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29.課題挑戦中
しおりを挟むそれはザルツヴェストという国の領土、その中心地に鎮座する存在だということは知っている。
初めて目にした時にこそ圧倒的な存在感と異様さに強い畏怖と感動を覚えたものの、今ではすっかり日常の景色に溶け込んでいたモノ。
それが魔族たちが『神樹』と呼ぶ、巨木だ。
正式な名称も、本当に純粋な自然物なのかすら知らないのは、まだ神樹に関する教育を僕が受けていないだけだからか。
それとも、やはり元・人間の部外者にはおいそれと語れないものなのか。
もしくは――魔族たち特有の感性による「本当にどうでもいい物」だから放置されているだけ……?
どれもが有り得そうな理由に思えるなか、僕は黙々と考えながら一人、『馬』の背に揺られている。
その理由は昨日、練兵場で使い魔たちの暴走がひと段落着いた後、魔王から唐突に突きつけられた課題のために他ならない。
魔王城から一人で、神樹の下までやって来い。
そんな無理難題を吹っ掛けた後、当の本人はいつぞやのように僕の目の前からさっさと消えてしまった。
僕に想いのままを口にするよう強制してきた張本人のくせに、「嫌だ、無理」とこちらが意思表明する隙すら与えなかったのだ。
独りで眠ることがなんだか落ち着かないとか、あの温もりとあの声が傍にないと意識した途端に生まれる心細さなんて、わざわざ自覚させないでほしい。
きっと『その日』はいつか来るのだろうけれど、今の僕はもう言い逃れできないほどに、あの強引で無茶苦茶な男の傍にいたいと思って――。
「ひひーん、ぶるぶるぅ」
のっしのっしと軽快に歩を進める『馬』が上げたわざとらしい鳴き声に、つらつらと考え事を続けていた僕も我に返った。
魔王城から神樹へ至る道のりは、決して平坦ではない。
まずは広い草原を抜け、神樹の裾野に広がる魔物と獣が跋扈する深い深い森を踏破しなければいけないのだ。
ただ幸いなことに、神樹の下までは道が続いているらしい。
整備された街道から最終的には獣道へと変わるそうだが、天を衝くほどの巨木を目指して逸れることなく進めば、僕が自分の足で歩き続けるだけでも五日程で到着できるそうだ。
迷子の可能性が減るのは助かるけれど……五日間歩きっぱなしとか、軍にいた頃ならまだしも魔王の傍で至れり尽くせり生活に慣れた僕に耐えられるの?
元々体力の無さには自信があったのに、この国での生活で輪をかけてそれが強化されているとしか思えないのに?
そう不安を口にした僕に、練兵場に集っていた魔族の皆は我が事のように考えてくれた。
「ユーリオたん一人で来いとは言ってたけどよぉ」
「馬を使うなとは言ってなかったッスねぇ」
「馬車でもいいんじゃね?」
「ユーリオたんがさっさと退却できるよう、足は身軽であるべきだべ」
そんな魔族たちによる相談会議は満場一致で、馬はアリ、となった。
課題ルールを再確認したくても、出題者本人がさっさと消えてしまったのだから文句は言わせない。
そうして翌朝、日が昇ると同時に僕は荷物をくくりつけた『馬』と共に、城内にいた魔族総出の盛大な見送りを受けながら、その背に乗って魔王城から出発したわけだ。
僕が歩くよりも遥かに速い歩みのおかげで既に平原も終盤に差し掛かり、少し先に神樹の森、その外縁部が姿を見せている。
以前、魔王が連れて行ってくれた農場の森とは別方向だし、距離も随分違うように感じるが、普通の『馬』よりかなり歩みが速いおかげであっという間に森まで到達できたみたいだ。
「もう森に着くんだ……本当に速いね。ありがとう、えっと……『馬』」
「ぐふっ!!ひ、ひひーん!」
ゴロゴロと喉を鳴らしながらも、馬の鳴き真似をしてみせる僕の騎馬は、オレンジの混じった黄色の体に黒い縞模様を纏った派手な毛皮をした、四つ足の獣である。
乗馬用というより軍用馬を彷彿とさせる大きさと、がっしりとした体躯なのだが、その頭部はどこからどう見ても馬面ではなく――ネコ科生物だ。
口元には上顎から生えた二本の牙が飛び出しているし、もっふもふとした白い胸毛も、鋭い爪が隠された大きな足には肉球もある、『馬』……。
つまり――『馬』と言い張る『虎』なんだよね。
(さすがに、これはいいのかなぁ……。魔王は怒らないかな……)
城から出立する時に、僕の『馬』として当たり前に用意されていたのが、このアスタードという名の虎顔武人魔族がその姿を変化させた存在だった。
本当の馬のように鞍と道中に必要となるだろう荷物をその背に括りつけられ、おとなしく膝を折って長い縞々尻尾をご機嫌に揺らめかせていた虎を前に、僕もしばらく色々と考えてはみた。
でも、サリオンやウーギを始めとする魔族の皆から口々に、
「いやいや、どこから見ても馬ッス」
「馬ですねぇ。言葉は通じますが戦闘はしませんし、退却も手伝ってくれますが、馬です」
「本気出しゃぁ転移魔法も使えちゃうらしいけども、馬だんべ」
「どこにでもいる馬だなぁ」
「本当は喋れるけど馬語でしか話さないんだから、馬だろうなぁー」
などと言い募られて、押し切られてしまったんだもの。
なるほど、魔族にとってはこれも『馬』扱いでいいのか、とその時は僕も洗脳され、いや、納得してアスタードに乗せてもらうことにしたんだけれど……やっぱりいざ考え直すと、これは魔王が出した条件に違反しているような気も……。
(っだめだめ。また考え事に気を取られてる。ここからは森に入るんだから、獣や魔物に注意を払わないと!)
そう自分に言い聞かせながら、濃緑の外套の下にある肩掛けカバンをもう一度腹の前に置き直した。
この中にはすぐに使い魔を出せるよう、あらかじめ魔法陣を書き込んだ紙と予備の道具一式を入れている。
しょぼい攻撃魔法が当てにならない分、これが僕の生命線になるわけだけれども、本来ならなかなかこんな準備はできない。
魔法陣を構成する術式は魔力を帯びたインクで描かれているが、時間経過と共にその魔力を失ってしまう。
王国で広く流通していた一般的な専用インクではせいぜい十分が使用限度で、軍で希望者へ僅かに支給される高品質な物でも三十分もつかもたないかといったところだ。
だから使い魔は、雑用に使われるくらいがほとんどで戦闘には向かない。
僕だって初陣で追い詰められなければ、前世の知識がなければ、使い魔で一手打とうなんて思いもしなかったもの。
でも、魔族の国ザルツヴェスト産のインクはそもそもの出来が違う。
紙に描いてからも優に半日以上は、魔法陣として機能するのだから。
これが他国に流通すれば戦争の形も変わるのかもしれないが、さすがの魔王も敵に無条件で塩を送る真似はしていないらしい。
一応は禁輸品として国内で管理されているそれを、惜しげもなく僕には使わせてくれていることをどう思えばいいのか。
魔王が傍にいないせいで余計にまた、ぐるぐると頭の中で考え込み始めた僕は『馬』が森の奥へと歩を進めてもしばらく、気が付いていなかった。
やけに、森の中が静まり返っていることを。
ようやくその異様な静けさを不思議に思った時、森の奥から今はまだ充分に舗装された街道を歩いて来る数人の人影を目にした。
魔王城の外にいるのは、AI搭載型ペンギン魔族たちか国境警備にあたる魔族のみ、と知っている以上否応なく緊張してしまう。
王国では聞いたことも見たこともないけれど、人型の魔物だろうか。
それとも、魔王の配下ではない魔族……というならず者のような存在でもいるのだろうか。
だが、次第にその人影たちが近づくにつれ、僕の体からははっきりと力が抜けた。それはもう、盛大に。
「おやおや?これは奇遇ですねぇ」
「女王様もお散歩ッスか~?いい天気ですからね。ウーギたちもこの通り、懇親会を兼ねたお散歩中ッス」
「あ~今日はいい日だなぁ。そうだ、せっかくだからユーリオたんもオレたちと一緒に休憩しましょ。ね?ね?」
見慣れた宰相蛇に執事兎を筆頭に、なぜか森の奥からやって来た見知った魔族たち。ついでに言うと、今朝見送ってくれた魔族たちに他ならない。
その最後尾には大きな荷車を引いている魔族もいるのだが、荷台にこんもりと積み上がっているのはどう見ても危険な獣や魔物たちの亡骸で……。
「……ありがたいのは、ありがたいんだけどさ……あの、ちょっと過保護すぎない?」
これでは魔王の課題の意味がないのではないだろうか。
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