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真の恋の兆候は 男においては臆病さ、じゃあ女にとっては?

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一人、高遠の部屋に残された私は、暫くの間、ぼんやりとしていた。

先程の出来事が、ボディブローのように効いてきたのだ。憤り。羞恥。失望。呆れ。様々な感情が押し寄せては消えていく。いや、憤りだけは常に根底にあった。

何が、あの悲劇のヒロインぶった彼女を追い詰め、あんな愚行に走らせたかなど知らないし、知りたくもない。けれど、彼女がもう少し真面な人間だったら、あんな恥ずかしい真似などできないだろう。

二人の間ですれ違いが生じたのなら、二人で解決するべきだ。他人を巻き込むべきではない。何の証拠もなく、思い込みで言い掛かりをつけ、他人を殴るなんて言語道断。そもそも他人のせいにして何が解決するというのか。
もうすぐ赤ちゃんが生まれてくるというのに、あの人達は何をやっているのだろう?

(結局、彼女も絢斗も自分の事しか考えていないんだよね。どこまでも自分本位。『破れ鍋に綴じ蓋』というか、『似た者夫婦』と言うか、本当よくお似合いだわ)


今回の件ではっきりした事が二つある。
一つは、絢斗への未練など全くないという事。
そして、もう一つは高遠への想い…。

(もういい加減、高遠から逃げるのはやめよう。キチンと向き合わなきゃ!)

気持ちを認めてしまえば、会いたい気持ちが募っていく。
時刻は17時を過ぎていた。うちの終業時間は17時半。高遠が定時であがれれば、もうすぐ会える。

疲れて帰ってくる高遠の為に、夕食くらいは準備しておこう。そう思って私はキッチンを漁り始めた。
しかし…冷蔵庫の中には、ペットボトルの水と缶酎ハイ。そして醤油や麺つゆ、マヨネーズなどの調味料しか入っておらず。戸棚の中にも、カップ麺やスナック菓子が幾つかあるだけ。真面な食糧が一切なかった。
……高遠は普段何食べているんだ?


仕方がないので、私は近くのコンビニにまで買い物に出る事にした。
最近のコンビニは、おにぎりや弁当の他。冷凍食品やカット野菜、卵等まで売っていてとても便利だ。

今日は10月にしては暑かったから、さっぱりとしたサラダうどんにしようとメニューを決めて、食材をカゴに入れていく。最後に基礎化粧品が1日分セットになっている『お泊まりセット』も購入し、高遠の部屋へと戻った。


玄関のドアを開けると、室内に人の気配がした。
昔、空き巣に遭遇した経験のある私は、恐怖で固まった。
私が開けたドアがひとりでに閉まる。ガチャンッという金属音がやたら大きく響いた。きっと室内にいる人間の耳にも届いた筈だ。逃げなくては。私は瞬時に身を翻した。

「山瀬っ!」

焦りを滲ませた声で名前を呼ばれ、背後から強く抱き締められた。

「何かあったのかと思った…。電話しても、メールしても連絡つかないし。玄関の鍵は開いてるし。何かあったのかって…」

高遠の声は微かに震えていた。

「…ごめん、高遠。心配かけて本当ごめん。スマホ見てなかった。それと鍵は…預かってなかったから、開けっ放しにするしか無くて…。不用心でごめん」

「いや、無事ならいいんだ。…鍵?渡してなかったっけ?ああ、あの時急いでたから…。今度、合鍵作って渡しとくよ」

「うん。ありがと」

後ろから覆い被さるように私を抱き締めている高遠の両腕をギュッと胸に搔き抱いて、私は素直に喜んだ。それなのに高遠は、驚いたように飛び退いた。

「え?『そんなのいらないわよ!』とか言わねーの?」

「…言わないよ?だって欲しいもん、合鍵。今度うちのも渡しとくね?」

後ろに振り返り、高遠の瞳を覗きこみながらそう言うと、高遠は「お前が素直だと調子狂うわ」不機嫌そうに呟いた。けれど、私はそれが照れ隠しだと分かっていた。だって高遠の耳が赤かったから。


「そうだ!今日のお夕飯、サラダうどんでいい?コンビニに売ってる物で作るから、簡単になっちゃうけど」

「いいじゃん、サラダうどん!今日暑かったから、さっぱりとしたもんが食いたかったんだよ!」

高遠が無邪気に笑っているだけで、胸の辺りがじんわりと温かくなる。

「んじゃ、俺スーツ脱いで着替えてくるわ」

高遠が部屋に入っていくのを見守ってから、私はキッチンへと向き直り、食事の支度を始めた。

…とはいっても、する事なんて殆どない。
茹で卵を作って半分に切る。プレーンのサラダチキンを適当な大きさにほぐす。カット野菜を洗って水気を切る。お饂飩を湯がいて冷水で晒す。そのくらいだ。後はそれを盛り付けて、冷蔵庫にあった麺つゆをかけるだけ。
高遠はマヨラーだから、マヨネーズを出しておくのも忘れない。

あっという間に出来たサラダうどんをテーブルの上に並べると、高遠は「すっげぇ!マジ美味そう!」と無邪気を通り越してアホの子ようにはしゃいで喜んだ。

(……こんなアホな姿さえ可愛いと思えちゃうなんて、私、既に末期じゃん)

高遠は「マジで美味い!お前、店出せるぞ?」などと大袈裟に褒めちぎりながら、あっという間に平らげた。…早っ!?二人前盛ってあった筈なのに。

こんなの料理のうちにも入らない。もっと手の込んだ料理を作った時に褒めて欲しい。そう私が不満をこぼすと、高遠は目を輝かせて「え?何でも作ってくれんの?なら、いくらでも褒める褒める!俺が好きなのはね…」と自分の好物を並べ始めた。


私は夢中になって話している高遠の姿をじっと見つめた。
少し伸びたTシャツの襟ぐりからは、大きく突起した喉仏と、がっしりとした鎖骨が覗いている。
暑さのせいで少し捲り上げられた袖口からは、無駄なく鍛えられた前腕筋が筋の影を作り出していた。
そして、いつも私に安心感を与えてくれる節くれだった大きな手。
それら全てが、私の中のを刺激する。

――気持ちさえ認めてしまえば、とても単純な事だったのだ。

いつからだろう?
この節くれだった大きな手で触れて欲しいと思うようになったのは…。
この大きくて広い背中を目で追うようになったのは…。
きっとずっと前から、私はこの男が欲しかったのだ。


「ねえ高遠。これを食べて、お風呂に入ったら……しよ?」

「あー。どのゲームやりたいんだ?この間の格闘ゲームじゃ、実力差があり過ぎるからつまんねーだろ?…お前いじけると面倒くせぇしな…。あっ!じゃあ、この間やったMMOやろうぜ!お前先入ってレベル上げしとけよ」

「……いや、そうじゃなくて」

「何だよ?じゃあ、どのゲームやりたいんだ?」

「だから、ゲームじゃなくて……セックスしよう!高遠!」

恥を忍んではっきり伝えたら、驚き過ぎたのか。高遠は極限まで目を見開いて、陸に上がった魚のように口をパクパクさせていた。
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