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後悔先に立たず 〜絢斗視点〜 その4

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真尋が高遠の手を引いてオフィスを出て行く姿を、俺は喪心そうしんしたようにぼんやりと眺めていた。


俺は真尋の気持ちが自分から離れてしまう事など想像したこともなかった。
あの頃の俺はとても愚かで、それまでに自分が犯した裏切りや罪の数々を、真尋ならばいつかは笑って許してくれるのではないかという甘い考えを本気で抱いていた。けれど、それは自分の傲慢さが生み出した幻想でしか無かったのだと、真尋の態度の変化を目の当たりにした俺は嫌という程痛感していた。

いや、どれだけ激しい悔恨に苛まれようと、あの時にはもう全てが遅すぎたのだ。
あの時には既に、俺は真尋に嫌悪される存在…いや、嫌悪されているならば、まだ関心を持ってもらえている分マシだ。俺は関心すら失われていた。彼女の心の中の『俺』という存在は既に消えてしまっていたのだから…。


エレベーターホールの方から真尋の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
あんな楽しそうな声をあげて真尋が俺に笑いかけてくれたのは、一体いつの事だっただろうか?ふとそんな疑問を抱いた俺は、何とかしてその記憶を呼び起こそうとした。だが、どうしても思い出すことが出来なかった。今まで彼女の楽し気な笑顔など沢山見てきた筈なのに、今の俺には仕事上で彼女が見せる営業スマイルしか思い出せなかった。

彼女の柔らかな笑顔を思い出したいのに、脳裏に浮かんでくる彼女の姿は悲しい気なものばかりだった。彼女が泣き崩れている姿。虚空を見つめ呆然としている姿。日に日に窶れていく姿。…そしてさっき見た嫌悪感を露わにする姿。

……これは、彼女を手酷く裏切った俺への罰なのだろうか?

俺は胸にぽっかりと穴が開いてしまったような虚脱感と欠落感を覚えて、暫くの間、その場から動くことが出来なかった。


***


その後、一人で食事をとる気にもならず、俺は大きな喪失感と虚無感を抱えたまま真っすぐ自宅に帰った。

いつの間にか着いていた自宅の玄関を開けて「ただいま。」と小さく呟くと、奥のリビングの方から「あれ?絢君?」と驚いたような紗凪の声が聞こえてきた。そして、慌てたようにパタパタとスリッパの音を立てながら紗凪が小走りで玄関まで出てきた。

「絢君。おかえりなさい!お仕事お疲れ様でした!思ったよりも早かったんだねぇ~?でも私、絢君に少しでも早く会いたかったから、すっごく嬉しい!!」

そう言いながら紗凪は愛らしい笑顔を浮かべて俺の鞄を受け取ってくれた。
俺はそんな紗凪の愛らしい姿に救われていた。あの時の俺は、そんな紗凪の笑顔を見つめる事で、どん底まで沈んでいた自分の気持ちが少しだけ浮上してくるように感じていたのだ。

その時、「俺には紗凪がいるじゃないか!」という思いが、突如俺の心を占めた。
俺は自分で『真尋』ではなく、『紗凪』を選んだのだ。
だから、俺は『真尋』を失った事に悲しむ必要も、後悔して落ち込む必要もないんだ!来年には可愛い俺たちの子供も生まれて来てくれるではないか!俺は、俺の幸せをしっかりと掴んでいるんだ!

俺は心の中で再確認するようにそう叫んでいた。

もしかしたら俺は、そう思い込むによって真尋を失った寂寞せきばくを埋めようとしていたのかも知れない。


***


その翌日、俺が出社するとすぐに高橋が近づいてきて「ちょっと顔かして!」と怒りを滲ませた声で言い放ち、問答無用で非常階段まで連れ出された。

高橋は蔑むような冷たい眼差しを俺に向けながら、これ以上真尋を傷付けるのは許さない、真尋の事を少しでも思いやる気持ちが俺の中に残っているのならば、これ以上真尋に近づくな!と釘を刺してきた。 

昨晩の真尋の様子を思い出した俺は、確かにお互いこれ以上関わるべきではないのだろうと思った。だから俺は、今後一切俺からは真尋に近づかない事を高橋に約束して自席へと戻った。


高橋とそう約束したものの、俺は無意識のうちに真尋の姿を目で追ってしまっていた。
真尋の事をじっと観察していれば、その日の朝から急に真尋が高遠の事を意識し始めている事に嫌でも気付いてしまった。俺はそんな真尋の様子の変化を見つめながら、腹の底から込み上げてくる悋気りんきを飲み込み、只管客先へ外出する時間になるのを待った。


***


その日の客先での打ち合わせは長引くことが予想されていた為、俺は直帰予定になっていた。
だが、予想していたよりも大分早めに打ち合わせは終わり、俺はいつもより2時間程早く帰宅できる事となった。

俺は紗凪にプレゼントする為に、帰り道にある花屋で向日葵の小さなブーケを作ってもらった。向日葵は紗凪の好きな花だ。花屋の店員に向日葵の花言葉を尋ねれば、「私はあなただけを見つめる。」「愛慕」「崇拝」という意味があるのだと教えてくれた。

俺はその小さな向日葵のブーケを見つめながら、なんて今の自分にぴったりな花なんだろうと思っていた。
そうだ。高橋に釘を刺されるまでもない。
俺は今後、紗凪だけを見つめて、紗凪だけに愛慕を寄せて生きて行けばいいのだ。今まで以上に紗凪を大切にして、生まれてくる子供と3人で、温かな家庭を築いていけばいいのだ!とその花束を見つめながら、気持ちを新たに家路を急いだ。


自宅前に着いた時、紗凪を吃驚させてやりたいという細やかな悪戯心が湧いてきた。
サプライズで花束を渡す為に気配を消して紗凪に近づき、突然目の前にこの花束を差し出したら、紗凪は一体どんな反応を見せてくれるだろうか?そんな事を考えながら俺が玄関のドアをそっと開けると、玄関には見たことのない黒のエナメル素材のハイヒールが置いてあった。そして奥にあるリビングの方から紗凪と知らない女性の声が聞こえてきた。

きっと紗凪の友人が遊びに来ているのだろうと微笑ましく思ったが、俺はそれまで紗凪が女友達と会話を交わしている姿をあまり目にした事がなかった。だから、遊びに来ているその女性と紗凪がきちんとした友人関係を築けているのかがとても心配になり、2人の会話を立ち聞きしてその関係性を確かめようと思ってしまった。

俺はこの時の選択を、後に死ぬほど後悔する事になった。
そんな不要な心配をして、無用な行動をとってしまったのがいけなかったのだろうか?知らなかった方が幸せだったのではないか?と今でもあの時の自分の行動を後悔してしまう事がある。けれど、ああする事で紗凪の本性が知れたのだから、あの選択は間違ってはいなかったのだと、後悔の念が押し寄せる度にその都度自分に言い聞かせている。



「そう言えばさ。紗凪。本当に光輝君と別れちゃったのわけ?紗凪の方があんなに嵌ってたのに、急に光輝君じゃなくて別の人と結婚するとか言い出すんだもん。私も雅もすごく吃驚したわよ!
でも、紗凪の旦那、悪くないかもね?だって、つわりが酷くてぇ~とか言ったら、二つ返事で仕事辞めるのに賛成してくれたんでしょ?すっごい良い旦那じゃん。うちの旦那じゃ絶対あり得ないわ!まあ、紗凪の旦那は、うちの旦那とは違って良い会社ところに勤めているもんねぇ?紗凪を養うくらいわけないわよねぇ…。あ~あ。羨ましい限りだよ!本当に!」

「ふふふっ。まぁね。基本的に私、結婚生活には『愛』よりも、『お金』と『安定』が必要だと思ってるからね!それを優先しただけよ?
絢君って、実は私の元彼なのよ。中学校の時に少しだけ付き合ってたの。まあ所謂、初彼ってやつ?そうは言っても、所詮中学生だったからすっごく清らかな関係だったけどさ。
去年の年末に中学の時の同窓会があったんだけど、ヤツとはその時に再会したのよ。私ももう三十路だし、いい年じゃん?周りはどんどん結婚してるのに、このまま売れ残っていつまでも独身でいるのも何だかなぁ~って思って、条件の良さそうな結婚相手を漁りに行ったわけ。
そこでヤツに目を付けたのよ。だってヤツ、周りの奴らより仕立ての良さそうなスーツ着てたし、腕につけてた時計も結構良いブランド物だったの!だから、こいつは絶対に金持ってるなって思って仕事の話振ったら、案の定M電機だなんて超大手企業に勤めているっていうじゃない?しかも昇進したばかりだって言ってたから、こりゃあ逃す手はないなって!他に女いたみたいだけど、取り敢えず略奪してみた!」

「うっわぁ~。紗凪って本当にゲスい。
…私、男じゃなくて良かったわ。そんな小動物みたいな見た目しておいて、腹の中真っ黒って完全に詐欺じゃん!
ってかさぁ、で彼氏を略奪されちゃった子、超悲惨じゃん!すっごく可哀想じゃない?」

「えぇ~。そうかなぁ~?だってさ、その女、すっごい甘え下手だったみたいなんだよねぇ。ヤツは変に男を立てて欲しがるって言うか、甘えられたり、頼られたりしたいタイプなわけよ。だから、元々その女とは合わなかったんだって。別に私が奪略しなくても、その女とはどの道駄目になってたと思うよ?そんな関係だったんだから罪悪感なんか私が抱く必要なくない?」

「……いや、それでもないわ…。少しくらい罪悪感を抱きなさいよ!相手の子が紗凪の旦那にすごい本気だったら超可哀想じゃん。結婚話が出てたりしたら、目も当てらんないくらい悲惨じゃん。」

「ああ、なんか結婚話出てたみたいよ?双方の親に挨拶しあってたって言ってたし?……でもまあ、それはそれじゃん?別に私、そんなん気になんないし。
あぁ、そういや、あっちの親がやたらとその女の事を私の前で褒めまくりやがったから、さすがに私もブチ切れて、現在あっちの親を絶賛シカト中なのよ。まあ私、別にヤツの親と結婚したわけじゃないから、彼奴らにどう思われてようと関係ないけどね?
そんな事より、ヤツがうざ過ぎる方が問題なんだけど。どうしたらいいと思う?
ヤツはやたら初恋を美化してやがってさぁ。やたらと自分の理想像を私に求めてくるのよ!純粋さだとか無垢さだとか、本当にばっかじゃねーの!?って言ってやりたくなるくらい本当ウザ過ぎて面倒なんだけど!
…でもまあ、その分扱い易いっていうのも事実なんだけどねぇ。ヤツの求めるピュアっ子さえ演じてれば、私のいう事何でも聞いてくれるし、何でも買ってくれるしね?猫被ってんのがバレないようにだけ気をつけて、キッチリとピュアっ子を演じとけば、光輝と違って浮気なんてしないだろうしね?」

「え!?でも、紗凪が略奪出来たって事は、押しに弱い流され易い男なんじゃないの?」

「そんな事ないと思うよ?私がヤツの初恋の君だから略奪出来たんだと思うもん。あれでいて割と一途だから、浮気の心配なんてないんだって!それにさ、もしヤツが浮気したとするじゃん?そしたら、ヤツの弱みを握れる訳だから、それはそれで良くない? あっちが他の女と寝たんだから、こっちも他の男と寝たんだもんとか言えそうじゃん!
……実はさ。誰にも言ってないんだけど、まだ時々光輝と会ってんだよね~。私。」

「はぁ?それって完全に不倫じゃん!?ちょっと、そんなんバレたら、あんた慰謝料請求されるよ?」

「いやいや。要はバレなきゃいいわけじゃん?ヤツは単純だから大丈夫だって!こっちがヤツに夢中な振りしてピュアっ子気取ってれば、疑いもしないから!」

「……いや。でも光輝君は紗凪が人妻だって事知ってるんでしょ?何にも言わないわけ?」

「光輝?勿論、私が他の男と結婚した事知ってるわよ?なんか逆にこのシチュエーションが堪らないらしくて、喜んでるくらいよ?他の男の妻を寝取ってるっていう背徳感が良いんだってさ。既に私妊娠しちゃってるわけだから、妊娠の心配しなくていい訳じゃん?だから、人妻と生でヤレるし、中出し出来るって言って、前より激しくガッついてくるくらいよ?」

「うっわぁ~。本当最低。光輝君もクズだけど、中出しさせてる紗凪はもっとクズだわ!あり得ない!それはちょっとさすがの私もドン引きだよ!
…ってか、前より激しいって…ちょっとお腹の子大丈夫なの?安定期に入るまでは、そういう事は控えた方がいいんじゃないの?もし赤ちゃんになんかあったら、どうするつもりなのよ!そんな爛れた生活、いい加減やめときなって!何かあってからじゃ遅いんだからさ!
しかし…紗凪の旦那が哀れ過ぎる!私が紗凪の旦那だったら、そんな事知ったらショック過ぎて自殺しちゃうね…。」

「えぇ…。じゃあ一応光輝にも言っとくわ。光輝の子どもに何かあったら大変だから、手加減してね?って甘えとく。」

「はぁ!光輝君の子?ちょっと紗凪!もしかしてお腹の子、光輝君の子なの?旦那さんの子じゃないの?」 

「ああ。正直、どっちの子か分かんないのよねぇ~。可能性は半々ってとこ?」

「……半々?じゃあ、ずっと二股かけてたって事?」

「ん~まぁね。だって、光輝の事大好きなんだもん。だから光輝と別れるだなんて、そんなの絶対に無理だし!絢君も大切な金蔓だから別れるだなんて絶対出来ないし…。
そんなのどっちかだけなんて選べなくない?」



そこまで聞くのが限界だった。
胃の腑の辺りから強い吐き気がこみ上げてきて、目の前が真っ暗になった。
聞こえてくる声は確かに紗凪の声なのに、紗凪が吐いた言葉だなんて信じられなかった。受け入れられなかった。全てが遠い世界で起こってる事のように感じて、現実味がなかった。

しかし、俺はどこまで間抜けなんだろう?
紗凪の何を見ていたんだろう?
純粋で無垢な紗凪なんて最初から存在してなかったんだ。俺は紗凪との結婚を『運命』だと思っていたのに、紗凪にとっては打算でしかなかったんだ。
俺は紗凪に愛されてもいなかった。

……じゃあ俺は、一体何の為に、俺の事をあれだけ一途に愛してくれていた真尋を裏切り、傷付け、切り捨てたんだ?
真尋という大切な存在を失ってまで俺が手に入れたかったのは、こんな嘘で塗り固められた張りぼての幸せだったのか?


俺は、音を立てずにその場から逃げ出した。
親にも友人にもこんな惨めな真実を相談できるわけがなかった。
俺は当てもなく彷徨いながら何件かの行きつけのバーを渡り歩いた。 

酔いが回ってくると、真尋が恋しくて仕方がなくなった。俺に対してどんな感情を抱かれていても構わなかった。詰られても、無視をされても構わなかった。
ただ、真尋の顔を一目見たかった。


俺が真尋の行きつけの『三瓶』の近くまで辿り着くと、ちょうど店内から真尋と高遠が連れ立って出てくるところだった。

俺はそのまま真尋に駆け寄ろうとしたのだが、店を出てすぐに、真尋は高遠に腕を取られ、路地裏へと引き摺りこまれていった。

もし高遠が真尋に無理強いしようとしているならば絶対に見逃すことは出来ないと義憤にかられ、その路地裏を覗きこめば、ちょうど真尋が熱のこもった潤んだ瞳で高遠を見上げて自分の両手で高遠の両頬を包みこもうとしているところだった。
そして小さな声で甘えたように「…一緒にいて?」と高遠に囁いた後、少しだけ背伸びをして、高遠の唇に自分のそれをそっと重ねていた。

俺には何も残っていなかった。 
俺の行き場も何処にもなくなっていた。 
俺は一体今後どうしていけばいいのだろうか?

俺はただ迷い子のように途方にくれるばかりだった。
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