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※アンコール 『G線上のアリア』〜深まる絆〜 春香side

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リビングの隣にある練習室を覗き込むと、晩秋の淡い日差しを受けながらヴァイオリンを弾いているハル君の姿が目に入った。
目を瞑り、柔らかな笑みを浮かべながら演奏している姿はとても高雅で、さながら一枚の崇高な絵画のようだ。
 
来月、日本で行われる独奏会リサイタルで弾く予定なのだろう。伸びやかな高音で奏でられているのは『G線上のアリア』。卒業式や結婚式などでよく用いられる、日本人にとっては馴染み深い曲だ。

私も目を閉じて、ハル君が紡ぐ優美な音色に耳を澄ました。


***


ハル君と結婚してから丸三年の月日が流れた。大学時代に付き合っていた時よりも更に長い時間。それを経て、私も少しは成長したと思う。

永遠を産み、母親になった事が大きく影響している。
実際に永遠が生まれてから、私の人生も価値観も一変した。
全てが子ども優先。子ども中心の生活に変わった。

出産後、永遠の顔を初めて見た時、無事に生まれてきてくれた喜びと愛しさで涙が溢れた。
そして、この愛しい存在を何があっても守り抜かなければと強く思った。

子育ては大変だ。まさに『育児』は『育自』だと痛感する。
少しの事でへこたれてはいられないし、仕事と違って子育てには休みがない。誰かが世話をしなければ子どもは生きていけないのだから、体調が悪かろうが何だろうが、自分がみるしかないのだ。
勿論、自分に構う余裕なんてない。毎日必死だ。
最近たまに、子育ては忍耐力や精神力を鍛える修行なのではないかと本気で思う事がある。
きっとこうして母は自然と強くなっていくのだろう。


子どもを産み、価値観が変わった事で、ハル君も普通人間だという事に今更ながら気付いた。

今思えば、私はとても狭い世界の中で生きてきたのだと思う。昔は演奏力が全てだと思っていた。だから、突出した才能を持つ彼を特別視していたのだ。

私はずっと彼を、自分とは違う特別な人間だと思っていた。けれど実際は、演奏力以外、ハル君も私と同じ普通の人間だったのだ。
……いや寧ろ、私よりもハル君の方がよっぽど人間臭い。
すごく嫉妬深いし、束縛するし、自分勝手だし、食べ物の好き嫌いは多いし、豆腐メンタルだし…。

一流奏者なだけあって、集中力と度胸の座り具合には目を見張るものがある。けれど、それ以外がダメダメなのだ。興味がないものにはとことん無関心だから、放って置いたら、きっと何も食べず、餓死してしまう気がする。

ハル君が興味があるのは、ヴァイオリンと私と永遠だけ。
それ以外には全く関心がない。逆に言うと、ハル君は自分が興味があるものにだけ、異常までに執着する。

その執着心の強さに悩まされ、ハル君の精神を安定させる為にルールを設けたのは、私がドイツに来てまだ間もない頃の話だ。


私が永遠を連れてドイツに来たのは、ハル君がプロオケの一員となってから半年後の事だった。

知り合いもいない異国での子育てはとにかく大変で、すごく心細かった。
勿論、ハル君もできる限り時間を作って協力してくれた。けれど、仕事があるのだから限度がある。私は何でも気軽に相談できる現地の友人が欲しかった。
だから私はハル君に、私の友人となってくれるような知り合いを紹介して欲しいとお願いした。
しかし、ハル君はいつも曖昧に返事をするだけで、いつまでたっても紹介してくれる素振りすら見せなかった。

最初は、ハル君が新しい職場オケに馴染めていないのではないかと心配になり、気が気じゃなかった。だが、オケのメンバーとのやり取りや律君の話を聞く限り、既にすっかり打ち解けて上手くやっているようだった。
…では、何故私に誰も紹介してくれないのか?納得がいかず、私の中で不満ばかりが募っていった。


豪を煮やした私は、自力で友人を作ろうと、永遠を連れて近くの公園に通い始めた。
英語混じりの拙い独語でしかコミュニケーションをとれない私でも、同じ年頃の子どもを持つ親同士、すぐに友人ができた。
ドイツ人は家族をとても大事にするから、一人で子供を連れて公園に来ている父親も多い。ヴォイチェフもその一人だった。

エンジニアとして日本支社で働いていた事があるヴォイチェフは、初めて会った時からとても友好的だった。
ヴォイチェフの妻グラティアは看護師として働いているらしく、休日の昼間は殆どヴォイチェフが一人で息子マテウスの面倒をみているらしい。

マテウスは永遠の一つ上。永遠とマテウスはすぐに仲良くなり、よく一緒に遊ぶようになった。

そんなある日、いつものように公園で遊んだ後、私と永遠はヴォイチェフの誘われて、公園近くのカフェに立ち寄った。
その店でヴォイチェフは妻のグラティアと待ち合わせをしているのだという。今後家族ぐるみで付き合っていきたいから、永遠と私にグラティアを紹介したいのだと言われれば、断る理由などない。
寧ろ、同年代の子を持つ親同士、家族ぐるみの付き合いができるのは嬉しかったし、心強かった。

しかし、グラティアよりも早くその場に現れたのは、鬼の形相をしたハル君だった。
私の浮気を疑ったのか。ハル君は真っ直ぐ私達の前まで歩み寄ると、ヴォイチェフに向かってすごい剣幕で捲し立てた。独語があまり得意ではない私には早口過ぎて聞き取れなかったが、ハル君が一方的にヴォイチェフを責め詰っている事は分かった。
勘違いされているとヴォイチェフも気付いたようで、必死に二人で誤解を解こうとしたのだが、ハル君は聞く耳を持たなかった。
結局グラティアが現れるまで修羅場は続き、もう二度とあの店にはいけなくなってしまった。

あの時、ハル君が何を言ったのか。あまりの嫉妬深さに、グラティアは呆気に取られていたし、遠い目をしたヴォイチェフには「春香は旦那さんに怖いくらい愛されているんだね」と言われ、ひどく居たたまれない気持ちになった。

今でもヴォイチェフ一家と家族ぐるみの付き合いができているのは、偏に彼等の度量の広さのお陰だと思う。


その日、全て誤解だったと理解した後のハル君は、更に面倒くさかった。
勘違いして大騒ぎした事を恥じ、自己嫌悪に陥っていたところまではまだよかった。だがその後、ハル君はくどくどと私に説教し始めたのだ。

僕がどれだけ君を愛しているのか分かっていないだとか。
君は自分がどれだけ魅力的なのか分かっていないだとか。
君に会えば、誰もが君に惹かれてしまうだろうから、紹介できなかったのだとか。
君は警戒心が足りなくて危なっかしいから、僕がいない時は外出を控えた方がいいだとか。
もし君が浮気したら、生きていく自信がないだとか。
もし君が本気で心変わりしたなら、君を殺して僕も死ぬだとか。
……親バカならぬ、妻バカも過ぎると思う。しかも、気持ちが重い。重過ぎる。

私は日本人の中でも小柄で童顔だから、アラサーだというのに未だギムナジウムの生徒と間違われる事もある。欧米では大人っぽい色気のある女性がモテるから、私など相手される訳がない。いくらそう言ってもハル君は納得しなかった。

数時間話し合った結果、結局私が折れる事になった。全面的に折れたわけではない。条件付きだから、譲歩したと言った方が正しいだろう。

・毎朝、その日の予定をできる限り細かくハル君に伝える事。
・急な予定が入った場合は、電話なりメールなりして必ずハル君に連絡する事。
・買い物や公園も、極力ハル君と一緒に行く事。
・ハル君が仕事で不在の時は、ヴォイチェフ家の誰かと行動をともにする事。

この条件を律君に話したら、まるで軟禁生活じゃないと笑われた。確かにその通りなので返す言葉がなかった。
だが、多少窮屈ではあるけれど、これでハル君が安心するなら私は別に気にならなかった。ハル君を不安にさせて仕事を疎かにされるよりよっぽどいいと思った。

ハル君を安心させる為なら、きっと私は何だってするのだ。
何だかんだ言っても、私もハル君を心から愛しているのだから。



***



「春ちゃん?どうしたの?ぼうっとして。ああ、コーヒーを持ってきてくれたんだ。有難うね」

我に返ると、バイオリンと弓を纏めて右手に持ったハル君が目の前に立っていた。

「やだ、つい聴き入っちゃった。コーヒー冷めちゃったね。今淹れ直してくるよ」

そう言って踵を返そうとすると、ハル君が私の腕をそっと掴んだ。そして、そのまま練習室の窓際に置かれた一人掛けのソファーへと私を導き、その前にあるローテーブルの上にヴァイオリン愛器を置いて、私を抱き寄せた。

「春ちゃん、愛してるよ」

耳元を掠めるように囁かれた愛の言葉。付き合い始めた頃と変わらない熱を孕んだ瞳。心が温かなもので満たされるを感じながら、私はそっと目を閉じ、口付けを受け入れた。



人生には様々な道があると思う。
多く人達と関わり、ハーモニーを作り上げる交響曲のような人生もあれば、同じ趣味を持つ人など特定の人と過ごすアンサンブルや伴奏曲のような人生もある。そして、家族や極親しい人としか関わらない無伴奏曲のような人生もある。

きっと多くの人が交響曲のような人生が一番充実していて健全だというだろう。
けれど、私はどの人生も違った趣があって素敵だと思う。他の誰でもなく、その人の人生なのだ。その人がその時求めた道を選べばいい。

人生は一度きりだけど、一度選んだ道が全てではない。目の前には常に多くの選択肢が並んでいる。
音楽も人生も変幻自在なのだ。アレンジすれば、無伴奏曲だってアンサンブルや交響曲になるし、交響曲だって『G線上のアリア』のように一本の弦のみで奏でられる曲になる。


今は無伴奏曲のような私達の人生も、いつか変わる日が来るかも知れないし、変わらないままかも知れない。それは誰にも分からない。
ただ今は、これからどんな変化がきても耐えうるよう、時にぶつかり合い、譲歩し合い、互いの絆を深める事に専念していたいだけなのだ。
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