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五 やさしい朝餉と悪態と。

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「殿下、奥様、おはようございます!」

 そのとき、とばりの向こうから木鈴もくりんの元気な明るい声が聴こえてきた。

 ふたりきりの沈黙の時間に気まずい想いをしていた羽綺うきは、それで、ほ、と、息をつく。そして、逃げるように臥牀しんだいを抜け出した。

 帳をくぐって架子床かししょうを出ると、向こうに精緻せいちな透かし彫りの欄間らんまがある。その下には、房間へやと房間とを仕切る、目隠しをかねた屏風へいふうが立てられていて、向こう側には小柄な少女の姿が見えていた。

「奥様、よくお眠りになれましたか?」

 羽綺が屏風を抜けて、臥室しんしつから居間のほうへと出ていくと、木鈴は、にこ、と、朗らかな笑みを向けてきた。

「え、ええ」

 気がついたら隣に裸の夫が寝ていたけれども何も覚えていないのだとは言えず、羽綺は誤魔化ごまかすように曖昧あいまいに笑ってみせた。

「水を汲んで参りましたから、顔を洗うのにお使いください。ここに置きますね。それから、すぐに朝餉あさげをお持ちいたしますので、支度がお済みになったらあちらの几案つくえにかけてお待ちください」

「ありがとう。何か手伝うことはあるかしら?」

「いえいえ。ぜんぶあたしの仕事ですから、大丈夫ですよ! 奥様はのんびりなさってください」

 木鈴は言ってから、今度は臥室しんしつと居間とを分ける屏風のほうへと近づいていった。その奥にはまだ、この夜王やおうの主人、らん蒼瑛そうえいがいるはずだ。

「殿下ー、起きていらっしゃいますかぁ?」

 木鈴は臥室に向かって、やや声を張り上げた。

「起きてる! やかましい!」

 どちらがやかましいのだかわからない声で返事がある。

「着替え、お手伝いいたしますか?」

「いい。自分で出来る」

「はぁい、じゃあお任せしますね。あたし、朝餉の用意してきますので!」

 言い置くと、木鈴は慌ただしく房間へやを出て行った。

 羽綺はすこし面食らった。

 ふたりは間違いなく主従のはずで、皇族とその使用人だ。それにしてはずいぶんと気安い遣り取りだったな、と、思ったが、そういうものなのだろうか。楊家のことしか知らない羽綺には、いまいち判断がつきかねた。

 やがて、着替えを終えたらしい蒼瑛が居間に姿を見せる。木鈴に言われたとおり几案つくえについている羽綺を見ると、彼は、ちら、と、不機嫌そうに顔をしかめたものの、結局は何も言わずに空いている上座に着席する。

 さっきまで素裸だった蒼瑛がいままとっているのは、深衣しんいと呼ばれる、そですそもたっぷりとした貴人らしい衣装だった。つやのある瑠璃るりあいの地に、細やかな刺繍は深藍しんあいの糸、襟と裾の差し色は鉄灰てっかい色と漆黒だ。すらりと背の高い彼の身体に、落ち着いた色味のころもがよく似合っていた。

 長い髪はざっくりと結い上げ、飾り気のないぎょくかんざししただけだ。が、それでも十分に様になっている。整った容姿の、左目だけは黒の眼帯が覆っていて、けれども白璧の微瑕びかともいうべきそれが、かえって妖艶な魅力をかもしていた。

(やっぱり、浮世離れしてきれいな人だわ……でも)

 これで不機嫌もあらわな表情をしていなければ、きっとうっとりと見惚みとれずにはいられなかっただろう。逆に言えば、隠しもしないしかめっつらが、たぐいまれなる端正な美貌の魅力を――台無しとまではいわずとも――ずいぶんと減退させてしまっていた。

「……あの」

 羽綺は、どかりと椅子いしに腰掛けたままむすっと押し黙っている夫に声をかけた。が、聴こえているはずの蒼瑛は答えない。

(なんていうか、意外と子供っぽいっていうか……同い年か、わたしよりもちょっと年下くらいの年齢だとは思うけれど)

「あの!」

 羽綺はめげずに再び呼びかけた。

 これでもし蒼瑛が人形のような無表情だったら、羽綺とてすこしは躊躇ためらったかもしれない。が、そうではなく、人間らしい感情が顕わなのが、逆に不思議と、羽綺に遠慮の心を起こさせなかった。

「なんだよ」

 蒼瑛は、じろ、と、羽綺を見る。

「えっと、さっきの話の続きですけど……わたしたちが、どうして同衾していたのかっていう……しかも、あなたは、その、えっと、は、裸で……」

 羽綺は戸惑いながらも訥々とつとつと言って、黒曜石の眸で探るようにじっと蒼瑛を見る。羽綺にまじまじと見据えられ、相手は苦虫でも噛んだかのような表情を見せた。

 が、すぐは答えず、またむっつりと黙り込んでいる。

(夫婦になったんだから当然だろうとでも言われたらどうしよう……ほんっとにぜんっぜん覚えてないのに、わたし)

 顔には出さないようにしながらも、はらはらし通しで固唾かたずを飲んで、羽綺は相手のいらえを待った。

「っ、あれは、あんたが……っ!」

 蒼瑛が言いあぐむようにしながらも、ついに口を開きかける。羽綺は、こく、と、喉を鳴らす。

 まさにその瞬間のことだった。
 
「お待たせしましたー、朝餉をお持ちいたしましたよ! ……って、あれ、もしかしてお取り込み中でしたか?」

 扉が勢いよく開いて、膳を抱えた木鈴が戻ってくる。蒼瑛は一瞬そちらを見て、木鈴お前は、と、声をあららげかけたのだったが、すぐに口をつぐみ、ふん、と、そっぽを向いてしまった。

(わたしが何かしたっていうの?)

 羽綺は蒼瑛の言葉の続きが気になって仕方がなかったが、どうもこれ以上、この場では答えてもらえそうにない雰囲気であり。

「殿下、今朝は枸杞くこなつめと干し葡萄ぶどう落花生らっかせいの、栄養たっぷり薬膳やくぜんかゆです。どうぞ」

 言いながら、木鈴は蒼瑛の前に粥の入った椀と匙とを置く。

「奥様も、どうぞ。あ、すぐにお茶も準備いたしますね。それから、殿下は単に寝起きが悪いだけなので、気になさらなくて大丈夫ですから!」

「えっと……そうなの?」

「ええ、そうですとも」

「おい、木鈴。誰の寝起きが悪いって?」

「殿下ですよぉ。奥様が困ってらっしゃいます、殿下」

「っ、知るか!」

 蒼瑛はそう言ったきり、匙を取って、後は黙々と粥を食べている。けれどもふたりの見せる気安い遣り取りに、羽綺は自然と、ふ、と、口許をゆるめていた。

 羽綺も匙を取って椀の中味をすくい、ひとくち食べてみる。やさしい塩味と、干した果物のほんのりとした甘味が、身体にじんわりと沁みるようだ。

「……おいしい」

 ほう、と、感嘆の息とともに言ったときだ。

「お、奥様?」

 お茶を淹れてくれていた木鈴が、急に驚いたような声を上げた。

 蒼瑛もまたこちらを見て、ぎょっとした表情をしている。

「え?」

 ふたりともがまじまじと自分を見ているが、心当たりのない羽綺は、わけがわからずにきょとんとした。

「あんた……なんだよ。なんで泣いてんだ?」

 蒼瑛にそう言われ、それではじめて、羽綺は自分が涙を流していることに気がついた。頬に触れると、たしかに指の腹が濡れるのだ。

「ど、うして……」

 理由なんかわからなくて、途方に暮れたようにつぶやいてみたが、それでも涙は止まらない。

「奥様ぁ」

 木鈴が困ったようにあたふたとしている。

「あたし、ごめんなさい。もしかして、お口に合わなかったですか? 嫌いなものが入ってたとか? 今度から気をつけますから、泣かないでくださいませ」

「ち、ちがうの……! へいきよ。ほんとうに、なんでもないの」

「ですが」

「あの、たぶん、誰かが作ってくれた料理ものを食べるのも、誰かと一緒に食事をするのも、ちょっと、久し振り過ぎて……それで、心が驚いてしまったのかも」

 羽綺はわずかにうつむき、まり悪くそうこぼした。

 楊府にいる間、羽綺は自分の食事は自分で作って、ひとりで静かに食べていた。母が生きていた頃には、誰かが作ってくれたものを母と一緒に食べていた気もするけれど、もはや遠い記憶でしかない。

 食事のときに誰かが傍にいて、他愛ない会話を聴くことが出来る。たったそれだけで、この時間は、こんなにもあたたかく感じられるものなのだろうか。そのぬくもりに、知らず、心がふるえてしまったようだった。

 かつては自分も母と共にしていたのかもしれない、なんでもない、けれども尊い時――……そういうものに、ほんとうは、自分はひどく飢え、乾いていたのかもしれない。

「わたしこそ、ごめんなさい。あなたをびっくりさせてしまって……やさしい味付けで、とってもおいしいわ。ありがとう、木鈴」

 羽綺は、下がり眉の悲しげな表情になっている木鈴に、だいじょうぶだから、と、微笑みかけた。

「ちっ……そんなことで泣くとか、あんたいったい、楊府じっかでどんな生活してきたんだ?」

 蒼瑛が不快げに言い、椀の残りを掻き込むように食べてしまう。空になった椀と匙とを几案つくえに置くと、彼はそのまま、無言で席を立ってしまった。

「あの、旦那様……すみません」

 なにが相手の気に触ったのかはよくわからないが、羽綺はどうやら蒼瑛を苛立たせてしまったらしい。思わず詫びたら、羽綺の傍を擦り抜ける瞬間、蒼瑛は、ちら、と、こちらを一瞥いちべつした。

「は? 謝んな」

 右目だけで一瞬羽綺を見た蒼瑛は、結局、そのままこちらに背を向けて房間へやを出ていってしまった。あたたかだった空間が唐突に冷めてしまった気がして、羽綺は、ふう、と、溜め息をつく。

(もうすこし……旦那様とお話していたかった気がするのに)

 これもまた、羽綺は知らず知らずのうちに誰かとの会話に飢えていた、と、そういうことなのかもしれない。そういえば、作った笑顔、事務的な会話というのでなく、誰かと自然に口をきいたりするのもどれだけぶりだろうか、と、はたはたと静かにまたたきながら、そんなことを思っていた。
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