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バック・スタバー(:転 大きな損失)

28 涙が胸元を濡らしている

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 ポンプから規則的に空気を送り出す機械の音。
 なんだかマッサージチェアの機械音だの、と優花里はそんな事を思った。
 コシュー、コシュー、と音がする。

 意識だけがそこにあり、身体を動かせない状況というのは歯がゆかった。

 鹿美華病院。優花里はその一室にいた。酸素吸入のマスクをつけ、全身の殆どを包帯で巻かれ、色々な管が針を通して彼女の身体に差し込まれている。もちろん、そんな事を意識する神経も今は不安定な状況だ。声も出せない、首も動かせない。ただ、目だけは見開いていて、そこからは無機質な天井が見えるだけだ。





「目・・・開いた!」


 律は優花里のいる集中治療室の遠い所から、窓ガラス越しに彼女を見ていた。優花里の身体は細心の注意を払わなければならず、決められた人間以外は入室を許されていない。まるでガラス越しに実験体を見るような、そんな気分で律は優花里が目覚めるのを待っていた。

「そろそろ、帰りましょう」
 少し離れた場所で座っていた小姫が冷静な口ぶりで語る。
「ゆ、優花里、目が覚めたんだよ!」
 興奮する律に対し、小姫は動じない。今の小姫は冷徹だった。

 あの爆発の日から、既に2週間が経過している。

 2人は再開した学校の帰りに、この病院に寄っては、優花里と琥太郎の容態を見守っている。

「律。どうしてそんな平気な事を言えるの」
 興奮する律に対して小姫は辛辣な言葉を投げかけた。理由はいくつかある。あの日のわだかまりが解消されないままの、単純な優花里への嫉妬。
 そして、優花里への怒りだ。
 それは父が彼女を庇ったということ。守る為のボディガードが守られたという事、それによって、琥太郎の受けたダメージが大きくなったという事。

 優花里のせいで父は重症。
 その事実だけが残る。

 何より、琥太郎がまだ目を覚ましていない。

「ごめん・・・」謝る事しか出来ない律。

「小姫お嬢様。律様、毎日ご苦労様です。自宅までお送り致します」
 気まずさを察したのか、枝角若草が現れた。





 車内の空気は重たい。律は自分の失言を反省していた。小姫は琥太郎の容態が心配で仕方なかった。毎日毎日、寄り添っていたかった。しかし、母の亜弥がその役割を務め、小姫は通常通りの学校生活を演じなければならなかった。
 鹿美華琥太郎が重篤な状況である事、それは鹿美華に関連する人間の中でも、ごく限られた数の人間しか知ってはならぬ秘密となっていたからである。

 学校が再開してから、学園の周りにはふたりには気が付かない様に鹿美華ボディガードが配備されている。今は律1人が小姫と、非公式ではあるが蜜葉るりの警護を行なっている。とはいえミサイル誤射事件以降、目立った動きは無い。

「到着しました」

 自宅前に到着し、後部座席の扉が開く。小姫はそそくさと自宅へ入っていく。
 律は若草に呼び止められた。

「小姫お嬢様の食欲は・・・?」
「まだ・・・」

 琥太郎の一件があってから、小姫はまともな食事をとっていない。ただでさえ華奢なその身体の線がより細くなっていくのを律は感じた。

「律様・・・何卒・・・」
「分かってるよ」

「貴方しかいないのです」

「って言われてもなぁ・・・」

 小姫が食べてくれるように、律は様々な料理を作ったが、無駄に終わっている。どうしたらいいのか、本当の所は律には分からない。若草は律に頼るしかなかった。彼自身、もう孫がいてもおかしくない年齢である。小姫や律達の年代の繊細な心に不用意に近づくことはできない、そう悟っていた。



 規則的に動き続ける機械。優花里の意識は完全に回復していた。身体はまだ動かせない。優花里は少しずつ、飛んでしまった記憶を確認している。

 あの時、爆発が起きて・・・強い力を感じた。鹿美華琥太郎が自分を抱きしめていた。そこまでは覚えている。

 なにより、兄に再会した。

 ユートピアと呼ばれる、悪しき向精神薬に身体を依存していた、情けない兄の姿。ボロボロの兄の姿。そして、自分を捨てた兄の姿。何かに怯えていた、その顔。あれは薬の副作用だけではない。きっと・・・その上にある、何か恐ろしい存在に・・・ひれ伏していた。

 強かった、憧れの兄の姿はもう、そこには無かった。身体は動かない。不完全な働きをする脳味噌でいろいろな事を考える優花里。彼女の中に、ひとつの問題が浮かぶ。

 恨むべきは誰なのか?

 優花里の心は揺れる。兄の自業自得で済む話ではない。薬を恨めばいいのか?いや、兄を追い込んだ組織を恨めばいいのか?

ー〝鹿美華を許さない!〟ー

 兄はそう、言っていた。何故、兄が鹿美華の人間に敵意を持っていたのか、分からない。じゃあ、鹿美華の人間を恨めばいいのか?分からない。

 だって、鹿美華琥太郎は自分を庇った。

 優花里はまた、気がついてしまった。

 自分の弱さ。まずはそれを恨んだ。守られてばかりの自分の弱さを、悔いた。



 「そろそろ食べたらどうだ?」

 律は扉越しに小姫に語りかける。
 今日も反応は無い。最近の小姫は帰宅すると直ぐに自分の部屋に引きこもる。
 律は夕食を作った時と、夜眠る前、2回だけ声をかけるが反応は無い。律は刺激するのも申し訳ないので、諦めるように自分の部屋に戻る。

 いつもであればイヤホンをつけて、部屋で好きな音楽を聴いている律。
 今日はそんな気分じゃ無かった。小姫への失言が気がかりだった。今週はずっとそんな感じだ。

 2週間前。蜜葉るりが自宅に押しかけたあの日の夜。優花里の帰りを待っている2人に届いた悪い知らせ。

ー〝琥太郎様と優花里様が爆発に巻き込まれ、重体です〟ー

 当時の律は理解が追いつかなかった。
 まさか爆発が起こるなんて、という事と、あの2人に限っては重体、という言葉が似合わないと思ったからだ。特に小姫の父、鹿美華琥太郎がそうなるとは考えもしなかった。
 自分の組んだ腕を枕にして、考え事をする律。

(猪苗代財閥か・・・)

 律はるりが示した可能性を思い出した。鹿美華家を狙っているのは、猪苗代財閥の人間である可能性。しかし、実態が見えてこない。そもそも、剱岳という男が何者かも分からない。整理して考えようにも、律は組織の末端であり、知り得る情報は少なかった。

 なんとなく、ごろん、と身体を回転させ、小姫のいる部屋の方向の壁を見てみる。真っ白な壁。その先で華奢な彼女がどんな姿でいるのか、彼には分からない。

(アイツ・・・何日も食べなくて平気なのか?)

 そんな事を思った時。

 その日、たまたまイヤホンを外していた耳が、隣の部屋で啜り泣く小姫の声を捉えた。

 小姫は毎晩泣いていた。

 白い壁にそっと耳を当ててみる。自分の幼き頃を思い出すような、啜り泣くか細い声が聞こえた。同時に律の胸が痛んだ。

 律にとって、鹿美華琥太郎は例えるならば鬼であって強さの象徴、そんな気がしていた。屈強な肉体、容赦ない態度・・・
 そんな鬼は、小姫にとっては他ならぬ唯一無二の父親である。律は改めて想像してみた。自分の父が命の危険に晒されていたら、どうだろう。そんな単純な置き換えで小姫の気持ちを考えてみた。

 迷ったら、直感。

 ごく当たり前のように律は立ち上がった。

 部屋を出て、隣の部屋へ向かう。小姫の部屋の前で、ノックをしようとして、それでも立ち止まった。

 自分には何が出来るのか、分からない。

 どんな声をかければ良いのか、分からない。

 各々の部屋は、各々の鍵となるリーフォンが無ければ開かない。律は扉越しに何か、言葉をかけようか迷った。

(大丈夫だよ)
 その言葉に確信は持てない。

(どうして泣いてるの?)
 わざわざ聞く理由も無い。

 その時、リーフォンが鳴動し、小姫からのメッセージが届く。

ー〝ティッシュが無い 買ってきて〟ー

ー〝俺のあるから渡すよ〟ー

 律は部屋に戻り、箱ティッシュを持ち、再び小姫の部屋の前に立ち、息を飲んで、扉をノックする。少しだけ扉が開いた。その隙間から声がする。律からは小姫のその顔は見えない。

「床に置いておいて」

 律に泣き顔を見られたくないので引きこもりの様な態度をとる小姫。

 その強がりを律は感じ取った。
 小姫の気持ちになって考え、泣き顔を見られたくないと言う気持ちを感じ取る。

 そこで初めて、感情が芽生えた。

 そうなった時、律の手は扉の隙間に手をやり、小姫の部屋の扉を無理やりこじ開けていた。

 言葉は無かった。

 言葉を持っても、説得力を持たぬ場面。


 律は、律だけが出来る方法を取った。


 余りにもその身体は華奢で、律はその感情が大きくなるのを感じた。

 
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