今更ですよ」
「……そうかよ」
 目を逸らしながら呟いたラチカの頬が淡く染まっているのを見て、俺は悪戯っぽく付け加えた。
「それに、同じベッドでめくるめく熱い秘密の一夜を共に過ごした仲じゃないですか。もはや俺たちは誰にも言えない特別な関係といっても過言では……」
「過言にも程がある!!! ……つーか、てめえ。俺をからかうとは本当にいい度胸だな」
 ドスの利いた声でじっとりと睨みつけてきたラチカを改めて真面目に観察し、そして心から納得すると、俺は笑って言った。
「ほら! やっぱり怖くない。でも、まあ、さすがに人は選ぶので、今のところそういう言動は仲間内だけにしといたほうがいいとは思います。むやみに人を怖がらせるのはよくないですし」
 ラチカは困惑した面持ちで首を傾げた。
「仲間内って……あいつらのことかよ? リアムと取り巻きの二人、それにトリーだったか……。確かにあいつらなら、俺のことなんか何とも思わないだろうけど……」
「何とも思わないことはないでしょう。相変わらず目つきが悪いなとか、口が悪いなとか、ガラが悪いなとか、それこそいろいろ……」
 吐き捨てるようにチッと舌打ちしてみせたラチカに、俺は微笑んだ。
「でも、俺はラチカのそういうところも好きですよ」
「なっ…………」
 ボッとラチカの顔が赤くなったのを見届けると、俺はセレストの部屋に向かう最後の階段を足取り軽く駆け上がった。
「ほら、行きますよ! セレストが待ってます!」
「お前が早く逢いたいだけだろ……」
 呆れたような顔でラチカはぼやいた。

                *

 セレストの部屋では、主に昨日の出来事における補足的な説明と、今後についての簡単な話がなされた。カノンは元々オルカによってこの館に預けられたこと。オルカは伝導師ではないが、優れた竪琴の奏者として昔からいつも一人で各地を巡っていること。今回は久しぶりに館に立ち寄り、カノンが年齢的にも竪琴の力量的にも旅立てるくらいに成長していたので、急ではあるが一緒に連れていく話になったこと。
 そして研修から戻ったラチカは見習い候補から見習いに昇格することが正式に告げられ、しばらく俺と同じ部屋で生活することが決まった。セレストに暇の挨拶をし、部屋を辞すると、俺とラチカは無言で階段を降り始めた。
「…………ラチカ」
 導きの塔の長い階段を降り切り、中庭の渡り廊下まで来たところで、俺はようやく口を開いた。
「昼飯の時間まで、裏庭で少し話をしませんか?」
「ああ」
 中庭を突っ切り、少し先にある人気のない塔の影に入ると、俺たちはそれぞれ地面に腰を下ろした。石造りの壁に預けた背中がひんやりとして気持ちいい。塔の周囲に植えられた木々がさわさわと音を立てた。
「……さっきの話、どう思う? セレストはオルカが赤ん坊のカノンをこの館に連れて来たと言ってたが」
 いきなり本題に入ってきたラチカに、俺は肩を竦めてみせた。
「まあ、年齢的にギリギリ自然な話ではありますよね。オルカは昨日、まだ三十になってないと言ってましたから、現在二十九歳だとしても、カノンがこの館に来たのが十年前で十九歳です。竪琴の奏者として一人旅をして生きていくには少し若いですが、全くない話ではない」
「確かにな。話の辻褄は全て合っている。当たり障りもなく、不審な点は何もない。一応な」
 だが、カノンが元々オルカによってこの館に預けられたという点が大きく引っ掛かる。昨夜の話の流れでは、あたかもセレストがちょうどよい機会だからと、有望な奏者の一人として、たまたまカノンの研修を思いついたかのようだった。しかし、この情報が前提としてあるならば、カノンの旅立ちを意味するところが全く変わってくる。
 つまり、オルカは最初からカノンをこの館から連れ出すのが目的で昨日ここを訪れた、という可能性が出てくるのだ。そしていつか迎えに来るという約束を十年前にしていたとしたら、恐らくセレストはカノンを引き留めることはできなかっただろう。もちろん全て想像の域を出ないことではあるが。
 俺は考え込みながら問った。
「……ラチカは、どこまで本当の話だと思いますか? それと、セレストはオルカについてどこまで本当のことを知っているんでしょう?」
 ラチカは少し逡巡したあと、淡々と自分の考えを口にした。
「……恐らく、セレストは俺たちに嘘は言ってない。だからその分、詳細を曖昧にした。つまりその曖昧な部分は何か知っている可能性がある。ただ、セレストも全てに確信を持っているわけではないかもしれない。セレストが知る事実と、オルカが語った内容から憶測しているだけのこともあるはずだ。第一、オルカがセレストに全てを話しているとは思えない。そしてどのみち、いわゆる普通ではないことは当然、俺たちには伏せられているだろう」
「まあ、そうですよね。ちなみにラチカはオルカの英雄説について今はどう考えていますか?」
「聞くまでもないだろ。むしろ今は俺の勘違いだったと思い込もうと頑張ってる。いくら引っ掛かる点があったとしても、確信に至るような証拠は何もないんだからな。お前だってそうだろ?」
「そりゃあ、ね。けど、そうなると今度はカノンのことで疑問が出てきます。今までは単なる孤児だと思っていましたが、一度はこの館に預けたカノンを、不老不死である英雄のオルカミルが十年後にわざわざ、しかも半ば強引に連れ戻しに来たわけですから。単なる竪琴の研修であるはずがない。絶対に何か理由があるはずだ。そして光の民であるカノンが、闇と水の混じり者であるオルカの子供ということは、いくら何でも種族的にあり得ないはず。だったら、カノンの親は誰で、オルカは一体どこからカノンをこの館に連れてきたのか。そしてその理由は? 考えれば考えるほど、疑問が湧いてきます」
「確かに。けど、そういう核心に迫るようなことはセレストも知らないんじゃないか。多分だけど」
「そうですね……」
 地面をチラチラと彩る木漏れ日をぼんやり眺めながら、俺は小さく呟いた。
「…………カノン、戻ってきますよね」
 ラチカはちらりと俺を見やり、それから天を見上げながら言った。
「……さあな。オルカがただのオルカなら、余程のことがない限り数ヶ月で戻ってくるだろ。けど、あいつが本当に伝説のオルカミルなら……何とも言えないな。お前もわかってんだろ? どのみち昨日は冷静に考える暇もなかったし、情報も全くなかった。今だってあるのはただの憶測だ。第一、カノンを行かせないようにする術なんか俺たちにはない。できることなんか最初から何もなかったんだ」
「それは……そうですけど」
 昨日の時点では、オルカが伝説の英雄ではないかというのも半信半疑の域を出なかった。そこに突然オルカがカノンを連れて旅立つ話が出て、俺はカノンとケンカして、正直まともに考えられるような余裕は全くなかった。何よりセレストがカノンの旅立ちを了承しているのだからと、まとわりつく違和感について深く考えることを放棄してしまった。
 伝導師でないオルカとの研修が急に決まったことや、その日のうちの夜の出立、見習い候補になったばかりのカノンが選ばれたことなど、異例尽くしの事態だと気づいてはいたのに。俺はただただ状況に流されてしまったのだ。
 セレストとしては、カノンを十年前にこの館に預けたのがオルカだとわかれば、俺たちも少しは安心できると思ったのだろう。今までに例がない形での旅立ちも、オルカとカノンがそもそも無関係ではなかったからなのだと。そしてラチカが砂漠での一件を目撃していなければ、その説明はセレストの思惑通り機能したはずだ。しかしオルカに対し、かなり本気で英雄オルカミル本人ではないかと疑念を抱いていた俺たちには、むしろ逆効果になってしまったわけだ。
 ラチカは消沈している俺を見ると、肩を竦めてみせた。
「まあ、今はグダグダ考えても仕方ない。お前、オルカに歌い手として本気で頑張るって宣言してただろ。あいつらがここに帰ってくるまでのあいだ、それを実行してればいいんじゃないか? 何なら、少しくらい俺が練習に付き合ってやってもいい」
 ぶっきらぼうながら、ラチカが俺を元気づけようとしているのに気づき、俺は胸が温かくなるのを感じた。完全に晴れやかな気持ちとはいかないが、今は自分にできることをするしかない。
 俺はラチカに微笑むと、言った。
「そういえば、まだちゃんと言ってなかったですよね。見習いへの昇格、おめでとうございます。笛の奏者であるラチカと同じ部屋で生活できるってことは、俺も練習し放題ですね! 贅沢だなぁ」
「いやいや、少しくらいって言っただろ! 大体、人の面倒をみるとか、俺は得意じゃねえんだよ!」
 瞬きを一つし、俺は静かにそれを口にした。
「……でも、俺を一人にするのが心配だったから、しばらく同じ部屋にいてくれることにしたんですよね。元々ラチカの部屋は最下層の俺の部屋より上の階ですし、見習いに昇格したならもっと上の一人部屋で生活できたのに」
「それは……」
 右手を胸に当て、俺は深々とラチカに頭を下げた。
「ありがとうございます、ラチカ。迷惑をかけないよう、精進するつもりです。だから、これからもどうぞよろしくお願いします」
 恭しく告げた俺に対し、ラチカはチッと舌打ちすると、喚いた。
「ふっざけんな! 迷惑くらいかけろ! ほんっと生意気だな、てめえは! 大体、てめえごときが何かしたところで、この俺が困ることなんかねえんだよ! 自惚れんな!」
 目つきは悪いし、口は悪いし、ガラも悪い。けど、俺の目の前にいたのは最高に優しい新たな同居人だった。
「……はい、ラチカ! じゃあ、お言葉に甘えて、いろいろと迷惑をかけますから、今から覚悟しといてくださいね!」
「はっ! やれるもんならやってみろ!」
 こうして俺の新たな生活が始まった。

                *

 とはいうものの、実際のところ、ラチカとの同居生活ではむしろ滞りなく毎日を過ごすことができた。何しろ気を遣うことが全くない。同じ部屋にいても個々に自分のやるべきことをやり、話をしたり俺の歌の練習に付き合ってもらったりと、二人で一緒に過ごすときも自然体でいることができる。
 朝の屍状態も最初の同衾した日だけで、それ以降は俺よりもマシなくらいだった。ラチカはいつもより眠れたと言っていたが、起きてから体がだるかったのはやはりベッドが狭かったせいだろうと俺は思っている。
 ちなみにリアムたちもセレストからカノンが館に来た経緯などは簡単に説明を受けていたが、オルカの砂漠での一件を知らないこともあり、俺たちのような心配はしていないようだった。
 そして数日後の夕飯のあと、トリーはみんなに談話室に集まるよう言うと、修復した絵を俺に持って来てくれた。簡素ながら額に入っており、しかもそれ以上に嬉しいサプライズまで用意してくれていた。
「……すごい! トリーとラチカもいる!!! 本当に、本当に、ありがとうございます!!! トリー!」
 もともと描かれていた俺たち五人に加え、新たにトリーとラチカも絵の中に入っていた。二つに引き裂かれていたカノンの姿も、綺麗に繋ぎ合わされている。破れた跡は見ればわかってしまうけれど、事実をなかったことにしたいわけではなかったので、そこも含めて俺は心からトリーに感謝した。額縁を指でそっと撫でながら、俺は思わず涙ぐんだ。
「……こんなことを言ったら怒られてしまうかもしれませんが、前よりずっと、素敵な絵になりました。本当にありがとうございます。トリー!」
「ど、どうってことないの。せっかくだから、ちょっと書き足しただけなの。気に入ってよかったの」
「はい! これでいつでもトリーの可愛い姿が見られます。本当に嬉しいです!」
「なっ……そっ……」
 頬を真っ赤に染めて口をパクパクしているトリーの姿を微笑ましく眺めていると、不意に横からリアムが現れ、無言、且つ無表情で俺のこめかみに拳をぐりぐりと押し当ててきた。
「ちょっ……? 痛い痛い痛い! リアム! 急に何をする!!!」
 リアムの拳から何とか逃れ、俺は近くにいたラチカの背にサッと身を隠した。
「てめっ、シルヴァ……おい! 俺を巻き込むな!」
「冷たいこと言わないでくださいよ! 俺とラチカの仲じゃないですか!」
「どんな仲だってんだ? ああ?」
 ドスの利いた声で唸るリアムに、取り敢えず俺はラチカの陰から顔だけひょいと覗かせた。
「大切な同居人だ。ですよね? ラチカ」
 背にしがみついたまま俺がちらりとラチカを見上げると、ラチカはふんとそっぽを向いた。
「た、だ、の! 同居人の間違いだろ」
 俺は頬を膨らませ、むうと唸った。
「ラチカにとって俺がただの同居人でも、俺にとってラチカは大切な同居人ですよ」
 と、再びリアムの拳が容赦なく俺のこめかみを圧迫し、俺は苦悶の声を上げた。
「痛い痛い痛い! リアム、どうした? 情緒不安定か?」
「ちっがう!!! つーか、てめえ、シルヴァ! お前、息をするように誰彼構わず口説き始めるの、ホントにマジでやめろ!!!」
「いやいやいや! そんなことしてないし!!!」
 一応拳の枷から解放されたので、涙目になりながらも俺は何とか反論した。が。
「してるだろ! たった今も!!!」
「ええ~???」
 意味がわからない、といった面持ちの俺に、リアムだけでなく、ラチカ、トリー、そしてクルスとギュスターまでもがじっとりとした眼差しを向けてきた。
「何でそうなる!!! 俺はただ、自分の正直な気持ちをだな……」
「だからそれを自重しろ!!! 少しでいいから!!!」
「何故???」
「勘違いするからだよ! 特にこいつみたいな馬鹿が! しかも同じ部屋で寝起きを共にしてるとか、セレストが決めたことだから仕方ないとはいえ、危険すぎるだろ! いきなり襲われたらどうする!!!」
 えええ……いやいやいや、何を言っとるんだチミは。ここはBLの世界じゃないんだぞ。いくら俺が美少年だからって、ルームメイトになっただけでそう簡単に襲われてたまるか。どんだけ性欲を持て余してんだよって話だ。普通に怖いだろ。犯罪だぞ。大体……。
「有象無象の輩ならともかく、俺の大切な友人であるラチカが、他でもないこの俺の意思を無視して自分の欲だけ満たすような下劣なことをするわけがないだろう。今のはいくら何でもラチカに失礼だぞ、リアム」
「危機意識の欠如!!!」
「いやいやいや……っていうか、いい加減ラチカを目の敵にするのはやめるんじゃなかったのかよ?」
「それとこれとは別だ! つーか、今はお前の話をしてるんだ!」
「ハイハイ、すみませんでした。以後、気をつけます」
 何だか埒が明かないな。俺は肩を竦めると、他のみんなに晴れやかな笑顔を向けた。
「ところで、今度の光の降臨祭だけどさぁ……」
「話を逸らすな!」
 うん、まあ、さすがにそう簡単にはいかないよね。俺は渋々リアムに向き直った。
「あ~……まあ、そんな心配すんなって。俺がリアムの友達だとわかってて変な危害を加えてくる奴なんて、この館の中でそうはいない。だろ? 例え四六時中そばにいなくても、リアムの存在が俺を守ってくれてるんだよ。俺が毎日楽しく暮らせているのもリアムのおかげだ。いつも感謝している」
「そ……そうか。それなら……って、言ってるそばからお前は!!! そんなんでこの俺が誤魔化せると思うなよ!!!」
「うんうん。さすがリアム、頼もしいな」
 にこにこしながら俺が頷くと、リアムは頬を上気させたまま何とも言えない面持ちで深く嘆息し、降参したように言った。
「……ったく、お前ってヤツはホント口だけは達者だよな。だったら、せめて俺が教えてる護身術だけは完璧に習得しろ。あと、体力の増強。最低限、自分の身は自分で守れるようにしろ。何がなんでもだ! わかったな」
「了解です、師匠!」
 ここぞとばかりに俺は元気よく返事した。
「ほんっと調子がいい奴……ま、シルヴァらしいけどな」
 呆れたように言いながらも、リアムは気を取り直したように笑った。
「じゃあ、これからはもっと本気でしごいてやるから覚悟しろよ! 取り敢えず走り込みの量を倍にして、組手の回数も増やして……」
「そ、それはちょっと勘弁……」
 たじたじしながらそのありがたい申し出を辞退しようとした俺に、リアムは打って変わって強気の姿勢で返してきた。
「何言ってんだ。そもそもお前が護身術を習いたいって言いだしたんだろうが」
「それはそうだが……もっとこう、ふわっとした感じでいいっていうか……ゆるっと生温い感じでお願いしたいというか……」
「却下」
 ……ですよね~。くっ、これだから体育会系とは相容れないな。疲れることは極力したくないのに。
「あうう……」
 げんなりした俺に、リアムが珍しく真面目な顔で正論を述べた。
「言っとくが、護身術ってのは自分の身を守るための術だ。本気で自分を害そうとする奴から身を守るために使うものなんだぞ。やるなら真剣にやれ。そうでないと、いざというとき何の役にも立たない。ちゃんとやらないなら時間の無駄だ。俺にとっても、お前にとってもな」
 口調は穏やかだが、初めて耳にするリアムの厳しい声音に、さすがの俺も一瞬ハッと息を呑んだ。あまりにも痛いところを突かれ、まさにぐうの音も出ない。快適な第二の人生に甘んじて、ただでさえ緩い根性がたるみ切っていたことにようやく気づかされた。今までもリアムのレクチャーは真面目に受けていたが、せっかくなので何となく教わっておこうという程度で目的意識は薄かったし、いざというときのことなど想定もしていなかった。
 もちろん護身術の使用が必要に迫られるときなど来ないに越したことはないが、実際そういった事態に遭遇したときに役立てられなければ意味がないのも確かだ。俺は心から反省した。
「……ごめん、リアム。俺が間違ってた。これからはもっと真剣にやるよ。だからまた俺に護身術を教えてほしい。いや、教えてください!」
 俺の真っすぐな気持ちが届いたのか、リアムはパッと破顔すると大きく頷いてくれた。
「おう! 任せとけ! これからはもっとビシバシしごいてやる!」
「押忍!」
 そうだった……確かにそういう話だった。半ば勢いで返事したものの、俺は内心そっとため息をついた。だが、オルカのときのようにいつも何とかなるとは限らないし、例の最終手段を使うのもできるだけ避けたい。練習量は増えるかもしれないが、努力しよう。俺は気を取り直すと、改めて口を開いた。
「それで、今度の光の降臨祭なんだけどさぁ。見習いに昇格したラチカの初仕事があるんだって。みんなで応援しに行こうぜ!」
「へえぇ……そりゃ是非とも見に行かないとな。何しろ笛の奏者としては俺たちの先輩だし。見習いの実力ってのがどんなもんか、じっくり拝聴させてもらおうじゃないか」
 にやにやと面白がっているリアムに、ラチカが仏頂面で一蹴した。
「冷やかしなら来るな。つーかシルヴァ、お前も余計なこと言うなよ。面倒だろうが」
「まあまあ、いいじゃないですか。というか、俺は絶対に見に行くので、どのみちみんなには話すことになりますし。それにラチカの笛の音を聴いたら、リアムだってこんな軽口は叩けなくなりますよ」
 ラチカの演奏を思い出すだけで、つい唇が綻んでしまう。残念ながら俺はあまり耳が肥えているほうではないが、それでもラチカが奏でる笛の音は本当に別格だ。有料コースとはいえ、同じ笛の奏者の授業を受けているリアムとクルスとギュスターが聴いたら、そのすごさが俺よりわかるはず。独り占めしたいけど、全世界に誇りたい。そんな矛盾した気持ちを抱いてしまうほど、ラチカの演奏は素敵なのだ。
 我が事のように俺が自慢げな顔をしていると、ラチカより見習いの先輩であるトリーが肩を竦めて言った。
「ま、見習いにとって、こういうお祭りは稼ぎ時なの。特に伝導師になる気がない者にとっては、館を出たあとのためにも名前を売るいい機会なの。ラチカが何を目指してるかは知らないけど、せいぜい頑張るの」
「おお! そうなんですね! トリーも今回の光の降臨祭では何か催し物があるんですか?」
「降臨祭の主催である宮殿からの依頼で、都の中央広場に向かう大通りに飾る絵を何枚か納品したの。あと、いつも絵を置いてもらっている露店の他に、館内に見習い専用の場所が設けられるから、そこにも何枚か絵を出品するの」
「すごい! トリーの絵、全部見に行きたいです!」
 俺が勢い込んで言うと、トリーは頬を淡く染め、軽く咳払いをした。
「ま……まあ、私は描き終わった絵を出品するだけだから、どうせ降臨祭の当日は暇なの。お前がどうしてもと言うなら、案内してあげなくもないの」
「やった! トリー、ありがとうございます! 出店とかもいろいろあるんですよね? 一緒に見て回りましょうね! すっごい楽しみです!!!」
「まったく、なんだかんだ言ってシルヴァも意外とお子様なの。お祭りにはしゃぎすぎて迷子にならないよう気を付けるの」
 とはいうものの、満更でもない面持ちでふふんと胸を張ったあと、不意にトリーは何か思い出したようにあっと声を上げた。
「どうかしましたか? トリー」
「それが、あの……」
 一転して曇った顔になると、トリーはおずおずと口を開いた。
「……実は、先にお前たちに言っておかなきゃいけないことがあるの」
「何ですか?」
「えっと……その……私が館を出るときは、必ずエクトルとトピアスが一緒に行くことになってるの」
 瞬きを一つし、俺はトリーの言わんとしていることを推し量りながら言った。
「エクトルとトピアスって、あの庭師の二人ですよね? 俺たちが中庭を半壊させたときにすごい勢いでやって来て、俺一人だけ滅茶苦茶叱られた……」
 大きな咳払いで俺の言葉を遮ると、トリーは赤くなった顔で強引に割り込んだ。
「中庭修復のときにもいろいろ手伝ってくれた、その庭師のエクトルとトピアスのことで間違いないの!」
「確かに、エクトルとトピアスにはたくさん親切にもしていただきましたけれども」
 すました顔で俺が頷いてみせると、トリーはほっとしたように胸に手をやり、ちょっとだけ俺を睨んでから続けた。
「……それで、そのエクトルとトピアスがずっと片時も離れずついてくることになるの。私と一緒にいると。お前たちにとっては、必要もないのにお目付け役が四六時中そばにいることになるし、せっかくのお祭りなのに羽を伸ばせなくて、窮屈な思いをさせてしまうかもしれないの。だから──」
「俺は全然構いませんよ」
 皆まで言わせず、俺はトリーに微笑んだ。
「エクトルとトピアスも一緒にお祭りに行ってくれるなんて、すごく楽しそうです」
 トリーは大きく目を見開き、それから戸惑ったように忙しなく瞬きをした。
「いや、でも……せっかくのお祭りに私のせいで余計な大人がついてくるのは、お前たちだって気を遣うだろうし……」
「いやいや! トリーだって大人じゃないですか。それに、トリーほどではありませんが、俺たちもエクトルとトピアスとは結構仲良くなったんですよ。一生懸命中庭を修復したおかげです。困ったときとかも親身に相談に乗ってくれましたしね。まあ、向こうとしては中庭の修復に関わることだからっていうのもあるでしょうけど」
 俺と同じく中庭修復に関わったリアム、クルス、ギュスターにちらりと目をやると、三人とも同意するように肩を竦めてみせた。ラチカも特に反対する気配がないのを改めて確認し、俺は言った。
「何より、俺はやっぱりトリーと一緒にお祭りを見て回りたいです。もちろん、いくら当日は暇だといってもトリーには見習いとしての用事もあるでしょうし、単に違う場所に興味があるとかの理由でも、時々別行動をとってもいいわけですから。ラチカだって演奏があるから一日中一緒ってわけでもありませんしね。それこそせっかくのお祭りなんですから、それぞれ自由に楽しめばいいんですよ」
 にこにこしながら俺が言うと、トリーは一瞬瞳を潤ませて唇をきゅっと噤んだあと、ふわっと花開くように微笑んだ。
「まったく、お前は本当に物好きなの。今のお前の言葉を聞いたら、あの二人がどんな顔をするか見てみたいの」
「ああ……まあ、エクトルはいつもの仏頂面をさらにしかめるでしょうね。トピアスはあの何を考えているかよくわからない笑顔でさらっと受け流しそうです」
 俺の予想にトリーはころころと楽しそうに笑った。
「本当にお前は人のことをよく見てるの。あの二人の反応が目に浮かぶようなの」
「確か、トリーはエクトルとトピアスとは付き合いが長いんですよね。館に入ったときの同期でしたっけ」
「まあ、エクトルとトピアスのほうが私より少しだけ年上だけど、三人とも大体同じころに絵描きの見習い候補として館に入ったの。私が見習いになったころ、二人は候補から抜けて庭師になったけど、出会ってから十年くらいにはなるの」
 とても穏やかな、けれどどこか淋しそうな表情のトリーを眺めながら、俺はうんうんと頷いた。
「エクトルとトピアスは、トリーにとって本当に大切な友達なんですね」
「は、はぁあ? そ、そんなんじゃないの! あの二人はただの! 付き合いの長い知り合いってだけなの!」
「えええ、そうなんですか? それを聞いたらエクトルがどうでもいいと言いながら、あのいかつい顔をしかめてすごーく悲しむと思いますよ。トピアスは悲しいと言いながら、へらっと笑ってそうですけど」
「あ~……確かに」
「すげーわかる」
 クルスとギュスターの呟きに、トリーが打って変わってぷりぷりしながら言い放つ。
「べ、別にエクトルはこの程度のことで傷ついたりしないし! トピアスだっていつものことだと思ってるだけだし! ただの軽口だと二人ともわかってるだけなの!」
「ああ、ハイハイ」
「俺らもちゃんとわかってますよ」
「ふ~ん? それならいいの!」
 時折発動するトリーのツンデレを微笑ましく堪能しながら、その夜、俺はみんなで行く光の降臨祭へと思いを馳せたのだった。

                *

 談話室で何だかんだと楽しいひと時を過ごしたあと、俺たちは消灯時間を前にそれぞれの部屋に引き上げた。俺は改めてトリーの絵をベッドの枕元に飾り、ラチカはいつものように笛の手入れを始めた。寝巻に着替え、枕の形を整え、俺が寝る準備をしていると、柔らかい布で笛を丁寧に拭っていたラチカが不意に口を開いた。
「……さっきのエクトルとトピアスの話だが、お前はちゃんとわかってるんだよな?」
「二人がトリーの護衛、兼、監視役だってことですか?」
 敢えて直球で返したにもかかわらず、ラチカは笛から目を離すこともなく淡々と肩を竦めた。
「気づいていたんならいい。ただの確認だ」
「まあ、普通に想像はつきます。何しろトリーは貴重で危険な混じり者ですからね、一般的には。せっかく伝導の館という体裁のいい場所で軟禁しているわけですから、やすやすと外になんか出したくないというのが光の宮殿の本音でしょう。ましていつもより都の人出が増えるお祭りのときなどね。それでも許可が下りているということは、トリーの絵描きとしての評価が高いのと、普段の行動から逃亡の恐れなしと判断されているからでしょう。エクトルとトピアスもただ優秀なだけではなく、トリーと友人としての関係を築くことにも成功している。情という鎖は見えなくても何より強固な縛りとなりますからね」
「実際、トリー自身もそのことをわかっていてあの二人と一緒にいるんだろうしな」
「そうですね。ちょっと切ないですけど、それでもトリーは二人のことが大切なんでしょう。ちなみに、リアムとクルスとギュスターも、そこらへんの事情は恐らく察していると思いますよ」
「あいつらは一応貴族だしな。そもそも一時期とはいえ、そういう奴らを育成する剣士の館にいたわけだし、護衛だの監視だのって話は俺ら一般市民より身近なはずだ」
「確かに。ただ少し気になるとしたら、エクトルは炎の民で、トピアスは光の民ってことです」
 瞬きを一つしたものの、ラチカは手入れをしている笛から目を離さずに言った。
「トリーは炎と光の混じり者だ。それぞれの宮殿から派遣されてきたってだけだろう」
「それはそうなんですけど。仕える相手が違うということは、必ずしも同じ目的で動いているわけではない、ということですからね」
 俺が言わんとしていることに気づいたのか、ラチカはようやく笛から顔を上げて視線を合わせた。けれどラチカが口を開くより早く、俺は肩を竦めて続けた。
「ま、どのみち別々の人間である以上、誰に仕えているかなんてことも所詮表面上の事実でしかありませんし。ただ、俺は幸運にもそういった面倒なしがらみがありませんから。純粋にトリーの味方でいたいと思うんですよ」
「……そうかよ」
「はい」
 にっこり笑ってみせたあと、俺は改めてラチカの笛に目をやった。
「……ところで、以前から気になっていたんですが、ラチカの笛って何でできているんですか? すごく綺麗な乳白色だなって初めて見たときから思ってたんです。一見普通の横笛ですけど、よくある木製や植物製でもないし、陶器やガラスで作った特注の高級品でももちろんないし。たまにある石造りの笛でもありませんよね? ずっと不思議だったんです」
 ちなみに金属製の笛でもない。この世界にあるか定かではないので、口には出さないが。
 ラチカはちらりと俺に目をやったあと、言った。
「……これは骨だ。何の動物のものかはわからないけどな。これは唯一、俺がずっと持っているものだ。ここに来る前からな」
「へえ……そうなんですね。言われてみればその質感は確かに骨です。滑らかで光沢があってとても綺麗ですよね。日頃から丁寧に手入れされているのがよくわかります。ラチカの奏でる音があんなに優しいのは、この笛のおかげでもあるんでしょうね。笛の素材が違うと音色も変わってきますし」
「お前……気持ち悪くないのかよ?」
「え? 何がですか?」
「いや、だから……この笛は骨でできてるんだ。もしかしたら人間の骨かもしれない。俺はいつも骨を肌身離さず持ち歩いてるんだぞ。おまけにその骨に口をつけて息を吹き込んで、音を鳴らしてるんだ」
 俺は瞬きを一つした。
「ああ……まあ、確かにそういう言い方をされると猟奇的というか、かなり衝撃的な感じはしますけど。俺だって骨付き肉とか食べますし。それに俺の村は狩りで仕留めた動物の骨を加工して、服のボタンとかに利用してたので、そこまで気にならないというか。むしろ命を奪った以上、全て使い切るのが当然というか。水や闇の季節はすごく寒いので、みんな毛皮のコートを着てますしね。といっても、俺はまだ狩りの経験はありませんし、たまに家畜を絞めるのも、全然、慣れない軟弱者ではあるんですが」
「……そうかよ。相変わらずお前はいろんなことに無頓着だな」
 憎まれ口を叩いているようで、実は少し安堵しているような面持ちのラチカに俺は口を尖らせた。
「言っときますけど、ラチカが自分で殺した人間の頭蓋骨を盃に加工して、毎晩自慢げにそれで黒豆茶とか飲んでいたら、俺だってすげー怖いです。同じ部屋で一緒に暮らすとか、普通に無理です」
「当たり前だろ! 俺だってお前がそんなことしてたら滅茶苦茶怖いわ! つーか何だよ、その妙に具体的な例えは! お前の村ってそんなやばい奴がいんのか?」
「いやいやいや、まさか。ただの例え話ですよ。た、だ、の。……そう、むかーし昔、どこか遠い場所でそういうことをした人がいるって伝説を小耳に挟んだことがあるようなないような、ってだけの話です」
 ふっふっふ、とわざとらしく含み笑いをしてみせると、ラチカは渋面ながらようやく肩の力を抜いて俺を睨んだ。
「……ったく、お前の発想は時々常軌を逸してるよな」
「いやあ、恐悦至極です」
「褒めてねえから」
「でもまあ、骨で作られた笛なんて珍しいですよね。そんなものがあるなんて俺は初めて知りました。俺の村ではボタン以外だと、主に釣り針とか矢じりに加工していたので。何の動物の骨かわからないって言ってましたけど、ラチカはどういう成り行きでこの笛を手にすることになったんですか?」
 瞬間、ラチカの顔からすっと表情が消え、俺は地雷に触れてしまったことに気づいた。が、ラチカはすぐに盛大なため息を吐き出すと、半ば呆れたように言った。
「ホント、お前は怖いもの知らずっていうか、無遠慮っていうか、惚けた顔して土足でぐいぐい踏み込んでくるっていうか……」
「あう……すみません。どうか、今のは聞かなかったことに……」
「別に隠してるわけじゃねえし、お前なら構わねえけど」
 俺の言葉を遮り、ラチカはむしろ吹っ切るように続けた。
「俺はこの笛をいつどこでどうやって手に入れたのか、全くわからない。八年前、気づいたら俺は闇の都の路地を一人で歩いていた。それより昔の記憶が一切ないんだ。覚えていたのは自分の名前と年だけ。着の身着のままで、この笛だけを持っていた。この笛が骨でできているっていうのも、パユの爺さんに教えてもらったくらいだしな」
 瞬きを一つし、俺は思案するように呟いた。
「八年前ってことは……ラチカが七歳のときですか。リアムに会う前、二年ほど浮浪児として暮らしていたっていうのは、それ以前の記憶がなかったからなんですね……」
「驚かないんだな、お前は」
「いやいや、まさか! 驚いてますし、びっくりしてます!」
 目を丸くして顔を上げた俺を見ると、ラチカはどこかほっとしたように小さく笑った。
「ああ、うん。今のでちょっとわかった。一応、お前でも少しは動揺したりするんだな」
「ちょっ……俺を何だと思ってるんですか! こう見えても動揺しまくりですよ! 確かに土足感半端なかったな、とか反省しきりですよ! 本当にすみません!!! まさかここまで想定外の過去が暴露されるとはつゆ知らず!」
 あわあわしている俺とは正反対に、ラチカはすっきりしたような面持ちで肩を竦めてみせた。
「けど、俺に同情はしていない。だろ?」
「え? ……まあ、そうですね。そもそもどういう経緯でどんな記憶をなくしたのかもわからないわけですし。むしろたった今、そういう意図ではなかったとはいえ、俺に不躾な質問をされたことのほうが可哀想ですよね……」
「ふ……っはは!」
 声を上げて笑うと、ラチカは言った。
「その発想はなかったな!」
「え……そうなんですか? 言わなきゃよかった……」
「気にすんな。ただ、その代わりと言っちゃなんだけど、お前に一つ質問してもいいか?」
「何ですか? 改まって。質問くらい構わないですけど」
「じゃあ……もし俺の記憶が戻って、さっきお前が言ったように、俺が自分で殺した人間の骨を使ってこの笛を作ったのだとわかったら、お前はどうする?」
 ……なかなか意地悪な質問だ。わざわざ前置きをして聞いてきたのはそのせいか、と思ったが、俺はすぐにその考えを否定した。多分これはラチカがずっと心の底で恐れてきたことなのだろう。
 客観的に考えて、七歳の子供が人を殺して、しかもその骨を使って笛を作ったという可能性はかなり低い。第一に、丁寧に手入れされているのでとても綺麗に見えるが、俺の村で使っていたいくつかの骨製品と比較検討すると、この笛は色や質感からしてある程度年季が入っているように思える。何より笛の作りが精巧だ。装飾などはなく、見た目は素朴だが、音を出すのに重要な指穴や唄口の形が整っている。少なくとも素人が適当に作った代物ではない。七歳でも器用な子供はいるだろうが、ラチカにこれが作れるだろうか。ラチカは確かに器用だが、楽器を奏でるのと楽器を作るのとでは、同じ手を使った作業でも用いる技術が違うはずだ。
 ……とまあ、いろいろな思考が過ったが、ラチカが俺の口から聞きたいのは恐らくそういうことではないのだろう。俺が今考えたようなことは、ラチカもすでに頭では理解してるはずだ。しかし記憶がないということは、本人が自覚している以上に不安をもたらしているに違いない。
 俺はちょっと首を傾げると、できるだけ正直にラチカの問いに答えようと努めた。
「そうですね……まずラチカが人を殺したのなら、その相手がラチカにとってどういう人間で、どんな理由で殺したのか、ということにも拠りますね。例えば通りすがりの人を享楽的になぶり殺したのか、それとも大切なものを傷つけられそうになったのを守ろうとしたはずみなのか、或いは暗殺が生業だったのか、はたまた単なる事故なのか。あとは故郷を滅ぼされたことへの復讐、なんていうのもあります。同じ殺しでも、犯人のそういった背景は非常に重要ですよね!」
「犯人って、お前なぁ……っていうか、暗殺が生業って何だ? 意味がわからない。あと故郷を滅ぼされた復讐って、一体どこの英雄伝説だよ! 仮にも俺の話だぞ。いくら何があったかわからないにせよ、言いたい放題にも程がある! ちったぁ遠慮しろ! 無駄に壮絶な過去を勝手に捏造するんじゃねえ!」
「いやいや、まあまあ。例えば、ですよ。例えば。それから……」
「まだあんのかよ?」
 若干うんざりした面持ちのラチカに、俺は敢えて何食わぬ顔で続けた。
「この笛を作ったのがラチカだとして、その理由も大事ですよね。これが人間の骨だとしたら、その相手に対する感情が籠っているわけですから。大切な人の形見なのか、自分の罪を忘れないようにするための懺悔と戒めの意味があるのか、或いは復讐を果たしたことに対する戦利品なのか。例えラチカが自分で殺した人間の骨を使ってこの笛を作ったのだとしても、俺がラチカを怖がるかどうかは、そういった事情を総合的に判断した結果ってことになりますね。だから申し訳ありませんが、今はラチカの質問にちゃんとした答えは出せません」
 ラチカはしばらく黙って俺を見つめていたが、やがて軽いため息とともに肩を竦めてみせた。
「……そうかよ。ま、別にそこまで大した答えなんか最初から期待してなかったけどな。つーか、ちょいちょい俺を復讐者に捏造しようとするのはやめろ」
「ただの冗談ですよ、そこは」
「冗談にも程があるだろ! っていうか、俺の記憶が戻って本当にやばい奴だったらどうすんだ」
「ああ……ねえ?」
 今初めて気が付いた、という顔で同意した俺に、ラチカはもはや呆れたように言った。
「ったく、せいぜい俺の記憶が戻らないようにでも祈っとけ」
「え……いやいやいや! そこは逆でしょう。例えどんな真実が明らかになろうと、俺はラチカの記憶が戻ることを祈ってますよ。結局、考えてもわからないことを頭の中でごちゃごちゃ考えているのが一番怖いんです。もし、ラチカが快楽殺人者だったとしても、その時はその時ですよ。わかったときにどうにかします。違うかもしれないのに可能性だけ悪戯に弄んで怖がっても、時間の無駄ですから」
「そうかよ。っていうか、俺を気軽に快楽殺人者にすんな! 復讐者よりやばいじゃねえか!」
「だから冗談ですって」
「お前の冗談は悪趣味なんだよ!」
「大丈夫、大丈夫。ラチカはきっと虫も殺したことのない清廉潔白な子供だったと、俺は心から信じています!」
 胸の前できゅっと手を握り締め、俺はキラキラした純真な眼差しをラチカに向けた。
「それはそれで白々しいな。っていうか、虫くらい殺してるだろ」
「そうですね。虫は殺してるでしょうね。間違いなく」
「いやいや、そこは否定しろよ。嘘でも。本当に適当だな」
「まあまあ。人生、適当なくらいがちょうどいいんですよ。何とかなるって思ってると、意外と何とかなったりするものです」
 あっけらかんと言い放った俺に、ラチカはぶすっとした面持ちで呟いた。
「……それでも、何とかならないことだってあるだろ。どうにもならないことってのが」
「そりゃあ、たくさんありますよ。実際、そういうことのほうが多いです」
「全然何とかなってないじゃないか」
「そういうものだと受け入れるしかないですよね。どうにもならないことは。でも、別にそれを無理に乗り越える必要なんてないんじゃないですか? 人生の答えは一つじゃありません。もし道が行き止まりだったら、引き返してもいいし、迂回してもいいし、他の手立てを考えることだってできます。それで迷子になったと思ってたら、意外な近道を発見していた、なんてこともあるでしょう。それに遠回りでも面白いものに出会えたり、綺麗な景色が見られたりするかもしれません。何なら立ちはだかる壁をぶち壊すのを、誰かに手伝ってもらったっていい」
「……それでも駄目なら?」
「しばらくどこかで休みましょう。いつの間にか壁が消えているかもしれません」
「そんな都合のいいことがあるか!」
「時間が解決してくれることは結構多いですよ。それに自分の気が変わって、別の目的地が見つかるかもしれませんし」
「……そんなもんかよ」
「そんなもんです」
「で、そんなふうに人生を語っているお前は一体何者なんだ、ああ? シルヴァ」
 ドスの利いた声で目を眇めたラチカに、俺は如何にも無邪気に答えた。
「どこにでもいるただの美少年ですよ! あ、もうこんな時間! 早く寝ないと明日起きられなくなっちゃう!」
「わざとらしいにも程があるだろ……。つーか、ちゃんと起きろよ! 俺は一回しか起こさないからな!」
「……でも、何だかんだ言って必ず俺に声をかけてくれるんですよね、ラチカは」
 ふふっと笑って俺が小さく呟くと、ラチカがじろりと睨んだ。
「何か言ったか?」
「ラチカと一緒に朝ご飯を食べたいから、ちゃんと起きますって言ったんですよ」
「嘘つけ。聞こえてんぞ」
「でも、意味は大体同じです。おやすみなさい、ラチカ」
 俺がベッドに潜り込むと、ラチカは手入れをしていた笛を片付け、部屋の明かりを消した。
「……おやすみ、シルヴァ」
 囁くようなその声が微かに耳に届き、俺は闇の中でそっと唇を綻ばせた。

                *

 さて、談話室での一件以来、リアムによる護身術の訓練は以前よりハードな内容になったが、恐れていたより辛いことは意外となかった。当初より薄々気づいてはいたけれど、リアムは人にものを教えるのが非常に上手い。言葉選びも的確だし、教えられる側のレベルに合わせて指導してくれる。何より辛抱強い。これは教師の資質として結構重要だ。おかげで俺の護身術はこの約二週という短期間でかなり上達しつつあった。
「前はクルスやギュスターに一度も勝てなかったのに、最近はたまにちゃんと技が決まるようになってきたよな。本当にリアムのおかげだ」
 待ちに待った光の降臨祭当日、俺はリアムとクルスとギュスターとの早朝訓練の後、朝食をせっせと詰め込むと、館を出て都へと繰り出していた。ラチカは午前中の演奏を予定しているので、すでに都の中央広場で打ち合わせをしているはずだ。トリーは見習いとしての用事と、付き添いである庭師のエクトルとトピアスの都合もあり、まだ館にいる。みんなとはそれぞれ後で合流することになっていた。
 早くも賑わいを見せているお祭りの様子を眺めつつ、少しだけ得意げに俺が言うと、リアムは苦笑いし、クルスとギュスターは口を尖らせた。
「今日はたまたまだ!」
「そうそう! ちょっとだけ油断したというか、何というか、アレだ! 賭けのせいで少し力が入りすぎただけだ!」
「いやいや、俺は逆だぞ! せっかくのお祭りだからな。俺は敢えて負けて、シルヴァに奢ってやろうとしたんだ」
「ちょっ……自分だけいい格好しようとするな!」
「してねえし! お前は実力で負けたんだろーが!」
「はあ? 俺はわざと負けたってことをシルヴァに黙っていてやろうとしてだな……」
「お前ら、いい加減にしろよ」
 不意にリアムのドスの利いた声が割って入り、わちゃわちゃと言い合いをしていたクルスとギュスターは直立不動でぴたりと口閉じた。冷や汗をかいている二人に、リアムが珍しく険しい顔を向けた。
「シルヴァがお前らに勝ったのも、お前らがシルヴァに負けたのも、同じく実力だ。くだらねえ言い訳をすんな。特にわざと負けてやったってのは、嘘だとわかっていても聞き捨てならない。シルヴァに謝れ」
 リアムの静かなる叱責にクルスとギュスターはしゅんと肩を落とし、深々と俺に頭を下げた。
「……ごめん、シルヴァ。今日の勝負を汚すようなことを口にした。お前が俺に勝ったのはちゃんと実力だ。本当にごめん」
「俺も、悪かった。せっかくのお前の勝ちに泥を塗った。本当にすまない」
 心から反省している様子のクルスとギュスターに目をやり、俺は言った。
「お前らが俺に負けて悔しいのはわかる。むしろ当然だ。でも、リアムが言った通り、くだらない言い訳はお前ら自身の質を下げる。だからもう二度とするなよ」
「はい!」
「すみませんでした!」
「よし! それじゃあこの件はもう終わりだ。頭を上げろ。一緒に祭りを楽しもうぜ!」
 クルスとギュスターはパッと顔を上げると、ちょっと泣き出しそうな笑みで頷いた。
「っす!」
「了解っす!」
 二人の肩を軽く叩き、俺は笑って付け加えた。
「ま、どのみち今日は俺の調子が良かっただけだ。十回勝負すれば、俺はまだ半分もお前らに勝てないよ。リアムもそう思うだろ?」
「当たり前だ。お前の付け焼刃な特訓がそう簡単に通用するかよ」
 ため息をついたリアムの言葉に、クルスとギュスターは今度こそ明るい顔を取り戻した。
「よかった……!」
「ホントにマジでよかった……!」
「だからってお前らも安心しすぎるなよ。何しろこいつに護身術を教えているのはこの俺なんだからな」
 リアムが釘を刺し、クルスとギュスターは改めてその事実を思い出したように大きく頷いた。
「そうだった!」
「確かに!」
「まったく、お前らは……」
 呆れたようにリアムがぼやき、俺はからかうように言った。
「いやあ、さすがリアム。相変わらずクルスとギュスターにすっごく慕われてるな~」
「どこがだ。つーか、お前も普段からあれくらいの集中力でやれよ。確かに、組手で勝ったらお祭りで何か奢ってやるって言いだしたのはあいつらだけどさぁ」
「いやいや、俺はいつも真剣にやってるよ? 今日はたまたま、リアムの指導が上手く実を結んだだけで」
「ハイハイ。おべっかありがとう」
「それにあの勝負、俺が勝たなくても、負けたから慰めてやろうとか言って、結局あいつら俺に何か奢ってくれただろうし」
 リアムとクルスとギュスターは貴族だから、自由になる手持ちの金も多少はあるだろう。だが、そもそも無料コースで館に入った俺のような者は無一文が基本だ。こうしたお祭りのときなどは館からそれらしい名目で僅かなお小遣いが渡されるが、出店で二つ三つ買い物をしたらなくなってしまう。もっとも、見習い候補の人数を考えたら、よくこんなお小遣いをくれるなぁ、と驚くくらいだ。
 だからこんな日にわざわざ賭けをしようなどとクルスとギュスターが言い出したのは、俺に気を使わせないように奢るためでもあったのだ。今回本当に二人が負けてしまったのは、俺の成長速度にちょっとした誤算があったからだろう。あの負け惜しみも別に悪気があったわけじゃないのは、俺もよくわかっている。リアムが咎めなければ、特に気に留めることもなくスルーしていたはずだ。むしろ俺としては、ここできちんと筋を通したリアムの成長に感心していた。
 俺が軽く肩を竦めてみせると、リアムは呆れたようにため息をついた。
「まあ、そうだろうな。っていうかお前、あいつらの意図までわかってたのかよ……」
「でも、リアムが俺のために怒ってくれて嬉しかった。ありがとな」
「べ、別にお前のためってわけじゃあ……」
 頬を染めてもごもごと口ごもっているリアムを微笑ましく眺めていると、不意に後ろから手をつかまれ、俺は振り向いた。と、ちょっと膨れっ面で頬を上気させているトリーの顔が目に入り、俺はパッと笑顔になった。
「トリー! 思ったより早かったですね! それにその髪型、すごく似合っています。服もいつもより可愛いですね」
 開口一番に褒め言葉が飛び出したのを耳にすると、細い三つ編みで綺麗に髪をまとめたトリーは頬をさらに染め、その後ろで重量感溢れる佇まいのエクトルがいかめしい顔をさらにしかめた。が、構わずに俺は続けた。
「三つ編みすごく綺麗ですね。髪を結ったのはエクトルでしょう? 手先が器用で羨ましいです」
 にこにこして俺が見上げると、エクトルは燃えるような赤い髪を心なしか不穏に揺らめかせ、返事ともつかない声で低く唸った。と、その横に立っていた金髪の優男がへらっとした笑みを浮かべると、頭のほうにめくれていたトリーのヴェールをするりと顔にかけ直した。繋ぎ手の島の女性は外出時によく身に着けているが、トリーの場合は日差し避け、というより瞳の色を隠すためだろう。混じり者というだけで好奇の目に晒されかねないからだ。
「いやあ、相変わらずエクトルはすぐ照れちゃうんだから。トリーも急に走り出さないでくれよ。危ないだろ? それから君、シルヴァくん」
「何ですか? トピアスさん」
「正直は美徳ではあるけれど、うちの大事なお嬢に気安く色目を使うのはやめてもらえるかな。このマセガキが」
 最後、ドスの利いた声で糸目を薄く開眼した金髪イケメンにも動じず、俺は余裕の笑みを浮かべてみせた。
「俺、トピアスさんのそういうわかりやすく裏表のあるところ結構好きです。今日のトリーの服も作ったのはトピアスさんですよね。一見地味な色で全体をまとめつつ、時折チラッとレースやフリルが見えるのが大人可愛くもあり、作った人の趣味趣向も垣間見えるというか……俺も、好きですよ! すごく!」
 ぐっと拳を握ってみせると、トピアスはギリッと奥歯を噛みしめ、喚いた。
「てめえに見せるためじゃねえ! つーか見んな! 何っでせっかくの祭りの日にてめえなんかと一緒に過ごさなきゃなんねーんだ!」
 いつものクールな立ち振る舞いもどこへやら、今にも地団太を踏みかねない剣幕のトピアスを歯牙にもかけず、トリーはふんと鼻を鳴らしてみせた。
「そんなに嫌なら少し離れてついてくればいいの。今日はシルヴァたちとお祭りを見て回る約束をしたと言ったはずなの」
 長年の友人たちに冷たく言い放つと、トリーは俺の手を握ったままさっさと歩き出した。リアムとクルスとギュスターは肩を竦め、我関せずといった様子でそのあとに続く。エクトルとトピアスは多少ご不満そうながらも、自分たちの役割を思い出したように動き始めた。
 俺は黙ってトリーについていったものの、しばらくしてそっと口を開いた。
「……トリーは本当にあの二人を信頼しているんですね。何だか安心しました」
「なっ……何でそうなるの!」
 ヴェール越しにもわかるほど赤い顔になったトリーに、俺は微笑んだ。
「わかりますよ。気の置けない友人だからこそ、ああやって遠慮なく我儘も言えるんです。でもまあ、たまには二人にも素直な気持ちを伝えられたらいいかなとは思いますけどね。そのほうが二人もきっと喜びますよ」
「そ、そんなもんなの?」
「そんなもんです。せっかくですから、トリーもこの機会に日頃の感謝を込めて、お二人に何か小さな贈り物でもしてみたらどうですか? 言葉だけだと間が持たなくても、そこに何かちょっと添えるだけでいろいろと伝わりやすくなったりしますから」
「……お前がアレを用意したのも、そういうことなの?」
 ちらりと、トリーが俺の小さな肩掛け鞄に目をやったのを見ると、俺は微笑んだ。
「まあ、そうですかね。でもこれはどっちかっていうと俺の自己満足というか、我儘というか。相手に喜んでもらえるかわからないし、何より、ただ俺がしたいからするって感じですから、ちょっと違うかも」
「……ふぅん」
 気のないふうに鼻を鳴らしながらも、握っているトリーの手にきゅっと力が入ったのを感じ、俺はそっと唇を綻ばせた。そして何気なく視線を落とした俺は、それにふと気づいた。別に大きなリアクションをしたわけではない。だが俺の視線の動き、おや、という小さな心の揺らぎを敏感に察したのだろう、トリーは不意に俺の手をパッと放した。まるで庇うように、さっきまで俺と繋いでいた右手を握り締める。
「トリー? どうかしましたか?」
「その……えっと……」
 トリーの顔が泣きそうになっているのが、ヴェールに隠れていてもわかる。俺は咄嗟に口を開いた。
「珍しいですよね。俺の村では幸運の指って呼ばれてました。実際に目にするのは初めてですけど」
「っ……………………!」
 大きく目を見開き、息を呑んだトリーに、俺は続けた。
「何でも、そういう指を持つ人はすごく手先が器用らしいです。俺の村には以前、その幸運の指を持つ人が代々生まれる血筋があったらしいんですが、いつの間にか途絶えてしまったとかで。その人たちが作った織物は本当にすごい細かくて、いまだに誰も真似できないくらい綺麗なんですよ。トリーの絵が素敵なのは、努力や才能の他に、その幸運の指のおかげでもあるかもしれませんね」
「そ……そんな話、聞いたことないの。でたらめだったら、許さないの」
 その声が心なしか震えていることには気づかないふりをして、俺はにこやかに手を差し出した。
「俺の母は村に来る前、水の都で医者をしてましたが、その時に一度だけ幸運の指の持ち主に会ったことがあるそうですよ。何でも水の宮殿付きの医者で、その人が縫った傷は、糸を抜いて完治したら跡も残らないほど綺麗だったとか。でも、はっきり言ってそんなこと今はどうでもいいです。俺がこの人混みの中、トリーとはぐれて迷子になったらどうしてくれるんですか。泣きますよ。だから、ね?」
 ちゃんと俺と手を繋いでいてください。
 差し出したままの俺の左手に、トリーは親指を隠すように握りしめていた右手を伸ばすと、おずおずと重ねてきた。恐らくいつも当たり前のように右手の親指を隠すようにしていたのだろう、俺もずっと気づかなかったが、トリーのその指は他のものより横長で短く、爪も平らだった。いわゆる短指症というヤツだ。腐女子時代、とあるモグリの天才外科医の漫画で読んだことがある。でも、だからどうした。見た目が少し変わっているだけだし、器用だろうとそうでなかろうと、実際どうでもいい。
 俺はトリーの右手をしっかり握り、その親指に軽く唇を触れさせた。
「っ……………………!!!」
「はい、これでトリーの幸運の指の御利益で、俺も少しくらい器用になれればいいんですけどね」
「そうだな。ちなみに俺もお前に言いたいことは山ほどあるが、取り敢えずそれまでお前が生きていればの話だがな」
 青筋を立てつつ青ざめるという器用な面持ちのリアムの忠告に顔を上げた俺は、トリーの保護者二人の形相にさすがに息を呑んだ。
「トリー! 絵を見に行きましょう! 早く!」
 トリーの右手をつかんだまま俺が走り出すと、その後をリアムとクルスとギュスターが慌てて追いかけてきた。人混みを縫うように駆け抜け、息を切らしながら少し開けたところで振り返ると、人波に呑まれて足取りを阻まれているエクトルとトピアスが見えた。背が高いおかげで、雑踏の頭越しにこちらに睨みを利かしている二人とばっちり目が合ってしまう。
「うわぁ、ヤバい……」
 青ざめながら呟いた俺に、リアムが追い打ちをかける。
「だから、息をするように誰彼構わず口説き始めるのはやめろって言っただろーが!」
「そういうつもりは……いや。心から反省してます……」
「取り敢えず、どっか隠れるとこは……」
「私の絵を見に行くんでしょう? こっちなの」
 トリーがいつものツンとした調子を取り戻しているのに気づき、俺はほっとして頷いた。もう大丈夫そうだ。
「はい、トリー。リアム、行こうぜ」
「まったく、せっかくの祭りの日にまで勘弁してくれよ……」
 何だかんだとぼやきつつも、リアムはクルスとギュスターを促して俺とトリーの後に続いた。近くの路地に入ると、そこも小さな露店が並び、たくさんの人で賑わっていた。串に刺さった甘辛の揚げ団子や、多肉植物のジュース、色鮮やかな織物、装飾品の数々、珍しい楽器や文具、高級食材から怪しげな薬まで、様々な物を扱った店が細い道にところ狭しと溢れている。そこら中に美味しそうな匂いが漂い、面白そうなものがたくさんあって、実に刺激的だ。星雨祭の時は大通りを見て回るので終わってしまったが、この路地という小宇宙には新たなわくわくしかない。
「おお! これはすごいですね!」
 見習い候補は伝導の館から出る機会がほとんどないので、俺は物珍しさについきょろきょろしてしまいながらも、財布と大事なものが入った鞄をしっかりと胸に抱えて歩いていた。光の都は一応観光地としても名高いし、治安はある程度良いらしいが、やはり俺がかつていた平和な国ほどではないはずだ。腐女子時代に至っては海外渡航の経験もないので、防犯対策などの知識にも乏しい。取り敢えず精一杯スリに気をつけつつも、俺は久しぶりのウインドーショッピングを楽しんでいた。
 と、不意に繋いでいた手をトリーに強く引っ張られ、俺は立ち止まった。
「トリー? 何か買いたい物でも見つかりました?」
 足取りも軽く俺がくるりと振り返ると、そこには何やら息を切らした皆の姿があった。
「え? あれ? どうした、お前ら。まだちょっとしか歩いてないだろ? 何でそんなに疲れてんだ?」
「いやいや……お前のほうこそ何でそんなに歩くの早いんだよ? しかもこの人混みの中……ふらふらふらふらしやがって。しかもよそ見しながら一度も人にぶつかってないとか、おかしいだろ!」
「いや、何かこう、体が勝手に人を避けていくというか……」
「組手のときだってここまで滑らかに動けねえくせに、ホント何なんだよ! ずっと都に住んでる奴くらいだろ、こんな人混みをひょいひょい歩けるのは! お前の村は辺境のド田舎にあるんじゃなかったのか?」
「え? あ~……」
 そういえば、かつて一時期、満員電車とかいう地獄の空間にぎゅう詰めにされたあと、大河のように流れる無表情な人の群れの一部になったり、時に孤独な逆走をしたり、都合によっては自由自在に渡るのが日常茶飯事だったこともあったなぁ。特に朝は競歩並みの足取りでスーツ姿の老若男女をゴボウ抜きにしていたものだ。そうか、すっかり忘れ去られていたはずのあの経験は、魂レベルで俺に刻印されていたのか……。
 一瞬、空虚な眼差しで無を見つめたものの、俺はすぐに立ち直った。何とか笑みを張り付けて言う。
「いやあ、何か夢中になっちゃって。トリー、すみません。大丈夫ですか? 大通りより雑多な店が多い分、路地は面白いですね。トリーの絵が置いてある店もこの辺にあるんですか?」
「もう……すぐそこなの」
 息も絶え絶えといった様子の一同の総意を汲み、俺たちは近くの露店で喉を潤して一息ついたあと、改めてトリーの絵が置いてあるという店に向かった。トリーは露店という言い方をしていたが、その辺りの店は夜間も品物を安全にしまっておける倉庫が整備されており、交通の面から見てもかなり立地の良い区画にあった。道幅も少し広くなり、行きかう人たちの身なりも洗練されたデザインが多くなったように見受けられる。
 トリーの案内で目的の店に入ると、白いテントの中は強い日差しを遮りつつも明るく、画材独特の油と、ツンとした刺激臭がそこはかとなく漂っていた。外から見たときはそこそこ広く感じられたが、画風も統一されていない絵が一見混沌と並べられた様は、あたかも色彩が全ての感覚を奪うかのように見る者に襲いかかり、思わず立ち竦んでしまうほどの迫力で満ちていた。
 俺はもともと美術には明るくないし、審美眼といったものも特に備わっていないが、ここにあるのは全て、多くの絵描きたちが各々の個性を存分に発揮させた作品であることだけは何となく伝わってきた。これだけの枚数が揃っていながら、似たような絵が一つとしてないというのは、本当にすごいことだ。ちなみに見えるところに無粋な値札などはついていないが、恐らくどれも非常に高額なことは、その縁を彩る立派な額で容易に想像がつく。
 賠償責任など当然取れないので、とにかくうっかり触って傷などつけないよう細心の注意を払いつつも、俺は近くにあった絵をそっと覗き込んだ。目がチカチカしそうなほど色鮮やかな絵もあれば、ふんわりと儚げな色調の絵も飾られている。同じモノトーンの絵でも、水墨画のように濃淡で水の流れや風のそよぐ様まで表現されている絵もあれば、抽象画のようにそもそも何が描かれているのか凡人の俺などには全く理解できない絵もあったりする。
 ただ、いろいろな絵をしばらく眺めていて気づいたが、画風は千差万別でもこの店の絵には一つだけ共通点があった。それは何かの伝説の一場面を切り取った絵だということだ。物語には目がない俺だが、この世界には気軽に入手できる媒体が極めて少ないため、何の伝説を描いたものかわからない絵もかなりあった。しかし、やはり一番多いのは有名なオルカミルの勇姿を描いたものだ。長い黒髪を風になびかせた美青年が、青い瞳を物憂げに煌めかせ、銀色の巨大な鳥を打ち倒す瞬間というのは、どう描いても美しくならないはずがない。恐らく人気も高いのだろう。
 そしてトリーが慣れたふうに店主と挨拶を交わし、新たに受けた発注について打ち合わせしているのを小耳に挟みながら、俺は店に飾られた絵の画風に統一性がないことの意味を知った。ここに並べられているのは、いわゆるサンプルだ。もちろん購入することも可能だろうが、ここに来るほとんどの客の目的は、飾られた絵の中から好みの画風の絵描きを指名し、己の望む絵をオーダーメイドで新たに描かせることにある。この店はいわば仲介業者なのだろう。
 店主とのやり取りを終えると、トリーは数あるオルカミルの絵の中の一枚をじっと見つめている俺の隣にそっと並んだ。
「……これ、トリーの描いた絵ですよね。もしかしなくても、割と最近の作品ですか?」
 トリーには目を向けずに俺が問うと、小さなため息が返ってきた。
「別に言い訳はしないの。オルカには絵のモデルにしてもいいか一応許可は取ったの。妙に世情に疎いから、本当に意味がわかっているかは定かじゃないけど、さすがにそこまで面倒見切れないの」
「まあ、あまり理解してない可能性は高いですが、理解してたとしても恐らく興味がない範疇だったでしょうから、そこは構わないと思います」
「お前は相変わらず優しいんだか冷たいんだかよくわからないの」
「うん?」
 どうしてここでそういう感想が出てくるのか、俺のほうこそよくわからなかったが、取り敢えず受け流すことにした。
「まあ、それはともかく、この絵の男はオルカミルってことでいいんですよね? どんな伝説の一場面ですか? オルカミルの伝説はいろいろありますけど、どれも割と有名ですよね。俺も一通りは知ってるはずですが、これはちょっとわからなくて」
 俺の目の前にあるその絵には、長い黒髪と青い瞳を持つオルカによく似た美青年が、白、黒、赤、青、黄、五つの色に光り輝く珠を抱き、世界の中心で絶えず降り続ける星の雨へと飛び込む瞬間が描かれていた。繊細な筆遣いで絵としてはとても美しいが、どこかハッピーエンドとは思えない切なさが画面から滲んでいる。気のせいかもしれないけれど、この後の展開を知らないだけに何だか胸がざわざわする。
 トリーは俺のもやもやした気持ちを知ってか知らずか、肩を竦めて言った。
「これは時の剣士と呼ばれる英雄で、伝説によっては柩の守り手とも時の裁き手とも言われているの。オルカミルの伝説は驚くような奇跡で困っている人を助けたり、恐ろしい彷徨い人から大切なものを取り戻したり、街を襲う怪鳥を倒したり、そういうわかりやすくて最後はみんな笑顔になれる話が多いのは事実なの。でも、この時の剣士の伝説は違うの。もちろん、多くの人がそう信じているように、時の剣士とオルカミルが全く別人の可能性も大きいの」
「でも、トリーは時の剣士とオルカミルは同一人物ではないかと考えているんですね?」
「そういう可能性もある、という一説があるだけなの。風の民がいなくなった理由と同じように、本当のことは誰にもわからないの」
「まあ、そうですね。ただ、俺は時の剣士という英雄については初めて聞いたんですが……」
「創世の伝説で、この世界の均衡が崩れたときに、五つの民からそれぞれ特別な力を持った手が現れる、という精霊のお告げについてはお前も聞いたことがあるはずなの」
「ああ、さっきも言っていた柩の守り手とか、時の裁き手のことですね。柩の守り手は闇の民で、時の裁き手は水の民でしたっけ。島の呼び名も、基本的にはこの五つの手が由来ですしね」
「時の剣士というのは闇と水の混じり者で、柩の守り手でもあり、時の裁き手でもあったと言われているの」
「なるほど。オルカミルと同じ闇と水の混じり者だし、いろいろな意味でどちらも兼ね備えていると言えなくもないですが、さすがにちょっと設定を盛りすぎな感じも……。あ! でもそういえば、時の裁き手の伝説でなら、この絵と同じような場面の話があった気がします!」
 不意に思い出して声を上げた俺に、トリーは頷いた。それから近くで俺たちの話を聞いていたリアムたち三人に顔を向け、トリーは言った。
「お前たちは闇の民だから、柩の守り手の伝説でなら、この絵の場面の話を聞いたことがあるはずなの」
「ああ、もちろん。よく知ってる」
 リアムは頷くと、思い出すようにしながら続けた。
「創世の伝説では、この世界は無から風が生まれ、やがて光と闇ができた。そして光と闇がぶつかり、光に飛び散った闇が水となり、闇に飛び散った光が炎となった。そして光と闇がぶつかった場所には、その衝撃で生まれた星の雨が降るようになった。星の雨で守られた世界の中心には、同じく光と闇がぶつかった瞬間に生まれた世界の核が浮かんでいた」
 リアムは絵の中の美青年が抱く、五つの光を放つ珠を指し示しながら言った。
「この珠が世界の核だ。風、光、闇、炎、水、この世界を構成する五つの精霊はこの核から生まれたが、ある時その核が世界のどこかに落ちてしまった。世界の均衡が崩れたそのとき、闇の民の中から柩の守り手が現れ、様々な苦難の果てに世界の核を見つけ出した。柩の守り手は世界の核を星の雨の中心、始まりの柩に納め、今もなお大切に守り続けている……」
「俺が知ってる時の裁き手の伝説と同じだ」
 俺が呟くと、リアムとクルスとギュスターが一斉にいやいやと首を振った。
「始まりの柩を守るから、柩の守り手なんだぞ。悪いが、ここに時の裁き手の出る幕はない」
「いや、あるって。そもそも世界の均衡が崩れたとき、時を止めて世界の崩壊を最小限に抑えたのは時の裁き手だし。大体、星の雨が降り続けているのに何もせず突っ込んだら直撃を受けて、その中心にある始まりの柩に辿り着く前に死んでるよね。それに寿命があるはずの柩の守り手が、創世の時代から今なおその使命を全うしているとしたら、時を操れる裁き手の助力なくしては成しえないはずだ」
「うっ……いや、まあ、それはそうかもしれないが……」
「ちなみに、両方を兼ね備えている時の剣士なら、そこまで一人でも可能なの」
 トリーの追い打ちに、リアムとクルスとギュスターは降参したように呻いた。
「た……確かに」
「それに崩壊しかけた世界を直したのは炎の癒し手と光の繋ぎ手だし、星の雨までの案内は羽の導き手によるものだという伝説もあるの。五つの手には最初からそれぞれ違う役割があるということなの」
 トリーのもっともな言葉に俺は深く頷いた。
「まったく、トリーの言う通りです。一人でできることには限界がありますからね。手柄の独り占めはよくありません」
「いやいや、それを言うなら時の剣士のほうがよっぽどだろ……っていうか、もしオルカミルと同一人物だったら、そのほうがずっとやばいじゃねえか! 英雄にも程があるだろ!」
「本当だ……オルカミルすごすぎだな……」
「何でもかんでも一人でやりすぎだろ……」
 げっそりとした面持ちで呟いたクルスとギュスターに、トリーが多少呆れ気味に付け加えた。
「時の剣士の伝説がこんなにもてはやされているのは、恐らくこの光の都だけなの。現にお前たちも時の剣士について知らなかったの。そもそも光の都は伝導の館から排出される語り部や絵描き、役者や歌い手で溢れているし、光の民も派手好きが多いし、地域性によるものが大きいの。英雄がすごければすごいほど物語として盛り上がるから、みんなこぞって芝居の公演をするうえに、観光客も喜ぶの。そういう意味でも、柩の守り手と時の裁き手を兼ね備えた時の剣士が、有名なオルカミルと同一視されていることがここではほとんどなの」
「……オルカミルが、世界の均衡を守った時の剣士……」
 目の前にあるオルカにそっくりな英雄の絵を見上げながら、俺は胸元のペンダントを握り締め、今ここにいない大切な人に想いを馳せた。俺が今身に着けているのは、村を出るときに父からもらったガラスの小瓶と対の、そっくり同じペンダントだ。これは俺が村を出るとき、一番上の兄が餞別としてくれた木箱の中に入っていた。カノンの旅立ちに際し、オルカに預けた父のペンダントのように、こちらも村を出る前に俺の能力で集めた水が入っている。
 まだ村にいた頃、俺は水の民の能力の一つに、水を介した通信の可能性を考えていた。そしてその実験に使いたくて、ガラスの小瓶が二つ欲しいとかねがね姉に漏らしていたのだ。父と兄はそれを伝え聞き、俺が村を出る際にそれぞれ一つずつ作って贈ってくれたわけだ。もっとも村を出たあと、暇を見ては何度も実験を繰り返したが、一度も上手くいった試しがない。オルカに片割れを渡してしまった今、これまで以上に念じたが、カノンやオルカの様子が垣間見れたことなど本当に微塵もない。
 だから今は、離れていても同じものを持っているという気休めでしかないのだが、それでもこの対になったペンダントを介して、せめて俺の想いが二人に届いてほしいと切に願う。
 オルカは英雄なんかじゃなくていい。多くの人を魅了するオルカミルや、世界の均衡を保つため星の雨に身を投じた時の剣士なんかじゃなくていい。ただ、俺の大切な友人であるオルカとカノンにまた逢いたい。そして今度のお祭りのときにはオルカと一緒にこの絵を見て、本物の時の剣士がここにいるぞとからかったり、それを聞いたトリーとカノンが笑い合えるようになっていてほしい。本当にそれだけだ。
「……シルヴァ。大丈夫か?」
 黙り込んでしまった俺を心配するように、リアムが顔を曇らせた。
 俺は一瞬過ってしまった湿っぽい気持ちを振り払い、パッと笑顔を作った。
「もちろん! さすがオルカミルはすごいな! でもまあ、トリーの絵も十分堪能したし、そろそろラチカのところに向かおうか。せっかくのラチカの晴れ舞台をうっかり見逃したら困るし」
「お、そうだな。あいつの実力がどんなもんか、しっかり確かめてやらないとな!」
 俺のカラ元気を鼓舞するように、リアムが意気揚々と声を重ねてくれた。そんなさりげない気遣いに感謝を込め、俺はリアムに向かって大きく破顔してみせた。
「よし! じゃあ早速、中央広場に……」
 店主に暇の挨拶をし、白いテントから外に出た途端、俺たちは待ち構えていたエクトルとトピアスに取っ捕まり、大通りに着くまで延々とお叱りを受ける羽目になったのだった……。

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