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無神経にも程があると思うのですが?
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「気にする事ないわよ、あのクズ!何であいつがあんな態度をとれるんだか!」
美優先輩は絢斗の態度に酷く腹を立てていたが、高遠は真顔で黙り込んだまま、遠ざかっていく絢斗の背中をじっと見ていた。
私は肩に掛けた鞄の持ち手を両手で握り締め、そっと溜息を吐いた。
(…こりゃ本気で異動願いを出した方がいいかも)
私は社会インフラ統括部、営業第一部二課に所属している。
社会インフラの営業一部では、主に鉄道関連の電機機器を取り扱っている。鉄道の電気機器といわれてもあまりピンとこないかも知れないが。例えば、車両ドアや空調、車内の電光掲示板等。これらは全て私が属する二課の担当。鉄道車両の駆動・制御用電機品やブレーキ品、保安機器等。こちらは、絢斗や高遠達が所属している一課の担当。
一課は鉄道の安全性を、二課は快適性を担う商品をそれぞれ扱っている。
私は新卒から今の部署で働いているから、他の仕事をした事がない。だから今まで異動届を出すのを躊躇っていたけれど。どうにでもなるような気がしてきた。うちの会社は多種多様な商品を扱っているから、営業職を欲している部署は他にも沢山ある筈だ。どんな部署でも、今の環境よりは遥かにマシな筈。環境が変われば気分も変わるし、何より絢斗の私生活を洩れ聞く事もなくなるだろう。
私は異動届について真剣に考えながら自席につくと、始業時間までの間、朝の習慣であるメールチェックと電子版の経済新聞に目を通す事に没頭した。
始業時間直前に、隣の課の営業事務の子達が騒ぎ出した。どうやら絢斗から新婚旅行のお土産をもらったらしい。彼女達は大袈裟に喜びながら、奥さんとの馴れ初めや、旅行先について細かく聞き出そうとした。けれど絢斗は、彼女達の相手をする事なく適当に受け流した。
(そりゃそうだ。彼女達が私をよく思っていない事も、絢斗が私を捨てて嫁に乗り換えた事も、このフロアの人間は皆知っているもんね。ここで空気を読まずに惚気たりしたら、それこそ絢斗の評判は地に落ちるわ。まあこれ以上、落ち余地があればだけど)
美優先輩が、キャーキャー盛り上がっている女の子達に「とっくに始業時間過ぎているわよ!油を売らずにさっさと仕事しなさい!」と大声で注意している姿を横目で見ながら、私はキリキリと痛みだした胃をそっと押さえた。
昨晩言っていた通り、高遠は朝から得意先との打ち合わせが入っているようで不在だった。その打ち合わせに絢斗も同席したらしく、午前中は絢斗も不在。午後からは、私が客先に出ていたから、うまい具合に入れ違いになり、思っていたよりもスムーズに仕事ができた。
客先での打ち合わせが予定よりもだいぶ長引き、私が帰社した時は既に午後九時をまわっていた。当然オフィスに人の姿はない。
就業時間後の明かりが半分落とされたオフィスは、薄暗くてもの寂しい感じがする。それこそ新人の頃は、広いオフィスが薄暗く閑散としているだけで怖く感じ、とても一人では残れなかった。けれど、入社五年目にもなれば、逆に静かで集中できる。快適なくらいだ。
私は自席に戻ってPCを立ち上げ、提案書類の修正に着手した。欠伸を噛み締ながらキーボードを叩き、数値を修正していく。
昨夜寝たのが遅かったから、今日はかなり寝不足だ。それなのに、誰かさんのせいで朝から不要に神経をすり減らす羽目になったから、今の私はまさに疲労困憊状態。とんでもなく眠い。
早く帰って、お気に入りの入浴剤を入れたお風呂に浸かりたい。そうだ!帰りに新作コンビニスイーツを買って帰ろう!好きな音楽を聴きながらそれを食べて、タイゾー(シロクマの抱き枕)をモフリながらまったりしよう。
(今の私に必要なのは、睡眠と癒しだ!こんなのさっさと片付けて早く帰ろう!)
そう決意し、私は猛スピードで仕事をこなしていった。
夢中になって仕事をしていると、突然私のデスクの上に、私の好きなオレンジティーのペットボトルが置かれた。驚いて顔を上げると、絢斗が気不味そうな顔をして立っていた。
「お疲れ。相変わらず真尋は頑張り屋だね」
「…吉澤主任。お疲れ様です。何か御用でしょうか?」
「用がなくちゃ、もう真尋に話かけちゃダメなの?俺」
「……吉澤主任。大変遅くなりましたが、ご結婚おめでとうございます。また、近々お子さんがお生まれになるとも聞きました。重ねてお祝い申し上げます。
良かったですね?誰と付き合っても本気になれない程想っていた方と結婚できて。どうぞ、お幸せに」
私は感情を押し殺し、事務的に祝いの言葉を並べた。素っ気ない私の態度に絢斗が焦ったように声を荒げる。
「ちがっ!何を聞いたか知らないけど。違うんだ!あれは司会者や、同中の奴らが面白がって言ってただけで。俺はあんな事言ってない!真尋!話を、俺の話を聞いてくれ!」
「名前…。下の名前で呼ぶのはやめて下さい。もうそういう関係ではないのですから。それに事実がどうであれ、そんなのは些末事です。だって結婚なさったのは事実じゃないですか。それにもう奥さんのお腹の中には赤ちゃんがいるんでしょう?
…ならば、仕事以外で私と関わるべきではないですよ。奥様にも、私にも失礼です。私も、今後仕事以外で主任と関わるつもりはありません。ですから、仕事以外では一切話し掛けないで下さい」
上手く話せているだろうか?表情を取り繕えているだろうか?
冷静になろうと努めているのに、荒れ狂う感情が理性という蓋の隙間から漏れ出し、高まっていくのを感じる。
もしかしたら、声が震えているかも知れない。目頭が熱くて堪らない。
私は下唇を強く噛んで絢斗から視線を逸らし、PCの画面を睨む事で涙が溢れ出るのを防いだ。
本当は声の限りに叫び、彼の不誠実さを詰ってやりたかった。思いつく限りの罵詈雑言を浴びせてやりたかった。けれど、そんな事をしたところで自分が惨めになるだけだ。私は荒れ狂う感情の波に耐えるように、手の平を強く握りしめた。
「真尋…いや、山瀬さん。本当にいろいろすまなかった。今朝のことも…正直、どう接していいのか分からなかったんだ。謝って済む事じゃないって分かってる。けれど、本当に申し訳ないと思っているんだ!
……あっ!そうだ!まひ…山瀬さんが以前欲しがっていた香水をイタリアの免税店で見つけたんだよ。だから、土産に買って来た。もらってもらえないだろうか?」
そんな事を悪怯れずに言いながら、鞄から小さな紙袋を取り出した絢斗を、私は信じられない思いで見つめた。
――そうだ。この人はこういう人だった。
根は悪い人ではないし、本人に悪気があるわけではない。けれど、彼は圧倒的に他人の心の機微に疎いのだ。本人が良かれと思ってした事でも、された側からすると不愉快で独り善がりに感じられる事が多い。
仕事面ではそれが武器になる。
営業なんて、どんなに邪険にされようが、失敗しようが、いちいち落ち込んでいるようではやっていけない。ある程度のふてぶてしさも重要なスキルの一つだ。
だが、私生活では違う。
何も考えていないからこそ、自分が捨てた女に、他の女と行った新婚旅行のお土産なんぞ買ってくる事ができるのだ。それが如何に無神経で、私を侮辱する行為なのか、気付きもしないし、理解もできない。
何故なら、彼は純粋な善意でしているのだから。
(思い出は美化される、かぁ…。確かにその通りなのかも)
絢斗と別れてからずっと、私は絢斗の長所や綺麗な想い出ばかり思い返していた。絢斗の短所や喧嘩のいざこざなんて思い出しもしなかった。
(何だかバカバカしくなってきた…。こんな無神経野郎、奥さんに熨斗つけてくれてやるわ)
価値のない男に執着していた自分の愚かさに気付き、笑いが込み上げた。張り詰めていた緊張の糸が緩み、涙がこぼれ落ちそうになる。
「山瀬!大丈夫か?」
この場にいない筈の人の声がした。振り返ると、息を切らせた高遠がオフィスの入口に立っていた。高遠は大股で私の前まで歩み寄ると、私を庇うように絢斗の前に立ちはだかった。
美優先輩は絢斗の態度に酷く腹を立てていたが、高遠は真顔で黙り込んだまま、遠ざかっていく絢斗の背中をじっと見ていた。
私は肩に掛けた鞄の持ち手を両手で握り締め、そっと溜息を吐いた。
(…こりゃ本気で異動願いを出した方がいいかも)
私は社会インフラ統括部、営業第一部二課に所属している。
社会インフラの営業一部では、主に鉄道関連の電機機器を取り扱っている。鉄道の電気機器といわれてもあまりピンとこないかも知れないが。例えば、車両ドアや空調、車内の電光掲示板等。これらは全て私が属する二課の担当。鉄道車両の駆動・制御用電機品やブレーキ品、保安機器等。こちらは、絢斗や高遠達が所属している一課の担当。
一課は鉄道の安全性を、二課は快適性を担う商品をそれぞれ扱っている。
私は新卒から今の部署で働いているから、他の仕事をした事がない。だから今まで異動届を出すのを躊躇っていたけれど。どうにでもなるような気がしてきた。うちの会社は多種多様な商品を扱っているから、営業職を欲している部署は他にも沢山ある筈だ。どんな部署でも、今の環境よりは遥かにマシな筈。環境が変われば気分も変わるし、何より絢斗の私生活を洩れ聞く事もなくなるだろう。
私は異動届について真剣に考えながら自席につくと、始業時間までの間、朝の習慣であるメールチェックと電子版の経済新聞に目を通す事に没頭した。
始業時間直前に、隣の課の営業事務の子達が騒ぎ出した。どうやら絢斗から新婚旅行のお土産をもらったらしい。彼女達は大袈裟に喜びながら、奥さんとの馴れ初めや、旅行先について細かく聞き出そうとした。けれど絢斗は、彼女達の相手をする事なく適当に受け流した。
(そりゃそうだ。彼女達が私をよく思っていない事も、絢斗が私を捨てて嫁に乗り換えた事も、このフロアの人間は皆知っているもんね。ここで空気を読まずに惚気たりしたら、それこそ絢斗の評判は地に落ちるわ。まあこれ以上、落ち余地があればだけど)
美優先輩が、キャーキャー盛り上がっている女の子達に「とっくに始業時間過ぎているわよ!油を売らずにさっさと仕事しなさい!」と大声で注意している姿を横目で見ながら、私はキリキリと痛みだした胃をそっと押さえた。
昨晩言っていた通り、高遠は朝から得意先との打ち合わせが入っているようで不在だった。その打ち合わせに絢斗も同席したらしく、午前中は絢斗も不在。午後からは、私が客先に出ていたから、うまい具合に入れ違いになり、思っていたよりもスムーズに仕事ができた。
客先での打ち合わせが予定よりもだいぶ長引き、私が帰社した時は既に午後九時をまわっていた。当然オフィスに人の姿はない。
就業時間後の明かりが半分落とされたオフィスは、薄暗くてもの寂しい感じがする。それこそ新人の頃は、広いオフィスが薄暗く閑散としているだけで怖く感じ、とても一人では残れなかった。けれど、入社五年目にもなれば、逆に静かで集中できる。快適なくらいだ。
私は自席に戻ってPCを立ち上げ、提案書類の修正に着手した。欠伸を噛み締ながらキーボードを叩き、数値を修正していく。
昨夜寝たのが遅かったから、今日はかなり寝不足だ。それなのに、誰かさんのせいで朝から不要に神経をすり減らす羽目になったから、今の私はまさに疲労困憊状態。とんでもなく眠い。
早く帰って、お気に入りの入浴剤を入れたお風呂に浸かりたい。そうだ!帰りに新作コンビニスイーツを買って帰ろう!好きな音楽を聴きながらそれを食べて、タイゾー(シロクマの抱き枕)をモフリながらまったりしよう。
(今の私に必要なのは、睡眠と癒しだ!こんなのさっさと片付けて早く帰ろう!)
そう決意し、私は猛スピードで仕事をこなしていった。
夢中になって仕事をしていると、突然私のデスクの上に、私の好きなオレンジティーのペットボトルが置かれた。驚いて顔を上げると、絢斗が気不味そうな顔をして立っていた。
「お疲れ。相変わらず真尋は頑張り屋だね」
「…吉澤主任。お疲れ様です。何か御用でしょうか?」
「用がなくちゃ、もう真尋に話かけちゃダメなの?俺」
「……吉澤主任。大変遅くなりましたが、ご結婚おめでとうございます。また、近々お子さんがお生まれになるとも聞きました。重ねてお祝い申し上げます。
良かったですね?誰と付き合っても本気になれない程想っていた方と結婚できて。どうぞ、お幸せに」
私は感情を押し殺し、事務的に祝いの言葉を並べた。素っ気ない私の態度に絢斗が焦ったように声を荒げる。
「ちがっ!何を聞いたか知らないけど。違うんだ!あれは司会者や、同中の奴らが面白がって言ってただけで。俺はあんな事言ってない!真尋!話を、俺の話を聞いてくれ!」
「名前…。下の名前で呼ぶのはやめて下さい。もうそういう関係ではないのですから。それに事実がどうであれ、そんなのは些末事です。だって結婚なさったのは事実じゃないですか。それにもう奥さんのお腹の中には赤ちゃんがいるんでしょう?
…ならば、仕事以外で私と関わるべきではないですよ。奥様にも、私にも失礼です。私も、今後仕事以外で主任と関わるつもりはありません。ですから、仕事以外では一切話し掛けないで下さい」
上手く話せているだろうか?表情を取り繕えているだろうか?
冷静になろうと努めているのに、荒れ狂う感情が理性という蓋の隙間から漏れ出し、高まっていくのを感じる。
もしかしたら、声が震えているかも知れない。目頭が熱くて堪らない。
私は下唇を強く噛んで絢斗から視線を逸らし、PCの画面を睨む事で涙が溢れ出るのを防いだ。
本当は声の限りに叫び、彼の不誠実さを詰ってやりたかった。思いつく限りの罵詈雑言を浴びせてやりたかった。けれど、そんな事をしたところで自分が惨めになるだけだ。私は荒れ狂う感情の波に耐えるように、手の平を強く握りしめた。
「真尋…いや、山瀬さん。本当にいろいろすまなかった。今朝のことも…正直、どう接していいのか分からなかったんだ。謝って済む事じゃないって分かってる。けれど、本当に申し訳ないと思っているんだ!
……あっ!そうだ!まひ…山瀬さんが以前欲しがっていた香水をイタリアの免税店で見つけたんだよ。だから、土産に買って来た。もらってもらえないだろうか?」
そんな事を悪怯れずに言いながら、鞄から小さな紙袋を取り出した絢斗を、私は信じられない思いで見つめた。
――そうだ。この人はこういう人だった。
根は悪い人ではないし、本人に悪気があるわけではない。けれど、彼は圧倒的に他人の心の機微に疎いのだ。本人が良かれと思ってした事でも、された側からすると不愉快で独り善がりに感じられる事が多い。
仕事面ではそれが武器になる。
営業なんて、どんなに邪険にされようが、失敗しようが、いちいち落ち込んでいるようではやっていけない。ある程度のふてぶてしさも重要なスキルの一つだ。
だが、私生活では違う。
何も考えていないからこそ、自分が捨てた女に、他の女と行った新婚旅行のお土産なんぞ買ってくる事ができるのだ。それが如何に無神経で、私を侮辱する行為なのか、気付きもしないし、理解もできない。
何故なら、彼は純粋な善意でしているのだから。
(思い出は美化される、かぁ…。確かにその通りなのかも)
絢斗と別れてからずっと、私は絢斗の長所や綺麗な想い出ばかり思い返していた。絢斗の短所や喧嘩のいざこざなんて思い出しもしなかった。
(何だかバカバカしくなってきた…。こんな無神経野郎、奥さんに熨斗つけてくれてやるわ)
価値のない男に執着していた自分の愚かさに気付き、笑いが込み上げた。張り詰めていた緊張の糸が緩み、涙がこぼれ落ちそうになる。
「山瀬!大丈夫か?」
この場にいない筈の人の声がした。振り返ると、息を切らせた高遠がオフィスの入口に立っていた。高遠は大股で私の前まで歩み寄ると、私を庇うように絢斗の前に立ちはだかった。
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