25 / 31
第五章(3)
しおりを挟む
由季が目を開けると体に少しの重みを感じた。
ぼやけた視界が焦点を結ぶと、鼓動が跳ねる。すぐそこに彰の寝顔があったのだ。
――彰……。
胸が温かくなり、嬉しさで目元が熱くなった。
――まるで私の心を読んでくれたみたい……。
心が擦り切れそうになった時、彰にそばにいて欲しいと思った。でも忙しい彼を、自分の事情で呼びつけることなんてできるはずもない。
顔を寄せると、香水にまじり、彰の匂いがした。ささくれた心が撫でつけられ、彼の無防備な寝顔から目が離せない。
前髪が目にかかって邪魔そうだった。由季は指先でそっと前髪をどかしてやる。
と、彰の瞼が震えたかと思えば、目を開ける。
「あ、ごめん。起こしちゃった……」
「……平気だ」
彰は気怠げな声を漏らした。
「今、何時……?」
「深夜の三時」
「そっか。気分は、良さそうだな。さっきより血色が良い」
彰の大きな手が、由季の手を握っていることに気付く。ずっと手を握ってくれていたのだろう。手の平がうっすら汗ばんでいた。
彰を離そうとするが、由季は手を握り、引き留めた。
「お願い、このままで……」
分かったと返事をする代わりに、包み込む手に力がこもった。
今なら何でも話せそうな気がした。
「私……家を出ようとしたの」
「引っ越しってわけじゃないよな」
「……父親に、私がここに住んでるってばれたから……」
「オヤジさんに?」
「荷物をまとめて逃げなきゃって。でも、彰の顔が浮かんで、できなくって……、また、あなたに一言も告げずにいなくなるなんて嫌だって。それでどうしたら良いのか分からなくなってるうちに、気分が悪くなって」
「もしかして、あの封筒か? 中身を見ても?」
由季が頷くと、彰は片手はしっかりと繋いだまま、封筒の中身をテーブルに出す。封筒とケータイが出てくる。
【由季、ようやく見つけたぞ。あの女はともかく、お前までどうしてパパから逃げるんだ? パパは今、すごく困ってるんだ。でもお前とならやり直せる。もう逃げるなよ。今度逃げられたら、パパは次は何をするか分からないからな。携帯を同封するから、連絡があったらすぐに出なさい】
「なんだよ、これ……」
普段聞いたことがないほど、低く感情のない声で彰は呟くと、封筒を便箋ごと片手で器用に丸めると、ゴミ箱に捨てる。
しかし由季を見つめる眼差しは変わらず和やかで、優しい。
「卒業間近で突然学校をやめたのも、もしかして……こいつのせいか?」
由季は頷いた。
※
由季の父は地元では神奈川では有名な土建屋の創業者だ。
典型的なワンマンで、自分が常に一番でなければ気が済まない人間。
家庭でもそうだった。まるで王様で、口答えはたとえ子どもであっても許されず、ためらうことなく暴力を振るった。
母はかばってくれたし、絶対に逆らってはいけないと由季に言い聞かせた。
理不尽な怒りをぶつけられても母はただ謝っていた。自分に非がないことでも。
それでも父は普段は基本的に優しかったし、従順であれば、家庭は平穏だった。
いつしか由季は自分の本心を隠し、表面上は平静を装う術に長けるようになった。
由季が影が薄く、大人しく、目立たない性格になったのは、幼少期からの父に対する生存戦略だったのだ。
自分の身を、ひいては母親の身を守るための。
でもそんな風に本心を隠し従順に振る舞っていても、父への嫌悪を隠せない時があった。 それは平気で人の悪口を言うこと。
食卓で会社の出来事を話す時、父親はいつだって誰かを侮辱し、悪し様に馬鹿にした。
高卒からの叩き上げから会社を興した父親は大卒へのコンプレックスからか、より一層、馬鹿にし、嘲っていた。
あいつは××大を出ているくせに要領が悪い、あいつは大学院まで出ておいて何にもできない無能だ、と。
そんな誰かを侮辱する話なんて聞きたくなかったけど、途中で止めたり、たしなめたりすれば、どんな目に遭うかは痛いほど分かっていた。
母と由季に許されるのは追従の言葉と愛想笑いだけ。
少しでも侮辱される相手への同情とも取られかねない言動をすれば、平穏な食卓はたちまち制裁の場になった。
誰かをボロ雑巾のように利用し、使い捨てにする。
由季はそれに何の罪悪感を抱かない父に吐き気にも似た気持ちをもよおした。
さらに、父への嫌悪をさらに高める出来事もあった。
高校一年の時。学校帰りの由季は自宅の前でスーツ姿の男性が立っている場面に、遭遇したことがあった。
自宅まえにいる挙動不審の男性を前にして、由季が踵を返そうとした時、呼び止めれた。
逃げ出したくなるくらい怖かったけど、その男性は顔が青白く目が虚ろで正気には見えなかった。下手に逃げれば酷い目に遭わされるかもしれないと、由季は相手を刺激しないように振り返った。
『ここのお子さん、ですか?』
『……そうですけど』
瞬間、胸ぐらを掴まれ、耳元でやかましく叫ばれた。
『お前の父親は最低だ! 俺を利用するだけ利用して俺の持っている技術を盗んでいった! 訴えようとしたら、お前の父親は俺に横領の濡れ衣を着せて解雇したんだ……!!』
近所の人が通報してその場は逃れることができた。
その話を聞いた父は怒り、『あいつの言葉はぜんぶ嘘だ! 自分の無能を棚にあげておいて……』と食卓で激昂していた。でも由季には嘘には思えなかった。
この父ならそんなことをやりかねない、いや、やるだろうという妙な確信があった。
一分一秒でも同じ空気を吸いたくないと思いながら、我慢できたのは母がいてくれたからだ。綺麗で、優しい自慢の母。でもあの日、由季の運命を狂わせる出来事が起こった。
模試の結果でA判定がでて、その日は気持ち良く帰宅できた。
しかし家の前まで来た時、由季が聞いたのは会社にいるはずの父の怒声と何かが割れたり、倒れたりするようなやかましい音。
慌てて家に入ると、リビングで母が頭を押さえてうずくまっていた。
こめかみからは小量だったが、血が流れていた。
母を見下ろす父親は鬼のように顔を真っ赤にし、眦をつりあげ、これまで見たことがないくらい怖ろしい表情をしていた。
『お母さん!』
『由季、その女から離れろ! そいつは食わしてもらってる分際で俺に逆らったんだ!』
『警察を呼ぶから!』
『やめろ、この野郎!』
ためらいなく殴られ、スマホを奪われた。父は奪ったスマホを壁に叩きつけ壊した。
『いいか、警察なんかに連絡してみろ! お前ら、二人とも殺してやるからな!!』
父は威嚇するようにリビングの椅子を、由季たちのそばに放り投げると、家を出て行った。母を病院に連れていこうとしたが、騒ぎになることを怖れ、母は拒否した。
仕方なく薬局で包帯や消毒液を購入し、それで治療を済まさざるをえなかった。
不幸中の幸いで出血量に比べて傷は小さかった。
『お母さん、一体なにがったの?』
お母さんが悪いのと繰り返す母に、由季はしつこく聞いた。あの父親が一度だってまともな理由で怒ったことなどないのを知っていたから。
『……お父さんが浮気してるみたいなの。だから、連絡をして問いただしたの……』
『どうしてそんなことしたの!』
『どんなにどうしようもない人でも……好きな人だから、かな。本当に馬鹿なことをしたと思ってる……。でもまさか家にまで戻ってくるなんて……』
『逃げよう』
『何を言ってるの!?』
『これ以上なにかあったら、殺されるよ!? 分かってる!?』
『駄目。由季はもう卒業よ。それに大学だって……』
『あいつのお金で大学なんて入ったら、少なくとも四年はあいつの言うことに従わなきゃいけないんだよ!? 耐えられる!?』
『あなたのためだったら……』
『大学だったら奨学金でもなんでも取ればいける。国公立にすれば必要なお金も減るし』
『でも逃げたと知れたら……』
『準備をすれば良い。あいつに悟らせないように従順なふりをして。あいつに見つからないように、知り合いや親戚、おじいちゃんとおばあちゃんにも一切知られないように』
迷うそぶりを見せる母に、由季ははじめて苛立ちを覚えてしまった。
一つ間違っていれば殺されてもおかしくないほどの目に遭っているにもかかわらず、まだ愛している、とかいう理由で行動するのをためらうのか。
『お母さん、いい加減に目を――』
『……彰君はどうするの』
『そ、そんなことを言ってる場合!? 今はそれどころじゃないでしょ! 彰のことは私の問題! お母さんは自分の問題だけに集中してっ!』
動揺した由季は一気にそうまくしたて、母に家を出ることを承諾させた。
部屋に戻り、いつもの習慣でスマホをチェックしようとして、今し方父親にスマホを壊されたことを思い出した。母と逃げるということは当然、彰とも縁を切らなければいけない。まだ付き合い始めてから半年にも満たない、けれど、最良の日々。
どうするべきかは分かっていた。
彰に絶対に迷惑はかけられない。彰と付き合っていることを父親は知らない。
だったらこのまま関係を終わらせるべきだ。
あの父親のことだ。彰との関係に気づけば、彼の家に押しかけて迷惑をかけかねない。 それだけはあってはいけない。
別れたくないと思う自分がいた。
母と彰を天秤になんてかけられない。どっちも由季にとっては大切でかけがえのない人だから。
その日は苦しくて辛くて、ほとんど眠ることもできず、朝を迎えた。
睡眠不足のせいで鈍く痛む頭をおさえながら一階へ下りていけば、スーツ姿の父親が食卓についていた。昨日のことなど忘れてしまったような、いつもと同じく繰り返される平穏な朝がそこにあることに、虫唾が走った。
父親にとって昨日のことなど何ら特別なことではない、日常の延長線上に過ぎないのだ。
父親は当然のように「おはよう」と笑顔を向け、味噌汁のおかわりを母親へ頼んでいた。その光景に胃のむかつきを押さえられず、トイレで吐いた。
おぞましいという言葉は、こういう時のためにあるんだと涙を流しながら思った。
あの男は化け物だ。こんな男と暮らすことはありえない。
朝食はいらないと逃げるように家を出て学校へ向かった。
その時にはもう彰と別れることに迷いはなかった。母と自分を守るために……。
疲労困憊のまま教室に入ると、「よっ」といつもの無邪気な笑顔で彰が声をかけてきた。 それから探るような目つきで見られた。
『大丈夫か? 顔色、悪いぞ。メッセも見てないし。いや、別に大したもんを送ったわけじゃないんだけど。風邪か?』
その優しさが嬉しくて、他のクラスメートが見ていることなんて関係なく、彼の胸に飛び込んで何もかもぶちまけ、泣きたくなった。
『ごめん……。ケータイ、壊れたの。夜だったから修理にも出せなくって』
どうにかそう声をしぼりだした。
『そっか。あ、面白い動画を見たんだけどさ』
別れることを考えれば会話を遮るべきだった。でもこれが彰とまともに話せる最後のチャンスだと思ったら、何もできなかった。むしろこの他愛のない会話をこれからの支えにしようと、いつも以上に由季は興味津々に彼の言葉を聞いていたと思う。
そしてその日の放課後、彰に別れを切り出した。
幸せな時間をこれからも築いていきたかった。
たとえいずれ二人の関係が壊れる時がきたても、そこにはちゃんと段階が欲しかった。
別れてもこれからも良い友だちのままでいたかった。でもそんなことはこれからの自分には許されない。
由季は身勝手に一方的に別れを切り出し、走り去った。『どうして』と聞かれたくなかった。別れたい理由なんて存在しないんだから。一緒にいたい理由しかなかったんだから。
『待てよ、由季! どうして突然……俺が気に障ることをしたんだったら謝る。悪いところがあるんだったら直すよ。だから……』
彰は慌てたように追いかけ、前に立ち塞がった。
『ち、違うの。彰は悪くない』
『だったらどうして突然別れるなんて……』
彰の傷ついた顔が忘れられない。
『本当にごめんなさい……!』
振り切るように懸けだした。彰の足音は聞こえてはこなかった。
走っているうちに胸が見えない手で絞られるように苦しくなり、目頭が痛くなって勝手に涙が溢れ、こらえきれずに校舎裏でうずくまるようにして泣いた。
ハンカチをくわえて声が漏れないように必死に押し殺した。
なんて身勝手なんだろう。泣きたいのは何の前触れもなく別れを切りだされた彰のほうであるはずなのに。それでも嗚咽をとめられなかった。
ひどい顔で帰宅すると母は全てを察し、『ごめんね、ごめんね……』と由季に縋るようにして泣きだした。
『大丈夫。私なら平気だよ……』
由季は母を慰め、今後についての計画を練っていこうと話し合った。
学校では由季と彰が別れたという噂が広まっていた。
彰が吹聴するはずもないから、きっとクラスでの由季たちのよそよそしい態度を見て、察したのだろう。一部の女子からはざまあみろと言わんばかりに悪し様に言われることもあったが、気にもならなかった。別れたことに関するでたらめな噂はいくつかあったけど、どれも由季に非があり、彰は被害者という内容だったことに安堵を覚えた。
これで彰に非があったという噂が流れていたら、さらに自己嫌悪は深まっていただろう。
でもその噂自体も飽きられたのか、そのうち誰も口にしなくなった。
辛かったのは彰を見る時だった。同じクラスにいる以上、どうしたって完全に避けられはしない。事故のように目が合うと、彼は傷ついたような顔をして、顔を背けた。
彰を傷つけたくせに、彼の顔を見てさらに傷つく自分の身勝手さに呆れた。
準備を着々と済ませ、冬休みのある日、由季は母と一緒に父親の元から逃げ出した。
見知らぬ土地で母子二人で生活を立て直しつつ、奨学金で大学へ進んだ。
ぼやけた視界が焦点を結ぶと、鼓動が跳ねる。すぐそこに彰の寝顔があったのだ。
――彰……。
胸が温かくなり、嬉しさで目元が熱くなった。
――まるで私の心を読んでくれたみたい……。
心が擦り切れそうになった時、彰にそばにいて欲しいと思った。でも忙しい彼を、自分の事情で呼びつけることなんてできるはずもない。
顔を寄せると、香水にまじり、彰の匂いがした。ささくれた心が撫でつけられ、彼の無防備な寝顔から目が離せない。
前髪が目にかかって邪魔そうだった。由季は指先でそっと前髪をどかしてやる。
と、彰の瞼が震えたかと思えば、目を開ける。
「あ、ごめん。起こしちゃった……」
「……平気だ」
彰は気怠げな声を漏らした。
「今、何時……?」
「深夜の三時」
「そっか。気分は、良さそうだな。さっきより血色が良い」
彰の大きな手が、由季の手を握っていることに気付く。ずっと手を握ってくれていたのだろう。手の平がうっすら汗ばんでいた。
彰を離そうとするが、由季は手を握り、引き留めた。
「お願い、このままで……」
分かったと返事をする代わりに、包み込む手に力がこもった。
今なら何でも話せそうな気がした。
「私……家を出ようとしたの」
「引っ越しってわけじゃないよな」
「……父親に、私がここに住んでるってばれたから……」
「オヤジさんに?」
「荷物をまとめて逃げなきゃって。でも、彰の顔が浮かんで、できなくって……、また、あなたに一言も告げずにいなくなるなんて嫌だって。それでどうしたら良いのか分からなくなってるうちに、気分が悪くなって」
「もしかして、あの封筒か? 中身を見ても?」
由季が頷くと、彰は片手はしっかりと繋いだまま、封筒の中身をテーブルに出す。封筒とケータイが出てくる。
【由季、ようやく見つけたぞ。あの女はともかく、お前までどうしてパパから逃げるんだ? パパは今、すごく困ってるんだ。でもお前とならやり直せる。もう逃げるなよ。今度逃げられたら、パパは次は何をするか分からないからな。携帯を同封するから、連絡があったらすぐに出なさい】
「なんだよ、これ……」
普段聞いたことがないほど、低く感情のない声で彰は呟くと、封筒を便箋ごと片手で器用に丸めると、ゴミ箱に捨てる。
しかし由季を見つめる眼差しは変わらず和やかで、優しい。
「卒業間近で突然学校をやめたのも、もしかして……こいつのせいか?」
由季は頷いた。
※
由季の父は地元では神奈川では有名な土建屋の創業者だ。
典型的なワンマンで、自分が常に一番でなければ気が済まない人間。
家庭でもそうだった。まるで王様で、口答えはたとえ子どもであっても許されず、ためらうことなく暴力を振るった。
母はかばってくれたし、絶対に逆らってはいけないと由季に言い聞かせた。
理不尽な怒りをぶつけられても母はただ謝っていた。自分に非がないことでも。
それでも父は普段は基本的に優しかったし、従順であれば、家庭は平穏だった。
いつしか由季は自分の本心を隠し、表面上は平静を装う術に長けるようになった。
由季が影が薄く、大人しく、目立たない性格になったのは、幼少期からの父に対する生存戦略だったのだ。
自分の身を、ひいては母親の身を守るための。
でもそんな風に本心を隠し従順に振る舞っていても、父への嫌悪を隠せない時があった。 それは平気で人の悪口を言うこと。
食卓で会社の出来事を話す時、父親はいつだって誰かを侮辱し、悪し様に馬鹿にした。
高卒からの叩き上げから会社を興した父親は大卒へのコンプレックスからか、より一層、馬鹿にし、嘲っていた。
あいつは××大を出ているくせに要領が悪い、あいつは大学院まで出ておいて何にもできない無能だ、と。
そんな誰かを侮辱する話なんて聞きたくなかったけど、途中で止めたり、たしなめたりすれば、どんな目に遭うかは痛いほど分かっていた。
母と由季に許されるのは追従の言葉と愛想笑いだけ。
少しでも侮辱される相手への同情とも取られかねない言動をすれば、平穏な食卓はたちまち制裁の場になった。
誰かをボロ雑巾のように利用し、使い捨てにする。
由季はそれに何の罪悪感を抱かない父に吐き気にも似た気持ちをもよおした。
さらに、父への嫌悪をさらに高める出来事もあった。
高校一年の時。学校帰りの由季は自宅の前でスーツ姿の男性が立っている場面に、遭遇したことがあった。
自宅まえにいる挙動不審の男性を前にして、由季が踵を返そうとした時、呼び止めれた。
逃げ出したくなるくらい怖かったけど、その男性は顔が青白く目が虚ろで正気には見えなかった。下手に逃げれば酷い目に遭わされるかもしれないと、由季は相手を刺激しないように振り返った。
『ここのお子さん、ですか?』
『……そうですけど』
瞬間、胸ぐらを掴まれ、耳元でやかましく叫ばれた。
『お前の父親は最低だ! 俺を利用するだけ利用して俺の持っている技術を盗んでいった! 訴えようとしたら、お前の父親は俺に横領の濡れ衣を着せて解雇したんだ……!!』
近所の人が通報してその場は逃れることができた。
その話を聞いた父は怒り、『あいつの言葉はぜんぶ嘘だ! 自分の無能を棚にあげておいて……』と食卓で激昂していた。でも由季には嘘には思えなかった。
この父ならそんなことをやりかねない、いや、やるだろうという妙な確信があった。
一分一秒でも同じ空気を吸いたくないと思いながら、我慢できたのは母がいてくれたからだ。綺麗で、優しい自慢の母。でもあの日、由季の運命を狂わせる出来事が起こった。
模試の結果でA判定がでて、その日は気持ち良く帰宅できた。
しかし家の前まで来た時、由季が聞いたのは会社にいるはずの父の怒声と何かが割れたり、倒れたりするようなやかましい音。
慌てて家に入ると、リビングで母が頭を押さえてうずくまっていた。
こめかみからは小量だったが、血が流れていた。
母を見下ろす父親は鬼のように顔を真っ赤にし、眦をつりあげ、これまで見たことがないくらい怖ろしい表情をしていた。
『お母さん!』
『由季、その女から離れろ! そいつは食わしてもらってる分際で俺に逆らったんだ!』
『警察を呼ぶから!』
『やめろ、この野郎!』
ためらいなく殴られ、スマホを奪われた。父は奪ったスマホを壁に叩きつけ壊した。
『いいか、警察なんかに連絡してみろ! お前ら、二人とも殺してやるからな!!』
父は威嚇するようにリビングの椅子を、由季たちのそばに放り投げると、家を出て行った。母を病院に連れていこうとしたが、騒ぎになることを怖れ、母は拒否した。
仕方なく薬局で包帯や消毒液を購入し、それで治療を済まさざるをえなかった。
不幸中の幸いで出血量に比べて傷は小さかった。
『お母さん、一体なにがったの?』
お母さんが悪いのと繰り返す母に、由季はしつこく聞いた。あの父親が一度だってまともな理由で怒ったことなどないのを知っていたから。
『……お父さんが浮気してるみたいなの。だから、連絡をして問いただしたの……』
『どうしてそんなことしたの!』
『どんなにどうしようもない人でも……好きな人だから、かな。本当に馬鹿なことをしたと思ってる……。でもまさか家にまで戻ってくるなんて……』
『逃げよう』
『何を言ってるの!?』
『これ以上なにかあったら、殺されるよ!? 分かってる!?』
『駄目。由季はもう卒業よ。それに大学だって……』
『あいつのお金で大学なんて入ったら、少なくとも四年はあいつの言うことに従わなきゃいけないんだよ!? 耐えられる!?』
『あなたのためだったら……』
『大学だったら奨学金でもなんでも取ればいける。国公立にすれば必要なお金も減るし』
『でも逃げたと知れたら……』
『準備をすれば良い。あいつに悟らせないように従順なふりをして。あいつに見つからないように、知り合いや親戚、おじいちゃんとおばあちゃんにも一切知られないように』
迷うそぶりを見せる母に、由季ははじめて苛立ちを覚えてしまった。
一つ間違っていれば殺されてもおかしくないほどの目に遭っているにもかかわらず、まだ愛している、とかいう理由で行動するのをためらうのか。
『お母さん、いい加減に目を――』
『……彰君はどうするの』
『そ、そんなことを言ってる場合!? 今はそれどころじゃないでしょ! 彰のことは私の問題! お母さんは自分の問題だけに集中してっ!』
動揺した由季は一気にそうまくしたて、母に家を出ることを承諾させた。
部屋に戻り、いつもの習慣でスマホをチェックしようとして、今し方父親にスマホを壊されたことを思い出した。母と逃げるということは当然、彰とも縁を切らなければいけない。まだ付き合い始めてから半年にも満たない、けれど、最良の日々。
どうするべきかは分かっていた。
彰に絶対に迷惑はかけられない。彰と付き合っていることを父親は知らない。
だったらこのまま関係を終わらせるべきだ。
あの父親のことだ。彰との関係に気づけば、彼の家に押しかけて迷惑をかけかねない。 それだけはあってはいけない。
別れたくないと思う自分がいた。
母と彰を天秤になんてかけられない。どっちも由季にとっては大切でかけがえのない人だから。
その日は苦しくて辛くて、ほとんど眠ることもできず、朝を迎えた。
睡眠不足のせいで鈍く痛む頭をおさえながら一階へ下りていけば、スーツ姿の父親が食卓についていた。昨日のことなど忘れてしまったような、いつもと同じく繰り返される平穏な朝がそこにあることに、虫唾が走った。
父親にとって昨日のことなど何ら特別なことではない、日常の延長線上に過ぎないのだ。
父親は当然のように「おはよう」と笑顔を向け、味噌汁のおかわりを母親へ頼んでいた。その光景に胃のむかつきを押さえられず、トイレで吐いた。
おぞましいという言葉は、こういう時のためにあるんだと涙を流しながら思った。
あの男は化け物だ。こんな男と暮らすことはありえない。
朝食はいらないと逃げるように家を出て学校へ向かった。
その時にはもう彰と別れることに迷いはなかった。母と自分を守るために……。
疲労困憊のまま教室に入ると、「よっ」といつもの無邪気な笑顔で彰が声をかけてきた。 それから探るような目つきで見られた。
『大丈夫か? 顔色、悪いぞ。メッセも見てないし。いや、別に大したもんを送ったわけじゃないんだけど。風邪か?』
その優しさが嬉しくて、他のクラスメートが見ていることなんて関係なく、彼の胸に飛び込んで何もかもぶちまけ、泣きたくなった。
『ごめん……。ケータイ、壊れたの。夜だったから修理にも出せなくって』
どうにかそう声をしぼりだした。
『そっか。あ、面白い動画を見たんだけどさ』
別れることを考えれば会話を遮るべきだった。でもこれが彰とまともに話せる最後のチャンスだと思ったら、何もできなかった。むしろこの他愛のない会話をこれからの支えにしようと、いつも以上に由季は興味津々に彼の言葉を聞いていたと思う。
そしてその日の放課後、彰に別れを切り出した。
幸せな時間をこれからも築いていきたかった。
たとえいずれ二人の関係が壊れる時がきたても、そこにはちゃんと段階が欲しかった。
別れてもこれからも良い友だちのままでいたかった。でもそんなことはこれからの自分には許されない。
由季は身勝手に一方的に別れを切り出し、走り去った。『どうして』と聞かれたくなかった。別れたい理由なんて存在しないんだから。一緒にいたい理由しかなかったんだから。
『待てよ、由季! どうして突然……俺が気に障ることをしたんだったら謝る。悪いところがあるんだったら直すよ。だから……』
彰は慌てたように追いかけ、前に立ち塞がった。
『ち、違うの。彰は悪くない』
『だったらどうして突然別れるなんて……』
彰の傷ついた顔が忘れられない。
『本当にごめんなさい……!』
振り切るように懸けだした。彰の足音は聞こえてはこなかった。
走っているうちに胸が見えない手で絞られるように苦しくなり、目頭が痛くなって勝手に涙が溢れ、こらえきれずに校舎裏でうずくまるようにして泣いた。
ハンカチをくわえて声が漏れないように必死に押し殺した。
なんて身勝手なんだろう。泣きたいのは何の前触れもなく別れを切りだされた彰のほうであるはずなのに。それでも嗚咽をとめられなかった。
ひどい顔で帰宅すると母は全てを察し、『ごめんね、ごめんね……』と由季に縋るようにして泣きだした。
『大丈夫。私なら平気だよ……』
由季は母を慰め、今後についての計画を練っていこうと話し合った。
学校では由季と彰が別れたという噂が広まっていた。
彰が吹聴するはずもないから、きっとクラスでの由季たちのよそよそしい態度を見て、察したのだろう。一部の女子からはざまあみろと言わんばかりに悪し様に言われることもあったが、気にもならなかった。別れたことに関するでたらめな噂はいくつかあったけど、どれも由季に非があり、彰は被害者という内容だったことに安堵を覚えた。
これで彰に非があったという噂が流れていたら、さらに自己嫌悪は深まっていただろう。
でもその噂自体も飽きられたのか、そのうち誰も口にしなくなった。
辛かったのは彰を見る時だった。同じクラスにいる以上、どうしたって完全に避けられはしない。事故のように目が合うと、彼は傷ついたような顔をして、顔を背けた。
彰を傷つけたくせに、彼の顔を見てさらに傷つく自分の身勝手さに呆れた。
準備を着々と済ませ、冬休みのある日、由季は母と一緒に父親の元から逃げ出した。
見知らぬ土地で母子二人で生活を立て直しつつ、奨学金で大学へ進んだ。
11
お気に入りに追加
603
あなたにおすすめの小説
【完結】もう一度やり直したいんです〜すれ違い契約夫婦は異国で再スタートする〜
四片霞彩
恋愛
「貴女の残りの命を私に下さい。貴女の命を有益に使います」
度重なる上司からのパワーハラスメントに耐え切れなくなった日向小春(ひなたこはる)が橋の上から身投げしようとした時、止めてくれたのは弁護士の若佐楓(わかさかえで)だった。
事情を知った楓に会社を訴えるように勧められるが、裁判費用が無い事を理由に小春は裁判を断り、再び身を投げようとする。
しかし追いかけてきた楓に再度止められると、裁判を無償で引き受ける条件として、契約結婚を提案されたのだった。
楓は所属している事務所の所長から、孫娘との結婚を勧められて困っており、 それを断る為にも、一時的に結婚してくれる相手が必要であった。
その代わり、もし小春が相手役を引き受けてくれるなら、裁判に必要な費用を貰わずに、無償で引き受けるとも。
ただ死ぬくらいなら、最後くらい、誰かの役に立ってから死のうと考えた小春は、楓と契約結婚をする事になったのだった。
その後、楓の結婚は回避するが、小春が会社を訴えた裁判は敗訴し、退職を余儀なくされた。
敗訴した事をきっかけに、裁判を引き受けてくれた楓との仲がすれ違うようになり、やがて国際弁護士になる為、楓は一人でニューヨークに旅立ったのだった。
それから、3年が経ったある日。
日本にいた小春の元に、突然楓から離婚届が送られてくる。
「私は若佐先生の事を何も知らない」
このまま離婚していいのか悩んだ小春は、荷物をまとめると、ニューヨーク行きの飛行機に乗る。
目的を果たした後も、契約結婚を解消しなかった楓の真意を知る為にもーー。
❄︎
※他サイトにも掲載しています。
愛のない政略結婚で離婚したはずですが、子供ができた途端溺愛モードで元旦那が迫ってくるんですがなんででしょう?
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「お腹の子も君も僕のものだ。
2度目の離婚はないと思え」
宣利と結婚したのは一年前。
彼の曾祖父が財閥家と姻戚関係になりたいと強引に押したからだった。
父親の経営する会社の建て直しを条件に、結婚を承知した。
かたや元財閥家とはいえ今は経営難で倒産寸前の会社の娘。
かたや世界有数の自動車企業の御曹司。
立場の違いは大きく、宣利は冷たくて結婚を後悔した。
けれどそのうち、厳しいものの誠実な人だと知り、惹かれていく。
しかし曾祖父が死ねば離婚だと言われていたので、感情を隠す。
結婚から一年後。
とうとう曾祖父が亡くなる。
当然、宣利から離婚を切り出された。
未練はあったが困らせるのは嫌で、承知する。
最後に抱きたいと言われ、最初で最後、宣利に身体を預ける。
離婚後、妊娠に気づいた。
それを宣利に知られ、復縁を求められるまではまあいい。
でも、離婚前が嘘みたいに、溺愛してくるのはなんでですか!?
羽島花琳 はじま かりん
26歳
外食産業チェーン『エールダンジュ』グループご令嬢
自身は普通に会社員をしている
明るく朗らか
あまり物事には執着しない
若干(?)天然
×
倉森宣利 くらもり たかとし
32歳
世界有数の自動車企業『TAIGA』グループ御曹司
自身は核企業『TAIGA自動車』専務
冷酷で厳しそうに見られがちだが、誠実な人
心を開いた人間にはとことん甘い顔を見せる
なんで私、子供ができた途端に復縁を迫られてるんですかね……?
腹黒御曹司との交際前交渉からはじまるエトセトラ
真波トウカ
恋愛
デパートで働く27歳の麻由は、美人で仕事もできる「同期の星」。けれど本当は恋愛経験もなく、自信を持っていた企画書はボツになったりと、うまくいかない事ばかり。
ある日素敵な相手を探そうと婚活パーティーに参加し、悪酔いしてお持ち帰りされそうになってしまう。それを助けてくれたのは、31歳の美貌の男・隼人だった。
紳士な隼人にコンプレックスが爆発し、麻由は「抱いてください」と迫ってしまう。二人は甘い一夜を過ごすが、実は隼人は麻由の天敵である空閑(くが)と同一人物で――?
こじらせアラサー女子が恋も仕事も手に入れるお話です。
※表紙画像は湯弐(pixiv ID:3989101)様の作品をお借りしています。
私を溺愛してくれたのは同期の御曹司でした
日下奈緒
恋愛
課長としてキャリアを積む恭香。
若い恋人とラブラブだったが、その恋人に捨てられた。
40歳までには結婚したい!
婚活を決意した恭香を口説き始めたのは、同期で仲のいい柊真だった。
今更あいつに口説かれても……
誘惑の延長線上、君を囲う。
桜井 響華
恋愛
私と貴方の間には
"恋"も"愛"も存在しない。
高校の同級生が上司となって
私の前に現れただけの話。
.。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚
Иatural+ 企画開発部部長
日下部 郁弥(30)
×
転職したてのエリアマネージャー
佐藤 琴葉(30)
.。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚
偶然にもバーカウンターで泥酔寸前の
貴方を見つけて…
高校時代の面影がない私は…
弱っていそうな貴方を誘惑した。
:
:
♡o。+..:*
:
「本当は大好きだった……」
───そんな気持ちを隠したままに
欲に溺れ、お互いの隙間を埋める。
【誘惑の延長線上、君を囲う。】
とろける程の甘美な溺愛に心乱されて~契約結婚でつむぐ本当の愛~
けいこ
恋愛
「絶対に後悔させない。今夜だけは俺に全てを委ねて」
燃えるような一夜に、私は、身も心も蕩けてしまった。
だけど、大学を卒業した記念に『最後の思い出』を作ろうなんて、あなたにとって、相手は誰でも良かったんだよね?
私には、大好きな人との最初で最後の一夜だったのに…
そして、あなたは海の向こうへと旅立った。
それから3年の時が過ぎ、私は再びあなたに出会う。
忘れたくても忘れられなかった人と。
持ちかけられた契約結婚に戸惑いながらも、私はあなたにどんどん甘やかされてゆく…
姉や友人とぶつかりながらも、本当の愛がどこにあるのかを見つけたいと願う。
自分に全く自信の無いこんな私にも、幸せは待っていてくれますか?
ホテル リベルテ 鳳条グループ 御曹司
鳳条 龍聖 25歳
×
外車販売「AYAI」受付
桜木 琴音 25歳
私の赤点恋愛~スパダリ部長は恋愛ベタでした~
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「キ、キスなんてしくさってー!!
セ、セクハラで訴えてやるー!!」
残業中。
なぜか突然、上司にキスされた。
「おかしいな。
これでだいたい、女は落ちるはずなのに。
……お前、もしかして女じゃない?」
怒り狂っている私と違い、上司は盛んに首を捻っているが……。
いったい、なにを言っているんだ、こいつは?
がしかし。
上司が、隣の家で飼っていた犬そっくりの顔をするもんでついつい情にほだされて。
付き合うことになりました……。
八木原千重 23歳
チルド洋菓子メーカー MonChoupinet 営業部勤務
褒められるほどきれいな資料を作る、仕事できる子
ただし、つい感情的になりすぎ
さらには男女間のことに鈍い……?
×
京屋佑司 32歳
チルド洋菓子メーカー MonChoupinet 営業部長
俺様京屋様
上層部にすら我が儘通しちゃう人
TLヒーローを地でいくスパダリ様
ただし、そこから外れると対応できない……?
TLヒロインからほど遠い、恋愛赤点の私と、
スパダリ恋愛ベタ上司の付き合いは、うまくいくのか……!?
*****
2019/09/11 連載開始
【完結】俺様御曹司の隠された溺愛野望 〜花嫁は蜜愛から逃れられない〜
雪井しい
恋愛
「こはる、俺の妻になれ」その日、大女優を母に持つ2世女優の花宮こはるは自分の所属していた劇団の解散に絶望していた。そんなこはるに救いの手を差し伸べたのは年上の幼馴染で大企業の御曹司、月ノ島玲二だった。けれど代わりに妻になることを強要してきて──。花嫁となったこはるに対し、俺様な玲二は独占欲を露わにし始める。
【幼馴染の俺様御曹司×大物女優を母に持つ2世女優】
☆☆☆ベリーズカフェで日間4位いただきました☆☆☆
※ベリーズカフェでも掲載中
※推敲、校正前のものです。ご注意下さい
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる