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Vivace -1st Vn.- 春香side

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『彼』は本物のgifted天才だった。
それこそ、神様に愛されているとしか言いようのないくらいの。


大学の構内で初めて言葉を交わす前から、私は『彼』の事を知っていた。
いや。私達の年代で本格的にヴァイオリンを習っている人間ならば、誰でも『彼』の名前くらいは知っているだろう。そのくらい『彼』は有名人だった。

『彼』の存在を初めて知ったのは、私が小6の時に初めて出場した『学生音コン』の東京地区大会の時だ。

このコンクールは、小学校4年生から高校生まで(チェロ部門だけは大学生まで)が参加出来るもので、小学生の部、中学生の部、高校生の部と別れて審査が行われる。 
ヴァイオリン部門は、東京・大阪・名古屋・北九州の4都市で予選・本選と地区大会が行われ、その中で成績上位者だけが全国大会へと進むことが出来る。
当時……いや多分今現在も、小学生が出場できる最も難易度の高い国内コンクールの1つだろう。

4歳から通っていた地元のヴァイオリン教室の中で、私は抜きん出て上手かった。小4の時、私の才能を見込んだ教室の先生が、もっと専門的にヴァイオリンを学ばせるべきだと私の両親に進言し、今の師匠せんせいを紹介してくれた。それから私は某音大で教えていた経験のある今の師匠に師事している。

今思い返せば恥ずかしい限りだが、当時の私は「井の中の蛙大海を知らず」ということわざを地でいく、やたらと自惚れの強い子供だった。
それまでコンクールに出場した事などなかった癖に、この難易度の高いコンクールでも、自分の実力が通用すると当然のように思っていた。烏滸がましくも、最高学年の自分ならば、予選通過は勿論のこと、本選でも優勝を果たし、全国大会出場も可能だろうと、身の程知らずな事を考えていた。

狭い世界で天狗になり、伸びに伸びた私の鼻をポッキリと折ってくれたのが『彼』、我妻 悠あがつまはるかだ。

私が初めて『彼』の演奏を聴いたのは、東京地区大会本選の時だった。
本選の課題曲は、アンリ・ヴュータン作曲のヴァイオリン協奏曲第4番二短調。ヴュータンをご存じない方も多いかもしれないが、ヴァイオリンを弾く人間にとっては、わりと親しまれている作曲家だ。

『彼』と同じく予選を通過し、本選出場を決めていた私は、この課題曲を只管弾きこんだ。平日でも学校の後に4、5時間。休日なら10時間以上。師匠に叱られながら、寝る間も惜しんで弾きこんだ。
その甲斐あってか、本選での演奏を終えた時、私は我ながら悪くはない演奏だったと満足し、達成感すら覚えた。


だが、私の2人後に弾いた『彼』の演奏を聴いた瞬間、その感情は霧散した。努力だけでは補いようもない『才能の違い』『実力の差』というものを初めて肌で感じ、愕然とした。

『彼』が弾き始めた瞬間、会場内の空気すら変わったのだ。

私よりも一つ下だというのに、『彼』は年齢にそぐわない程の技巧テクニックを習得していた。その技巧テクニックの秀逸さから生みだされる安定感。気品すら感じさせる、のびやかで澄んだ美しい音色。
何より、聴衆を惹きつけてやまない不思議な魅力が彼が紡ぐ音楽にはあった。それはまさに神様に愛されているとしか言いようのないくらい素晴らしいものだった。

私は『彼』の演奏に圧倒され、魅了された。本物の才能に触れ、自分は天才かも知れないと自惚れていた事を恥じた。
結局、私は本選止まりで全国大会への出場は叶わなかったが、『彼』は全国大会へと進み、何とそのまま小学生部門で優勝を果たした。

それからの『彼』の躍進は、目を見張るものがあった。
様々な国際コンクールのジュニア部門で入賞を果たし、その後、高校2年生という若さで、日本で最も伝統と権威のある『日コン』で2位入賞という快挙を成し遂げた。

だからというわけではないが、大学構内で『彼』を見かけた時は驚いた。
業界に疎い私でも、『彼』が私の通う芸大の付属高校に通っている事は知っていた。だが、そこまでの腕前を持主ならば、著名な演奏家に師事する為に留学するものだとばかり思っていたからだ。



***



「は~るかぁ~!」

私が学生会館にある食堂でカレーライスを食べていると、背後から大声で名を呼ばれた。

「はぁ~い。なにぃ~?」

負けじと声を張って返事をしながら私が振り返ると、そこには端正な顔立ちをした男の子が、驚き顔で立っていた。

(やらかした…。よく考えれば『ハルカ』なんてありふれた名前なんだから、何処にでもいるでしょうよ!何でうっかり返事しちゃうかな、私)

彫像のように固まっているイケメンを見て『ハルカ』違いだった事に気付いた私は、ガバリと頭を下げた。

「ごめんなさい!もしかして…いや、もしかしなくとも、私じゃない『ハルカさん』にご用でしたよね?えっと、声がその友人の声に似てたもので…それで、あの…つい反射的に返事をしちゃいまして…」

弦楽器をやっていると耳は良くなる。だから私も耳には自信があるのだけれど、流石にこれだけ賑わっている食堂の中で声を聞き分けるのは難しい。…というのは言い訳で、条件反射で返事をしてしまっただけなのだけれど。

いつの間に復活したのか、先程まで固まっていたイケメンはまじまじと私を見つめながら「貴女も『ハルカ』?」と訊いてきた。

私の名前が『ハルカ』じゃなかったら、返事なんてしませんでしたよ!と心の中で悪態をつきながらも、私は笑顔で「ええ。まあ一応。私も春香です」と答えた。
私の言葉を聞いた目の前のイケメンが盛大に吹き出した。

「ぶぶっ!自分の名前なのに、一応って何?一応って!面白い子ねぇ!」

ツボが浅いのか、よりによってケタケタと声をあげて笑い始めたのである。
初対面のイケメンに爆笑される羽目になった私は、どう対処すればよいのか分からず、あたふたするばかりだった。


そもそも音楽学部や音大に進む私みたいな人種は、小さい頃から遊びもせずに練習ばかりしてきているせいかコミュ障が多い。その最たるものが私だ。重度のコミュ障である私は、どうしていいのか分からず狼狽えていた。

そこへ救世主ならぬ私の親友、ピアノ専攻の関川 桃花せきかわ ももかが『彼』を連れて現れた。

「あら?春香と律樹じゃない。あれ?貴方達知り合いだったの?」

「桃先輩。はるか。もう話は終わったの?っていうか、二人とも何処にいたのよ!捜しちゃったじゃない」

どうやら桃花は彼等と知り合いらしい。『律樹』と呼ばれた笑い上戸のイケメンが、不貞腐れた顔をしてぶつくさ文句を言い始めたけれど、私には聞こえなかった。この時には既に、私の意識は桃花の後を歩いてくる『彼』に向けられていたのだ。

彼がこの大学に進学していた事も驚いたが、ずっと雲の上の存在だと思っていた『彼』が目の前にいるのが信じられなくて、何だかそわそわと落ち着かない気持ちになった。

『彼』を凝視している私に気付いた桃花は、何を思ったのか、眉を顰めて溜息をついた。そして「……春香。何か勘違いしてるでしょ?我妻っちと私は、春香が脳内で妄想しているような色っぽい関係じゃないからね!」咎めるように言った。

ん?私はただ『彼』に見惚れていただけなんだけど。もしかして二人の仲を怪しんでるように見えた?
……っていうか、脳内で男女の色っぽい妄想をしていると思われているって。私は桃花にどんな人間だと思われているのだろうか?

「こいつ…我妻っちはただの高校の後輩!因みにそこの律樹もそう!話ってのは春香が想像しているようなもんじゃなくて、次の試験の伴奏の依頼だから!
後輩に腕を見込まれたのは嬉しいけど、私には春香や紗耶香達の伴奏もあるし、自分の試験もあるから無理だって断ってるんだけど。この子達、諦めが悪くて…」

困ったようにそう言って、桃花は『彼』と『律樹』君に恨みがましい視線を送った。

「ええっ!桃花の後輩って事は、昨日入学したばかりの1年生でしょ?1年ってまだオリエンテーションだけで何も始まってないよね?それなのにもう伴奏者探し?」

私は驚きの声をあげた。
確かに優秀な伴奏者は人気が高い。熾烈な争奪戦が繰り広げられる事もあるから、早めに依頼しておく必要はある。しかし、昨日入学したばかりの彼等にとって実技試験などまだまだ先の話。それなのにもう伴奏の依頼を打診してきただなんて。
昨年の今頃の私なんて、憧れの大学に入れた事をようやく実感し始めた頃で、馬鹿みたい1人でニマニマしていた気がする。この2人とは雲泥の差だ。


「ねえ、桃先輩。こっちの『ハルカ』ちゃんって、もしかして桃先輩と同学年?私達の先輩にあたるのかしら?」

「えっ?ああ、そうよ。この子は桜木 春香さくらぎ はるか。『桜の木』で『春の香り』だなんて、今の時季にぴったりな名前でしょ?童顔だから幼く見えるけど、現役で入って来てるから私と同じ年。貴方達と同じヴァイオリン専攻だから、今後関わる事が多いかも知れないわね」

「あら!じゃあ『ハルカ』ね?私は橘 律樹たちばなりつき。そっちは我妻 悠あがつまはるか。以後お見知りおきを。春香先輩!
悠は大きなコンクールで何度も入賞してるから、先輩も名前くらいは知ってるんじゃない?」

律樹君が揶揄うようにそう言った時、ほんの一瞬だけ『彼』が苦しそうに顔を歪めた気がした。 
その時、漠然と思った。もしかしたら『彼』は、『神童』だの『天才』だのと持て囃されるのが嫌なのかも知れないと。
知らない相手にも知られている。『彼』くらいになると先入観を持って見てくる人が多いのかも知れない。勝手にガッカリされたり、非難されたりするとしたら。かなり不快だ。

もし先入観を持たれる事が『彼』の負担になっているならば、私は知らない振りをするべきだろう。
しかし、長年同じ楽器をやっていて、『彼』活躍を全く知らないというのはムリがある。
だから私は「…何処かで聞いた事がある気がするんですけど。ごめんなさい。私、そういう事に疎くて…」と返答するにとどめた。

そんな私をどう思ったのか。『彼』は苦笑しながら私に歩み寄り、握手を求めるように手を差し出した。そして「同じ名前だなんて紛らわしいですけど、同じ楽器専攻ならば今後顔を合わせる機会も多いでしょうし、これからよろしくお願いしますね。春香先輩」と柔らかな声で言った。


何処からともなく桜の香りが漂う4月初旬。
春の柔らかな日差しが差し込んではいるが、綺麗とも、お洒落とも言えない学生食堂の一角で交わされた短いやり取り。

それが私と『彼』、我妻 悠との出逢いだった。



*** 



「……るかさん。春香さん。どうしました?気分でも悪いですか?…すみません。お疲れのところ強引に誘ってしまって…」

名を呼ばれた事で、私の意識は急速に目の前に座るチタンフレームの眼鏡をかけた男性へと引き戻された。

「えっ?あ…すいません。少しぼんやりしちゃいました。カレーを食べてたら、大学の学食のカレーもどきを思い出しまして」

「カレーですか?」

「そうなんですよ。あれはカレーというより、カレーなんです!
多分うちの大学の学食オリジナルなんですけど。見た目も赤いし、味もかなりケチャップの主張が強いんですよ!でも、不思議と嵌る味なんです。お手頃価格なので、私も学生の頃はかなりの頻度でそのカレーを食べてました。
……あっ!いえ、勿論こういう本格インドカレーの方が美味しいと思いますし、好きですよ」

失敗した、と内心舌打ちする。
私は今、目の前の男性と二人で、美味しくて評判のインド料理店に来ているのだ。ここはオーナーも調理人も全員インド人というこだわりの店。四倍以上も値段が違う本格派インドカレーを食べているというのに、学食のカレーもどきを思い出すとか、美味しかったと言い出すなんて我ながらどうかしている。本当に失礼極まりないぞ、私!

心の中で自分自身に厳重注意していると、忍び笑いが聞こえてきた。釣られるように顔を上げると、目の前に座る男性…有賀さんが相好を崩して笑っていた。

「春香さん。そんなに気を使わないで大丈夫ですよ。それにしても、ケチャップの主張が強いカレーですか…。是非一度食べてみたいものですね。あそこの大学の学食って、一般人も利用出来るんでしたっけ?もし出来るなら、今度一緒に行きませんか?僕も食べてみたいです。そのカレー。どのくらいケチャップの主張が強いのか確かめないと気になりますし」

有賀さんは茶目っ気たっぷりにそう言って、蕩けるような笑みを浮かべた。
私を見つめる有賀さんの瞳は常に甘い熱を孕んでいる。私への想いを隠そうともしない熱い視線から逃れるように俯き、私はケーラー・ラッシーに口をつけた。



先日、私は目の前の有賀琢磨ありがたくまさんから交際を申し込まれた。ただの告白ではなく、『結婚を前提として』という枕詞まくらことばがついた少し重めの告白だった。

有賀さんは旧帝大の薬学部卒業後そのまま大学院へと進み、博士号を取得。現在は大手製薬会社で研究職に就いているエリート中のエリートだ。年は私よりも5つ上の32歳。
涼し気な顔立ちをしている上にチタンフレームの眼鏡をかけているから、一見冷たそうに見えるけれど、とても穏やかで優しい素敵な男性ひとだ。

こんな私でも丸ごと受け止めてくれそうな包容力も感じる、私には勿体無い男性ひとなのだが、何故だか私は一歩踏み出せないでいた。
今日こそは彼の申し出を受けようと思うのに、毎回言葉が喉の奥にひっかかって出てこない。
きっと私の中では未だに、あの暑い夏の日に聴いた蝉時雨が響き渡っているからなのかも知れない。
 

私はあの時の決断を後悔してはいない。
今でも最良の選択だったと思っている。
何より、今の『彼』の活躍が、あの時の私の選択が正しかった事を証明している。

『彼』の活躍を遠くから見守るだけでいい。
『彼』の1番のファンであり続けるだけでいい。
 
私はあの日『彼』と約束したではないか。「ちゃんと幸せ」になると。だから私は、有賀さんの申し出を受けいれて「ちゃんと幸せ」になるべきなんだ。
報われる事のない想いを抱き続け、いつまでも立ち止まっていたら、『彼』との約束を守れなくなってしまう。
……それだけは絶対に駄目だ。


今夜、家に送ってもらった時、有賀さんに返事をしよう。そのまま部屋に上がってもらって、何も考えられなくなるように抱いてもらおう。今でも時折思い出してしまう『彼』の感触を、全て上書きしてもらおう。
そうしたらきっと、募るばかりの恋情を断ち切る事が出来るかも知れない。

『彼』に対して抱くのは敬愛だけでいい。恋情なんて必要ない。
私はただ遠くから『彼』の活躍を見守っていられたら幸せなのだから。



***



「今日は有難うございました。ご馳走様でした。とても美味しかったです。…あ…あの…」

「春香さん。例の返事でしたら、焦る気はないので、もっと時間をかけてゆっくり考えて下さい。勿論、色よい返事がもらえるように、これからもちょくちょく誘わせてもらいますけどね」

「あの…ずるずるとお待たせしてしまって本当にすみません。……もう少し…もう少しだけ待ってもらえますか?」

「本当に焦らなくていいですよ。果報は寝て待てと言うじゃないですか。春香さん相手ですから、長期戦は覚悟の上です。それじゃあ、また。お休みなさい」

「あの…いえ、お休みなさい」

自宅前まで車で送ってもらったというのに、結局私は決意した言葉を伝える事も、行動に移す事も、できなかった。自分を情けなく思いながら、愛車で走り去る有賀さんに手を振る。

どれだけ決意しても、行動に移せなければ意味がないのに。
訊いた事はないけれど、律君は今でも『彼』と連絡を取り合っているだろう。きっと『彼』はとっくに私の事なんか忘れているだろうけれど、もし何かの拍子に私の事を思い出したら?あの時の約束を守れていないと知られたら?
優しい『彼』の事だから、責任を感じて苦しんでしまうかも知れない。

やはり一刻も早く約束を守れるよう動かないとダメだ。
次こそはちゃんと有賀さんに返事をしよう。何があっても絶対にだ!

自分にそう言い聞かせながら、私はエレベーターに乗り込んだ。自宅がある3階でエレベーターから降りると、私の部屋の前にしゃがみこむ人影を見付けた。俯いているから顔の判別はつかないけれど、私の部屋に出入りする男性なんて律君しかいない。

私は自分の部屋に向かって歩きながら人影に声をかけた。

「律君、また家出してきたの?まったく、連絡くれればもっと早く帰ってきたのに。もうこんな時間だし、今夜はうちに泊めてあげるけど。ちゃんと光ちゃんには連絡してあげて。きっとすごく心配してるよ?」
 
諭すように話し掛けても、人影はピクリともしない。私の帰りを待ちながら眠ってしまったのか?それとも反応できないくらい具合が悪いのか?心配になって小走りで近付く。玄関まで数歩手前の距離で気付いた。その人影が律君ではない事を。

「…誰?」

突如として恐怖が湧き上がる恐怖を押さえながら声を掛けると、その人影がゆっくりと顔を上げた。心臓が止まるかと思った。夢でも見ているのかと思わず自分の頬を抓った。
だって、そこにしゃがみこんでいたのは、5年経った今でも未だに私の心の中に居座り続けている『彼』だったのだから。


「…すごく、すごく逢いたかったよ。春ちゃん」

『彼』、ハル君はそう小さく呟き、涙を流していた。
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