袖振り縁に多生の理

みお

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【酉の市】

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 袖を引くだけの小さなあやかしと家族になって、まもなく一年。今年もあと一月ほどで年が暮れようとしている。



 冷たい風が吹き付ける朝、源五郎は不意に何かの予感を感じ目を覚ました。

 隣に眠るお袖を起こさないように立ち上がり、戸をあける。

 暗い空には、冬を感じさせる重い雲がかかっている。吐き出す息は白く、道には木の葉が幾重にも重なっている。

 明け方というにもまだ早い時刻。長屋の人々は起き出す気配もない。

 源五郎は青い闇に覆われた外を眺め、やがて戸を閉めた。

 冷えたせいだろうか。お袖が小さなくしゃみをする。

 眠れない源五郎は、彼女の体に着物をかけてやりながら、ただぼんやりと冷える部屋の天井を見つめていた。



 冬の冷たい風に吹かれても、江戸の市中は元気だ。今日は、特に朝からはしゃぐ人々の声が盛んに響く。

 今日は浅草にある鷲大明神の年に一度の大祭。普段は参る人も少ない寂しい場所だが、年に一度の酉の市だけはそれを取り返すかのごとくにぎわうのである。

 派手に飾り付けられた門前には、大に小の色とりどりの熊手、金箱、俵に宝船。目にもまばゆい縁起物が参道にところ狭しと並べられる。

 熊手を買うのは、きまって遊女か子供だ。皆は、縁起物を買って神棚などに飾る。商売繁盛の御利益があるといって、江戸の市民は朝からせっせと大明神を目指すのである。

 長屋の人間も、夕刻までにはすっかり出かけてしまった。鮮やかな着物を見せびらかすように歩く少女の背を眺め、お袖が小さくため息をもらす。

 かと思えば、小さな足をばたばたと揺らし口をとがらせた。

「げんご。袖も、いきたい。酉の市」

「だめだ。風邪をひいているだろう」

 源五郎は代筆の手を止めて苦笑した。今日は朝から町中がにぎやかだ。それを見て、お袖は悔しく思うのだろう。

 しかし今朝あたりから、お袖の体調はどうにもよくない。妖怪でも風邪を引くことがあるのかと、源五郎はうろたえるばかりである。

 普段は熱を持たない体が、ふわりと熱を帯びている。顔もやや、赤い。

 人の子であれば医者に行けばいい。しかし、妖怪の子であればどうだろうか。

 大家の渡してくる薬も、お袖の身の上を思えば飲ませることもためらわれる。その薬は部屋の隅に、積み重なっていくばかりである。

 はた、と源五郎は膝をたたいた。

「それほど行きたいのならば、轆轤を呼んでこよう、風邪のこともついでに聞ける」

「だめ。轆轤は呼ばないで。げんごと行ってみたいの」

 力強く、彼女は言った。声は小さいが、力強い。彼女は自分の言葉に照れたように俯く。そして源五郎の袖だけを引いている。

 この小さな妖怪は、年の暮れには百鬼夜行の群に戻るのである。そしてそれを見届けた後に、源五郎は敵を討って死ぬのである。共に過ごす日は、一日も無駄ではない。

 そう思えば哀れであった。

 では行こうか。と筆を置けばお袖の顔がぱっと華やいだ。



 日はすっかりと落ちている。しかし、祭りは夜の方が人が集まるようである。

 篝火に集まる虫のようなものだろう。と、源五郎はふとそう思った。 

 人を食らう妖怪であれば、これほどいい狩り場はないだろう。

 幼い頃からあやかしをよく見た源五郎だが、百鬼夜行はついぞ見たことがない。

 先日、月の夜に轆轤は人を食った。それを見て、ああ妖怪は人を食うものなのだ。と今更ながら実感した。実感したところで、やはり恐ろしさは感じず、却って親しみを感じるのが不思議であった。

 腹を空かせた妖怪から、このような人の群れはどう映るのだろうか。源五郎はそんな事を考えながら、お袖を抱き上げた。

「人出が多い。抱えていこう」

 人は存外多い。はぐれないようにお袖を抱えたまま人の隙間をかいくぐる。男も女も楽しげに、縁起物の飾りなどをゆらゆら振りながら歩くのが、目ににぎやかである。

 かつて、源五郎もこの賑やかさを驚きをもって見つめたことがある。

 大殿に連れられ、主と共に参ったのである。あまりの人の多さに怯えて動けなくなった源五郎を、主は、まだ幼いその主は優しく手招いた。

 初めて見上げた江戸の祭。それはあまりにも幸福に満ちあふれた思い出である。

 かつての源五郎のように、はじめて酉の市をみたであろうお袖は、風邪を忘れて楽しげにはしゃぐ。

「げんご、あれなあに」

「熊手だ」

「あれは?」

「縁起物の……お袖、あまり動くと、落ちるぞ」

 落ちないように体をしっかと支えると、お袖が声をあげて笑った。

「大丈夫。げんごが袖を、支えてくれるから」

「このような祭りに来るのははじめてか、袖」

「百鬼夜行は、止まらない。ただ、通りすぎるばかりなのよ」

 お袖の目は、光が当たると時折赤く輝く。あやかし故か、それとも子供の目はこのように赤く輝くのだろうか。

 旧主の目の色はどうだったか。と想い出し、源五郎の胸内にむなしい風が吹く。

 あれほど仇を。と心に誓ったかつての主の顔はすでに遠い。声音はどうであったか。微笑む顔は、身長は、癖は、どんなものであっただろうか。

 思い出に刻んだはずの影は、薄れつつある。それよりも、今の居心地のよい空気に流されそうになっている。

 それが何より恐ろしい。

 その恐怖を隠して、源五郎はお袖に笑ってみせた。

「これまであまり、聞いた事がなかったな。妖怪たちは、日頃は、どう過ごす」

「暗くて、あたたかくて、きもちのいい場所で、皆で過ごすのよ」

 お袖は源五郎の心の内など気づくはずもなく、楽しげに笑っている。

「でも妖怪たちは、袖を引いたら怒られるから、今のほうがずうっといい」

「……そうか」

 首にすがりついてはしゃぐお袖を見た通りすがりの女が、ほほと笑う。

「……そうだな」

 暖かく、心地がよく、そして薄暗いのは今の二人の関係そのものだ。

 暖かい場所から無理に逃れようと、源五郎は足を早める。

(……いやな予感がする)

 胸騒ぎがする。と源五郎は言葉を飲み込んだ。町はにぎやかだ。人々は幸せそうだ。しかし源五郎一人、妙な予感にさいなまれている。

(今日、屋敷を見ていないからか)

 町を歩くときには、件の屋敷のそばをのぞき見るのが癖となっていた。お袖や轆轤が側にいるときは耐えるが、一人であればかならず側に近づき仰ぎみた。これが敵の居場所ぞと、心に刻みつけるように睨み見た。

 もう十月以上、動きの無かった屋敷である。それはひとつの化け物のように、門を閉ざし気配ひとつ見せてこなかった。

 それが、今日は朝から不思議と気にかかる。ただの直感だ。

 ……しかし、失った片目がいやにうずくのだ。行けば、何かが動き始めている。そんな気がする。

「お袖。少しだけ、ここで動かずにいられるか」

「げんご?」

 源五郎は大きな木の根本で足を止めた。

 屋敷も浅草付近。鷲大明神から屋敷までは、それほど遠くはない。駆けていけば、行って戻れるはずだ。

 お袖をおろすと彼女は不安そうに源五郎の名を呼ぶ。

「すぐ戻る。けして動くな」

 羽織を脱いで、それでお袖を包み込む。小さなその姿は、源五郎の破れた羽織にすっぽりと埋もれる。無意識なのか、彼女は羽織の袖をぎゅっと握ると不安げにうなずいた。

「うん。すぐよ」

 おいていかれる子のような顔でお袖は源五郎をみる。一度はおいていかれた子である。

 その不安げな顔を、案ずるなと言って撫で、源五郎は力づけるようにほほえんでみせた。



 夜ともなれば、武家屋敷はどこも薄暗い。

 妙な動きをすれば気取られる。気配と音を消して駆ければ、目の端に光の筋が見えた。

 その気配に気づけたのは、奇跡としかいいようがない。

 暗闇の中で声もなく、もつれ合う二つの影と銀の軌跡。それは闇を切り裂く白刃である。襲われかけた方が地面に転がる。まさに返す刀が宙を舞う。手練れだ。源五郎を襲った影に似ている。

 空を裂く音は、薄氷を割る音のよう。静かに、しかし不気味に響く。

 そこに飛び込もうと思ったのはなぜか。

 転がった方を助けようと思ったのはなぜか。

 すべては理由などない。ただの勘であり、源五郎の勘は恐ろしく鼻が利く。

 源五郎は無言で立ち会いに滑り込むと、腰の刀を引き抜く。かん、と鋭い音が響いた。源五郎の刀が、相手の刃をたたいたのだ。

 真横からの助太刀に、手練れも驚いたと見える。男は、源五郎に刃を向けることなく素早く飛び退る。そして、音も無く闇に消えた。

 すべては一瞬のことである。

 息を小さく吐き出して、源五郎は倒れた男に手を貸す。起きあがった男を見て、源五郎は言葉を詰まらせた。

「銀……」

 その顔には見覚えがある。闇の中でも分かる。それは。

「銀次……」

 それは、誰であろう銀次であった。数ヶ月前、源五郎は彼の腐りかけた腕を確かにその目でみた。

「生きて……いたのか」

「自分で助けておいて、そんな驚いた顔……俺の方が驚いたよ。まさかお前が助けに入ってくるなんざ」

 呆然とつぶやく源五郎を見て、銀次は照れたように笑う。

「安心しな、幽霊じゃねえよ」

 怪我はないようである。起きあがった彼は、数ヶ月前に別れた時から変わらない……いや。

「あんな大見得切って関所越えて、ざまあねえや。しかしお前は目で、俺は腕。よくよく、人の半分を奪っていくのが好きな連中であるようだ」

 彼の着物の左袖は、力なく垂れて風に揺れているのである。銀次は、ぽん。とその袖をたたいた。中は空虚だ。

「情けねえやな」

 源五郎は震える腕で刀を収め、銀次の腕に触れる。左腕は、筋肉の付いた肩から先が消えている。

「銀次。お前の腕を、俺はこの目でみた。屋敷に送られてきたと……」

「そうか。もう知っていたか……却って心配かけちまったな」

「だから、死んだものと俺は」

 腕をなくしてもなお、彼は平然と涼しい顔である。

「もうすっかり怪我はいい。お前もな、賭博仲間は作っておくもんだぜ。昔、くれてやった端金のおかげで命が救われた」

「ではなぜ、今襲われていた」

 源五郎は周囲を見やりながら囁く。

 目的の屋敷はまだ先だ。ここは武家屋敷の入口のようなもの。しかし、これ以上は近づけない。周囲は静かだが、数人の気配がある。それは、じっとこちらを見ている。

「さあな」

 銀次は寒そうに肩をさすりながら歩きはじめる。

 周囲に張る人間は襲ってはこないようだ。ただ、じりじりと間合いを狭めてくる。

 背後に注意を送りながら、二人は慎重にその場を離れた。 

「昨日江戸に戻った。屋敷の様子を見ようと近づいたとたんにこれだ」

「しかしあの刀は、本気で殺しにかかったものではない」

「殺すなら、とうにやってるさ。殺す気も、傷つける気もさほどはないんだろう」

 銀次は自分の腕を軽くたたく。

「俺ぁこんな身体だ。江戸に入る前に、殺そうと思えばやれたはずだ。しかし殺さなかった。何故かわかるか」

「いや……」

「おそらく向こうの計画はうまく進んでいる。もう、俺たちが上に訴えたところで、計画が覆ることはないところまできているってぇこった」

「しかし、お召しこじりが」

「……せっかく命をかけてお前に送ったが、あれもあいつらにとっちゃ、もう脅威でもなんでもないのだろう。今じゃ、俺等を変に殺して、嫌疑がかかる方が面倒だってことだ。屋敷に近づかねえよう、適当に見張って、虫でも追い払うように脅かしておけばすむ、とそう考えている」

 慈悲があるのか、なめられているのか。と銀次は苦笑する。

「しかし銀次。俺の家になぜこなかった。死んでなどおらぬと、なぜ連絡をよこさなかった」 

 水くさい。と怒る源五郎に銀次は意地悪く笑う。

「大殿が死んだ上に、俺が大怪我をして生死の境にいるなどとお前が聞けば、なりふり構わず屋敷に飛び込んでいって犬死にすると、そう思ったのさ」

 銀次の言葉に、源五郎は言葉を詰まらせる。銀次の腕を見せつけられ、件の商人の言葉に踊らされたのはたった数ヶ月前の話。

 銀次の言うとおり、源五郎には頭に血が上りやすく悪癖がある。

「……やはり大殿は」

「俺の伝言のとおり」

「ならば毒」

「何とか大殿に現状を伝えようとしたが……その前に」

 冷たい風にさらされて、二人の言葉は短くなる。

 源五郎の胸中に、優しかった大殿の顔と声が一瞬浮かび、すぐに離散した。悲しくは無い。ただ、虚しい。

「しかし、それが幸福だ。不運を知らず逝った」

 冷えると痛むのか、彼は肩をさすった。そして足を早める。源五郎も真横をひたりとついて走る。刀はいつでも抜ける形だ。その態度に向こうがあきらめたか、やがて気配は遠ざかった。

 しばし駆けて、銀次はようやく速度をゆるめる。

 そして、屋敷の建つ方角を憎々しげに睨むのである。

「大殿も死んだ。年があけりゃ、どこの馬の骨かわからないやつが、当主となる。大殿の死んだ今、義理を立てる相手もいねえが、俺はやるぜ、屋敷に飛び込んで暴れる。どうせ二度か三度死んだ身だ、命など惜しいものか」

「……いや。どこの馬の骨か、はわかるかもしれない」

 屋敷を抜ければとたん、世界は光に包まれた。まっすぐに続く参道は、祭りの音と気配に溢れている。

 銀次はまぶしげに目を細め、それを見つめる。が、口調は冷え切っていた。

「……どいつだ」

「商人だ……伊勢屋だ」

「……あいつか」 

 源五郎に親しげに声をかけてきた男。銀次の腕を敢えて見せつけてきたあの男。

 優しげな目つきだが、目の奥はけして笑っていなかった。

「時期当主だとあがめられてるガキの種も、蓋をあけてみりゃあ……ってこともあるな」

 なるほど。伊藤のやろうにゃ、そこまでの才覚はないとおもっていた。裏があるならわかりやすいと、銀次は右手で腿を打った。

「おもしろくなってきた。腕が鳴る。死に様は、ぱっといきてえもんだ。それこそ、花火が散るみたいによ」

「俺もだ」

 言い切った源五郎を銀次がみる。しばし見つめて、ため息をもらした。

「……止めても無駄か」

「俺には俺の覚悟がある」

「言うと思った」

 その言外に、銀次の優しさがにじむ。お袖と轆轤を思ったのだろう。しかし源五郎はその気づかない振りをして言った。

「銀次、俺に恥をかかせるな」

 銀次ももとより、強く止める気は無かったとみえる。源五郎が言い切れば、あっさりと頷いた。

「俺は左手、お前は右目。ちょうど、つがいみてえに生き残った。二人で一人だ。十分、暴れられる」

 屋敷が次に動くのは年明け。新年、当主の死が告げられ、喪に服すと同時に後継が定まるはずである。

 不正を事実としてはならない。動き出す前に止めなければならない。しかし、今は屋敷中が目となり、耳となり気を張っている。

 では。と銀次は源五郎に耳打ちをした。

「……年末がいい。最後の最後に、暴れてやる」

「では年末に」

 源五郎もささやく。ささやいた自分の声に、源五郎は安堵する。

 年末であれば、お袖を百鬼夜行に返してやれる。そして、何より。

(後、一月)

 自らを親とも頼る幼い妖怪と共に過ごせる。

 それが、源五郎にいささかの幸福を与えるのである。





 夜が更けるほどに、祭りはにぎわう。銀次と別れた後、しばし源五郎は迷った。

 お袖と別れた木の根本に飾りを売る屋台が立てられている。その屋台が彼女を払ったのか、そこにお袖の姿がないのである。

 あわてて探せば、やがて大きな提灯の下、所在なさげに立つ彼女を見つけた。

「お袖、離れてはいけないと言っただろう」 

「げんご」

 声をかけると彼女は嬉しそうに笑って駆けてくる。その手には、愛らしい熊手が握られていた。縁起物に飾られた小さな熊手である。

「ああ……熊手をもらったか」

「うん。知らないおにいちゃんから」

 それを玩具のように揺らして彼女は笑う。

「着物の袖がね、ぷらぷらしてたのよ。だからつい、引いてしまったの。すごく袖が軽くって、左の手がないのねって聞いたら、そうだよって笑ったの」

「行こう」

「げんご」

 抱き上げると、彼女は幸せそうに源五郎の首にすがりつく。

「お飾りが綺麗、提灯も綺麗」

 目を細めてお袖が笑う。その小さな手が源五郎の着物の袖をしっかと握る。人のような心音は感じられないが、ずしりと手の内側にかかる力は、存在の重さである。

 無邪気に提灯を指して笑う。袖に、いくらかの哀れみを源五郎は覚える。

「……」

「風邪が悪くなったか」

「大丈夫」

「顔の色が悪い」

 お袖の息が少しばかり荒いのが気にかかった。夕の冷えのせいか、時折空咳をするところも気にかかる。

「急ごう」

 大丈夫。というお袖をしっかと抱き抱え、にぎわう人の間を抜ける。

「……げんご」

 長屋にたどり着くその寸前。まるで子を慈しむように、お袖の小さな手が源五郎の頭をなでた。無言の温もりに源五郎の言葉が詰まる。

「お袖」

 年末に俺は死ぬ。

 言い掛けた言葉は、闇に沈んだ。

 白い息が宙に舞う。

 年末まであと一月。

 しかし、もう、すぐそこである。 
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