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第4話
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暗く冷たい過去に想いを馳せるには歳が足りないような気がするが、エルの見る過去は常に冷たく冷酷だった。家庭環境は最悪、母親は蒸発していたし父親は日雇いの工場勤めでひどく貧乏だった。そんな家庭環境だからに早く自活出来るようにならないといけないと急き立てられて、エルも父の為に尽くしていたと思う。
だがその尽くし方は常軌を逸して、家事洗濯、マッサージに下の世話までして遂には処女までくれてやったのはエル自身よくやったと思っていた。
あの時はどうしようもなかった、父親はエルにずっぷりと嵌り、私の為に必死でお金を稼いできていたのはエルが一番よく知っていたから責めたりはしないしする気もなかった。でも唯一攻めるとするなら、エルを置いてあの世に言った事だった。
もうすぐ役職が上がる、正社員だと喜んでいたのを覚えていてエルは父の為に覚えた『エル・ディアブロ』を作って振舞った。
そして父親は──翌日レイドに巻き込まれて死んだ。
右腕だけにが何とか残ったと警察が届けてくれて、エルはそれを火葬にして僅かな骨を拾った。そこからは堕ちるまで堕ちていくだけだった。
孤児なんてこの世の中で有象無象と表現して適切な程溢れかえっている時代で、無数にいる孤児を国は養えず、民間の企業の施設に押し込められ、心に過分に傷を負った子供たちの中で埋もれるにはシベリアの大地は冷たすぎた。
ロシアがデフォルトされ二十年と経っていて国の内も外も大恐慌でグチャグチャのロシア領で広大な土地と資源と、巨大な資本は世界は飛びついてネズミのように食い尽くすのは当然だった。
アメリカの民間企業の施設だったのは覚えているが、如何せんそこの職員はクズばかりで自分の欲に忠実な連中で、likeの為に子供を売り、性欲の為に子供を使い、退屈の憂さ晴らしに子供をいたぶった。
みんな希望を捨てて、非情な現実を受け入れて死んだ目で生きていた。希望はなかった。
空爆と旧国軍の敗残兵の略奪行為で施設が襲われた時、エルたちは初めて決意を振り絞り逃げ出した。どこへ行っても同じならせめてここじゃない方がいい。
見出せない夢に縋って、ユーラシア鉄道に密乗し樺太に着いた頃にはすっかりエルたちは痩せ細って、十人近くで逃げ出して一緒にここまで辿り着けたのはエルを含めたったの二人。
ありふれた人生だ。大戦渦が起こってから世界はグチャグチャのスクランブルエッグ状態、中身を搔き回された卵は孵る事があり得るのだろうか。分からないが世界は良い方に修正されていると願うばかりだった。
ゆっくりと意識が浮上してくる。暗闇に囚われた意識が雲の隙間から差し込む太陽の光に掬い取られるように。
……
…………
……
「ん……ふーっ……はァ」
ベットの中から起きたエルは大きく体を伸ばし涙を滲ませながら欠伸を一つ付いた。日ももう上がりきっていて、時間を確認するとそろそろ昼になろうかと言う位だった。
のそのそとベットから抜け出したエルはまるで動きの鈍い爬虫類か何かかと見紛う程顔色が優れていなかった。寝起きの低血糖で思考がまとまらないこの状況で躍動的に活動しろという方が無理な話で、シャワールームに向かうのに何度か倒れかけながらようやく到着する。
クリーム色のタイルに冷たい空気で身を震わせ、音声認識で「お湯」と一言いうとシャワーヘットからお湯が流れ出てきた。温かいお湯に体中に纏った汗臭さやら酒臭さ、精液臭さを洗い流し気分新たかに少しだけ目が覚め始めた。
ぬるりと股座に感じる違和感に顔を訝しんで覗き込んでみると白く白濁したそれが溢れ出てきていて、しまった、っと思うがもう遅い。コンドームを付けるのを忘れていた。だが、避妊薬でどうにでもなるから大きな問題ではなかった。
「ふぁー……んんー」
大きく背伸びをし体の隅々まで洗いバラの香りのするボディーソープで体を清め、泡を濯ぎ落し、シャワールームから出た。
軽く体を拭いて、クローゼットの中から無造作に選び取った淡いピンク色のチャイナドレス風のワンピースを着て、部屋を出ようとするが、ベット横にネクタイが落ちていた。昨日のお客の忘れ物だ。ボーイに頼んで届けさせようかと思いながら部屋を出た。
二階から一階のショーステージとダンスホールが一体になったそこは夜の騒がしさから一転してシンと静けさがあり、紙屑や割れたグラスの破片などが散乱していた。
私服の昼担当のボーイたちがもう出て来ていて、ホールの跡片付けやエルたちのステージの準備に忙しそうにしている。
「おはよう。エル」
ボーイの一人が挨拶をしてくるのでエルは声無く手を振って答えた。返事をするのも億劫な程に頭に糖が足りてない。今にも崩れ落ちそうなエルはステージの裏の厨房に入るとそこには軽食の仕込みを忙しそうにしているシェフたちに、飯はまだかと言いたそうにスプーンとホークを握り締めた少女と子供がいた。
テーブルの前で昼食を待っている少女の髪の毛は炎を思わせる鮮やかで豊かな赤毛で、可愛らしいな顔立ちをしていて子リスのようであった。評価を少し落とすとすれば僅かにそばかすが頬にあったがメイクで如何様にも消せるのだが、そこを魅惑的な部分という客もいるそうで、隠すことはなかった。
その隣にチャイルドシートに座る子供はまだまだ言葉も覚えておらずたどたどしい幼稚語でご飯ご飯とシェフを急かしている。
「おはようエル。いつもの銘柄?」
「今日は白色のがいいな」
「はーい。白色ね。──はい。白色のエナジードリンク」
エルは少女からエナジードリンクを受け取って、蓋を開けぐびぐびと喉を鳴らして飲んだ。400mℓある缶を一息に飲んだエルはグップっと小さなゲップを口の中でくぐもらせた。
「お目覚め?」
「ええ、やっとしゃんとした」
エルも椅子に座って、遅い朝食とすることにした。
「キャロル、他の子は?」
「皆お客さんにお持ち帰りされてる。夕方には戻ってくるんじゃないのかな?」
「ぶるるるるっ。ごぱんごぱん!」
「ハーイ、健太郎。子供は相変わらず元気ね。撫子は? 乳離れしたらすぐにあなたに預けるわね」
「いいのいいの。私子供好きだし」
キャロルは涎で口元をべとべとにしている健太郎の口周りを甲斐甲斐しく涎掛けで拭いて、きちんと座らせた。
キャロルはエルと同じ、この“ヘル・アビス・クラブ”の娼婦でありエルと歳の近い子だった。隣の幼児はキャロルの子ではない。別の、撫子という日本人の子供で撫子もこのクラブの娼婦、母乳が売りのクールビューティーな子だった。
競りで買われ店でしたくないお客の為に外出しどこかのホテルか外かでしっぽりしているのだろう。健太郎のお守はいつも手隙の子たちが代わる代わる面倒を見る事になっている。
娼婦であるのなら母性は捨てるな、お客は大きな子供と同じ。ゴッドマザーの口癖であり健太郎の健やかな姿はある意味では心の健康を保つことが出来る正気を保つ薬だった。
「相変わらず遅いんじゃないかい? エルよ。寝るのが好きなのはいいが、寝すぎだろう」
「叔父さん今言わないでよ。寝起きで機嫌が悪いのに」
厨房で白髪交じりの口髭を蓄えたルシアン叔父さんがそう言い、ドカッと昼食を出してきた。エルたちにはサラダとトマトスープのブンを、健太郎にはちっちゃな国旗が付いたお子様ランチを出してきた。
「もっと軽いのないの? 起きたてで胃が縮んでる」
「もう作ったんだ。文句言わずに食え」
ルシアン叔父さんはそう言い厨房の仕込みに戻った。ルシアンは人が良い、私たちの分まで準備をしてくれているし尚且つ“ヘル・アビス・クラブ”の料理長でこのクラブで飲食の全てを取り仕切っている。エルのフレアの氷の仕込みもやってもらっていて文句は言えなかった。
文句はなかったし、ルシアンの料理の腕は確かで、ボーイたちの噂では昔はシェラトンの三ツ星のレストランで副料理をしていたそうな。何かの粗相で追い出されてここに流れ着いたところで言えばエルたちと大差はなかった。
肉味噌がタップリ入ったブンを啜ってみるとガツンと来るトマトの風味とコンソメの味で最近エスニック料理にハマっているルシアンならではの味付けだった。
隣でキャロルは顔出しの写真を取ってSNSで投稿している。
キャロルの娼婦としての付加価値。それはネットでの知名度だった。フォロワー数10万人の娼婦。彼女を抱きたいが為に古今東西の好きモノたちがバビロン市に来ているのは明らかで、この“ヘル・アビス・クラブ”の屋台骨の一本だ。
彼女は大勢を相手する。何人も部屋に引き込んで骨抜きにしてもう赤玉が出てくるってとこまで絞り尽くす事で有名で、大人数でのプレイはお手の物だった。
エルのように大物ばかりを相手にするのとはまた違った稼ぎ方に感心するばかりだった。
「早く食べないと伸びるよ」
「ちょっと待って、今投稿……したから。いただきます!」
お上品とは懸け離れた食べ方だったが、まあ、彼女らしい。
「開くまで何する?」
キャロルがそう聞いてくるので、開店までの間の暇時間の事を考えた。
「んん……ピル買いに行って、ジムかな」
「ええ! ジム? もっと楽しいことしようよ」
「白人の血は歳を食うとブクブク太る因子があるのよ。今のうちに鍛えておかないと歳食った時にブスって思われる」
「じゃあじゃあ、そのあとさ服買い行こうよ。昨日三十人相手してlike溜まってんだ」
「貯金しなよ。老後の為に」
「今を楽しく生きず何をするか! 老後なんてあと何年ある事やら、先の事より今が大切でしょ」
刹那的な考え方だが確かにキャロルの言い分も確かだった。大戦渦の影響の一つの通貨崩壊で、金の価値が無に還って生きるのも必死な時代で娯楽は少ない。通貨の代替品のlikeもいつまで持つか分からないから溜め込んでも仕方ないのは確かだった。
「わかった。いいよ買いに行こ」
「やったー。健太郎も新しいおべべがほしいよねー」
「おぶぶー」
手の平に張り付けたスマートを立ち上げキャロルの好きそうなアパレルショップを検索する。治安の事も考えればユーラシア鉄道の駅があるグリニッジ・ヴィレッジ辺りは行くべきではないだろう。ハウストン・ストリート辺りを探せばいい店がある。
「ねえねえ、空中庭園いかない?」
「ええ? あそこ法務局が入ってるからセキュリティ高いじゃない? アタシたちのアカウントで入るの面倒よ」
「あそこの商業エリアに新しいクレープハウスが出来たから一度食べてみたいの。ね、いいでしょ?」
上目遣いでエルに一緒に来て欲しいと懇願してくるキャロルにエルは根負けして、ジムの予定をキャンセルした。
昼食も早々に食べ終え、エルはとキャロルは更衣室兼リラクゼーションルームに向かった。そこは云わば女性が羨む宝石箱。あらゆる衣裳が揃っているし、コスメも、自らを飾り立てるアイテムがズラッと並んでいた。
エルは好んで自らを綺麗に見せる事をあまりしなかった。蒸発した母親の血で美人に生まれているからに化粧もそこまで厚くせずに済んでいた。だが軽く化粧はする。ファンデーションを軽くして、リップを塗る。革ジャンを手に取って袖を通しスマートの通信補助器をとお客の忘れ物のネクタイをショルダーバッグに入れて出かける準備が整った。ちょうどいい医療薬品局は空中庭園の官庁区画内にある、あのお客が本当に製薬メーカーの研究員なら医療局を通じてネクタイも返せる。
キャロルは入念に出仕度をしているからにエルが代りに健太郎の身の回り外出用の服に着替えさせ、自動運転ベビーカーとスマートをペアリングし健太郎をそこに乗せた。小回りが良くコンパクトなそれは空調のよく効いて代謝の高い幼児にも快適な温度に設定さている。オムツの替えもベビーカーに積み終えるころにはキャロルもメイクが済んでいて出る準備は万全だった。
軍服風の色鮮やかな紫色のセーラー服で、誰がどう見ても美少女と呼べるキャロルに苦笑しながらエルたちは“ヘル・アビス・クラブ”を出た。
ボーイたちの送迎する水素エンジンキャデラック風自動車に乗り込むと、運転席から顔を覗かせる男がいた。
丸黒メガネの青年でゴツイ腕を捲り上げ刺青まみれのそれを自己主張激しく見せつけていた。
「どこまで行くんで? お嬢様方」
ああ面倒だ、今日の送迎係はお喋りトッティーだった。
ボーイの中でも荒事専門のトッティーは腕っぷしは確かで黙っていれば上出来な男なのだが、ペラペラと口の回る男で人間スピーカーかと思ってしまうほど五月蠅い男だった。キャロルと一緒にベビーカーの乗せて、
「空中庭園までお願い」
「はいはい空中庭園ね。って、アカウント大丈夫なの? あそこ出るのは簡単でも入るのだけは面倒ばかりでしょう? 何かの紹介で?」
「別に官庁区画の深くまで行くわけじゃないわ。商業区画までお願い」
「はいはい。商業区画ね。いやだねぇ、ここの所ずっと水素の値段が上がって車走らすのもやっとだよ。ディーン・フロスト社が商業彗星を引っ張って来たってのに水素がストップ高で上がっちゃあ俺達もおちおち生活も出来やしねえ」
「喋ってないでシャンと走る」
「はいはい。了解ですよエル嬢」
最近水素発電の話題で持ちきりだった。燃料である水素を地球上から必要分と入り出そうとすると海が消滅するというので、宇宙開発で彗星を地球近くまで持ってきて水素と炭素を取り出す事業が今盛んに行われている。
宇宙ホテルというのも大戦渦前ならいくらでもあったのだが、あれ以来さっぱり聞かなくなった。
宇宙か、と考えながらお喋りトッティーの運転する車は空中庭園に向かっていった。
だがその尽くし方は常軌を逸して、家事洗濯、マッサージに下の世話までして遂には処女までくれてやったのはエル自身よくやったと思っていた。
あの時はどうしようもなかった、父親はエルにずっぷりと嵌り、私の為に必死でお金を稼いできていたのはエルが一番よく知っていたから責めたりはしないしする気もなかった。でも唯一攻めるとするなら、エルを置いてあの世に言った事だった。
もうすぐ役職が上がる、正社員だと喜んでいたのを覚えていてエルは父の為に覚えた『エル・ディアブロ』を作って振舞った。
そして父親は──翌日レイドに巻き込まれて死んだ。
右腕だけにが何とか残ったと警察が届けてくれて、エルはそれを火葬にして僅かな骨を拾った。そこからは堕ちるまで堕ちていくだけだった。
孤児なんてこの世の中で有象無象と表現して適切な程溢れかえっている時代で、無数にいる孤児を国は養えず、民間の企業の施設に押し込められ、心に過分に傷を負った子供たちの中で埋もれるにはシベリアの大地は冷たすぎた。
ロシアがデフォルトされ二十年と経っていて国の内も外も大恐慌でグチャグチャのロシア領で広大な土地と資源と、巨大な資本は世界は飛びついてネズミのように食い尽くすのは当然だった。
アメリカの民間企業の施設だったのは覚えているが、如何せんそこの職員はクズばかりで自分の欲に忠実な連中で、likeの為に子供を売り、性欲の為に子供を使い、退屈の憂さ晴らしに子供をいたぶった。
みんな希望を捨てて、非情な現実を受け入れて死んだ目で生きていた。希望はなかった。
空爆と旧国軍の敗残兵の略奪行為で施設が襲われた時、エルたちは初めて決意を振り絞り逃げ出した。どこへ行っても同じならせめてここじゃない方がいい。
見出せない夢に縋って、ユーラシア鉄道に密乗し樺太に着いた頃にはすっかりエルたちは痩せ細って、十人近くで逃げ出して一緒にここまで辿り着けたのはエルを含めたったの二人。
ありふれた人生だ。大戦渦が起こってから世界はグチャグチャのスクランブルエッグ状態、中身を搔き回された卵は孵る事があり得るのだろうか。分からないが世界は良い方に修正されていると願うばかりだった。
ゆっくりと意識が浮上してくる。暗闇に囚われた意識が雲の隙間から差し込む太陽の光に掬い取られるように。
……
…………
……
「ん……ふーっ……はァ」
ベットの中から起きたエルは大きく体を伸ばし涙を滲ませながら欠伸を一つ付いた。日ももう上がりきっていて、時間を確認するとそろそろ昼になろうかと言う位だった。
のそのそとベットから抜け出したエルはまるで動きの鈍い爬虫類か何かかと見紛う程顔色が優れていなかった。寝起きの低血糖で思考がまとまらないこの状況で躍動的に活動しろという方が無理な話で、シャワールームに向かうのに何度か倒れかけながらようやく到着する。
クリーム色のタイルに冷たい空気で身を震わせ、音声認識で「お湯」と一言いうとシャワーヘットからお湯が流れ出てきた。温かいお湯に体中に纏った汗臭さやら酒臭さ、精液臭さを洗い流し気分新たかに少しだけ目が覚め始めた。
ぬるりと股座に感じる違和感に顔を訝しんで覗き込んでみると白く白濁したそれが溢れ出てきていて、しまった、っと思うがもう遅い。コンドームを付けるのを忘れていた。だが、避妊薬でどうにでもなるから大きな問題ではなかった。
「ふぁー……んんー」
大きく背伸びをし体の隅々まで洗いバラの香りのするボディーソープで体を清め、泡を濯ぎ落し、シャワールームから出た。
軽く体を拭いて、クローゼットの中から無造作に選び取った淡いピンク色のチャイナドレス風のワンピースを着て、部屋を出ようとするが、ベット横にネクタイが落ちていた。昨日のお客の忘れ物だ。ボーイに頼んで届けさせようかと思いながら部屋を出た。
二階から一階のショーステージとダンスホールが一体になったそこは夜の騒がしさから一転してシンと静けさがあり、紙屑や割れたグラスの破片などが散乱していた。
私服の昼担当のボーイたちがもう出て来ていて、ホールの跡片付けやエルたちのステージの準備に忙しそうにしている。
「おはよう。エル」
ボーイの一人が挨拶をしてくるのでエルは声無く手を振って答えた。返事をするのも億劫な程に頭に糖が足りてない。今にも崩れ落ちそうなエルはステージの裏の厨房に入るとそこには軽食の仕込みを忙しそうにしているシェフたちに、飯はまだかと言いたそうにスプーンとホークを握り締めた少女と子供がいた。
テーブルの前で昼食を待っている少女の髪の毛は炎を思わせる鮮やかで豊かな赤毛で、可愛らしいな顔立ちをしていて子リスのようであった。評価を少し落とすとすれば僅かにそばかすが頬にあったがメイクで如何様にも消せるのだが、そこを魅惑的な部分という客もいるそうで、隠すことはなかった。
その隣にチャイルドシートに座る子供はまだまだ言葉も覚えておらずたどたどしい幼稚語でご飯ご飯とシェフを急かしている。
「おはようエル。いつもの銘柄?」
「今日は白色のがいいな」
「はーい。白色ね。──はい。白色のエナジードリンク」
エルは少女からエナジードリンクを受け取って、蓋を開けぐびぐびと喉を鳴らして飲んだ。400mℓある缶を一息に飲んだエルはグップっと小さなゲップを口の中でくぐもらせた。
「お目覚め?」
「ええ、やっとしゃんとした」
エルも椅子に座って、遅い朝食とすることにした。
「キャロル、他の子は?」
「皆お客さんにお持ち帰りされてる。夕方には戻ってくるんじゃないのかな?」
「ぶるるるるっ。ごぱんごぱん!」
「ハーイ、健太郎。子供は相変わらず元気ね。撫子は? 乳離れしたらすぐにあなたに預けるわね」
「いいのいいの。私子供好きだし」
キャロルは涎で口元をべとべとにしている健太郎の口周りを甲斐甲斐しく涎掛けで拭いて、きちんと座らせた。
キャロルはエルと同じ、この“ヘル・アビス・クラブ”の娼婦でありエルと歳の近い子だった。隣の幼児はキャロルの子ではない。別の、撫子という日本人の子供で撫子もこのクラブの娼婦、母乳が売りのクールビューティーな子だった。
競りで買われ店でしたくないお客の為に外出しどこかのホテルか外かでしっぽりしているのだろう。健太郎のお守はいつも手隙の子たちが代わる代わる面倒を見る事になっている。
娼婦であるのなら母性は捨てるな、お客は大きな子供と同じ。ゴッドマザーの口癖であり健太郎の健やかな姿はある意味では心の健康を保つことが出来る正気を保つ薬だった。
「相変わらず遅いんじゃないかい? エルよ。寝るのが好きなのはいいが、寝すぎだろう」
「叔父さん今言わないでよ。寝起きで機嫌が悪いのに」
厨房で白髪交じりの口髭を蓄えたルシアン叔父さんがそう言い、ドカッと昼食を出してきた。エルたちにはサラダとトマトスープのブンを、健太郎にはちっちゃな国旗が付いたお子様ランチを出してきた。
「もっと軽いのないの? 起きたてで胃が縮んでる」
「もう作ったんだ。文句言わずに食え」
ルシアン叔父さんはそう言い厨房の仕込みに戻った。ルシアンは人が良い、私たちの分まで準備をしてくれているし尚且つ“ヘル・アビス・クラブ”の料理長でこのクラブで飲食の全てを取り仕切っている。エルのフレアの氷の仕込みもやってもらっていて文句は言えなかった。
文句はなかったし、ルシアンの料理の腕は確かで、ボーイたちの噂では昔はシェラトンの三ツ星のレストランで副料理をしていたそうな。何かの粗相で追い出されてここに流れ着いたところで言えばエルたちと大差はなかった。
肉味噌がタップリ入ったブンを啜ってみるとガツンと来るトマトの風味とコンソメの味で最近エスニック料理にハマっているルシアンならではの味付けだった。
隣でキャロルは顔出しの写真を取ってSNSで投稿している。
キャロルの娼婦としての付加価値。それはネットでの知名度だった。フォロワー数10万人の娼婦。彼女を抱きたいが為に古今東西の好きモノたちがバビロン市に来ているのは明らかで、この“ヘル・アビス・クラブ”の屋台骨の一本だ。
彼女は大勢を相手する。何人も部屋に引き込んで骨抜きにしてもう赤玉が出てくるってとこまで絞り尽くす事で有名で、大人数でのプレイはお手の物だった。
エルのように大物ばかりを相手にするのとはまた違った稼ぎ方に感心するばかりだった。
「早く食べないと伸びるよ」
「ちょっと待って、今投稿……したから。いただきます!」
お上品とは懸け離れた食べ方だったが、まあ、彼女らしい。
「開くまで何する?」
キャロルがそう聞いてくるので、開店までの間の暇時間の事を考えた。
「んん……ピル買いに行って、ジムかな」
「ええ! ジム? もっと楽しいことしようよ」
「白人の血は歳を食うとブクブク太る因子があるのよ。今のうちに鍛えておかないと歳食った時にブスって思われる」
「じゃあじゃあ、そのあとさ服買い行こうよ。昨日三十人相手してlike溜まってんだ」
「貯金しなよ。老後の為に」
「今を楽しく生きず何をするか! 老後なんてあと何年ある事やら、先の事より今が大切でしょ」
刹那的な考え方だが確かにキャロルの言い分も確かだった。大戦渦の影響の一つの通貨崩壊で、金の価値が無に還って生きるのも必死な時代で娯楽は少ない。通貨の代替品のlikeもいつまで持つか分からないから溜め込んでも仕方ないのは確かだった。
「わかった。いいよ買いに行こ」
「やったー。健太郎も新しいおべべがほしいよねー」
「おぶぶー」
手の平に張り付けたスマートを立ち上げキャロルの好きそうなアパレルショップを検索する。治安の事も考えればユーラシア鉄道の駅があるグリニッジ・ヴィレッジ辺りは行くべきではないだろう。ハウストン・ストリート辺りを探せばいい店がある。
「ねえねえ、空中庭園いかない?」
「ええ? あそこ法務局が入ってるからセキュリティ高いじゃない? アタシたちのアカウントで入るの面倒よ」
「あそこの商業エリアに新しいクレープハウスが出来たから一度食べてみたいの。ね、いいでしょ?」
上目遣いでエルに一緒に来て欲しいと懇願してくるキャロルにエルは根負けして、ジムの予定をキャンセルした。
昼食も早々に食べ終え、エルはとキャロルは更衣室兼リラクゼーションルームに向かった。そこは云わば女性が羨む宝石箱。あらゆる衣裳が揃っているし、コスメも、自らを飾り立てるアイテムがズラッと並んでいた。
エルは好んで自らを綺麗に見せる事をあまりしなかった。蒸発した母親の血で美人に生まれているからに化粧もそこまで厚くせずに済んでいた。だが軽く化粧はする。ファンデーションを軽くして、リップを塗る。革ジャンを手に取って袖を通しスマートの通信補助器をとお客の忘れ物のネクタイをショルダーバッグに入れて出かける準備が整った。ちょうどいい医療薬品局は空中庭園の官庁区画内にある、あのお客が本当に製薬メーカーの研究員なら医療局を通じてネクタイも返せる。
キャロルは入念に出仕度をしているからにエルが代りに健太郎の身の回り外出用の服に着替えさせ、自動運転ベビーカーとスマートをペアリングし健太郎をそこに乗せた。小回りが良くコンパクトなそれは空調のよく効いて代謝の高い幼児にも快適な温度に設定さている。オムツの替えもベビーカーに積み終えるころにはキャロルもメイクが済んでいて出る準備は万全だった。
軍服風の色鮮やかな紫色のセーラー服で、誰がどう見ても美少女と呼べるキャロルに苦笑しながらエルたちは“ヘル・アビス・クラブ”を出た。
ボーイたちの送迎する水素エンジンキャデラック風自動車に乗り込むと、運転席から顔を覗かせる男がいた。
丸黒メガネの青年でゴツイ腕を捲り上げ刺青まみれのそれを自己主張激しく見せつけていた。
「どこまで行くんで? お嬢様方」
ああ面倒だ、今日の送迎係はお喋りトッティーだった。
ボーイの中でも荒事専門のトッティーは腕っぷしは確かで黙っていれば上出来な男なのだが、ペラペラと口の回る男で人間スピーカーかと思ってしまうほど五月蠅い男だった。キャロルと一緒にベビーカーの乗せて、
「空中庭園までお願い」
「はいはい空中庭園ね。って、アカウント大丈夫なの? あそこ出るのは簡単でも入るのだけは面倒ばかりでしょう? 何かの紹介で?」
「別に官庁区画の深くまで行くわけじゃないわ。商業区画までお願い」
「はいはい。商業区画ね。いやだねぇ、ここの所ずっと水素の値段が上がって車走らすのもやっとだよ。ディーン・フロスト社が商業彗星を引っ張って来たってのに水素がストップ高で上がっちゃあ俺達もおちおち生活も出来やしねえ」
「喋ってないでシャンと走る」
「はいはい。了解ですよエル嬢」
最近水素発電の話題で持ちきりだった。燃料である水素を地球上から必要分と入り出そうとすると海が消滅するというので、宇宙開発で彗星を地球近くまで持ってきて水素と炭素を取り出す事業が今盛んに行われている。
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