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2. 腐女子、推しと遭遇する

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「大丈夫かね? 怪我などはしておらんか?」
 目の前のダンディなお爺様が発した声を耳にした瞬間、私は驚愕のあまり、転生後のこの十年間が軽く吹っ飛ぶほどの衝撃に身を震わせた。
 火師さん!!! その胸に響く深い重低音の素敵すぎる声は、我が心のアイドル、火師さんじゃあないかぁあ!!! 二度と、もう二度と聞くことはないと思っていたのに、まさかこんなところで耳にすることができるとは!!!
 感動のあまり声もなく目を見開いていると、火師さんボイスのお爺様は私が先程の出来事にショックを受けていると勘違いしたのか、さらによしよしと優しく頭を撫でてくれた。実のところ、私は頭を撫でられるのが大嫌いなので、生前も今も意識があるときに頭を触れられるのを許したことはほとんどない。
 が、このお爺様は別だ!!!
「立てるかね?」
 ようやく少しだけ我に返り、私は素早く立ち上がった。そして私を助けてくれたせいで、まだ地面から立ち上がれないお爺様に、そっと手を差し出した。
「すみません。助けていただいて、本当にありがとうございます。お怪我はありませんか?」
 お爺様は驚いたようにちょっと目を見開くと、私の手につかまり、ゆっくりと立ち上がった。
「……ふむ、何とか大丈夫のようだ」
 深緑のローブについてしまった土を払い、何かを探すように周囲に目をやる。どうやら何か落としてしまったようだ。
 私はハッと思い至り、言った。
「ちょっと待っててください。見てきます」
 安心させるように微笑み、私は先程お爺様が飛び出してきた森の付近へと駆け出した。すぐに上等の布にくるまれたものが何か落ちているのに気づき、大切に拾い上げる。布についている土を丁寧に払っていると、お爺様が体の調子を確かめるようにゆっくりと歩いてきた。私が手にしているものを見て、安堵したように笑顔になる。
「やれやれ、よかった。見つけてくれてありがとう。それは私にとってすごく大切なものなんだ」
「これは何ですか?」
 十歳児の体だと一抱えはある大きさだ。厚手の布を通した感触だが、硬い枠のようなものでそこそこ重量がある。大方の見当はついたが、お爺様に渡しながら敢えて尋ねた。
 するとお爺様はそれを大切そうに受け取りつつ、私に向かって悪戯っぽく聞き返した。
「君は何だと思う? 言ってごらん」
 何か試されているような気もしないでもないが、取り敢えず思ったことを正直に口にした。
「竪琴ですか?」
「どうしてそう思ったのかね?」
 質問返しか。まあ、いいだろう。私は肩を竦めて答えた。
「布の上から触った形状から、そんな感じがします。あと、この辺りの異変を解決するために、竪琴の奏者を呼ぶかもしれないと村で聞いたことがある。何よりあなたは光の民だ。商人のようには見えないし、水の民でもないのに夢見人の島のこんな僻地に来る理由は、すごく限られているからです」
 生意気に聞こえるだろうなぁ、と半ば諦めていたが、お爺様は存外気に入ってくれたようだ。愉快そうに笑って頷いてくれた。
「なるほど、素晴らしい。正解だ。君は頭がいい」
「……ありがとうございます」
 曖昧に微笑んで首を傾げた私を見ると、お爺様は少し訝しげに目を細めた。
「……褒めたつもりだったのだが、君はそう言われるのがあまり好きではないのかな」
 私は瞬きを一つした。
「……そうですね。俺は頭がいいわけではありません。今は子供なのでそういうふうに感じるだけです。大人になったらただの凡人ですよ」
 腐女子時代でさえ、本音を口にすることはあまりなかった。何故ならそれが処世術というものだからだ。しかもここは閉鎖的な村社会で、今は子供のなりだ。こういった捻くれた物言いをすると余計な火種を産むことになるので、普段は絶対に口にしない。
 だが、お爺様は村の人間ではないし、たまには自分に正直になることを許してもいいだろう。湖から闇のような鳥が出てくるとか、異常事態に遭遇したばかりだし、やはり少し神経が高ぶっているようだ。と、自分に言い訳してみる。
 お爺様は私の言葉を聞いても特に不快に感じなかったらしく、むしろ興味深そうに小さく頷いてみせた。
「なるほど。では、君のことを私に教えてくれないか? まずは私のことを君に知ってもらおう。私は繋ぎ手の島にある光の宮殿の、館の伝導師だ。名はセレスト。君が先程見抜いたとおり、竪琴の奏者をしておる。君に会えたことは本当に時授かりだった。私に聞きたいことがあったら、何でも尋ねておくれ。答えられることは何でも教えよう」
 光の宮殿に併設されている、館の伝導師。つまりこの人は普段、教職のようなことをしているのだろう。子供の扱いに慣れているのも納得がいく。だが、それ以上に誠実で、人の心をつかむのが非常に上手い。私のように若干、素直さの所在が自分でもわからなくなりかけているような人間でさえ、つい絆されてしまうような懐の深さを感じずにはいられない。
 ……というか、想像以上に身分の高い人だった。私は慌てて右手を胸に当て、深く頭を垂れた。この世界での正式なお辞儀だ。
「この時を授かり光栄です、竪琴の伝導師さま。知らぬこととはいえ、大変失礼しました。俺は近くの村に住んでいるガラス職人オレヴィの息子、シルヴァです。どうぞよろしくお願いします」
 改めて丁重に挨拶した私を見ると、竪琴の伝導師は寛容に笑って言った。
「礼儀正しいのは何よりだ。けれど私に対してそんなふうに畏まる必要はない。もっと自然に振舞っておくれ。私も仰々しいやり取りは得意ではないのでな。周りに人がいないときは、セレストと呼び捨てにしてくれて構わんよ」
 念のため、真意を確かめるようにセレストの緑の瞳を見つめ、それから私は微笑んだ。
「ありがとうございます、セレスト。では、早速質問なのですが、さっきのアレは何ですか? 黒い……闇の塊のような鳥が、湖から出てきたように見えました」
 そう、私の私による私のためだけのワンマンライブでアニソンを熱唱しながら、湖の水を使って巨大な虹の特殊効果を発動させるという遊びをしていたら、急にあの影が湖の底から湧き起り、鳥の形になってどこかに飛び去った。あの時、セレストが私を抱えてその場から離れてくれなかったら、私もあの黒い影に取り込まれていたかもしれない。
 今思うと、なかなか危険な状況だった。身を挺して助けてくれたセレストはまさに命の恩人だ。本当に感謝しかない。
 私の問いに、セレストは思案するように首を傾げた。虹の消えかけた湖を眺めつつ、慎重に答える。
「……ふむ、そうだな。実のところ、私にもアレが何かはわからない。だが、あの闇の鳥がこの地から飛び去ったことで、恐らく今まで続いた異変は少しずつ消え去るだろう」
「つまり、あの鳥がこの森の湖を干上がらせていた原因ってことですか?」
「断言はできん。しかしその可能性は高い。片翼であったことも引っ掛かる。飛び去った行方も気になるし、これで終わりとはならないだろう。伝導の館に戻って古い資料を調べたり、いにしえの物語に詳しい語り部に尋ねてみれば、何か手掛かりがつかめるやもしれん。とにかく、しばらく様子を見る必要がある」
 まあ、現時点においては妥当な回答だ。私の推測とも大体一致する。だが、セレストが続けた言葉に私は思わず飛び上がった。
「しかし私が思うに、シルヴァ、君のほうが何か心当たりがあるのではないか? 私には、君の歌があの闇の鳥を呼び覚ましたように見えた。君が歌っていたあの言葉は、いにしえの歌や各地の伝承歌を知る伝導師の私も、全く聞いたことがないものだ。曲調も非常に独特で、他に類を見ない。この地方に昔からある歌なのかね?」
「…………」
 転生歴十年でいろいろと誤魔化すことに慣れていた私も、咄嗟に言葉が出なかった。
 違いますっ! あれはただのアニソンですっ! 歌詞も楽曲も、ついでにアニメの本編も、日本が世界に誇る文化の結晶ではあるけれど、この異世界には全くいわれのない代物です……。
 故に、あの歌が闇の鳥を呼び覚ますトリガーになったとは考えにくい。むしろ可能性があるとしたら、私が湖の水を使って発生させた虹が原因ではないだろうか。不純物の少ない水質でありながら、この湖がやけに暗かったこととか、生物が全くいなかったこととかを考え合わせても、私が霧状にして空中に広く散布した湖の水に、あの闇の鳥が溶け込んでいたのはほぼ間違いない。
 が、水の民の能力はあくまでも水鏡で占うことだ。手のひらサイズの小さな虹くらいなら、水鏡を作るときに偶然できたとかで誤魔化せるかもしれないが、それこそ偶然とはいえ隣の島まで架かりそうな巨大な虹を作ったなどと、誰かに知られるわけにはいかない。ましてセレストは光の民だ。
 が突如、それ以上に重要な事柄に気づき、私は愕然と目を見開いた。
 …………っていうか、聞かれてた? 聞かれてたの? 私の私による私のためだけのワンマンライブを? ……はっ、恥ずかしすぎる!!! えっ? ちょっと待って? 私あの時、すごいノリノリで歌ってたよ? まさか、あの醜態を一部始終見られてたわけ? あ、あり得ないんだけど!!!
 真っ赤になった顔を両手で覆い、いきなりその場に座り込んだ私を見ると、セレストは驚いたように身を屈めた。
「ど、どうした? どこか具合でも……」
「……見てたんですか?」
「……んん?」
「……見てたんですか? 俺が歌ってるとこ」
 指の隙間から赤い顔でじっとりと見上げると、セレストは瞬きを一つし、なだめるように言った。
「すごく、上手だったぞ。伝導の館にいるどの歌い手にも負けないくらい、よい歌声だった」
 お世辞とかはどうでもいい。これでも生前はカラオケの採点で、どんな歌でも九十点以上は出してきた。だから得意になれるほど上手くはないが、羞恥するほどの音痴でもないことはわかっている。確証はないが、体感的に今でもそれほど音痴ではないはずだ。
 けど、そこじゃない!!! 一人きりで、誰にも見られてないと思って熱唱していた姿を見られた、そこが問題なのだ!!!
「し、信じらんない!!! あれを見られてたとか!!! うわあぁあぁあっ!!!」
 頭を抱えて羞恥にのた打ち回っていると、セレストが本日二度目のよしよしを行使してくれた。
「ほれほれ、そんなふうに言いなさんな。先程の歌声は本当に素晴らしかった。誇ってもよい。伝導師の一人であるこの私が思わず聞き惚れるほどに、美しい歌声だったのだからな。是非、また聞かせておくれ」
 ……あ~、もう。某有名魔法学校の校長先生のような素敵な容姿で、我が心のアイドルである火師さんの声を発し、そんな蕩けるような口説き文句を優しく言われたら、枯れ専ではなくても惚れてしまうではないか。
 まあ、私はかなり健全なタイプの腐女子なので、祖父と孫(しかもショタ)ばりの年齢差が激しすぎて、BLというよりほのぼの路線しか未来を見出せないのがやや難点だ。……くっ、せめてあと十年早くこの世界に転生していれば成人済みだから、私的にもギリギリいけたかもしれないのに!!!
 ……とはいえ、見られてしまったことは今更仕方がないので、そろそろぐずるのはやめることにした。実際問題として、本当に解決しなければならない事案に着手せねば、これからの私の生活に影響が出てしまうだろう。
 私は大きく息を吐きだし、顔を覆っていた両手を下ろしながらゆっくり立ち上がると、覚悟を決めたようにセレストを真っすぐ見つめた。
「……わかりました。俺が知っていることは話します。ただ、どうしても聞いてほしいお願いがあるんです」
「……ふむ、そのお願いとは何だね?」
「俺がここで歌っていたことは、村の人間には言わないでください。さっきの虹と闇の鳥は、あなたの竪琴の音色が呼び覚ましたことにしてほしいんです」
 セレストは私の真剣な眼差しを値踏みするように見つめながら、思案するように言った。
「……そうしてほしい理由を聞いてもいいかね?」
「村での生活を守りたいからです。多分、さっきの出来事は村からも見えたはずだ。本当に伝説みたいなことが起きるのは、きっと長老たちでも初めてでしょう。すごいことではあるけれど、俺がそれに直接関わっていたことは知られたくない。俺の、村での居場所がなくなってしまうもしれないからです」
 セレストは私をじっと見つめ、それから虹の消えた湖に目をやりながら静かに尋ねた。
「……君は、いつも一人でここに来るのかね?」
 その質問の意図を察し、私も湖を眺めながら答えた。
「……俺の両親はとてもいい人たちです。母は村で唯一の医者で、父は優秀なガラス職人です。上の兄は寡黙ですが優しいし、俺を育ててくれた姉には本当に感謝しています。すぐ上の兄とはあまり気が合わないんですが、まあ何とかやってます。妹も、最近は結構可愛いと思えるようになってきました。村の人も親切だし、友達もいるし、かなり上手くやっているつもりです。けど……俺は異物なんです」
 セレストの視線がこちらに向いたのを感じたけれど、私は構わず続けた。
「周りが俺のことをどう感じているかは問題じゃない。俺が、自分のことをそう感じてしまうのが問題なんです。誰も悪くない。周りも、俺自身も。俺はただ、どうしたらここが自分の居場所だと思えるのか、それがわからないだけなんです」
 そして実は、これは転生後に始まった話ではなかった。生前の腐女子時代から、私は自分が異物だと感じていた。生前の両親もいい人たちだったし、兄弟はいなかったが、特に欲しいわけでもなかった。学校でも、勤め先でも、そこそこうまくやってきた。
 でも、実家のリビングで両親と一緒に談笑しているときや、一人暮らしのアパートで一人のんびりくつろいでいるとき、ふとした瞬間に思ってしまうのだ。早くうちに帰りたい、と。
 私は最初からずっと、自分の居場所が見つけられないままなのだ。だからさっきもセレストにはああ言ったが、多分、悪いのは私自身だ。
 セレストが私のことをどう思ったのかはわからない。だが、しばらく沈黙したあと、セレストは言った。
「……君の望みは理解した。誰かを傷つけるわけでもないし、別に構わんだろう」
 私はほっとして肩から力が抜けるのを感じた。
「じゃあ……」
「だが、君の手柄を私が横取りしてしまうのはよくない。だから私たちは偶然、森の中で出会って、あの現象を目撃した。そういうことにしようじゃないか」
「それは……はい。あなたがそれでいいのなら、俺は構いません。我儘を聞いてくださって、本当にありがとうございます」
「……ふむ、君はいつでもとても礼儀正しい。それはとてもいいことだが、たまには心のままに過ごせるとよいな。君はまだ、子供なのだから」
「……そうですね」
 私が曖昧な微笑みを浮かべてみせると、セレストは悪戯っぽく付け加えた。
「先程、君が歌っているのを見たときは、本当に天真爛漫で、精霊の愛し子のようだったぞ」
 私は一気に赤くなった顔を再び両手で覆った。
 ちなみに精霊の愛し子とは、生まれたばかりの幼いもの全般に慈しみを込めてつけられた呼称だ。人間の赤ん坊から、まだ飛ぶことを知らないひな鳥、土から顔を出したばかりの植物の芽、若葉、蕾、天に湧き始めた雲、あらゆるものに適用される。主な意味合いとしては、無邪気で愛らしい、といったところか。
「さっきのことは、もう言わないでください! は、恥ずかしすぎる!!!」
「わかった、わかった。だが、あの不思議な歌のことは教えてくれるのであろう?」
 両手からようやく顔を上げたものの、私はややバツの悪い思いでセレストを見た。
「そのことなんですが……」
「うん?」
「あの、歌はですね……」
「……うむ」
「村に昔から伝わるもの、とかではなくてですね……」
「ふむ」
「……俺が、夢の中で聞いた歌なんです」
 セレストが私の顔を見ながら、大きく目を瞬いた。
「……夢?」
「……はい」
「夢というのは、夜、寝ているときに見る、あの夢かね?」
「……そう、です。その夢です」
「……ふむ」
 さすがに少し考え込むように口を噤んだセレストを見ると、私は慌てて言葉を繋いだ。
「えっと……ですね。俺は昔から、すごく変わった夢を見ることが多くて。今まで誰にも言ったことはないんですが、色とか言葉もすごいはっきりしていて。目が覚めてからも、本当によく覚えているんです。何度も同じ夢を見ることがあって、それであの歌も覚えたんです……」
 いくらリアルにファンタジーな異世界でも、ちょっと無理があるだろうか。けれどこれしか言い訳のしようがない。何故ならこの世界には、前世という概念そのものが存在しないからだ。
 この世界に存在する全ての生き物は、その命を終えると、世界の底にいる竜の御許に魂が還るとされている。祝福の民が住まう浮揚島を結び巡る魂の川は、竜の息吹で浄化される順番を待つ、ありとあらゆる生命の魂の集合体なのだ。やがてその順番を迎え、竜の吐く炎で浄化された魂は、無事にきれいさっぱり消滅する。燃え残ったり、有毒ガスを発生したり、ましてリサイクルされて別の肉体に再び宿ったりはしないのだ。
 実際のところは知りようもないが、とにかく人々の間では広く深くそう信じられている。それ故、生まれ変わりはもちろん、天国や地獄といった死後の世界もない。当然、文化や言語や物理法則など、ありとあらゆることが異なる地球のような世界が存在する、という可能性すら人々の発想にはない。何故なら全ての事象はこの世界の中で完結するからだ。
 つまり一大決心をして本当のことを話したとしても、信じる信じない以前の問題で、恐らく理解されることがない。それならば、騙すわけではないが、できるだけ真実に近い形で理解されるように話すしかないではないか。不思議ちゃんだと思われたとしても、ある意味それが私にとっても一番害のない選択肢だ。
 セレストはしばらく沈黙したのち、感情を読み取らせないまま、私に尋ねた。
「あの不思議な言葉の意味は、わかるのかね?」
 私は慎重に、だが如何にも無防備に、瞬きを一つした。この質問は想定内だ。
「……わかりません。ただ、夢の中で聞こえたまま、歌っただけなので……」
 感情を揺さぶられてはいけない。余計なことも口にしてはいけない。だが、それだけでは何か隠していることを簡単に見破られてしまうから、ほんの少しだけ真実と、気を引くような感情を見せて誤魔化すのが、私の常套手段だ。
 私はさっき聞かれてしまったアニソンのサビを少しだけハミングし、心から微笑んだ。
「……でも、この部分はすごく好きです。何というか、開放的な気分になる。鳥みたいに、本当に天に舞い上がることができるような……そんな感じがするんです」
 歌詞ではなく、あくまでもメロディーだけを思い浮かべて口にする。そしてこれは私の心からの感想だ。
 例えどんなものでも、真実が持つ力は強い。それが感情ならば尚更だ。どんなに演技力があったとしても、嘘の感情のまま発した言葉では薄っぺらく感じられてしまうだろう。だが最初は嘘だったとしても、それが真実だと心から思い込むことができたなら、それはやがて偽りのない真実となる。真実とは何と儚く曖昧なものか……だが、そこがいい。
 恐らく私がどんなに頑張ったところで、セレストを完全に納得させることはできないだろう。あの美しい緑の瞳は、彼の意志に関係なく、真実を見通してしまう目だ。けれど、納得したふりをしてもらうことは可能なはずだ。
 セレストは思慮深い眼差しで私を見つめていたが、やがて深く頷いた。
「なるほど、君は本当に興味深い。歌うことは好きかね?」
「えっと……一人で歌うのは好きです」
 私が目を逸らしつつ言うと、セレストはほっほっほっと鷹揚に笑った。
「では、誰かの前で歌う練習を私としよう。君が知っている歌で私に弾けるものがあれば、一緒に演奏することができる。とても楽しいぞ」
「竪琴を、弾いてくださるんですか?」
 ぱあぁ……っと全開の笑顔を晒した私に、セレストが本日三度目のよしよしをしてくれた。まったく……これ以上、私に惚れさせないでほしいものだ。これだから、己の魅力に無自覚な者は困る。
 その後、私はこの世界で有名な歌をセレストの演奏に合わせていくつか歌ってから、森を通って竪琴の伝導師を村に案内した。セレストは約束通り、虹や闇の鳥が現れたとき私が歌っていたことについては、誰にも言わなかった。そしてこの森で泉などが干上がってしまう異変は収まる可能性を示唆し、しばらく様子を見るようにと村の長たちに告げた。
 それから数日間、村の大人たち総出で森の様子を確認し、僅かだが以前あった泉などに水が戻りつつあることを知ると、セレストは繋ぎ手の島にある伝導の館に帰ることになった。そしてその旅路に私も同行することが決まった。
 表向きは単にセレストが私の歌声を気に入ったことになっているが、恐らく本当の理由はそれだけではないだろう。湖から飛び去った闇の鳥の行方のこともあるし、セレストからしたら虹の発生などに関わっていた私は手掛かりの一つだ。けれどもう一つの理由にも、私はちゃんと気づいていた。

                *

「荷物はちゃんと持った? 忘れ物はない?」
「大丈夫だよ、姉さん。ちゃんと全部あるから」
 この世界に転生して十年ほど過ごした家の前で、旅支度をした私は家族と別れの挨拶を交わしていた。何だかんだ言ったが、やはりここは私の居場所でもあったのだなぁ、としみじみ思う。スープをこぼした床の染みも、暖炉で薪が燃えるこの香りも、実はすっかり私の一部となって馴染んでいたのだ。
 きっとすぐに懐かしくなるだろう。だが、私は晴れやかな気持ちだった。今度いつ帰ってこられるかもわからない。それでもこの場所が、この家族が、心から好きだと思えるまま旅立つことができて、本当に良かった。だからきっと私は戻ってくる。何年経っても、私はここに、故郷に帰りたいと思えるだろう。
 母との別れは前日の夜にちゃんと済ましていたので、玄関先ではただ互いの温もりを確かめるだけで十分だった。父によく似た上の兄は相変わらず寡黙だったが、軽く抱きしめてくれたあと、小さな箱に入ったものを渡してくれた。私をずっと育ててくれた姉は、強く強く抱きしめて、最後に額にキスをしてくれた。妹はずっと泣いていたが、私が抱きしめると、自分で作った撚り紐を私の手首に巻いてくれた。
「……これ、お前に貸しといてやるよ」
 転生して十年、ずっと私の天敵であり続けた兄ティルヴォがそう言って差し出したのは、小さな綺麗な石だった。
「これは……」
 見覚えがある。確か三年ほど前に、私が森の中で見つけたものだ。綺麗だったので家に持って帰ったら、早速この兄に取られたのだ。だがまあ、私は見た目年齢よりずっと大人だったので、特に抵抗することなく兄に渡した。とはいえ私も少なからず不愉快ではあったのだが、今考えると彼も私に関していろいろと思うところがあったのだろう。
 ちょっかいを出すということはつまり、それが気になる相手だからだ。多少乱暴なところはあったものの、悪い奴ではなかったのだから少しは構ってあげればよかったかもしれない。よく考えなくても、私はかなり可愛くない弟だったことであろう。彼には悪いことをした。容姿は上々だし、うまく育てればよい近親相姦BLになったかも……いやいやいや、やめておこう。むしろ今の考えを謝罪する。多分、私たちはこれで最良の関係だったのだ。
「貸すだけだからな。絶対、返しに来い」
「…………」
 いやいやいや、最後にそんな萌えることを言うんじゃない。ついさっきした心の謝罪がどこかに行ってしまいそうになるじゃないか。
 ……っていうか、それ私の死亡フラグじゃないよね? っていうか、この石はもともと私が見つけたものだよね?
 さすが私の認めた天敵だ。最後の最後までツッコミどころ満載だよ。だがまあ、嫌いではない。そう、嫌いではないのだ。
 私はその綺麗な石を受け取ると、ぎゅっと兄を抱きしめた。
「……ありがとう、ティモ」
「ティルヴォ、だよ。ちゃんと言えんだろ。いつまでも赤ちゃんぶるな」
「…………」
 チッ。前言撤回だ。やっぱこいつ嫌いだわ。近親相姦BLとかあり得ない。百歩譲って、家を出るんだからしっかりしろよ、とか励ましの意味がこもっているのだとしても、やっぱムカつく。っていうか、今までもずっと同じことを言い続けてるし、それはないか。……まあ、私も言うことを聞かないからなんだが。
 けれどその兄が少し泣きそうな顔をしていることに気づき、私は苦笑した。やれやれ、本当に面倒臭いお兄ちゃんだ。ある意味、一番私に似ていたのかもしれない。
 私はもう一度、兄をぎゅっと抱きしめた。
「俺が爺さんになっても、ティモはティモだよ。俺はずっと、ティモの弟だからね」
 チッと舌打ちした兄から離れると、父が私の前にやって来て、強く抱きしめてくれた。
「……元気でいろ」
 父は一言だけそう言うと、私の首に何か掛けてくれた。見るとペンダントのようなそれは、父が作ったガラスの小瓶だった。ずっと私が欲しいと言っていたものだ。
「ありがとう、父さん。大切にする」
 私は父を強く抱きしめ返すと、家族の顔を見渡し、笑顔で言った。
「風の祝福がありますように!」
 そして私は旅立った。
 爬虫類と馬の掛け合わせのような生き物、竜馬の引く荷車に揺られながら村を出発する。ちょうど取引を終えて都に戻る商人に、一緒に連れて行ってもらえるよう交渉したのだ。伝導師はどんな場所でも歓迎されることが多いので、いつも抜け目がないこの商人も喜んで引き受けてくれた。
 村を出てしばらく経ったころ、セレストが少し心配そうに私に聞いた。
「大丈夫かね?」
「はい。俺をここから連れ出してくれて、本当にありがとうございます。おかげで、俺にはちゃんと居場所があったことがわかった。帰る場所ができた。だから俺は、また新しく自分の居場所を探すことができる。作ることができる。だから大丈夫です」
 離れたことで見つかる居場所もある。特に、私のように少しばかり捻くれた人間には。
 私は……いや、俺は。
 俺は今度こそ、この世界で自分の居場所を見つけよう。自分で自分を異物だと感じない場所を。それはきっとどこかに漫然と存在するのではなく、俺が自分で探し、見つけ、作り出すものなのだ。
 それから約一ヶ月後、俺は魂の川を運航する船の上で十一歳の誕生日を迎えた。

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