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夏の章
4 いのち短し 食っとけエビチリ③
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バーベキューの準備をしている間、先輩はずっと不貞腐れていた。野菜を切り、食器や飲み物を並べると、セミを調理する段になった。
「半分は唐揚げで、もう半分はエビチリでいいよな?」
皆が賛同を示したが、先輩は少し離れた自販機コーナーのベンチに腰掛けて明後日のほうを見ていた。
セミの唐揚げの手順はこうだ。まずコンロでお湯を沸かして、沸騰したところで弱火にする。そこへ生きたセミの羽をつまんで頭から熱湯に突っこむ。セミは最期の声をあげて痙攣するが、すぐに動かなくなるので、手を放して菜箸で鍋に沈める。熱湯で一分、中心までじっくりと加熱することで、雑菌などを殺すのだという。ちなみにこの過程をすっ飛ばして油で揚げてもよさそうに思えるが、その場合、外はカラリと揚がっても中心部分まで火が通らないことがあるため、食中毒の対策として不充分なのだそうだ。さて次に、絞めたセミの羽を、ぐりぐりとねじって取る。羽はあまりおいしくないらしい。羽を取ったセミに、唐揚げの素(もと)をからめたら準備オーケーだ。
「あのう、斎藤さん」
「なんだ? おまえは向こうで待ってていいぞ」
「僕も、その作業、手伝っていいですか」
斎藤さんは少し驚いたようだったが、「ああ、やってみな」と僕の場所をあけてくれた。
僕がビビりながらセミの羽をつかむと、セミはブルブル震えて逃げようとしていた。言葉もしゃべれないし、表情もないけれど、自分が食われることを分かっているのだろうか。生への執着の振動が伝わってくるたびに、僕は胸の奥に小さな痛みを感じる。
「やめておくか?」
なかなかセミを熱湯に付けないでじっとしていたら、斎藤さんに優しい声をかけられた。
「いえ、やります」
僕ははっきりと答えた。
湯気の立ち昇る鍋にセミを浸すと、ほとんど瞬間的に死んだ。なんてあっけない死なのだろう。手を放すと鍋の中で衛星みたいに回っていた。茹で上がったセミを湯から上げて料理用のトレイに置く。
「羽はむしったほうが食感がいい」
僕は頷いて羽をねじり取った。
「それでいい」
セミを唐揚げの素の中に落とすと、肩に乗っかっていた重たい荷物が消えたみたいに体が軽くなった気がして、安堵のため息が出た。だけど完全にすっきりしたわけではなかった。
「なんというか、すごく複雑な気分です」
「そうだな。いい気分ではないよな。慣れちまうのは、それはそれで良いか悪いか微妙だ」
さらに自分で捕まえた分のセミを自分で処理した。
「まったく、あいつはいつまで拗ねてるんだ?」
ご馳走を油で揚げながら、斎藤さんが先輩を見やる。
「俺らに勝ったぶん、優勝を期待ちゃって余計にショックだったんすね」
ちなみに結果発表は、ABCの順で行なわれた。僕らのAチームがニ十匹。先輩たちのBチームが二十一匹。この時点で先輩はニッコニコ。もう優勝したつもりになってしまったのだろう。Cチームの斎藤さんが二十五匹と発表したとき、先輩は一瞬固まったあと、膝から崩れ落ちたのだった。
小気味良い音を立ててセミが揚がっていく。セミとは思えない香ばしい香りと、きつね色が食欲をそそる。
「石橋くん、こっちはもう焼き始めるよ」
「教授、了解です。お願いしまっす」
須藤教授と凜ちゃんが鉄板で野菜やウインナーを焼き始めた。バーベキューの開幕だ!
「さあ、飲むか。ビール冷えてるんだろ?」
「キンキンにしてあるっすよ」
石橋さんがクーラーボックスから缶を出して、須藤教授と斎藤さんに渡す。三人はプルタブを開けて、一気にあおった。
「くはーッ! やっぱ自然の中で飲むコイツは最高だ」
僕はまだその味を知らないので、三人がちょっと羨ましい。かわりにコーラを紙コップに注いで一気に飲み干すと、口の中と喉が痺れて熱い息があふれ出た。来る途中のスーパーで買った普通のコーラなのに、五臓六腑に染みわたるうまさだ。
「渡辺くん、これをどうぞっす」
石橋さんがまだ開けていないビールの缶を差し出していた。
「ぼ、僕は未成年なので」
「違いますよ」石橋さんが先輩のほうを顔だけで示す。「このチャンス、逃していいんすか? 常に狙ってないと」
僕はビールを受け取った。
「い、行ってきます!」
石橋さんは「まあ、がんばってください」と言い残して、揚がった唐揚げを教授と凜ちゃんのところへ持っていった。一個口に放り込んだ教授は「うまい。ばっちりだ」と絶賛する。凜ちゃんもこぶしを突き出して親指を立てた。僕も食べたい……!
しかし、どうやって先輩に声をかけようか。先輩は自販機コーナーのベンチに腰かけてつまらなそうにしている。僕はシミュレーションしながら、そちらへ足を向けた。
「あの、先輩、ビール飲みませんか。好きですよね?」
先輩が僕のほうを向いた。泣いているわけでも怒っているわけでもない。でも大人しい。
「ありがと、渡辺くん」
先輩は缶を受け取った。ベンチ――先輩の隣はあいている。その空間は何かによって埋められるべき空間であるように見えた。まさか先輩が、誰かが来るのを見越して端に座ったわけでもあるまい。途端に心拍数が上がるのを感じた。近すぎないように、そして変に遠すぎないように気をつけて、スペースに腰をおろす。
先輩がプルタブを開ける。いや、カチカチ爪が鳴るだけで開かない。
「あけましょうか?」と言うべきなのだろうか。男として? 僕が迷っていると、プルタブはプシュッという音を立てて開いた。
「はい、渡辺くんカンパイ」
先輩はさっきよりも柔らかな、だけどちょっと疲れたような表情で、缶を持っている。「はい。カンパイです」と僕は紙コップをつけた。コーラは少ししか残っていなかったので、一口で終わってしまった。先輩は細く綺麗なのどを本当にごくりごくりと鳴らして、息継ぎもせずに缶を傾けていく。缶の底が飲み口よりも高くなり、僕は唖然としてその飲みっぷりに目を奪われていた。このまま一気に飲み干すかと思ったところで、先輩はいきなり僕に背中を向けて、下を向いてゲホゲホと咳き込んだ。
「先輩、大丈夫ですか」
「大丈夫、見苦しくてごめん」
振り向いた目じりに涙が光っていた。
「あ、これ違うからね? いま咳き込んだからであって、黒毛和牛が食べられないからじゃないからね?」先輩が指先でその光の粒をぬぐった。「私、泣いてない」
「大丈夫です、さすがに分かってます」
先輩は脱力したように背もたれに体を預け、足を投げ出し、澄んだ青空を見上げた。
「なんで私、負けたんだろう? だって、けっこう頑張ったんだよ? そりゃ、みんな頑張っただろうけど。ここだけは絶対に一番を取りたいってときに、取れないんだよなー。三チームの中ですらダメだなんて、なんかもう自分に幻滅するわー」
僕が足を引っぱったせいで、僕のチームはビリだったけれど、僕はもうビリだったことにほとんど何の感情も抱いていない。悔しいとか、落ちこむとか、そんな感情も最初はあったけれど、今はもう結果は結果だと思って割り切っている。だが先輩はそうではないらしい。
唇がビールの缶の縁に触れる。
「いやー。ビールおいしいわー」
いつもの先輩らしい、すっきりした顔に戻っていた。肩の上で揺れる髪。化粧っ気がないのに、可愛い顔。今の先輩の、少しばかりの憂いに彩られた横顔を、絵画にしてずっと残したいと思った。
「向こうにセミの唐揚げがありますよ。揚げ立てのが」
「もう味見した?」
「まだです」
「あれはねー、おつまみにいいんだよね。カリカリ具合が、絶妙にね」
「食べに行きましょうよ」
「そうだね、行こうか」
カラになった缶を握りつぶして先輩が立ち上がった。
先輩を連れてみんなのところへ戻ってくると、須藤教授が「猪俣さん、このセミはうまいよ。食べなきゃ損だ」とお皿を差し出してきた。
「渡辺くんはもう食べたかい?」
「まだです。やっぱりちょっと怖くて」
「臭みがなくて食べやすいよ、ほら」
唐揚げの素で包まれているため、見た目は虫っぽくないのだが、ところどころ足が飛び出ていたりする。言われるがままに一個、小さいのを選んで口へ放りこんだ。噛むとカリカリ、バリバリしていて歯ごたえがよく、中はジューシーだ。嫌な風味はまったくない。
「これ、おいしいですね、普通に」
僕はもう一個食べてみた。やっぱりおいしい。セミとは思えない。先輩も口をもぐもぐしながら「私が捕っただけあって、うまい」とか言っている。ビールも二本目だ。
「エビチリできたぞ」
斎藤さんが大皿をドカンと置いた。
「エビチリきたー!」
先輩が先輩らしい歓声でエビチリを迎えた。鮮やかな紅のチリソースが食卓に彩りを添える。立ち昇るアツアツの湯気までうまそうだ。中身はたぶんというか絶対に、エビじゃなくてセミなんだろうけれど。斎藤さん、並たいていの料理スキルではない。
僕らはテーブルの周りに集まって、エビチリ――もといセミチリに殺到した。熱い! 辛い! うまい! やっぱりセミだけど!
「次は和牛いくぞ」
斎藤さんの声に先輩がわずかに反応する。分厚い黒毛和牛が鉄板の半分を占拠した。ジュウジュウと焼かれている高級肉を、全員が見守り、つばを飲む。極上の香りが漂い始めた。
「このサイズ、半分に分けても、凜ちゃん一人じゃ食べきれないんじゃないかな……」
先輩があざといことを言い出した。すぐさま斎藤さんが「リンタロー、何があってもこの女にだけは施しを与えるなよ」と忠告する。「そのほうが面白いからな」
……リンタローというのは斎藤さんが凜ちゃんを呼ぶとき限定で使われるあだ名である。あの凜ちゃんと教授がよく許したものだ。
「ラジャッ」
凜ちゃんが真顔で親指を立てた。今日は妙なタッグができあがっているようだ。
「なにそれ斎藤くんマジ外道! やっぱりゲスじゃん! 化学科でゲスといえば斎藤くんを指す、っていう説は真実じゃん!」
「やかましいわ」
焼き上がったステーキを斎藤さんが半分に切り、一枚は凜ちゃんのお皿へ。もう一枚は斎藤さんのお皿へ。そして鉄板の上には肉汁の痕跡がわずかに残るばかりとなった。
勝者たちが敗者たちの前で、栄光にかじりつく。「おおっ、これはうめえ。なんだこの食感は! とろけるぞ!」斎藤さんが目を丸くして実況している。凜ちゃんは小さな一口をよく噛んで味わった後、そっとまぶたを伏せて一言、「美味です」と呟いた。それを見ていた先輩が再びわめいた。
「凜ちゃん! いいえ凜サマは心優しく慈悲深い女の子だよね!? だってこの、須藤大先生サマの一人娘だし。……施しを! どうか救いを!」
「ルールはルールなので」と凜ちゃんは先ほどまで黒毛和牛の乗っていた鉄板を指さした。そこにはわずかに肉から染み出た汁が干乾びて小さな塊になっている。「このカスは猪俣先輩に差し上げます」
「凜ちゃんまでゲス化してる!?」先輩が青ざめた。「この邪悪なおっさんに脅迫とかされてない!? ねえ、大丈夫!? 教授、このままだと娘さんが屈折しちゃいますよ!?」
「誰が邪悪なおっさんだコラ」
「急がないと肉汁が蒸発しますよ?」
凜ちゃんに指摘された先輩は、慌てて箸でピーマンをつかむと、ほとんど跡形も消えつつある肉汁にゴシゴシと擦りつけた。
「このタマネギおいしい! なにこれ、すっごくおいしい! このタマネギどこ産!?」
先輩、それ、ピーマンです……。ガチで大丈夫だろうか?
「よかったな、猪俣。おまえは幸せ者だ」
斎藤さんのコメントがさらなる哀れみを誘った。
石橋さん、須藤教授、僕は、平和な場所に移動して三人を見物しながらセミ料理を楽しむことにした。
「先輩、完全に二人に翻弄されてますね」
「あのタッグに挑んでも、勝ち目なしっすよ」
「凜ちゃんって、かなり容赦ないところがありますよね」
「凜はうちでもあんな感じだよ。悪気のないときと、あるときで、あまり区別がつかないのが問題だが」須藤教授は苦笑している。「でもこのメンバーでいるときのほうが楽しそうだな。たぶん同年代の子といるより、年上といるほうが好きなんだろうねぇ」
「そういう人もいるんですね」
「ああっ! 凜ちゃん待って! 考えなおして! あっ! あ゛!? あぁ…………」
最後の和牛が凜ちゃんの胃袋に消えると同時に、先輩の声も消えていった。
「みんな、今年も写真、撮っておこうか」
言い出したのは須藤教授だ。首から大きいカメラをさげている。僕はついにこのときが来たと思ってドキドキした。須藤研究室の壁に貼ってあった、憧れの写真を思い出す。このサークルに入って本当に良かったと思う。
「うーし、撮るか。猪俣の絶望を永久保存するぞ」と斎藤さんが立ち上がる。他のみんなも先輩のそばに集まってきた。
「猪俣さん、撮るよ? 元気出して、顔上げよう」
うなだれている先輩を囲んで、斎藤さん、石橋さん、凜ちゃんはポーズを取った。温度差がひどいので、僕はどっち側に合わせようか迷った。
「時間差でいくよ。ジュウ、キュウ……」
教授がカメラをテーブルの上にセットして、みんなのところに加わった。結局僕は間を取って、何もポーズを取らないことにした。さっきから腕が誰かの体に当たってしまうので、見ると凜ちゃんが僕の腕に抱き着くようにしている。……なぜっ!? いや、しかし下手に動くと逆に余計なところにまで触れてしまいそうで……。
そのままシャッターが切られた。
撮った写真はカメラの画面ですぐにチェックすることができた。画面の中の先輩は昔の不良みたいにカメラをにガンを飛ばしていて案の定一人だけ場違いな印象だった。斎藤さんはそれを見て爆笑したが、僕としては複雑だ。僕の顔もちょっと引きつっている。仲間たちと記念撮影できたのは最高に嬉しいのだが、何かが違う……?
「写真の渡辺くんと凜ちゃん、妙に近いっすね?」
「そうですね……ハハハ、なんででしょうね」
「渡辺さん」
「はいっ!?」
ドキッとして返事をすると、凜ちゃんが背中をつついてきた。
「ひぃっ!? な、なに!?」
「いい写真でしたね」
「え、えっと……うん……そうだね……」
この女子高生、なんか怖い。なに考えてるか分からない。あとで高額な慰謝料とか請求されないよね?
「斎藤くんなんて、沼に落ちればいいのに。ね?」
今度は先輩が話しかけてきた。
「ぬ、沼ですか」
「うん、沼。落ちるがいい……ふふっ……うふふふふっ……」
かなり本気でそう思っているらしい。なんなんだ、その笑いは。
「半分は唐揚げで、もう半分はエビチリでいいよな?」
皆が賛同を示したが、先輩は少し離れた自販機コーナーのベンチに腰掛けて明後日のほうを見ていた。
セミの唐揚げの手順はこうだ。まずコンロでお湯を沸かして、沸騰したところで弱火にする。そこへ生きたセミの羽をつまんで頭から熱湯に突っこむ。セミは最期の声をあげて痙攣するが、すぐに動かなくなるので、手を放して菜箸で鍋に沈める。熱湯で一分、中心までじっくりと加熱することで、雑菌などを殺すのだという。ちなみにこの過程をすっ飛ばして油で揚げてもよさそうに思えるが、その場合、外はカラリと揚がっても中心部分まで火が通らないことがあるため、食中毒の対策として不充分なのだそうだ。さて次に、絞めたセミの羽を、ぐりぐりとねじって取る。羽はあまりおいしくないらしい。羽を取ったセミに、唐揚げの素(もと)をからめたら準備オーケーだ。
「あのう、斎藤さん」
「なんだ? おまえは向こうで待ってていいぞ」
「僕も、その作業、手伝っていいですか」
斎藤さんは少し驚いたようだったが、「ああ、やってみな」と僕の場所をあけてくれた。
僕がビビりながらセミの羽をつかむと、セミはブルブル震えて逃げようとしていた。言葉もしゃべれないし、表情もないけれど、自分が食われることを分かっているのだろうか。生への執着の振動が伝わってくるたびに、僕は胸の奥に小さな痛みを感じる。
「やめておくか?」
なかなかセミを熱湯に付けないでじっとしていたら、斎藤さんに優しい声をかけられた。
「いえ、やります」
僕ははっきりと答えた。
湯気の立ち昇る鍋にセミを浸すと、ほとんど瞬間的に死んだ。なんてあっけない死なのだろう。手を放すと鍋の中で衛星みたいに回っていた。茹で上がったセミを湯から上げて料理用のトレイに置く。
「羽はむしったほうが食感がいい」
僕は頷いて羽をねじり取った。
「それでいい」
セミを唐揚げの素の中に落とすと、肩に乗っかっていた重たい荷物が消えたみたいに体が軽くなった気がして、安堵のため息が出た。だけど完全にすっきりしたわけではなかった。
「なんというか、すごく複雑な気分です」
「そうだな。いい気分ではないよな。慣れちまうのは、それはそれで良いか悪いか微妙だ」
さらに自分で捕まえた分のセミを自分で処理した。
「まったく、あいつはいつまで拗ねてるんだ?」
ご馳走を油で揚げながら、斎藤さんが先輩を見やる。
「俺らに勝ったぶん、優勝を期待ちゃって余計にショックだったんすね」
ちなみに結果発表は、ABCの順で行なわれた。僕らのAチームがニ十匹。先輩たちのBチームが二十一匹。この時点で先輩はニッコニコ。もう優勝したつもりになってしまったのだろう。Cチームの斎藤さんが二十五匹と発表したとき、先輩は一瞬固まったあと、膝から崩れ落ちたのだった。
小気味良い音を立ててセミが揚がっていく。セミとは思えない香ばしい香りと、きつね色が食欲をそそる。
「石橋くん、こっちはもう焼き始めるよ」
「教授、了解です。お願いしまっす」
須藤教授と凜ちゃんが鉄板で野菜やウインナーを焼き始めた。バーベキューの開幕だ!
「さあ、飲むか。ビール冷えてるんだろ?」
「キンキンにしてあるっすよ」
石橋さんがクーラーボックスから缶を出して、須藤教授と斎藤さんに渡す。三人はプルタブを開けて、一気にあおった。
「くはーッ! やっぱ自然の中で飲むコイツは最高だ」
僕はまだその味を知らないので、三人がちょっと羨ましい。かわりにコーラを紙コップに注いで一気に飲み干すと、口の中と喉が痺れて熱い息があふれ出た。来る途中のスーパーで買った普通のコーラなのに、五臓六腑に染みわたるうまさだ。
「渡辺くん、これをどうぞっす」
石橋さんがまだ開けていないビールの缶を差し出していた。
「ぼ、僕は未成年なので」
「違いますよ」石橋さんが先輩のほうを顔だけで示す。「このチャンス、逃していいんすか? 常に狙ってないと」
僕はビールを受け取った。
「い、行ってきます!」
石橋さんは「まあ、がんばってください」と言い残して、揚がった唐揚げを教授と凜ちゃんのところへ持っていった。一個口に放り込んだ教授は「うまい。ばっちりだ」と絶賛する。凜ちゃんもこぶしを突き出して親指を立てた。僕も食べたい……!
しかし、どうやって先輩に声をかけようか。先輩は自販機コーナーのベンチに腰かけてつまらなそうにしている。僕はシミュレーションしながら、そちらへ足を向けた。
「あの、先輩、ビール飲みませんか。好きですよね?」
先輩が僕のほうを向いた。泣いているわけでも怒っているわけでもない。でも大人しい。
「ありがと、渡辺くん」
先輩は缶を受け取った。ベンチ――先輩の隣はあいている。その空間は何かによって埋められるべき空間であるように見えた。まさか先輩が、誰かが来るのを見越して端に座ったわけでもあるまい。途端に心拍数が上がるのを感じた。近すぎないように、そして変に遠すぎないように気をつけて、スペースに腰をおろす。
先輩がプルタブを開ける。いや、カチカチ爪が鳴るだけで開かない。
「あけましょうか?」と言うべきなのだろうか。男として? 僕が迷っていると、プルタブはプシュッという音を立てて開いた。
「はい、渡辺くんカンパイ」
先輩はさっきよりも柔らかな、だけどちょっと疲れたような表情で、缶を持っている。「はい。カンパイです」と僕は紙コップをつけた。コーラは少ししか残っていなかったので、一口で終わってしまった。先輩は細く綺麗なのどを本当にごくりごくりと鳴らして、息継ぎもせずに缶を傾けていく。缶の底が飲み口よりも高くなり、僕は唖然としてその飲みっぷりに目を奪われていた。このまま一気に飲み干すかと思ったところで、先輩はいきなり僕に背中を向けて、下を向いてゲホゲホと咳き込んだ。
「先輩、大丈夫ですか」
「大丈夫、見苦しくてごめん」
振り向いた目じりに涙が光っていた。
「あ、これ違うからね? いま咳き込んだからであって、黒毛和牛が食べられないからじゃないからね?」先輩が指先でその光の粒をぬぐった。「私、泣いてない」
「大丈夫です、さすがに分かってます」
先輩は脱力したように背もたれに体を預け、足を投げ出し、澄んだ青空を見上げた。
「なんで私、負けたんだろう? だって、けっこう頑張ったんだよ? そりゃ、みんな頑張っただろうけど。ここだけは絶対に一番を取りたいってときに、取れないんだよなー。三チームの中ですらダメだなんて、なんかもう自分に幻滅するわー」
僕が足を引っぱったせいで、僕のチームはビリだったけれど、僕はもうビリだったことにほとんど何の感情も抱いていない。悔しいとか、落ちこむとか、そんな感情も最初はあったけれど、今はもう結果は結果だと思って割り切っている。だが先輩はそうではないらしい。
唇がビールの缶の縁に触れる。
「いやー。ビールおいしいわー」
いつもの先輩らしい、すっきりした顔に戻っていた。肩の上で揺れる髪。化粧っ気がないのに、可愛い顔。今の先輩の、少しばかりの憂いに彩られた横顔を、絵画にしてずっと残したいと思った。
「向こうにセミの唐揚げがありますよ。揚げ立てのが」
「もう味見した?」
「まだです」
「あれはねー、おつまみにいいんだよね。カリカリ具合が、絶妙にね」
「食べに行きましょうよ」
「そうだね、行こうか」
カラになった缶を握りつぶして先輩が立ち上がった。
先輩を連れてみんなのところへ戻ってくると、須藤教授が「猪俣さん、このセミはうまいよ。食べなきゃ損だ」とお皿を差し出してきた。
「渡辺くんはもう食べたかい?」
「まだです。やっぱりちょっと怖くて」
「臭みがなくて食べやすいよ、ほら」
唐揚げの素で包まれているため、見た目は虫っぽくないのだが、ところどころ足が飛び出ていたりする。言われるがままに一個、小さいのを選んで口へ放りこんだ。噛むとカリカリ、バリバリしていて歯ごたえがよく、中はジューシーだ。嫌な風味はまったくない。
「これ、おいしいですね、普通に」
僕はもう一個食べてみた。やっぱりおいしい。セミとは思えない。先輩も口をもぐもぐしながら「私が捕っただけあって、うまい」とか言っている。ビールも二本目だ。
「エビチリできたぞ」
斎藤さんが大皿をドカンと置いた。
「エビチリきたー!」
先輩が先輩らしい歓声でエビチリを迎えた。鮮やかな紅のチリソースが食卓に彩りを添える。立ち昇るアツアツの湯気までうまそうだ。中身はたぶんというか絶対に、エビじゃなくてセミなんだろうけれど。斎藤さん、並たいていの料理スキルではない。
僕らはテーブルの周りに集まって、エビチリ――もといセミチリに殺到した。熱い! 辛い! うまい! やっぱりセミだけど!
「次は和牛いくぞ」
斎藤さんの声に先輩がわずかに反応する。分厚い黒毛和牛が鉄板の半分を占拠した。ジュウジュウと焼かれている高級肉を、全員が見守り、つばを飲む。極上の香りが漂い始めた。
「このサイズ、半分に分けても、凜ちゃん一人じゃ食べきれないんじゃないかな……」
先輩があざといことを言い出した。すぐさま斎藤さんが「リンタロー、何があってもこの女にだけは施しを与えるなよ」と忠告する。「そのほうが面白いからな」
……リンタローというのは斎藤さんが凜ちゃんを呼ぶとき限定で使われるあだ名である。あの凜ちゃんと教授がよく許したものだ。
「ラジャッ」
凜ちゃんが真顔で親指を立てた。今日は妙なタッグができあがっているようだ。
「なにそれ斎藤くんマジ外道! やっぱりゲスじゃん! 化学科でゲスといえば斎藤くんを指す、っていう説は真実じゃん!」
「やかましいわ」
焼き上がったステーキを斎藤さんが半分に切り、一枚は凜ちゃんのお皿へ。もう一枚は斎藤さんのお皿へ。そして鉄板の上には肉汁の痕跡がわずかに残るばかりとなった。
勝者たちが敗者たちの前で、栄光にかじりつく。「おおっ、これはうめえ。なんだこの食感は! とろけるぞ!」斎藤さんが目を丸くして実況している。凜ちゃんは小さな一口をよく噛んで味わった後、そっとまぶたを伏せて一言、「美味です」と呟いた。それを見ていた先輩が再びわめいた。
「凜ちゃん! いいえ凜サマは心優しく慈悲深い女の子だよね!? だってこの、須藤大先生サマの一人娘だし。……施しを! どうか救いを!」
「ルールはルールなので」と凜ちゃんは先ほどまで黒毛和牛の乗っていた鉄板を指さした。そこにはわずかに肉から染み出た汁が干乾びて小さな塊になっている。「このカスは猪俣先輩に差し上げます」
「凜ちゃんまでゲス化してる!?」先輩が青ざめた。「この邪悪なおっさんに脅迫とかされてない!? ねえ、大丈夫!? 教授、このままだと娘さんが屈折しちゃいますよ!?」
「誰が邪悪なおっさんだコラ」
「急がないと肉汁が蒸発しますよ?」
凜ちゃんに指摘された先輩は、慌てて箸でピーマンをつかむと、ほとんど跡形も消えつつある肉汁にゴシゴシと擦りつけた。
「このタマネギおいしい! なにこれ、すっごくおいしい! このタマネギどこ産!?」
先輩、それ、ピーマンです……。ガチで大丈夫だろうか?
「よかったな、猪俣。おまえは幸せ者だ」
斎藤さんのコメントがさらなる哀れみを誘った。
石橋さん、須藤教授、僕は、平和な場所に移動して三人を見物しながらセミ料理を楽しむことにした。
「先輩、完全に二人に翻弄されてますね」
「あのタッグに挑んでも、勝ち目なしっすよ」
「凜ちゃんって、かなり容赦ないところがありますよね」
「凜はうちでもあんな感じだよ。悪気のないときと、あるときで、あまり区別がつかないのが問題だが」須藤教授は苦笑している。「でもこのメンバーでいるときのほうが楽しそうだな。たぶん同年代の子といるより、年上といるほうが好きなんだろうねぇ」
「そういう人もいるんですね」
「ああっ! 凜ちゃん待って! 考えなおして! あっ! あ゛!? あぁ…………」
最後の和牛が凜ちゃんの胃袋に消えると同時に、先輩の声も消えていった。
「みんな、今年も写真、撮っておこうか」
言い出したのは須藤教授だ。首から大きいカメラをさげている。僕はついにこのときが来たと思ってドキドキした。須藤研究室の壁に貼ってあった、憧れの写真を思い出す。このサークルに入って本当に良かったと思う。
「うーし、撮るか。猪俣の絶望を永久保存するぞ」と斎藤さんが立ち上がる。他のみんなも先輩のそばに集まってきた。
「猪俣さん、撮るよ? 元気出して、顔上げよう」
うなだれている先輩を囲んで、斎藤さん、石橋さん、凜ちゃんはポーズを取った。温度差がひどいので、僕はどっち側に合わせようか迷った。
「時間差でいくよ。ジュウ、キュウ……」
教授がカメラをテーブルの上にセットして、みんなのところに加わった。結局僕は間を取って、何もポーズを取らないことにした。さっきから腕が誰かの体に当たってしまうので、見ると凜ちゃんが僕の腕に抱き着くようにしている。……なぜっ!? いや、しかし下手に動くと逆に余計なところにまで触れてしまいそうで……。
そのままシャッターが切られた。
撮った写真はカメラの画面ですぐにチェックすることができた。画面の中の先輩は昔の不良みたいにカメラをにガンを飛ばしていて案の定一人だけ場違いな印象だった。斎藤さんはそれを見て爆笑したが、僕としては複雑だ。僕の顔もちょっと引きつっている。仲間たちと記念撮影できたのは最高に嬉しいのだが、何かが違う……?
「写真の渡辺くんと凜ちゃん、妙に近いっすね?」
「そうですね……ハハハ、なんででしょうね」
「渡辺さん」
「はいっ!?」
ドキッとして返事をすると、凜ちゃんが背中をつついてきた。
「ひぃっ!? な、なに!?」
「いい写真でしたね」
「え、えっと……うん……そうだね……」
この女子高生、なんか怖い。なに考えてるか分からない。あとで高額な慰謝料とか請求されないよね?
「斎藤くんなんて、沼に落ちればいいのに。ね?」
今度は先輩が話しかけてきた。
「ぬ、沼ですか」
「うん、沼。落ちるがいい……ふふっ……うふふふふっ……」
かなり本気でそう思っているらしい。なんなんだ、その笑いは。
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