3 / 67
第三話 心の傷
しおりを挟む
――卑怯者、か…。
それは私の事だろうか。それとも彼の事だろうか。
3年前に別れた彼は妻帯者だった。
妻子がいる事を隠されていたわけではない。私は最初から彼が既婚者だと知っていた。妻子がいるのを承知の上で、彼と付き合い始めたのだ。
当時直属の上司だった8歳年上の彼は、穏やかで優しく、とても仕事が出来る人だった。
そんな彼が大学を卒業したばかりの私に、懇切丁寧に仕事を教え、面倒見てくれたのだ。好きになるなという方が難しかった。
しかし、今思えば、彼が既婚者だと知った時点で諦めるべきだったのだ。例えどんなに難しかろうとも。
彼に『妻』がいる以上、彼の一番にはなり得ない。例えなれたとしても、それは誰かの犠牲の上でしか成り立たない。
そんな当たり前の事すら、当時の私は理解できていなかったのだから、愚か過ぎて笑ってしまう。
私が彼に告白したのは、入社して半年が過ぎた頃。私が初めて仕事で大きなミスをおかした時だ。
その時、彼はとても冷静に、けれど懸命に、私のミスをフォローする為奔走してくれた。そんな彼の姿に心を打たれ、胸が熱くなり、彼への想いが溢れ出てしまったのだ。
7年以上、社会人経験を積んだ今ならば容易にわかる。あの時、彼は一社員として当然の事をしたまでなのだと。決して私の為などではなかったのだと。
あの時、私のミスのせいで大きな取引が1つポシャリそうだった。
きっとあのまま何もしなければ、会社の信用失墜を招き、大きな損失を出していただろう。それを防ぐべく、問題解決に尽力するのは、一社員として当然の義務だ。
そこに私への想いがあるかどうかは関係ない。
そんな当たり前の事に気付きもせず、脳内お花畑だった当時の私は、「彼」という王子様が自分の窮地を救ってくたのだと勘違いしていた。
何ともおめでたい思考回路だの持ち主だ。我ながら呆れてしまう。今となっては、よく彼が当時の私に応えてくれたものだと逆に感心する。
告白した当時の私だって、彼に応えてもらえるだなんて思っていなかった。ただ自分の気持ちを整理する為に、ダメ元で告白しただけだったのだ。
そんなダメ元の告白に、彼は応えてくれた。
私を抱き寄せ、「こんなおじさんで良ければ付き合おうか」と言ってくれた。心臓が止まるかと思うくらい嬉しかった。歓喜のあまり、大号泣した。
例え彼の一番になれなくても、人目を忍ばなくてはならない関係だとしても、大好きな彼に応えてもらえたのだ。それが嬉しくて幸せで堪らなかった。
あの時私は、これから薔薇色の日々が始まるのだと夢見ていた。
……だが実際には、胸が張り裂けそうな程、辛い日々の始まりだった。
彼は私と付き合いながらも、家庭第一という姿勢を崩さなかった。不倫男が口にしがちな妻への不満も、不仲も、一切口にした事がない。
いや、私の前で家族の話をしなかったと言った方が正しい。敢えてその話題を避けていた気すらする。
彼の誕生日やクリスマス、バレンタイン等のイベント当日。彼は決まって家族と過ごした。私とは日をずらして一緒に過ごした。
あの頃、私はイベント事が大嫌いだった。だって私は、イベント当日、いつも彼を想いながら独り寂しく部屋で過ごしていたのだから。
5年も付き合っていたというのに、彼が私の部屋に泊まっていった事など殆どなかった。彼が泊まっていったのは、私が体調を崩して高熱を出した時くらい。どんなに遅くなっても、彼はいつも必ず家族の元に帰っていった。
帰っていく彼の背中を見つめながら私がどんな気持ちでいたか、きっと彼は知らないだろう。彼に余計な負担を掛けたくなくて醜い感情をひた隠していたのだから、当然と言えば当然だ。
彼の前ではいつも物分かりのいい女を演じていた。
けれど、本当は彼を独占できる奥さんに酷く嫉妬していた。もし出逢う順番が違ったなら、自分がその座にいたかも知れない。そんな無意味なタラレバに取りつかれ、気が狂いそうだった。
しかし、人間とは悲しい生き物で、どんな状況にも順応していく。
付き合い始めて暫く経つと、そんな苦しみにさえ慣れ始めた。時間が経つにつれ、どんどん感覚は鈍くなり、いつしか麻痺するようになった。そのうち、彼と一緒にいるには我慢する他ないのだという諦観の境地に達した。
5年間も都合の良い女に甘んじていただなんて、私には矜持はないのかと思われるかも知れない。今となれば、私自身でさえそう思う。
可笑(おか)しな話だけれど、あの頃の私にとって「彼への想いを大切にする事」自体が『矜持』だった。
そして5年も、そんな立場に甘んじていたのは…彼がとても狡い人だったからに他ならない。
彼は優しく甘やかで、そしてとても残酷な人だった。
彼の眼差しはいつも私への愛情で溢れているように見えたし、彼は言葉を尽くして私に想いを伝えてくれた。
家庭第一というスタンスを貫きながらも、私の事も大切にしてくれた。愛してくれた。それこそ、彼から離られなくなる程に。
彼が名古屋に異動して完全に関係を清算した後、私は親しい友人に全てを打ち明けた。諭されたり、泣かれたり、労わられたり、友人の反応は様々だった。
しかし、既婚者の友人は皆一様に苦い顔をしていた。それなのに誰も私を責めなかった。詰らなかった。それが逆に私の罪悪感を煽った。
その時初めて、私は自分の犯した罪の大きさに気付いた。それまで散々悲劇のヒロインぶっていたけれど、私にヒロインぶる資格などなかったのだ。私はヒロインなどではなく、幸せな家庭に禍を齎す災厄だったのだから。
彼と付き合っていた頃、自分の存在が奥さんにバレてしまえばいいと思う事があった。バレてしまえば、彼を独占できるかも知れない。そう思ったからだ。
だが、今思えば、あの時バレなくて本当に良かったと思う。もしあの時バレていたら、奥さんはまだしも、まだ幼かった彼の子供達の成長に暗い影を落としていただろう。
私が犯した過ちは、何の罪もない幼子の人生までも狂わせてしまうような大罪だった。そう気付いた時、私は自分の浅慮さを恥じた。短慮さを悔いた。
そして同じ轍を踏まなくなるくらい成長するまでは、恋愛から遠のこうと決めたのだ。
それは私の事だろうか。それとも彼の事だろうか。
3年前に別れた彼は妻帯者だった。
妻子がいる事を隠されていたわけではない。私は最初から彼が既婚者だと知っていた。妻子がいるのを承知の上で、彼と付き合い始めたのだ。
当時直属の上司だった8歳年上の彼は、穏やかで優しく、とても仕事が出来る人だった。
そんな彼が大学を卒業したばかりの私に、懇切丁寧に仕事を教え、面倒見てくれたのだ。好きになるなという方が難しかった。
しかし、今思えば、彼が既婚者だと知った時点で諦めるべきだったのだ。例えどんなに難しかろうとも。
彼に『妻』がいる以上、彼の一番にはなり得ない。例えなれたとしても、それは誰かの犠牲の上でしか成り立たない。
そんな当たり前の事すら、当時の私は理解できていなかったのだから、愚か過ぎて笑ってしまう。
私が彼に告白したのは、入社して半年が過ぎた頃。私が初めて仕事で大きなミスをおかした時だ。
その時、彼はとても冷静に、けれど懸命に、私のミスをフォローする為奔走してくれた。そんな彼の姿に心を打たれ、胸が熱くなり、彼への想いが溢れ出てしまったのだ。
7年以上、社会人経験を積んだ今ならば容易にわかる。あの時、彼は一社員として当然の事をしたまでなのだと。決して私の為などではなかったのだと。
あの時、私のミスのせいで大きな取引が1つポシャリそうだった。
きっとあのまま何もしなければ、会社の信用失墜を招き、大きな損失を出していただろう。それを防ぐべく、問題解決に尽力するのは、一社員として当然の義務だ。
そこに私への想いがあるかどうかは関係ない。
そんな当たり前の事に気付きもせず、脳内お花畑だった当時の私は、「彼」という王子様が自分の窮地を救ってくたのだと勘違いしていた。
何ともおめでたい思考回路だの持ち主だ。我ながら呆れてしまう。今となっては、よく彼が当時の私に応えてくれたものだと逆に感心する。
告白した当時の私だって、彼に応えてもらえるだなんて思っていなかった。ただ自分の気持ちを整理する為に、ダメ元で告白しただけだったのだ。
そんなダメ元の告白に、彼は応えてくれた。
私を抱き寄せ、「こんなおじさんで良ければ付き合おうか」と言ってくれた。心臓が止まるかと思うくらい嬉しかった。歓喜のあまり、大号泣した。
例え彼の一番になれなくても、人目を忍ばなくてはならない関係だとしても、大好きな彼に応えてもらえたのだ。それが嬉しくて幸せで堪らなかった。
あの時私は、これから薔薇色の日々が始まるのだと夢見ていた。
……だが実際には、胸が張り裂けそうな程、辛い日々の始まりだった。
彼は私と付き合いながらも、家庭第一という姿勢を崩さなかった。不倫男が口にしがちな妻への不満も、不仲も、一切口にした事がない。
いや、私の前で家族の話をしなかったと言った方が正しい。敢えてその話題を避けていた気すらする。
彼の誕生日やクリスマス、バレンタイン等のイベント当日。彼は決まって家族と過ごした。私とは日をずらして一緒に過ごした。
あの頃、私はイベント事が大嫌いだった。だって私は、イベント当日、いつも彼を想いながら独り寂しく部屋で過ごしていたのだから。
5年も付き合っていたというのに、彼が私の部屋に泊まっていった事など殆どなかった。彼が泊まっていったのは、私が体調を崩して高熱を出した時くらい。どんなに遅くなっても、彼はいつも必ず家族の元に帰っていった。
帰っていく彼の背中を見つめながら私がどんな気持ちでいたか、きっと彼は知らないだろう。彼に余計な負担を掛けたくなくて醜い感情をひた隠していたのだから、当然と言えば当然だ。
彼の前ではいつも物分かりのいい女を演じていた。
けれど、本当は彼を独占できる奥さんに酷く嫉妬していた。もし出逢う順番が違ったなら、自分がその座にいたかも知れない。そんな無意味なタラレバに取りつかれ、気が狂いそうだった。
しかし、人間とは悲しい生き物で、どんな状況にも順応していく。
付き合い始めて暫く経つと、そんな苦しみにさえ慣れ始めた。時間が経つにつれ、どんどん感覚は鈍くなり、いつしか麻痺するようになった。そのうち、彼と一緒にいるには我慢する他ないのだという諦観の境地に達した。
5年間も都合の良い女に甘んじていただなんて、私には矜持はないのかと思われるかも知れない。今となれば、私自身でさえそう思う。
可笑(おか)しな話だけれど、あの頃の私にとって「彼への想いを大切にする事」自体が『矜持』だった。
そして5年も、そんな立場に甘んじていたのは…彼がとても狡い人だったからに他ならない。
彼は優しく甘やかで、そしてとても残酷な人だった。
彼の眼差しはいつも私への愛情で溢れているように見えたし、彼は言葉を尽くして私に想いを伝えてくれた。
家庭第一というスタンスを貫きながらも、私の事も大切にしてくれた。愛してくれた。それこそ、彼から離られなくなる程に。
彼が名古屋に異動して完全に関係を清算した後、私は親しい友人に全てを打ち明けた。諭されたり、泣かれたり、労わられたり、友人の反応は様々だった。
しかし、既婚者の友人は皆一様に苦い顔をしていた。それなのに誰も私を責めなかった。詰らなかった。それが逆に私の罪悪感を煽った。
その時初めて、私は自分の犯した罪の大きさに気付いた。それまで散々悲劇のヒロインぶっていたけれど、私にヒロインぶる資格などなかったのだ。私はヒロインなどではなく、幸せな家庭に禍を齎す災厄だったのだから。
彼と付き合っていた頃、自分の存在が奥さんにバレてしまえばいいと思う事があった。バレてしまえば、彼を独占できるかも知れない。そう思ったからだ。
だが、今思えば、あの時バレなくて本当に良かったと思う。もしあの時バレていたら、奥さんはまだしも、まだ幼かった彼の子供達の成長に暗い影を落としていただろう。
私が犯した過ちは、何の罪もない幼子の人生までも狂わせてしまうような大罪だった。そう気付いた時、私は自分の浅慮さを恥じた。短慮さを悔いた。
そして同じ轍を踏まなくなるくらい成長するまでは、恋愛から遠のこうと決めたのだ。
0
お気に入りに追加
267
あなたにおすすめの小説
狂愛的ロマンス〜孤高の若頭の狂気めいた執着愛〜
羽村美海
恋愛
古式ゆかしき華道の家元のお嬢様である美桜は、ある事情から、家をもりたてる駒となれるよう厳しく育てられてきた。
とうとうその日を迎え、見合いのため格式高い高級料亭の一室に赴いていた美桜は貞操の危機に見舞われる。
そこに現れた男により救われた美桜だったが、それがきっかけで思いがけない展開にーー
住む世界が違い、交わることのなかったはずの尊の不器用な優しさに触れ惹かれていく美桜の行き着く先は……?
✦・━・✦・━・✦・━・✦・━・✦・━・✦・━・✦
✧天澤美桜•20歳✧
古式ゆかしき華道の家元の世間知らずな鳥籠のお嬢様
✧九條 尊•30歳✧
誰もが知るIT企業の経営者だが、実は裏社会の皇帝として畏れられている日本最大の極道組織泣く子も黙る極心会の若頭
✦・━・✦・━・✦・━・✦・━・✦・━・✦・━・✦
*西雲ササメ様より素敵な表紙をご提供頂きました✨
※TL小説です。設定上強引な展開もあるので閲覧にはご注意ください。
※設定や登場する人物、団体、グループの名称等全てフィクションです。
※随時概要含め本文の改稿や修正等をしています。
✧
✧連載期間22.4.29〜22.7.7 ✧
✧22.3.14 エブリスタ様にて先行公開✧
【第15回らぶドロップス恋愛小説コンテスト一次選考通過作品です。コンテストの結果が出たので再公開しました。※エブリスタ様限定でヤス視点のSS公開中】
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
ドSでキュートな後輩においしくいただかれちゃいました!?
春音優月
恋愛
いつも失敗ばかりの美優は、少し前まで同じ部署だった四つ年下のドSな後輩のことが苦手だった。いつも辛辣なことばかり言われるし、なんだか完璧過ぎて隙がないし、後輩なのに美優よりも早く出世しそうだったから。
しかし、そんなドSな後輩が美優の仕事を手伝うために自宅にくることになり、さらにはずっと好きだったと告白されて———。
美優は彼のことを恋愛対象として見たことは一度もなかったはずなのに、意外とキュートな一面のある後輩になんだか絆されてしまって……?
2021.08.13
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
一夜限りのお相手は
栗原さとみ
恋愛
私は大学3年の倉持ひより。サークルにも属さず、いたって地味にキャンパスライフを送っている。大学の図書館で一人読書をしたり、好きな写真のスタジオでバイトをして過ごす毎日だ。ある日、アニメサークルに入っている友達の亜美に頼みごとを懇願されて、私はそれを引き受けてしまう。その事がきっかけで思いがけない人と思わぬ展開に……。『その人』は、私が尊敬する写真家で憧れの人だった。R5.1月
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる