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16.◆魔王の伴侶◆
しおりを挟む魔族の国、ザルツヴェスト。その北の国境線として存在するべラリア山脈を越えた先に、フェルシオラ帝国という国がある。
その名は、建国から五百有余年の歳月を魔族の隣人国家として今日まで生き抜いてきた稀有な大国として、大陸に広く知られている。
つまりそれほどまでに、帝国は魔族たちとの付き合い方を建国以来長年に渡って心得ているということだ。
だからこそ今日この日、フェルシオラ帝国皇帝ラシュフォード四世は、老いてなお精悍さを纏い続けるその顔に笑みを浮かべて見せる。
招待状と共にそれとなく出欠を問う国書をザルツヴェストへ幾度か送り付けたものの、いつも通りそれに対する返事はなしのつぶて。
ならばこれまたいつものように、あの魔王がウチの国家行事になんざ来るわけねーよな、と確信した矢先に、これであろうとも。
帝国の皇太子にして唯一の皇子が、晴れて婚礼の挙式を迎えるその当日――それも式の刻限がもう間近に迫るという時に、『魔王陛下、ご参列』という返書が魔法によって届けられたなど、呆れを通り越して乾いた笑いしか浮かばなかった、というのも事実ではあるが。
最初の式典が執り行われる帝国屈指の壮麗な大聖堂は、国内の高位貴族や諸外国からの来賓で既に埋め尽くされ、今しがたまで喧噪に満ちていた。
それが、入口たる大扉から入場してきた魔王一行を前に、黒山の人だかりはまるで波が割れるように引き、静まり返っていく。
最奥の玉座にてその様子を見つめていた皇帝は、内心でため息を零しながら、見通しの良くなった視界で隣国の賓客をじっくりと観察していた。
人とは違う異形の姿を何ら隠すことなく、堂々と先頭に立って歩を進めるのはザルツヴェストの宰相であり、その後ろに続く長身の美丈夫が魔王であることなど、自分を含め少なくはない人間が既に見知っていることだ。
彼に付き従う魔族たちは、総勢十名程と決して大人数ではない。ただ、高名な魔族の姿もあり、参列者たちも注視しているのだろう。
なにせ、普段は滅多と姿を見せることのない魔族だ。それも、このような友好的な場での遭遇ともなれば、息を呑むのも理解はできる。
最初は、ラシュフォードもそう考えていた。
皇帝である自分ですら、魔王と直接面識を持った機会は数えるほどしかないのだ。美貌の宰相もそうだが、魔王自身の見目の良さも、見慣れていなければ気後れしてしまう者が多いだろう。
そのうえ、好戦的な種族として知られているのだ。余計なことを口走って難癖をつけられるよりは、沈黙を保つ方が賢い。
だが、その魔王一行の姿が玉座へと近づくにつれ、皇帝はその明るい茶色の瞳を心なし見開き、胸中で盛大に疑問の声を上げていた。
(ん?……は、はぁぁぁあ??おいおいおい、一体どこから攫ってきた!あの魔王ッ……!)
遠い日の記憶と寸分違わぬ魔王、その隣には、魔族の宰相サリオンの影に隠れがちではあるが、確かに人形のような少女――が手を引かれ、歩を進めているのだ。
小柄で儚げな肢体を包むのは、淡い蒼を基調とした衣装であり、白と金の編み紐が華やかに胸元を飾り、後ろ側のみドレスのように裾の長い上着には、銀糸で施された細かな草花の刺繍が薄っすらと浮かび上がっている。
少々気にかかるのは、ほっそりとした足に着用している白い下衣がどう見ても男物であることだが、当の少女ほどの歳であれば、またザルツヴェストという異国からの招待客であれば、この場にて不作法と思う者はいないだろう。
何より、白い豪奢なローブを纏う魔王との釣り合いもよく、華やかな式典に相応しき装束であることは間違いないのだから。
ただ意外なことに、魔王が傍に侍らす特別な少女の容姿は、普段であれば、取り立てて目を惹くほどのものではなかった。
決して長くはない暗紅色の髪も、色味の濃い琥珀色の瞳も、幼さはあれど見目よく整った顔立ちも、ある程度の階級にいる者であれば特に強く印象には残らないだろう。
だがしかし、それが何の感情も見せず、ただ堂々と『魔王』たる存在の隣を歩くとなれば、話は別だ。
大聖堂に会する数多の要人たちの視線を一身に浴びていようと、その面持ちにはいささかの緊張感も高揚感も垣間見えない。
それこそ人形めいた無表情のまま、隣の魔王が何かしら小声で話しかけていようとも一顧だにせず、ただ一点を見つめたまま歩み続ける姿は、どこか神々しくもある。
その異様な気配に呑まれぬよう、皇帝はその威風を示すようにゆっくりと玉座から立ち上がると数段下のフロアーまで自ら下り、来訪者を鷹揚に出迎えた。
「久しぶりだな、ラシュフォード。息災のようで何よりだ」
「あぁ久しいな、魔王。此度の参列、私も嬉しく思う。席をこちらに用意したが、問題はないだろうか?」
鳥の囀りさえもが憚れるような静寂のなか、数十年ぶりに顔を合わせた二国の主がそう親し気に言葉を交わす。
朗らかな魔王に合わせるように、ラシュフォードもにこやかに口をきき、一見すれば旧友が再会したような穏やかな一場面でもある。
ただし、皇帝の内心には焦燥があった。
(誰だ?誰なんだこの少女は……よもや帝国内で見つけた貴族令嬢を気に入って攫ってきた、などというふざけた話ではないな?早く、早く紹介してくれ!)
そんな男の願いが通じたのか、そもそも機をうかがっていたのか、唐突に魔王は、手を引いていた小柄な存在をそっと自分の前へと移動させると、その細い両肩に手を置き――
「ところでな、余の伴侶であるユーリオたんだ。どうだ」
そう、誇らしげに、言い放った。
フェルシオラ帝国皇帝ラシュフォード四世は、決して愚鈍な人物ではない。
むしろ賢帝と称されるのが妥当といえるほどの、優秀な男である。
だがしかし、それでも魔王のこの発言に対しての答えは、しばし言葉を探さざるを得なかった。
(待て待て待てぇーい!『どうだ』とは何だ?貴様、少女趣味だったのか!という真っ当な指摘をしてもよいのか?この娘はどこから攫って来たと問いただすべきか?いやそもそも、伴侶だと?……我が帝国の史書においても、一度もそのような存在は出てこないのだが!?は!?こいつ、まさか――初婚!?)
ただ時間だけが無為に過ぎて行くかと思われたその時、男物の衣装に身を包む少女が、小さく身じろぎをした。
どうやら、足を踏みかえたようだが……その足は、魔王の爪先を踏んでいるような……。
目を瞬いたラシュフォードが気を取り直して口を開く前に、驚くことにまず口火を切ったのは、その魔王の『伴侶』であった。
「お初にお目にかかります、フェルシオラ帝国皇帝ラシュフォード。僕は、ユーリオ・ヴァロットと申します。どうぞ、お見知りおきを。本日は、誠におめでとうございます。心より、お祝いいたします」
そう完璧に当たり障りのない挨拶に終始し、軽く頭を下げた『少女』の声音は、間違いなく『少年』のそれであった。
黒みを帯びた紅い髪を彩る、翼を模った円い翡翠色の髪飾り。そこから垂れる金糸に細かな輝石が散りばめられた組紐が、少女……いや、少年の動きでシャラリと小さく音を立てる。
そこでようやく我に返ったラシュフォードは、培ってきた人生経験を糧に、ただただ平静を装ってしっかりとにこやかな笑みを浮かべて見せた。
魔王が少年趣味とは知らなかった。昔の自分がよくぞその毒牙にかからずに済んだものだ、と盛大な安堵を覚えながら。
その後、何か言いたげな魔王には式典の時間が迫っていることをやんわり伝え、傍に控えていた側近たちに席への案内を任せ、ようやく皇帝は再び玉座へと腰を下ろした。
一番付き合いの長い侍従が、足元に広がるマントの裾を手早く整えるのを視界の隅で眺めていると、不意に、その腹心の男から視線を送られる。
それが『ご注意を』という警戒を促すものであることは長年の経験でわかるが、魔王が同席する以上、改めて注進されるまでのことではない。この侍従ならばそれを理解しているし、言葉を重ねる無駄もしないはずなのだ。
仕事を成し終え、風のように傍から去っていく男に直接問いたい気持ちはあれど、遅れ気味であった婚礼の挙式がいよいよ始まるのだ。大勢の高位招待客がいる前で、侍従と何事か確認し合う無様など見せられるはずもない。
仕方ない、一人でゆっくり考えるか、と結論を出しながら、ラシュフォードは玉座の肘掛と一体となっていた帝笏を手に取った。
そうして肘から指の先までの長さしかない、その黄金の杖を緩く掲げ、合図を送る。
(――待て、『ユーリオ・ヴァロット』だと?その名、どこかで……)
大聖堂の大扉、その両脇に控える宮廷楽団の演者たちが一斉にそれぞれの楽器を構えた直後、高らかに鳴り響いたファンファーレ。
静寂を打ち破るその華やかで大きな祝演の始まりに、思わず玉座の男は小さく口元を引きつらせていた。
聖イグナベルク王国のユーリオ・ヴァロット。
確かその危険人物の名は、この帝国でもそうであるように、王国の周辺諸国、それも諜報部の間で密かに知れ渡っているのだから。
魔王軍を少数精鋭で降した、恐るべき『焦土の魔導士』という二つ名で。
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