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6.奈落
しおりを挟む頭を占める、鈍い痛み。
腹からも胸からもこみ上げてくる不快感と、きつく目を閉じたままでもぐるぐる回る視界。
そんな三重苦に見舞われている僕は、朝から一体何時間続いたのだという宴の席から先程ようやくお暇したところだ。
当然自力で歩ける状態ではないので、魔王という名の便利な移動魔法で――いや、単にその腕の中で横抱きにされて運ばれていたりする。
完璧に二日酔いみたいな状態だよね。と、ろくにアルコールを嗜んでこなかった僕に、前世の知識がいつも通り答えを出す。
勿論、僕だって酒くらい実際に飲んだ経験はあるにはある。
といっても、それは体温を保つために戦場で支給された程度で、そんなに大量でもないし、味だって僕には到底飲めたものじゃなかった。
だからいつも舐めるようにちょっとずつ飲んでいたから、こんな風に酔いが回ったことなんて初めてなんだ。
そもそも魔王だってあの飲み物は『酒ではない』と言っていたのに、なんでこんな状態になるのさ。
そりゃあ自暴自棄ついでに、ここぞとばかりにお代わりを頼みまくって飲み過ぎた僕が一番悪いとはわかっているけれど。
うーうーと気持ち悪さに小さく唸りながらも自分の行いを後悔していると、小声で会話する魔王と宰相の言葉が時折耳に届きだす。
「どうなさるのです?汚れ役ならば、このサリオンがぜひ――」
「黙れ不要だ魔王の名に懸けて断固拒否する。」
「そのように早口でおっしゃられずとも……ふふ、では後に慰め役として参上することにいたしますかね。」
ころころと愉し気に笑う声に、どこか不機嫌に吐き捨てる魔王。
その声音が少し怖いと、眠気があるようで眠れない違和感に苛まれながら思う。
「そもそも貴様、謀ったな?一口目からシュレーズなど、人間の身にとっては効きが過ぎるであろうが。」
「おや、ご存知でしたか。ですが、悠長に親睦を深めていれば時間切れ待ったなしでしょう?」
僕にはあずかり知らぬ内容を囁くように言い合う二人の声は、やがてすぐ傍で上がった扉が開く小さな物音を境に、唐突に終わりを迎えた。
「おかえりあそばせ、魔王様!このウーギが万事整えてござる!さぁさぁ後はどうぞごゆっくり!」
「騒々しいぞ、毛玉。」
「ユーリオ君が起きるでしょうが締めますよ、この毛玉。」
「ひっどォ――ッ!?」
僕にとって魔族といえば周囲が語るように残虐な化物じみた敵、くらいの認識でいたけれど、魔王とその臣下たちのこんな気安いやり取りは人間とそう変わらないように思える。
それは僕が知るこの世界の人間でも、記憶だけでしか知らない平和なあの世界の人間でも、仲間内で交わされるのと同じ、親し気な会話だったから。
それを耳にしながら胸の内にぽつりと湧いた感情は多分、羨望だった。
いつだって僕は他人とは距離を置いてしまうし、自分にも踏み込ませない。
独りで生きていくには誰にも隙を見せず、当たり障りのない関係が一番楽で、互いに深く関わらなければ――例え嫌われたとしても平気だと、知っているから。
そうやって今まで生きてきた以上、確固とした親しみを前提とした会話なんて僕には縁がなかったし、そもそも諦めてもいたから、それを羨ましいなんて感じることすらなかった。
なのに、体をそっとベッドに横たえられる感覚に、心の調子まで狂っているみたいだ。
動けなくなったら乱暴に担がれて安全な場所へ転がしてもらうだけでも大感謝なのに、適度にふんわりとした柔らかな寝床へ優しく下ろされ、温かな指先に髪まで梳かれると、なんだか信じたくなってしまう。
もしかして僕は、誰かに大切にされているんじゃないかって。
「もうよい下がれ、後は余の領域ぞ。」
平淡な低い声音がそう呟くと同時にバサッと大きな音が一度だけ上がったのは、天蓋カーテンがベッドの周囲に降ろされたからだろうか。
遠くでわざとらしく上げられた扉が閉まるささやかな音も、蛇と兎の魔族の声なき言葉だとしたらなんだか微笑ましい。
相変わらず頭は痛いし気分も悪いけれど、この眠っているようで眠っていない感覚の中で傍に感じる体温はとても温かくて、心地良い。
「ユーリオ」
そっと僕の名を呼ぶ声も、額に軽く触れてくるだけの唇の感触にも、胸がムズムズする。
魔王は、この人は、僕を好きだと求婚してくれたんだ、よね?
魔族の人たちも、敵国の人間だった僕をあんなに好意的に受け入れてくれた――はず、なんだよね?
彼らの言葉に嘘がないのなら、もしかして僕は今が一番幸せ……なのかもしれない。
勿論僕だって急には敵国の、それも魔王を好きになるなんて無理だけど、でも、それでもこんな風に優しく……僕自身を大切にされたら、いくら意味不明でもきっといつかは僕も――……
「ユーリオ、まだ起きているな?今宵は――――其方を抱く。」
「……ん、ぇ……?」
体調が最悪に近くても胸の内だけはほんわりと温かくて、もうこのまま眠ってしまいたかったのに、魔王が僕の耳元に落としたそんな言葉に驚いて、反射的に目を開けてしまった。
が、あぁややこしいなとすぐに思い直す。
「ぅー……添い寝くらい昨日もしたじゃないれすかぁ……起こさずに勝手にやっれよもー……」
まだ呂律も回らないまま、そう今夜も抱き枕として使われることを渋々ながら受け入れた僕に、魔王はほんの少し笑ったみたいだ。
薄暗がりの中で、光度の高いその双眸がやけに綺麗に揺らめている。
まるで流れ星の光を切り取ったみたいだ、と僕自身は知らない知識からそう思いついた辺りで、着させられていたシャツの飾りボタンが胸元からひとつずつ、ゆっくり外されていくではないか。
そういえば宴の前半でグラスを取り落としてしまったけれど、上着の袖が濡れた程度だったからそのまま脱いで、あとはずっと楽なこの格好で過ごしていたんだっけ。
頭痛の合間にそう思い返しながら、寝巻にでも着替えさせられるのだろうかと気恥ずかしい気分で魔王の指先をぼんやりと眺めていた。
この時は僕らしくなかった、楽観的に考えていたんだ。
この人は魔王で、敵だった人だけれど、もしかしたら僕を大切にしてくれるのかもしれないって……馬鹿な期待を、していた。
「悪いが、今宵はそういうわけにはいかん。求婚にも是と応えてくれただろう?ならば、余との契りも済まさねばな。」
「――え……っな!?」
紡がれた言葉の意味を鈍った頭が理解する前に、するりと素肌の腰を辿った指先にズボンごと下穿きを引き下げられた瞬間、ようやく僕の意識ははっきりと覚醒した。
どうせなら、わけがわらからないまま事が終わってくれた方が良かったのに。
「え、えっ!?や……あ、ま、待って……待ってくださいっ!こんな急になんて、僕っ……!」
完全に前がはだけられたシャツと、抵抗する間もなく足から引き抜かれた下衣。
目の前では、横になった僕の体を跨ぐようにして膝立ちをする男が、その身に纏っていたローブを一瞬にして光に変えて、半裸となる。
その光景にサーっと自分の顔から血の気が引くのをありありと感じながら、僕は酷い頭痛と気持ち悪さの中で必死に口を動かした。
「確かに、きゅ、求婚はお受けするって言いましたけどっ!でも……ま、まだ会ったばかりだしっ……ぼ、僕はこんな、経験、なくて………だから、今はま、だ……っ」
どんどん尻すぼみになる声音を男なのに情けないと思う一方で、どこかでまだ都合よく考えようとしている自分がいた。
この人は僕のことが好きなのだからきっと、僕が嫌がることはやめてくれるはずだと。
だって敵国から僕を買い取るなんて面倒なことをするくらい、この人は僕を、だから――……
「余は魔王ぞ。いかに其方とはいえ、余の望みは止められぬと知れ。――なに、怯える必要はない。ほんの少しだけ、耐えれば終わる。」
静かにそう言い放ちながら、固まる僕の手を取って指先に唇を寄せた魔王。
そんな男を見つめながら、頭の奥からほらね、と呟く自分の声を聞く。
期待なんてするから、絶望した気になるんだって。
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