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第一章 出立
第六話 草原の溜め池
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ステーン山脈を越えたオーケビョルンとマルクスは、草原地帯の上空を飛んでいた。
山脈を越えればあとはなだらかな平原が広がり、徐々に標高を下げて海へと向かう。流れ出した地下水は大地に川となって流れ、大地を潤し、海に注ぐのだ。
そんな川の一つを眼下に見ながら、オーケビョルンは北上していた。
「モア川も、こうして上から見てみるとすごいもんじゃのう」
「バーリ公国でも特に川幅の広い川だからね。南の方に流れるテクラ川ほど流域面積は広くないが、多くの民の生活を支えている」
マルクスも眼下の川を見ながら、その額を押さえていた。
ステーン山脈の北部に位置するディスクゴート平原を割くように流れるモア川は、ゆるやかに流れる川のため川幅が広い。魚の姿も多く、平原に点在する町や村の生活に、大きく関わっている。
食料と飲料水の確保、生活用水、物資の運搬、などなど。だから公国中の大きな町は、大概川に寄り添っているのだ。
「生きるのに水は不可欠じゃからなぁ。山にも泉が湧いておるし」
「ステーン山脈の内側は湧水が豊富だからね。ルーテンバリにも井戸が掘ってある」
話しながら、自分たちの暮らしてきたステーン山脈の内側、スヴェードバリ郡とは異なる風景を楽しむオーケビョルンである。
違う水の採り方、違う生活基盤。こうして見ているだけでも、新鮮だ。
ぐるりと瞳だけを上に向けて、肩の上に乗るマルクスを見やる。
「山脈の外になると、また違うのかの?」
「川から水を引いて溜め池を作っているらしいよ。そこから生活用水を引いていると聞いたかな」
そう言いながらマルクスは、モア川に寄り添うようにして見える、いくつもの池を指さした。
池にしては随分と直線的な縁を持つ、明らかに人工的に作られたとみられる溜め池が、草原に点在するように作られている。そこからまた水路を掘って、草原に広がる畑や牧草地に、水を引いているようだ。
オーケビョルンは感心しながら頷いた。こういう、自然環境に手を加えて生活しやすいように整えるのは、人間の方が何枚も上手だ。
と、オーケビョルンの前脚が前方を指さす。
「おっ、マルクスや。あそこにある池も、溜め池かの?」
「ん……あぁ、そうだね。セーデルリンドの町がこの付近だから、町の溜め池かな」
そこには、他の溜め池とは一線を画す、巨大な池があった。池の傍には塀も見える。そこそこ大きな町が、あそこにはあるようだ。
町があるということは人がいるわけだが、オーケビョルンの目は溜め池の方に釘付けだった。
町に寄り添うように作られた溜め池は、波も経たずに穏やかだ。空と太陽と雲を、まるで鏡のように映しては煌めいている。
その美しさに心が湧きたって、彼は高度を下げ始めながら頭を後方へと向けた。
「ふむ。マルクス、ちょいと降りていいかのう」
「書くかい? ちょっと待って……」
徐々に地面に近づいていくオーケビョルンの上で、マルクスが鞄の中に手を突っ込んでいると。
不意に下方から、風切り音が聞こえてきた。下に顔を向けた途端、オーケビョルンの傍を何本もの矢が通り過ぎていく。
掠めるほどではないが、それでも矢だ。攻撃されていることは明白である。
「んん?」
「わわっ、なんだ!?」
困惑するマルクスを落ち着かせるように視線だけ送ると、下の方から男性の声が聞こえてきた。視線をやれば、鎧兜を身につけた兵士が数人、こちらを睨んで弓を引いている。
「そこで止まれ! ここはセーデルリンドの管理する水源地だ、無許可での降下は認められていない!」
リーダー格らしい人間の兵士の、魔法で増幅された警告の言葉にオーケビョルンが目を見張る。と同時に肩の上で、マルクスが額を押さえていた。
「あちゃー、そうか。町の溜め池は重要な生命線だものなぁ……警備の兵がいるんだった。忘れてた」
「そんな大事なことを忘れるでない……しかし、ふーむ。どうしたものかのう」
迂闊な友人に目を細めながら、オーケビョルンは悩んだ。
このまま降りたら確実に攻撃されるだろう、しかしこんないい風景を見て、詩作をしないのももったいない。そもそもこちらは、偶然通りがかっただけに過ぎない。
鼻息を漏らすオーケビョルンの首を、マルクスが軽く叩いた。
「話してみてくれないか。僕の声じゃ届かない」
「あい分かった」
友人の言葉に頷いて、オーケビョルンは口を開いた。
距離にしておよそ二十五メートル、大声を出せば届くだろうが、それだと町の人も怯えてしまいそうだ。
拡声魔法で声を増幅しながら、眼下の兵士に言葉をかけていく。
「急に邪魔をしてすまなんだ。たまたま付近を飛んでいたら、いい光景の池じゃったから、高度を落として見てみとうなってな。水源を害するつもりはなかったのじゃ」
オーケビョルンの言葉が耳に届いた瞬間、兵士たちが急にざわめき始めた。彼がアッシュナー共通語を喋ったことに驚いたらしい。
「アッシュナー共通語を……竜があんな流暢に……」
「古代竜の可能性もある、兵には弓を降ろすように伝えろ。それと市庁舎への伝令の用意を」
幾人かの兵士たちが驚愕と恐怖を露わにする中、リーダーの兵士は冷静に指示を飛ばす。
エルフ族の兵士が伝令魔法の準備をする横で、背筋を伸ばした兵士が再び上空のオーケビョルンを見た。
「突然弓を射かけたことをまずは謝罪する。こちらはディスクゴート郡第三市街警備隊である。用件については理解した。
ついてはセーデルリンド市庁舎に伝達するため、貴殿のご尊名と、お住まいの場所を伺いたく存じる」
丁寧な口調と態度で、オーケビョルンへと謝罪してくる兵士。その姿を見てオーケビョルンは、何よりも先にまずほっと安堵した。
これで、余計な誤解を受けずに降りることが出来そうだ。優しい声色で、簡潔に自身と友人の住所と名前を告げていく。
「スヴェードバリ郡スヴェドボリ山在住、オーケビョルン・ド・スヴェドボリ。それとスヴェードバリ郡ルーテンバリ村在住、マルクス・ミヨーが共におる」
「「いっっ……!?」」
だが。
オーケビョルンが名前を明らかにした途端、リーダーの兵士が跳び上がった。それだけでない、伝令役らしい兵士も、その周辺にいた他の兵士もだ。
オーケビョルンの名前はそこそこ知られている。マルクスも竜語の研究者として、国内では有名だ。だが知られているにせよ、そこまでだろうか。
目を見張るオーケビョルンに、リーダーの兵士が震えた声で呼びかけてくる。
「し、し、失礼いたしました!! すぐに許可を取って参ります、どうぞお気をつけてご降下ください!! おい、伝令急げ!!」
「は、はいっ!!」
兵士の言葉に、伝令役も急いで伝令魔法を起動している。他の兵士にも矢継ぎ早に指示が飛ばされ、溜め池の周辺は蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。
その場で羽ばたいて静止しながら、ため息を吐くオーケビョルンである。
「なんか、兵士さん達が、慌ただしくなっておるのう……」
「いやぁ、そうだろうねぇ。飛んで来たのがアッシュナー大陸全土でも数少ない古代竜なんだから」
苦笑するマルクスの言葉に、老竜はキョトンとした表情をした。
古代竜。そんな呼ばれ方をしたことなど、今まであっただろうか。
「古代竜? わしが?」
「だって君、基準である六百歳を優に超えているだろう? 今は八百と三十八歳だっけ。立派に古代竜だよ」
「知らんかった……」
笑いながら話す友人に、深い息を吐きながら返すオーケビョルンだ。
竜の中でも特に長い時を生き、深い英知を有するに至ったものは、古代竜と呼称される。あくまでも人間側が定めた区分であって、竜と別種というわけではないのだが。
一般的に竜は六百年を生きると老竜と呼ばれるようになる。その域まで生きる者はそこまで多くないため、基準がそこに定められているのだと、マルクスは言う。
感心するような、困惑するような、複雑な心境でいると、ようやく事態がまとまったらしい。リーダーの兵士がこちらに呼び掛けてくる。
「お、オーケビョルン老、お待たせいたしました! 許可が下りましたので、ご着陸いただけます! こちらへどうぞ!」
「うむ、すまんのう」
返事を返して、ゆっくり降下していく。
兵士たちの誘導を受けてオーケビョルンは、ディスクゴート平原の上に降り立った。
先程から中心になってこちらに呼び掛けていた、人間族の兵士が一歩前に進み出て、オーケビョルンへと敬礼する。
「ようこそ、スヴェドボリ山から遠路はるばるお越しくださいました……御身はかの山の守護に当たっていたかと存じますが、その、本日はどのような……」
細かに震えながら挨拶をしてくる兵士に小さく笑いながら、オーケビョルンはその頭を地に伏せながら言った。
「なに、羽を伸ばしに来たんじゃよ。数百年山に篭もっとったから、退屈でのう」
「彼は文筆家だからね、あんまり長いこと山に篭もってたから、新しい作品のイメージに飢えているらしくて。久しぶりに外に出つつ、作品を書いて回ってるんだ」
彼の背中から降りたマルクスも、にこやかに笑いながら話す。その言葉を受けて、兵士がひきつった笑顔を見せた。
「な、なるほど……! ということは、この溜め池をご覧になられて、何かアイデアが浮かばれて、お降りに?」
「うむ。ついては、詩歌を刻むために石板か、岩があるといいんじゃが……」
話しながら周囲に視線を投げるオーケビョルンだ。
草原の只中、岩や崖は付近には見えない。溜め池の壁は岩で組まれているが、その岩に詩を刻むわけにもいかない。そこから水が漏れたら一大事だ。
老竜の言葉に、一層びしっと背筋を伸ばした兵士が声を張った。
「か、か、かしこまりました、すぐに見繕ってまいります! おい、お前らも来い!」
「「はいっ!!」」
そう言うや、兵士が数人、セーデルリンドの塀の中へと駆けていく。きっと、石材屋に石板を調達しに向かったのだろう。
その背中を見送ったオーケビョルンは、再び溜め池の方に目を向けた。池と、その周辺の草原に目を光らせるためにいるだろう兵士たちが、ちらちらとこちらを見てくる。
なんとも、居心地が悪い。彼は身を起こして、ばさりと両の翼を動かした。
「さて、待つ間に考えるとするか」
「そうだね、また上がるかい?」
「うむ」
そう言うや、彼はふわりと空に戻っていく。マルクスを残して再び舞い上がったことに兵士たちがざわめくが、それは友人に任せればいいだろう。
三十メートルの高さまで浮かび上がり、オーケビョルンは再び溜め池を見下ろした。
「ふーむ。こうしてみると鏡のようじゃな。『大地の只中に浮かぶ鏡、陽光と雲を映しては煌めく』……うむ。となると……」
いつものようにぶつぶつと独り言を零して思案しながら、彼は詩作に耽る。
こういう風景は、自分だからこそ見れるものだし、詩の形に出来るものだ。妥協は出来ない。
やがて一時間もしただろうか。再び高度を下げて草原の草を踏むオーケビョルンに、本を読んでいたマルクスが声をかける。
「おや、出来たかい?」
「うむ、だいぶ具合がよくまとまった……先の兵士さん達は、まだ戻らんか?」
出迎える友人に声をかけつつ、オーケビョルンが見るのはセーデルリンドの町の入り口がある門の方だ。中に入っていった兵士たちの姿は、まだ見えない。
「そうだね、まだ……あ、来た来た」
一緒になってそちらを見るマルクスが声を上げる。見れば、巨大な石板を括りつけた荷車を、兵士と石材屋が一緒になって運んできていた。
兵士の数が、中に駆け戻っていった人数よりも明らかに多い。休憩中の兵士も連れて運んできたらしい。
「ふぅ、はぁ……お、お待たせいたしました、オーケビョルン老……!」
「こちら、ご所望の、石板でござい、ます……!」
「お、おうおう、ありがとう。重かったじゃろ、こんな大きなもの」
ぜーぜーと荒い息を吐きながら話すリーダーの兵士に、思わず上ずった声で労うオーケビョルンだ。その言葉に笑みを返す兵士だが、顔には脂汗が光っている。
「いえ、いい訓練になりました……! 人手は必要といたしましたが……」
「ディスクゴート郡自慢の青灰石でございます。きっと、お眼鏡にかなうかと……」
後方から荷車を押していたらしい、石材屋主人のオーク男性が、これまた脂汗でびっしょりになりながらオーケビョルンの前に立つ。
運ばれてきた分厚い石板を見やり、満足げに老竜はうなずいた。
「……ふむ、なるほど。この溜め池の水面の印象にも合うのう。したらば、そうじゃな。あそこ……溜め池の塀がある、あの辺りに据えようか」
「畏まりました!」
「お運びいたします、しばしお待ちください!」
彼の言葉に湧きたつ兵士たちと石材屋。すぐさま彼の指定した場所まで荷車を押していく。
地面の下草を刈り取り、均し、石板を降ろし、石を積んで固定する。その一連の作業を見つつ、出来上がった詩の推敲をマルクスとするオーケビョルンが、尻尾をゆらゆらと動かした。
「人工の石じゃと、据えるのに手間がかかるから大変じゃのう」
「自然の石のようにはいかないからね、支えもいる。仕方がないさ」
マルクスも手元の手帳に詩を書き留めながら、作業の様子を見守っていた。
推敲が終わって程なく、石板の設置作業が終わった兵士たちが、一人と一頭に駆け寄ってくる。
「お待たせいたしました、どうぞ!」
「うむ」
兵士の言葉に頷いたオーケビョルンが、のっしのっしと草を踏んで石板の前に立った。前足を持ち上げて爪文字を彫る。ディスクゴート産の青灰石は、スヴェドボリ山で採れる花崗岩よりも微妙に柔らかく、彫りやすい。
やがて、彼の詩の最後の一文字が、石板にしっかりと刻まれた。
「よし、あとは名を刻んで……と。こんなもんじゃろ」
「「おぉ~!!」」
出来上がった詩碑に、歓声と拍手が上がる。満足そうに笑いながら、一つ咳払いをするオーケビョルンだ。
「では、朗読しようか」
「「えっ!?」」
「あぁ、いいよそのままで。是非聞いて行ってくれ」
まさか詩の朗読までとは思わなかったらしい兵士たちが、再び跳び上がる。
しかし爪文字のままでは、彼らには何が書いてあるかは分からない。この街の石工に訳文を刻んでもらうためにも、朗読は必要だ。
マルクスが兵士たちを落ち着かせるのを待って、オーケビョルンが朗々と声を響かせる。
――大地の只中に浮かぶ鏡、陽光と雲を映しては煌めく。
その鏡が映すは空の青、水の青と交わっては揺らめき混ざる。
その鏡に立つ波は白、雲の白と交わっては揺らめき過ぎる。
広大なる水の恵み、その美しさは鳥と竜だけが知っている。――
「こんなもんじゃな」
「「おぉぉぉぉ!!」」
朗読が終わるや否や、大歓声が巻き起こった。
竜の文筆家、オーケビョルン・ド・スヴェドボリの執筆を目の前で見るどころか、作品の朗読まで聞けたのである。もしこの兵士たちの中に彼のファンがいたなら、一生自慢できる経験として話しただろう。
「すごい……オーケビョルン・ド・スヴェドボリの詩を、ご自身の朗読で聞けるなんて……」
「俺、警備隊員でよかったと初めて思いました……」
「私も、まさかこんな幸運に恵まれるとは……この青灰石を仕入れておいてよかった……」
事実、感動のあまりに泣きだす兵士がいる始末である。
喜ばれ、騒がれ、挙句泣かれ、オーケビョルンは困惑した。そこまで自己評価が高くない彼としては、ここまで喜ばれると逆に困る様子で。
「よ、よさんか。わしをそこまで持ち上げても、何も出んと言うに」
「いいじゃないか、そうやって名前を売っていけば、君の作品はもっと知れ渡るんだから」
目尻を下げながら兵士たちと石材屋に声をかけるオーケビョルンに、マルクスは他人事のように話しかける。
その後、詩碑が設置されたことを知ったセーデルリンドの市長がやってきては大いに喜び、オーケビョルンとマルクスを巻き込んで詩碑設置の一大セレモニーが開かれることになった。
まさかこんな大ごとになるとは思わず、オーケビョルンはげっそりした表情をしていたという。
山脈を越えればあとはなだらかな平原が広がり、徐々に標高を下げて海へと向かう。流れ出した地下水は大地に川となって流れ、大地を潤し、海に注ぐのだ。
そんな川の一つを眼下に見ながら、オーケビョルンは北上していた。
「モア川も、こうして上から見てみるとすごいもんじゃのう」
「バーリ公国でも特に川幅の広い川だからね。南の方に流れるテクラ川ほど流域面積は広くないが、多くの民の生活を支えている」
マルクスも眼下の川を見ながら、その額を押さえていた。
ステーン山脈の北部に位置するディスクゴート平原を割くように流れるモア川は、ゆるやかに流れる川のため川幅が広い。魚の姿も多く、平原に点在する町や村の生活に、大きく関わっている。
食料と飲料水の確保、生活用水、物資の運搬、などなど。だから公国中の大きな町は、大概川に寄り添っているのだ。
「生きるのに水は不可欠じゃからなぁ。山にも泉が湧いておるし」
「ステーン山脈の内側は湧水が豊富だからね。ルーテンバリにも井戸が掘ってある」
話しながら、自分たちの暮らしてきたステーン山脈の内側、スヴェードバリ郡とは異なる風景を楽しむオーケビョルンである。
違う水の採り方、違う生活基盤。こうして見ているだけでも、新鮮だ。
ぐるりと瞳だけを上に向けて、肩の上に乗るマルクスを見やる。
「山脈の外になると、また違うのかの?」
「川から水を引いて溜め池を作っているらしいよ。そこから生活用水を引いていると聞いたかな」
そう言いながらマルクスは、モア川に寄り添うようにして見える、いくつもの池を指さした。
池にしては随分と直線的な縁を持つ、明らかに人工的に作られたとみられる溜め池が、草原に点在するように作られている。そこからまた水路を掘って、草原に広がる畑や牧草地に、水を引いているようだ。
オーケビョルンは感心しながら頷いた。こういう、自然環境に手を加えて生活しやすいように整えるのは、人間の方が何枚も上手だ。
と、オーケビョルンの前脚が前方を指さす。
「おっ、マルクスや。あそこにある池も、溜め池かの?」
「ん……あぁ、そうだね。セーデルリンドの町がこの付近だから、町の溜め池かな」
そこには、他の溜め池とは一線を画す、巨大な池があった。池の傍には塀も見える。そこそこ大きな町が、あそこにはあるようだ。
町があるということは人がいるわけだが、オーケビョルンの目は溜め池の方に釘付けだった。
町に寄り添うように作られた溜め池は、波も経たずに穏やかだ。空と太陽と雲を、まるで鏡のように映しては煌めいている。
その美しさに心が湧きたって、彼は高度を下げ始めながら頭を後方へと向けた。
「ふむ。マルクス、ちょいと降りていいかのう」
「書くかい? ちょっと待って……」
徐々に地面に近づいていくオーケビョルンの上で、マルクスが鞄の中に手を突っ込んでいると。
不意に下方から、風切り音が聞こえてきた。下に顔を向けた途端、オーケビョルンの傍を何本もの矢が通り過ぎていく。
掠めるほどではないが、それでも矢だ。攻撃されていることは明白である。
「んん?」
「わわっ、なんだ!?」
困惑するマルクスを落ち着かせるように視線だけ送ると、下の方から男性の声が聞こえてきた。視線をやれば、鎧兜を身につけた兵士が数人、こちらを睨んで弓を引いている。
「そこで止まれ! ここはセーデルリンドの管理する水源地だ、無許可での降下は認められていない!」
リーダー格らしい人間の兵士の、魔法で増幅された警告の言葉にオーケビョルンが目を見張る。と同時に肩の上で、マルクスが額を押さえていた。
「あちゃー、そうか。町の溜め池は重要な生命線だものなぁ……警備の兵がいるんだった。忘れてた」
「そんな大事なことを忘れるでない……しかし、ふーむ。どうしたものかのう」
迂闊な友人に目を細めながら、オーケビョルンは悩んだ。
このまま降りたら確実に攻撃されるだろう、しかしこんないい風景を見て、詩作をしないのももったいない。そもそもこちらは、偶然通りがかっただけに過ぎない。
鼻息を漏らすオーケビョルンの首を、マルクスが軽く叩いた。
「話してみてくれないか。僕の声じゃ届かない」
「あい分かった」
友人の言葉に頷いて、オーケビョルンは口を開いた。
距離にしておよそ二十五メートル、大声を出せば届くだろうが、それだと町の人も怯えてしまいそうだ。
拡声魔法で声を増幅しながら、眼下の兵士に言葉をかけていく。
「急に邪魔をしてすまなんだ。たまたま付近を飛んでいたら、いい光景の池じゃったから、高度を落として見てみとうなってな。水源を害するつもりはなかったのじゃ」
オーケビョルンの言葉が耳に届いた瞬間、兵士たちが急にざわめき始めた。彼がアッシュナー共通語を喋ったことに驚いたらしい。
「アッシュナー共通語を……竜があんな流暢に……」
「古代竜の可能性もある、兵には弓を降ろすように伝えろ。それと市庁舎への伝令の用意を」
幾人かの兵士たちが驚愕と恐怖を露わにする中、リーダーの兵士は冷静に指示を飛ばす。
エルフ族の兵士が伝令魔法の準備をする横で、背筋を伸ばした兵士が再び上空のオーケビョルンを見た。
「突然弓を射かけたことをまずは謝罪する。こちらはディスクゴート郡第三市街警備隊である。用件については理解した。
ついてはセーデルリンド市庁舎に伝達するため、貴殿のご尊名と、お住まいの場所を伺いたく存じる」
丁寧な口調と態度で、オーケビョルンへと謝罪してくる兵士。その姿を見てオーケビョルンは、何よりも先にまずほっと安堵した。
これで、余計な誤解を受けずに降りることが出来そうだ。優しい声色で、簡潔に自身と友人の住所と名前を告げていく。
「スヴェードバリ郡スヴェドボリ山在住、オーケビョルン・ド・スヴェドボリ。それとスヴェードバリ郡ルーテンバリ村在住、マルクス・ミヨーが共におる」
「「いっっ……!?」」
だが。
オーケビョルンが名前を明らかにした途端、リーダーの兵士が跳び上がった。それだけでない、伝令役らしい兵士も、その周辺にいた他の兵士もだ。
オーケビョルンの名前はそこそこ知られている。マルクスも竜語の研究者として、国内では有名だ。だが知られているにせよ、そこまでだろうか。
目を見張るオーケビョルンに、リーダーの兵士が震えた声で呼びかけてくる。
「し、し、失礼いたしました!! すぐに許可を取って参ります、どうぞお気をつけてご降下ください!! おい、伝令急げ!!」
「は、はいっ!!」
兵士の言葉に、伝令役も急いで伝令魔法を起動している。他の兵士にも矢継ぎ早に指示が飛ばされ、溜め池の周辺は蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。
その場で羽ばたいて静止しながら、ため息を吐くオーケビョルンである。
「なんか、兵士さん達が、慌ただしくなっておるのう……」
「いやぁ、そうだろうねぇ。飛んで来たのがアッシュナー大陸全土でも数少ない古代竜なんだから」
苦笑するマルクスの言葉に、老竜はキョトンとした表情をした。
古代竜。そんな呼ばれ方をしたことなど、今まであっただろうか。
「古代竜? わしが?」
「だって君、基準である六百歳を優に超えているだろう? 今は八百と三十八歳だっけ。立派に古代竜だよ」
「知らんかった……」
笑いながら話す友人に、深い息を吐きながら返すオーケビョルンだ。
竜の中でも特に長い時を生き、深い英知を有するに至ったものは、古代竜と呼称される。あくまでも人間側が定めた区分であって、竜と別種というわけではないのだが。
一般的に竜は六百年を生きると老竜と呼ばれるようになる。その域まで生きる者はそこまで多くないため、基準がそこに定められているのだと、マルクスは言う。
感心するような、困惑するような、複雑な心境でいると、ようやく事態がまとまったらしい。リーダーの兵士がこちらに呼び掛けてくる。
「お、オーケビョルン老、お待たせいたしました! 許可が下りましたので、ご着陸いただけます! こちらへどうぞ!」
「うむ、すまんのう」
返事を返して、ゆっくり降下していく。
兵士たちの誘導を受けてオーケビョルンは、ディスクゴート平原の上に降り立った。
先程から中心になってこちらに呼び掛けていた、人間族の兵士が一歩前に進み出て、オーケビョルンへと敬礼する。
「ようこそ、スヴェドボリ山から遠路はるばるお越しくださいました……御身はかの山の守護に当たっていたかと存じますが、その、本日はどのような……」
細かに震えながら挨拶をしてくる兵士に小さく笑いながら、オーケビョルンはその頭を地に伏せながら言った。
「なに、羽を伸ばしに来たんじゃよ。数百年山に篭もっとったから、退屈でのう」
「彼は文筆家だからね、あんまり長いこと山に篭もってたから、新しい作品のイメージに飢えているらしくて。久しぶりに外に出つつ、作品を書いて回ってるんだ」
彼の背中から降りたマルクスも、にこやかに笑いながら話す。その言葉を受けて、兵士がひきつった笑顔を見せた。
「な、なるほど……! ということは、この溜め池をご覧になられて、何かアイデアが浮かばれて、お降りに?」
「うむ。ついては、詩歌を刻むために石板か、岩があるといいんじゃが……」
話しながら周囲に視線を投げるオーケビョルンだ。
草原の只中、岩や崖は付近には見えない。溜め池の壁は岩で組まれているが、その岩に詩を刻むわけにもいかない。そこから水が漏れたら一大事だ。
老竜の言葉に、一層びしっと背筋を伸ばした兵士が声を張った。
「か、か、かしこまりました、すぐに見繕ってまいります! おい、お前らも来い!」
「「はいっ!!」」
そう言うや、兵士が数人、セーデルリンドの塀の中へと駆けていく。きっと、石材屋に石板を調達しに向かったのだろう。
その背中を見送ったオーケビョルンは、再び溜め池の方に目を向けた。池と、その周辺の草原に目を光らせるためにいるだろう兵士たちが、ちらちらとこちらを見てくる。
なんとも、居心地が悪い。彼は身を起こして、ばさりと両の翼を動かした。
「さて、待つ間に考えるとするか」
「そうだね、また上がるかい?」
「うむ」
そう言うや、彼はふわりと空に戻っていく。マルクスを残して再び舞い上がったことに兵士たちがざわめくが、それは友人に任せればいいだろう。
三十メートルの高さまで浮かび上がり、オーケビョルンは再び溜め池を見下ろした。
「ふーむ。こうしてみると鏡のようじゃな。『大地の只中に浮かぶ鏡、陽光と雲を映しては煌めく』……うむ。となると……」
いつものようにぶつぶつと独り言を零して思案しながら、彼は詩作に耽る。
こういう風景は、自分だからこそ見れるものだし、詩の形に出来るものだ。妥協は出来ない。
やがて一時間もしただろうか。再び高度を下げて草原の草を踏むオーケビョルンに、本を読んでいたマルクスが声をかける。
「おや、出来たかい?」
「うむ、だいぶ具合がよくまとまった……先の兵士さん達は、まだ戻らんか?」
出迎える友人に声をかけつつ、オーケビョルンが見るのはセーデルリンドの町の入り口がある門の方だ。中に入っていった兵士たちの姿は、まだ見えない。
「そうだね、まだ……あ、来た来た」
一緒になってそちらを見るマルクスが声を上げる。見れば、巨大な石板を括りつけた荷車を、兵士と石材屋が一緒になって運んできていた。
兵士の数が、中に駆け戻っていった人数よりも明らかに多い。休憩中の兵士も連れて運んできたらしい。
「ふぅ、はぁ……お、お待たせいたしました、オーケビョルン老……!」
「こちら、ご所望の、石板でござい、ます……!」
「お、おうおう、ありがとう。重かったじゃろ、こんな大きなもの」
ぜーぜーと荒い息を吐きながら話すリーダーの兵士に、思わず上ずった声で労うオーケビョルンだ。その言葉に笑みを返す兵士だが、顔には脂汗が光っている。
「いえ、いい訓練になりました……! 人手は必要といたしましたが……」
「ディスクゴート郡自慢の青灰石でございます。きっと、お眼鏡にかなうかと……」
後方から荷車を押していたらしい、石材屋主人のオーク男性が、これまた脂汗でびっしょりになりながらオーケビョルンの前に立つ。
運ばれてきた分厚い石板を見やり、満足げに老竜はうなずいた。
「……ふむ、なるほど。この溜め池の水面の印象にも合うのう。したらば、そうじゃな。あそこ……溜め池の塀がある、あの辺りに据えようか」
「畏まりました!」
「お運びいたします、しばしお待ちください!」
彼の言葉に湧きたつ兵士たちと石材屋。すぐさま彼の指定した場所まで荷車を押していく。
地面の下草を刈り取り、均し、石板を降ろし、石を積んで固定する。その一連の作業を見つつ、出来上がった詩の推敲をマルクスとするオーケビョルンが、尻尾をゆらゆらと動かした。
「人工の石じゃと、据えるのに手間がかかるから大変じゃのう」
「自然の石のようにはいかないからね、支えもいる。仕方がないさ」
マルクスも手元の手帳に詩を書き留めながら、作業の様子を見守っていた。
推敲が終わって程なく、石板の設置作業が終わった兵士たちが、一人と一頭に駆け寄ってくる。
「お待たせいたしました、どうぞ!」
「うむ」
兵士の言葉に頷いたオーケビョルンが、のっしのっしと草を踏んで石板の前に立った。前足を持ち上げて爪文字を彫る。ディスクゴート産の青灰石は、スヴェドボリ山で採れる花崗岩よりも微妙に柔らかく、彫りやすい。
やがて、彼の詩の最後の一文字が、石板にしっかりと刻まれた。
「よし、あとは名を刻んで……と。こんなもんじゃろ」
「「おぉ~!!」」
出来上がった詩碑に、歓声と拍手が上がる。満足そうに笑いながら、一つ咳払いをするオーケビョルンだ。
「では、朗読しようか」
「「えっ!?」」
「あぁ、いいよそのままで。是非聞いて行ってくれ」
まさか詩の朗読までとは思わなかったらしい兵士たちが、再び跳び上がる。
しかし爪文字のままでは、彼らには何が書いてあるかは分からない。この街の石工に訳文を刻んでもらうためにも、朗読は必要だ。
マルクスが兵士たちを落ち着かせるのを待って、オーケビョルンが朗々と声を響かせる。
――大地の只中に浮かぶ鏡、陽光と雲を映しては煌めく。
その鏡が映すは空の青、水の青と交わっては揺らめき混ざる。
その鏡に立つ波は白、雲の白と交わっては揺らめき過ぎる。
広大なる水の恵み、その美しさは鳥と竜だけが知っている。――
「こんなもんじゃな」
「「おぉぉぉぉ!!」」
朗読が終わるや否や、大歓声が巻き起こった。
竜の文筆家、オーケビョルン・ド・スヴェドボリの執筆を目の前で見るどころか、作品の朗読まで聞けたのである。もしこの兵士たちの中に彼のファンがいたなら、一生自慢できる経験として話しただろう。
「すごい……オーケビョルン・ド・スヴェドボリの詩を、ご自身の朗読で聞けるなんて……」
「俺、警備隊員でよかったと初めて思いました……」
「私も、まさかこんな幸運に恵まれるとは……この青灰石を仕入れておいてよかった……」
事実、感動のあまりに泣きだす兵士がいる始末である。
喜ばれ、騒がれ、挙句泣かれ、オーケビョルンは困惑した。そこまで自己評価が高くない彼としては、ここまで喜ばれると逆に困る様子で。
「よ、よさんか。わしをそこまで持ち上げても、何も出んと言うに」
「いいじゃないか、そうやって名前を売っていけば、君の作品はもっと知れ渡るんだから」
目尻を下げながら兵士たちと石材屋に声をかけるオーケビョルンに、マルクスは他人事のように話しかける。
その後、詩碑が設置されたことを知ったセーデルリンドの市長がやってきては大いに喜び、オーケビョルンとマルクスを巻き込んで詩碑設置の一大セレモニーが開かれることになった。
まさかこんな大ごとになるとは思わず、オーケビョルンはげっそりした表情をしていたという。
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