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第四章(5)

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 マリーナまで戻ってきた頃には日が暮れかかっていた。水平線から湧き出した入道雲が夕日を浴びて、オレンジ色に染まる。

「駐車場はこっちだけど」
「少し歩かないか?」
「うん。クルーザー運転してすぐ車を運転だと大変だもんね。私がペーパーじゃなかったら……」
「熱海の山道、運転できそうか?」
「む、無理です……」

 ハハ、と彰は微笑み、手を差し出してくる。由季はその手を握り、指を絡める。
 暑さは苦手だけど、大好きな人の手の温もりは別だ。二人の影が夕日を浴びて長く伸びた。
 昼間は吹き付ける熱風に辟易したけれど、この時間帯は汗ばんだ肌に気持ちいい。
 カモメが群れをなして飛んでいる。

 ――時間がのんびり流れてるみたい。

 道行く人たちもあくせくした感じがなく、ゆったりしている。
 由季たちはビーチへ下りていく。寄せては返す波。子どもがはしゃぎながら波打ち際を走り、親がその後を慌てて追いかけていく。その微笑ましい光景に自然と口元がほころんだ。
 このまま順調にいけば彰ともあんな風になれるのかな。
 クルーザーで結婚の話が出たせいか、ふとそんなことを考える。

 ――でも私にできるのかな。ちゃんとした家族を作ること。

 その時、頬に手が触れる。
 見上げると、彰が慈しむような優しい眼差しを向けてくれていた。

「……結婚のこと、別に急かしてる訳じゃないからな。俺の素直な気持ちを最初に伝えておきたかっただけで。だからあんま真剣に……いや、真剣に考えてくれるのは嬉しいんだ。思い詰めて欲しくないだけで」
「違う。そうじゃないから」
「本当か?」
「本当」

 彰は安心したのか、目尻を緩めた。

「なら、良いんだけど」

 ――もう。彰を不安にさせてどうするのよ。しっかりしなきゃ。

「由季、綺麗だ」
「うん。クルーザーもすごかったけど、こうして夕日が水面にあたってる景色、すごく綺麗だよね」
「じゃなくって、お前のことだよ」

 彰が小さく笑う。

「……あ、ありがとう」

 心臓がバクバクと高鳴った。

「あそこで、写真撮るか」

 彰が指さしたのは、海に出っ張る形で設けられた広場。観光客がカモメと一緒に自撮りしようと奮闘している。

「うん」
「考えてみれば、俺たち一緒にあんま写真撮ってないよな。なんでだっけか」
「……私が写真が、そんなに好きじゃなかったからかな」

 具体的に言うと、自分の顔が。
 そもそもプリクラさえ学生時代はほとんど撮ったことがなかった。これまでプリクラと言えば、母親に半ば無理矢理一緒に撮らされたものがある程度。彰と付き合ってた時もプリクラ撮ろうと誘われたけど、断ってしまった。

「でも今日は良いんだよな?」
「うん。記念だし、私ももう大人だから。写真が嫌とか言ってられない」
「もっと俺との思い出が欲しいくらい言ってくれよな」
「もちろんそれも含めて」
「由季らしいな。そういうところも含めて、好きになったんだし」

 さらりとそんなことを言われると、本当に由季の心は右往左往してしまう。

 ――私の心、だいぶチョロい……。

 それだけ由季も彰のことが好きということなんだけど。

「……もっと体を寄せてくれ」
「きゃっ」

 不意に腰をつかまれ、ぐっと抱き寄せられた。
 彰がスマホを構え、体を寄せ合い、顔が密着しあう。

「良いぞ、うまい具合にカモメも入ってる。――由季、俺に抱きついてくれ」
「こ、こう?」

 どぎまぎしながら、彰の体に抱きつく。ポロシャツごし、ゴツゴツした彼の鍛えられた体が意識できてしまう。

「そうそう」

 そうして撮影する。

「送るな」

 彰が写真データをすぐに転送してくれる。

「ありがとう。でもこれ、ほっぺたにキスしてるみたいだね。でもどうして抱きつけって言ったの? 抱きつかなくても十分、画角には収まりそうだけど」
「? そんなの、抱きついて欲しかったからに決まってるだろ。由季はなかなかスキンシップしてくれないからな。こういうことでもしなきゃ」

 由季は頬が熱くなるのを自覚し、顔を背けた。
 彰が後ろから抱きしめてくる。

「恋人同士なんだから、相手に触れたり、キスしたいっていうのは普通のことなんだからいちいち照れるなよ」
「それは、無理……」

 異性は、彰しか知らないのだから、そんなことを言われてもしょうがない。

「俺はもっとイチャイチャしたいんだけどな」

 ささやき、頬に優しく口づける。口づけをされた場所がすごく熱い。

「そろそろ良い時間だ。海がばっちり見えるレストランがあるから、そこで夕飯にしないか?」
「そ、そうね」

 彰は由季をリードして歩き出す。

 ――私も、もっと彰のこと好きだって気持ちを見せたいな。

 勘違いはされないだろうが、由季が自分のことを好きじゃないなんて誤解を与えたくない。



 由季たちは夕食は海岸沿いにあるレストランで済まし、保養施設に戻る頃には夜だった。

「到着」
「運転ごくろうさま」

 彰は、じっと見つめてくる。

「んー。ねぎらうなら、キスしてくれ」

 ん、と頷いた由季は、彰の唇をふさぐ。びっくりしたように彰はぴくっと反応する。
 まさかそんなきょとんとした反応をされるとは思わなかった由季は照れてしまう。

「なによその顔……。恋人同士なんだから……これくらい、するでしょ」

 耳が熱くなるのを意識しながら早口で告げた。

「本当にしてくれるとは思わなかったから」
「だって、したかったから」
「お前……」

 不意に彰が頬を染めた。「なんで……」とぶつぶつ言っている。

「私、変なことしちゃった?」

 これまで見たことがないリアクションに、不安になってしまう。
 違う、と彰は首を横に振った。

「嬉しかった。キスしてくれたことより、しかたったからって一言……マジでぐっときたんだ。本当に好きだ」

 髪を撫でる彰の手つきが好きだ。
 今感じている顔の火照りは決して、昼間の熱気の残滓のせいじゃない。

「じゃあ、下りるか」
「う、うん」

 意外にあっさりして触れあいに由季は少し拍子抜けしつつ、車を降りる。いつもの彰ならもっと激しくアプローチをしてきてもおかしくないのに。

 ――って、襲われたいわけじゃないけど!

「今日はたっぷり遊んだな」
「……そ、そうだね」

 彰は保養所の鍵を開けて、そそくさと入っていく。

 ――潮風をさんざん浴びたし、髪がごわついちゃってる……。

 温泉へ入ろうと思うと、「待った」と呼び止められた。

「何?」
「せっかく風呂に入るんだったら、もうちょっと待った方が良い。今日は花火大会があるんだ。うちの露天からもばっちり花火が見られるし、どうせならタイミングを合わせた方が良いだろ?」

 温泉に浸かりながら花火。それは抗いがたい誘惑だった。

「分かった。じゃあ、ちょっと部屋に行ってるね」
「おお。寝ても良いぞ。時間になったら起こすから」
「ありがとう」



 一人リビングに残った、彰は手で顔を覆った。耳まで熱い。

「く……」

 思わずうめきが口からこぼれ、ソファーの背もたれに身を預けた。

 ――マジでやばかった。

 あそこで理性をきかせなかったら、あのまま由季に襲いかかっていただろう。
 きっと由季のことを考えず、自分の一方的な欲望を発散していたに違いない。

 ――よく、俺、あそこでこらえられたな。

 自分の理性を褒めてやりたい。

 ――それにしても……したかったからって、ヤバすぎるだろ。

 普段、彰がぐいぐいと迫って由季を翻弄し、その時に見せてくれるリアクションを楽しんでいたから、予想外の一
言がかなりきいた。
 あの由季が自分からキスをしてくれたんだ。

 ――心臓がドキドキしすぎて、壊れそうだ。顔洗って、冷静にならないとな。

 抱くなら一方的にぶつけるのではなく、愛する人の全身をまんべんなく慈しむために抱きたかった。
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