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第五章 桃園の謀

やかましい山登り

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 山には、一応山道は存在していた。
 急斜面という訳でもない。

 木々は少なく、隆起する寒々しい灰色の巨石が目立つ。
 山野を駆け巡った旬果からすれば、それほど困難な訳ではない。
 携帯が許されたのは瓢箪《ひょうたん》一本分の水と、八重《やえ》の海棠《かいどう》を入れるための小さな木箱。

 旬果は、一番先頭を進みながら振り返る。
 まだ序盤とあって、劉麗や慧星はけろりとした顔をして、お互い話す余裕まである。
 一番心配なのは、最後尾の洪周のことだ。

 彼女は出発の間際、私も参りますと瑛景に申し立てたのだ。
 旬果が振り返っていることに気付き、劉麗たちも背後を進んでいる洪周を見る。

 劉麗が、黒髪をかき上げる。
「ふん。あんな娘、放っておきなさい」
 慧星が頷く。
「そうですわよ。あんな子に優しくしても意味はありませんもの。あなた、裏切られたことをもう、忘れましたの?」

 旬果は構わずに言う。
「あなたたちはお先にどうぞ。私は洪周様をお待ちします」
 劉麗は鼻で笑う。
「お優しいのね」

 慧星も追従(ついじゅう)した。
「全く……。浅ましい女官の格好までしたというに、もう勝負をお捨てになるなんて。ホホホ」
 旬果が務めて無視すれば、
「参りましょう」
「ええ、劉麗様。そういたしましょう」
 と、二人は歩いて行く。
 
 旬果は返答がないことを承知の上で、洪周に呼びかける。
「体調が悪いのに山を登ろうなんて無謀よ。どうせそんな調子じゃ、一番に海棠を持って帰るのは無理よ」
 しかし洪周は、旬果の横を通り過ぎていった。
(意地っ張り!)
 旬果は洪周のあとに続き、彼女の歩みに合わせて山道を進んだ。

                        ※※※※※

 今日は、嫌がらせのようによく晴れている。
 海棠園では木々が庇《ひさし》になってくれたから気付かなかったが、山道では直接日射しが当たって、容赦なく体力を損耗させる。

 旬果は額ににじんだ汗を手巾でぬぐい、瓢箪(ひょうたん)の水を呷った。
 すでに水は温くなっているが、乾いた身体には気持ちいいほどに染みこんでくれる。
(あの二人、どこまで行ったんだろ)
 まだ半刻ほどしか歩いていないが、洪周の歩みはかなり遅かった。
 時々足がもつれて転びそうになる。

 見かねた旬果が後ろから「少し休めば?」と声をかけても、まるで声なんて聞こえていないかのように黙々と歩き続ける。
(大した意地ね、ここまで来ると)
 しかししばらく進むと、洪周は小石に躓《つまず》いて転んでしまう。
 そして四つん這いの格好のまま肩で大きく息をして、なかなか立ち上がろうとしなかった。

 旬果が手を貸そうとするが、その手は払われてしまう。
 旬果は、我慢出来ずに言う。
「ねえ、どこまで意地を張るつもり。もう良い加減、頼ったら? 別にそれで恩を着せようなんて思わないからっ」
 それでも洪周は自力で立とうとするが、まるで生まれたての子鹿のように手足が震え、うまく立てない。もう体力が限界に来ているのだ。
 旬果は無理矢理、洪周の腕を掴み、引っ張り上げた。

 洪周は今にも泣き出しそうな潤んだ目で、旬果を睨んだ。
「……あなた、後悔するわよ」
 旬果は洪周の言葉を聞き流す。
「ひとまず休憩しましょう」
 旬果は無理矢理、近くの岩に洪周を座らせる。
 洪周はかすかに抗うが、無視した。そもそも大した力なんて、残されていないのだ。

 洪周は水を飲もうと瓢箪の栓を抜こうとするが、手汗で滑って落とした瓢箪が、足下を転がってしまう。
 旬果は瓢箪を拾い上げると、栓を抜いて渡す。
 洪周は受け取ろうとして、はっとして手を引っ込めてしまう。

「意地で死ぬつもりっ!」
 旬果は本気で苛立って、洪周に無理矢理瓢箪を握らせ、水を飲ませた。
 かすかに口の端から水の筋がこぼれ、顎《あご》から雫となって落ちる。
 洪周の細い喉が小さく揺れた。

 しばらくすれば、洪周がようやく罵詈雑言以外の言葉を口にしてくれる。
「……今頃、劉麗たちが海棠を手に入れてるんじゃないの?」
 旬果は肩をすくめた。
「それは無理じゃないかな」

 洪周は口元をかすかに緩める。
「随分と余裕なのね」
「そうじゃなくって、どんどん山道が急になってるでしょう。そんな色々飾り付けのされてる服じゃ、無駄に体力を消耗するだけ」
「……そう」
「洪周。早く下山したほうが良いわ。これ以上、歩くなんて無理よ」
「皇后の座は諦められないの」
「前は、どうせ劉麗が皇后になるって言ってなかった?」
 それには答えないまま、洪周は立ち上がった。

 小さく息をつき、旬果も立ち上がった。
 再び洪周の背中を見ながら、旬果は瑛景への怒りを滾らせていた。
 瑛景の酔いの勢いに任せた戯れ言が、こうも人々を駆り立てている。

 それは皇帝の権力の凄さであり、恐ろしさでもある。
(山を下りたら、絶対に一言言ってやるんだからっ!)
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