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第四章 緋色(ひいろ)の記憶

母のこと

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「旬果様っ」
 揺さぶられ、旬果は重たい瞼《まぶた》を持ち上げた。
 泰風が旬果を抱きしめ、顔を覗き込んでいた。
 
 旬果は泰風に微笑みかけた。
 頭の中には、燃えさかる離宮から救い出してくれた彼の精悍な表情が、くっきりと残っている。
「来てくれたんだ」
「もちろんでございます」
「女官たちは……?」
「目を盗んで、抜けて参りました」
「そう……。――泰風、あなたを見たわ。あなたが燃えているこの離宮から、私を助けてくれた。初めてあなたの獣人姿を見たけど、すごく綺麗で、格好良かった」
 旬果は泰風の右頬に手を添え、自分を見る。
「泰風。あなたは、私が火事に巻き込まれたことを覚えていた。でしょう? 本当に何も知らなかったら、私がここにいるって可能性は考えないと思うわ。だって門は閉鎖されていたんだから。……でも泰風は、私がここにいるって分かったのね」
「旬果様……」
「来てくれて嬉しかった。今も、あの時も……」
 泰風は笑みを見せた。
「ひとまず白鹿殿に戻りましょう」
「ええ」
 旬果は泰風にしがみついた。

                         ※※※※※

 私室に戻った旬果は、泰風と二人きりになった。

 向かいに座っていた泰風は、そっと切り出す。
「――旬果様が火事のあったあの建物……至礼宮に、お一人でいらっしゃったということは、まず間違いありません」
「私はあの離宮に住んでいたの?」
「いいえ。あれは後宮にある離宮の一つに過ぎません。旬果様と、お母上であらせられる法那《ほうな》様とお住まいになられていたのは、後宮の西側にある雲蒼宮です。どうして、あそこに旬果様が、一人きりでいらっしゃったの
かは分かりません。普段は必ず、女官や宦官がついているはずですので」

 旬果はある可能性を抱いた。それは怖ろしい可能性だ。
「……私が火を付けたということは?」
 しかしそれは泰風によって呆気なく、否定される。
「ご安心ください。火の元の類いは、厳重に管理されております」
「ということは、自然に?」
「火の燃え具合からして、自然発火は考えにくいのです。そしてその場に旬果様がいらっしゃったことは、決して偶然ではない……」
「放火は放火なのね。犯人は?」
「分かっておりません。しかしながら陛下の、旬果様や法那様に対する寵愛に反発する向きが当時の宮廷にあったことは確かで御座います。旬果様の英邁さを瑛景様と比べて、女官たちが戯れに、旬果様に位を譲られるのではないかという噂もあったくらいですから」
「菜鈴から教えて貰ったけど、私は死んだ事になってるのよね……?」
 泰風は頷く。
「陛下は、あの火事で旬果様を死んだ事にして、狙われることを防ぐおつもりだったのです。旬果様が亡くなられ、それによって法那様が寵愛を失われたとなれば、手出しはされないと。結果、法那様は生家に戻られるよう言われたのです」
「……犯人は皇太后陛下じゃないの? 母上が寵愛を受けて困るのは、皇太后陛下しかいないわよね? 本当に私が皇帝になるなんてことがあったら……」
 泰風は首を横に振った。
「その噂は所詮、ただの戯れに過ぎません。そもそも古代王朝で女帝が即位した際、国が大きく乱れたとの先例があり、女帝というのは不吉と言われております」
「確かに、ね……」

 玄白からもらった史書にも、確かにそんな記述があった。
 今より千年前。女帝が淫奢《いんしゃ》に耽《ふけ》り、民草は飢え、主人が従者を、従者が主人を、父母が子を殺し、子が父母を殺し、国の規律は乱れ、最期に魁夷の到来によって国は亡《ほろ》んだ、と。

 泰風は言う。
「ですから、たとえ旬果様がどんなに優秀であれ、皇太后陛下はお世継ぎの母君であることは変わらないのです。危険を冒す理由はございません。考えられるのは皇太后陛下の身辺の者が、皇太后陛下の胸中を忖度したか……。しかし陛下は、この件の真実を究明することは叶いませんでした……」
「……父上のお力が弱かったからね」
「左様で御座います」

 劉皇太后は大貴族の出身。確かな証拠がないまま糾弾してしまえば、瑛景が言っていたように自分の地位を危うくするだけだ。

 泰風は旬果の足下にひざまずく。旬果を見据えるその眼差しは強い。旬果は、それをとても頼もしく感じた。
「――私は陛下に、旬果様に同道させて頂きたいと申し上げましたが、それは許されませんでした。いつか旬果様が再び宮廷に戻る機会が来る。それまで待て、と……。いつか再会出来る事を信じ、今日まで日々の研鑽に励んで参ったのです……」
 都には不穏なものばかりではない。

 泰風という何よりも心強い味方がいてくれるのだ。
 そう思うと何も怖くない――本心からそう思えた。
「……ありがとう。泰風のお陰で、私はすごく救われてる」
「旬果様……」
 その時、咳払いが聞こえ、旬果たちははっとしてそちらを見る。
 菜鈴がいた。

 旬果たちは、はっとして距離を取った。いつの間にか、かなり近距離になっていたことに気付いたのだ。
 菜鈴は旬果たちのことを、じろじろと見ながら言う。
「陛下よりの遣いが参りましてございます」
 旬果は眉を顰めた。
「陛下から?」
 もうすでに日は暮れてしまっている。

 菜鈴が聞いてくる。
「どうなさいますか?」
「も、もちろん行くわ」
「かしこまりました」
 菜鈴が部屋を出て行くのを見届けると、旬果は泰風に笑いかけ、私室を出た。
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