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【七夕】
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7月7日は七夕といって、願いを綴った短冊を青竹に飾り、屋根より高く掲げるのである。
そして索麺を食べ、みなで季節を祝うのである。
そんな話を聞くたびに、人間とはいかにおかしい生き物なのか。とお袖は不思議に思うのだ。
「お袖ちゃん。早くしないと源五郎さんが帰ってきちゃうわよう」
せっせと紙飾りを作る轆轤を、お袖は小さく睨んだ。口がへの字になっているのが自分でもわかる。
「袖、ちゃんと作ってるもん」
いじけるように紙を折り畳むと、紙で皮膚が裂けた。指先に、ぷつりと血が浮かぶ。
妖怪でも血があり、肉はあるのだ。源五郎などは不思議がったものだが。
「いた」
「もう、お袖ちゃんは不器用ねえ」
轆轤が手を止め苦笑する。赤い唇が、艶と輝き笑みとなる。
夏だから、といって白い肩を剥き出しにする轆轤と自分の体を見比べると、理由も分からずお袖は少しばかり落ち込むのである。
「なんで、うちに轆轤が、いるの」
「あら酷い言われよう」
口を尖らせると、轆轤がまた微笑んだ。その笑みの合間に冷たい空気が漏れる。それが妖怪の合図である。
人のように見えても所詮はあやかしである。それは、お袖と同じ空気を持っている。
「お袖ちゃんの着物を届けに来てあげたんじゃないのよ。新しい着物、愛らしい。とてもよく似合ってる」
轆轤は首をひょいと伸ばし、お袖の体を一周くまなく見つめた。
お袖が纏うのはまだ新しい、下ろしたばかりの着物であった。一面に朝顔の柄の浮かぶ愛らしい着物である。
夏が暑い、冬が寒いという感覚を妖怪は持たない。源五郎が季節の都度、着物を作り替えてくるのがお袖にとっては不思議であった。
しかし、薄く柔らかい夏の着物の袖をきゅっと握るだけでお袖は嬉しくなる。源五郎が自分のために選んだ着物だからである。
無口な源五郎だが、常にお袖のことを考えてくれているのが、嬉しい。
「それにね。今日は七夕。青竹にほら、こんな願い事書いてさ、飾るのよ。源さんが長屋みんなの願い事を書いてくれてさ。だから、私もお手伝い」
「お手伝いなら袖だけでできるもん」
「手を切ってぴゃあぴゃあ泣いていたくせに」
「泣いてないもん」
狭い部屋には紙が散乱している。大小様々な短冊に文字が書かれている。
最近、源五郎に文字を習いはじめたお袖は、そのいくつかを読むことができる。
……金が欲しい、病気を治したい、博打に勝ちたい。
願いの書かれた短冊を手にし、お袖は小さくため息を付く。
この短冊を飾りとともに高く掲げるのである。長屋の人々は文字を書けない。代わりに源五郎が書いた。夜までに飾りをつけて、そして飾るのである。
「七夕ってのは、年に一回だけ好き同士の男と女が天界の遠く遠くで出会うらしい。馬鹿ねえ。そんなに好きなら、私なら、天の川でも泳いでいっちゃう」
轆轤は器用に紙を折る。短冊とともにつける、飾りである。
源五郎はなにやら忙しく朝から出たまま戻らない。それならば手伝いを、と飾りを作り始めた時に、轆轤が現れたのである。
まるで自分の家のように轆轤はすっかり寛いで、飾りを作る手にも余念が無い。
「でもね、雨が降れば出会えないという。今宵は雨かねえ」
雨が降ればいいとでも言わんばかりの口調である。轆轤は意地悪く微笑んだ。
「ねえ、お袖ちゃん。年に一回というとまるで百鬼夜行のようじゃないか」
「……」
ふと、轆轤がその名を口にしたとき、お袖の肩に緊張が走った。
源五郎と暮らしはじめてもう半年以上。お袖はすっかり人との生活に慣れた。まるで自分が人の子になったようである。
しかし、自分は妖怪なのだ。と思い出される時がある。百鬼夜行の響きを聞くだけで、胸が熱くなる。あの暗く、明るく、血の匂いにむせかえる、らんちき騒ぎの大行列。暗闇に身が溶ける、あの感覚。
お袖は確かに、化け物となる。
「次に来る百鬼夜行、きっとあんたは帰れるよ。雨なんざ降ったって、必ず返してくれる、源さんがね。私だって、できることはしてあげる」
轆轤は、妖怪にしては変わり種だ。
だいたい、妖怪が自ら人の世界に残るには理由がある。それは人を食うためである。
しかし轆轤は人を食わない。ただ、仕事が楽しいのだと言って残っている。
そして、列からはぐれたお袖のような妖怪を食い脅しもせず、接してくれる。
「なんで……」
「ん?」
「なんで轆轤は、袖をいじめないの」
「いじめてほしいの?」
から、と轆轤が笑う。
「いじめたっていいけどさ、せっかく江戸で出会った妖怪同士、仲良くしたっていいじゃないか」
轆轤は白いうなじをぺちり、とたたく。蚊が、音もなくつぶれた。
「私は享楽がすきなの。馬鹿なことが好き。だから人の世界に残るし、遊女なんてやってる。たまには小さな妖怪を助けたりもするし、人のことだって好きにもなる」
「だ……だめ」
「私が心配なのはね、百鬼夜行のあとのこと。あんたはこの家から出る。そしたらね」
思わず声をあげたお袖にもかまわず、轆轤は淡々と続けた。
「……源さんは死ぬ気だ」
「やだ」
「私だって」
お袖の声は半ば悲鳴であった。最近の源五郎は日々、顔に険しさが刻まれつつある。
そもそも出会いの時に彼は言った。自分はいずれ仇を見つけて討って死ぬ。
お袖は死を理解しない。しかし源五郎がいなくなろうとしていることはわかる。
「やだ。げんごは死なないし、袖とも離ればなれにならないもの」
「そういったって、あんたは暮れの行列で妖怪の世界に戻るんだ」
「もど……」
戻らない。と言いかけてお袖は口をつぐむ。戻らない、などとはいえない。
紙で切った指を押さえてお袖は顔を俯ける。半年より前、源五郎と出会う前のお袖の苦しみは、この指の痛みどころではなかった。
ただこの小さな家でおびえながら暮らした。人間はお袖を見ればおびえるか、追いだそうとやっきになった。
そして外にでればはぐれ妖怪に狙われた。一日もゆるりとできる日がなかった。
しかしそれでも、時折無性に誰かの袖を引きたくて溜まらなかった。袖など引けば人はおびえる。わかっていたのに、ひらりと揺れる袖が目の前に現れるたびにその衝動に襲われた。
源五郎の袖を引いたときも、そうだった。
隻眼に見つめられたときはただただ恐怖であったが、源五郎は袖を邪険にはしなかった。
それどころか名を与えた。名を、与えられたのは初めてだった。
お袖は、源五郎が好きになっていた。
「行列には……戻るけど、でも、げんごが死ぬのはやだ」
「そのあたり、うまくできればいいんだけど。ずっと考えてるけど、源さんの仇が誰かわからないんじゃあねえ……」
長い指を顎に当てて轆轤が首を傾げる。が、次の瞬間彼女の目に鋭い光が浮かんだ。
お袖の背も震える。
入り口に、人の気配が匂ったのである。
「誰だい」
「失礼しますよ」
扉を開けたのは人間の男である。見た事もない、やけに立派な着物を纏い、腰の低い男である。
目の横に笑い皺が深く刻まれている。しかしその目の奥は笑っていない。咄嗟に、お袖は轆轤の後ろに回りこみ彼女の袖を掴んだ。轆轤も素早くお袖を庇い、空けていた襟元をぐっと詰める。
「どちらさんだえ」
外は知らぬ間に雨が降り始めていたらしい。男は濡れた傘を丁寧に畳みながら、顔を上げた。
「伊勢屋と申しますが……おや、源五郎さんのご新造さんかえ。いつの間に所帯を持って」
「違う、轆轤は」
「愛らしい、こんな娘さんまで。隅に置けない人だ」
男はふくふくしい顔でにこりと笑った。頬が丸く、笑うと目が丸く円を書く。
「私は源五郎さんにお世話になっているものです。お初お目にかかります。源五郎さんは……ご不在のようで」
男は部屋を軽く見渡して、短冊に気づいたのか、また笑った。
「どうぞ、たいしたものでもございませんが、七夕の索麺でございます。七夕に食せば、瘧に合わないと……まあ子供騙しではございますが、このような季節に食えば旨い物です」
「それはまあご丁寧に」
「大事な手紙を届けに参ったのですが、ご不在ならば仕方ない。また参りますとお伝えくださいまし」
男は玄関より一歩も中に足を踏みれないまま、風呂敷包みだけを残して去った。
ぱっと鮮やかな傘が開くのが見える。雨の音と、足音と。
男が遠く遠ざかった頃、轆轤が長い息を吐く。
お袖はまだ、轆轤の袖から手が放せない。
「気付いたかい」
「……血の匂いがした」
「やだやだ、きな臭い」
轆轤とお袖は目を合わせる。先ほどの男、確かに血の匂いがした。
雨の匂い、むせかえるような人の匂い、それに男の着物に染みこんだ、甘い甘い伽羅の香り。それは、血の匂いを隠すように執拗に焚きしめられていた。
本物の血ではないかもしれない。因果が、血となり匂うのかもしれない。
「妖怪はたしかに人を食うが、同類で殺し合う人間はいかにも恐ろしいねえ」
「なにが、恐ろしいのだ?」
轆轤のため息に重なるように、静かな声がひろがる。その声を聞いて、お袖の顔にぱっと笑みが広がる。
先ほどしまった扉が再度開けば、そこに源五郎が立っている。
外は雨がますます厳しい。まるで滝のようだ。真っ白な雨筋が大地を叩いて霧のよう。
その中に、彼は立っている。
「げんご!」
お袖ははじかれたように立ち上がり、源五郎の腕ごと袖を引く。抱きしめるようにつかむと源五郎の手がお袖の指をなでた。
「どうした。お袖、紙で切ったか」
「いたいの」
「あとで薬を塗ろう。悪くなると、いけない」
ぷ、と頬を膨らますと源五郎が困ったように笑う。彼が笑うと隻眼もふわりと円を描くようで、お袖は彼の笑顔が好きだった。
「源さん、さっき男の人がきたわよう。どちらさま」
「ああ、外で会った。昔のなじみだ。心配はない」
轆轤の含みある言い方にも動じず、源五郎は室内を見渡した。
「すまん、俺のいない間にずいぶん進んだようだ。お袖も、書くか」
「もう書いたから、あとで飾るの」
差し出された源五郎の手に照れるように、お袖は顔を俯ける。
懐に大事にしまった短冊には、源五郎の名だけが書かれていた。彼と共に居たいと願うのか、彼の無事を祈るのか、お袖にはそれ以上言葉を紡げず、ただ名だけ書いた。
「しかし雨では文字も流れてしまうだろうな」
哀れむように源五郎が言う。外の雨はひどくなるばかりなのである。
扉を開けて手をさしのべた轆轤の肌に、雨の滴は流れて落ちる。このままでは、お袖の書いた源五郎の名も、同じように流れて消えるに違いない。
言いようのない不安に、お袖は源五郎の袖をつかむ。温かい人の体温が手に伝わった。しかし、妖怪の体温は源五郎の体温をかき消す。
残ったのは、妖怪のもつ冷たい体温であった。
なぜ自分は妖怪で源五郎は人なのか。無性な寂しさに、お袖は源五郎の腕に顔を埋めた。
そして索麺を食べ、みなで季節を祝うのである。
そんな話を聞くたびに、人間とはいかにおかしい生き物なのか。とお袖は不思議に思うのだ。
「お袖ちゃん。早くしないと源五郎さんが帰ってきちゃうわよう」
せっせと紙飾りを作る轆轤を、お袖は小さく睨んだ。口がへの字になっているのが自分でもわかる。
「袖、ちゃんと作ってるもん」
いじけるように紙を折り畳むと、紙で皮膚が裂けた。指先に、ぷつりと血が浮かぶ。
妖怪でも血があり、肉はあるのだ。源五郎などは不思議がったものだが。
「いた」
「もう、お袖ちゃんは不器用ねえ」
轆轤が手を止め苦笑する。赤い唇が、艶と輝き笑みとなる。
夏だから、といって白い肩を剥き出しにする轆轤と自分の体を見比べると、理由も分からずお袖は少しばかり落ち込むのである。
「なんで、うちに轆轤が、いるの」
「あら酷い言われよう」
口を尖らせると、轆轤がまた微笑んだ。その笑みの合間に冷たい空気が漏れる。それが妖怪の合図である。
人のように見えても所詮はあやかしである。それは、お袖と同じ空気を持っている。
「お袖ちゃんの着物を届けに来てあげたんじゃないのよ。新しい着物、愛らしい。とてもよく似合ってる」
轆轤は首をひょいと伸ばし、お袖の体を一周くまなく見つめた。
お袖が纏うのはまだ新しい、下ろしたばかりの着物であった。一面に朝顔の柄の浮かぶ愛らしい着物である。
夏が暑い、冬が寒いという感覚を妖怪は持たない。源五郎が季節の都度、着物を作り替えてくるのがお袖にとっては不思議であった。
しかし、薄く柔らかい夏の着物の袖をきゅっと握るだけでお袖は嬉しくなる。源五郎が自分のために選んだ着物だからである。
無口な源五郎だが、常にお袖のことを考えてくれているのが、嬉しい。
「それにね。今日は七夕。青竹にほら、こんな願い事書いてさ、飾るのよ。源さんが長屋みんなの願い事を書いてくれてさ。だから、私もお手伝い」
「お手伝いなら袖だけでできるもん」
「手を切ってぴゃあぴゃあ泣いていたくせに」
「泣いてないもん」
狭い部屋には紙が散乱している。大小様々な短冊に文字が書かれている。
最近、源五郎に文字を習いはじめたお袖は、そのいくつかを読むことができる。
……金が欲しい、病気を治したい、博打に勝ちたい。
願いの書かれた短冊を手にし、お袖は小さくため息を付く。
この短冊を飾りとともに高く掲げるのである。長屋の人々は文字を書けない。代わりに源五郎が書いた。夜までに飾りをつけて、そして飾るのである。
「七夕ってのは、年に一回だけ好き同士の男と女が天界の遠く遠くで出会うらしい。馬鹿ねえ。そんなに好きなら、私なら、天の川でも泳いでいっちゃう」
轆轤は器用に紙を折る。短冊とともにつける、飾りである。
源五郎はなにやら忙しく朝から出たまま戻らない。それならば手伝いを、と飾りを作り始めた時に、轆轤が現れたのである。
まるで自分の家のように轆轤はすっかり寛いで、飾りを作る手にも余念が無い。
「でもね、雨が降れば出会えないという。今宵は雨かねえ」
雨が降ればいいとでも言わんばかりの口調である。轆轤は意地悪く微笑んだ。
「ねえ、お袖ちゃん。年に一回というとまるで百鬼夜行のようじゃないか」
「……」
ふと、轆轤がその名を口にしたとき、お袖の肩に緊張が走った。
源五郎と暮らしはじめてもう半年以上。お袖はすっかり人との生活に慣れた。まるで自分が人の子になったようである。
しかし、自分は妖怪なのだ。と思い出される時がある。百鬼夜行の響きを聞くだけで、胸が熱くなる。あの暗く、明るく、血の匂いにむせかえる、らんちき騒ぎの大行列。暗闇に身が溶ける、あの感覚。
お袖は確かに、化け物となる。
「次に来る百鬼夜行、きっとあんたは帰れるよ。雨なんざ降ったって、必ず返してくれる、源さんがね。私だって、できることはしてあげる」
轆轤は、妖怪にしては変わり種だ。
だいたい、妖怪が自ら人の世界に残るには理由がある。それは人を食うためである。
しかし轆轤は人を食わない。ただ、仕事が楽しいのだと言って残っている。
そして、列からはぐれたお袖のような妖怪を食い脅しもせず、接してくれる。
「なんで……」
「ん?」
「なんで轆轤は、袖をいじめないの」
「いじめてほしいの?」
から、と轆轤が笑う。
「いじめたっていいけどさ、せっかく江戸で出会った妖怪同士、仲良くしたっていいじゃないか」
轆轤は白いうなじをぺちり、とたたく。蚊が、音もなくつぶれた。
「私は享楽がすきなの。馬鹿なことが好き。だから人の世界に残るし、遊女なんてやってる。たまには小さな妖怪を助けたりもするし、人のことだって好きにもなる」
「だ……だめ」
「私が心配なのはね、百鬼夜行のあとのこと。あんたはこの家から出る。そしたらね」
思わず声をあげたお袖にもかまわず、轆轤は淡々と続けた。
「……源さんは死ぬ気だ」
「やだ」
「私だって」
お袖の声は半ば悲鳴であった。最近の源五郎は日々、顔に険しさが刻まれつつある。
そもそも出会いの時に彼は言った。自分はいずれ仇を見つけて討って死ぬ。
お袖は死を理解しない。しかし源五郎がいなくなろうとしていることはわかる。
「やだ。げんごは死なないし、袖とも離ればなれにならないもの」
「そういったって、あんたは暮れの行列で妖怪の世界に戻るんだ」
「もど……」
戻らない。と言いかけてお袖は口をつぐむ。戻らない、などとはいえない。
紙で切った指を押さえてお袖は顔を俯ける。半年より前、源五郎と出会う前のお袖の苦しみは、この指の痛みどころではなかった。
ただこの小さな家でおびえながら暮らした。人間はお袖を見ればおびえるか、追いだそうとやっきになった。
そして外にでればはぐれ妖怪に狙われた。一日もゆるりとできる日がなかった。
しかしそれでも、時折無性に誰かの袖を引きたくて溜まらなかった。袖など引けば人はおびえる。わかっていたのに、ひらりと揺れる袖が目の前に現れるたびにその衝動に襲われた。
源五郎の袖を引いたときも、そうだった。
隻眼に見つめられたときはただただ恐怖であったが、源五郎は袖を邪険にはしなかった。
それどころか名を与えた。名を、与えられたのは初めてだった。
お袖は、源五郎が好きになっていた。
「行列には……戻るけど、でも、げんごが死ぬのはやだ」
「そのあたり、うまくできればいいんだけど。ずっと考えてるけど、源さんの仇が誰かわからないんじゃあねえ……」
長い指を顎に当てて轆轤が首を傾げる。が、次の瞬間彼女の目に鋭い光が浮かんだ。
お袖の背も震える。
入り口に、人の気配が匂ったのである。
「誰だい」
「失礼しますよ」
扉を開けたのは人間の男である。見た事もない、やけに立派な着物を纏い、腰の低い男である。
目の横に笑い皺が深く刻まれている。しかしその目の奥は笑っていない。咄嗟に、お袖は轆轤の後ろに回りこみ彼女の袖を掴んだ。轆轤も素早くお袖を庇い、空けていた襟元をぐっと詰める。
「どちらさんだえ」
外は知らぬ間に雨が降り始めていたらしい。男は濡れた傘を丁寧に畳みながら、顔を上げた。
「伊勢屋と申しますが……おや、源五郎さんのご新造さんかえ。いつの間に所帯を持って」
「違う、轆轤は」
「愛らしい、こんな娘さんまで。隅に置けない人だ」
男はふくふくしい顔でにこりと笑った。頬が丸く、笑うと目が丸く円を書く。
「私は源五郎さんにお世話になっているものです。お初お目にかかります。源五郎さんは……ご不在のようで」
男は部屋を軽く見渡して、短冊に気づいたのか、また笑った。
「どうぞ、たいしたものでもございませんが、七夕の索麺でございます。七夕に食せば、瘧に合わないと……まあ子供騙しではございますが、このような季節に食えば旨い物です」
「それはまあご丁寧に」
「大事な手紙を届けに参ったのですが、ご不在ならば仕方ない。また参りますとお伝えくださいまし」
男は玄関より一歩も中に足を踏みれないまま、風呂敷包みだけを残して去った。
ぱっと鮮やかな傘が開くのが見える。雨の音と、足音と。
男が遠く遠ざかった頃、轆轤が長い息を吐く。
お袖はまだ、轆轤の袖から手が放せない。
「気付いたかい」
「……血の匂いがした」
「やだやだ、きな臭い」
轆轤とお袖は目を合わせる。先ほどの男、確かに血の匂いがした。
雨の匂い、むせかえるような人の匂い、それに男の着物に染みこんだ、甘い甘い伽羅の香り。それは、血の匂いを隠すように執拗に焚きしめられていた。
本物の血ではないかもしれない。因果が、血となり匂うのかもしれない。
「妖怪はたしかに人を食うが、同類で殺し合う人間はいかにも恐ろしいねえ」
「なにが、恐ろしいのだ?」
轆轤のため息に重なるように、静かな声がひろがる。その声を聞いて、お袖の顔にぱっと笑みが広がる。
先ほどしまった扉が再度開けば、そこに源五郎が立っている。
外は雨がますます厳しい。まるで滝のようだ。真っ白な雨筋が大地を叩いて霧のよう。
その中に、彼は立っている。
「げんご!」
お袖ははじかれたように立ち上がり、源五郎の腕ごと袖を引く。抱きしめるようにつかむと源五郎の手がお袖の指をなでた。
「どうした。お袖、紙で切ったか」
「いたいの」
「あとで薬を塗ろう。悪くなると、いけない」
ぷ、と頬を膨らますと源五郎が困ったように笑う。彼が笑うと隻眼もふわりと円を描くようで、お袖は彼の笑顔が好きだった。
「源さん、さっき男の人がきたわよう。どちらさま」
「ああ、外で会った。昔のなじみだ。心配はない」
轆轤の含みある言い方にも動じず、源五郎は室内を見渡した。
「すまん、俺のいない間にずいぶん進んだようだ。お袖も、書くか」
「もう書いたから、あとで飾るの」
差し出された源五郎の手に照れるように、お袖は顔を俯ける。
懐に大事にしまった短冊には、源五郎の名だけが書かれていた。彼と共に居たいと願うのか、彼の無事を祈るのか、お袖にはそれ以上言葉を紡げず、ただ名だけ書いた。
「しかし雨では文字も流れてしまうだろうな」
哀れむように源五郎が言う。外の雨はひどくなるばかりなのである。
扉を開けて手をさしのべた轆轤の肌に、雨の滴は流れて落ちる。このままでは、お袖の書いた源五郎の名も、同じように流れて消えるに違いない。
言いようのない不安に、お袖は源五郎の袖をつかむ。温かい人の体温が手に伝わった。しかし、妖怪の体温は源五郎の体温をかき消す。
残ったのは、妖怪のもつ冷たい体温であった。
なぜ自分は妖怪で源五郎は人なのか。無性な寂しさに、お袖は源五郎の腕に顔を埋めた。
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