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20 差し入れ

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 その日、フリーデは日頃からユーリの訓練に付き合ってくれている騎士団の人々に差し入れをするため、台所を借りてサンドイッチを作っていた。
 騎士団の人たちのために具材は肉が中心。
 疲労回復のためのはちみつレモンも用意した。

 この世界にはまだはちみつレモンがなかったらしく、シェフたちは味見して「これは美味しい!」とうなってくれた。北部は過酷な環境である一方、自然の恵みには事欠かないのはいいことだ。蜂蜜も王都ではかなり効果だったが、ここでは安価で子どものおやつ代わりにもなっているから、調達もしやすい。リーズナブルでいて、美味しい。最高だ。

 フリーデはシェフやメイドたちと手分けして作ったサンドイッチとはちみつレモンをバスケットに詰め、訓練場に併設されているクラブハウスへ顔を出す。

 時刻は間もなく正午、食事休憩の時間だ。
 フリーデたちが顔を出した時にはちょうど、食事休憩をしようというところだった。

「皆さん、訓練、おつかれさまです。今日は私から差し入れを持って参りました」

 騎士団員たちは「ウォーッ!」と子どものように歓声を上げて喜んでくれた。
 そこへスピノザが声を上げた。

「お前たち、奥様がわざわざ食事を持って来てくださるのは、我々への知ったと激励のためだ。これまで以上に精進しろ。全員、奥様に最敬礼だ!」

 団員たちは整列し、剣を捧げもつ。

 ――いやいや! ただサンドイッチを作ってきただけなんだけど!

「奥様、是非皆に一言仰ってください」
「!? ひ、一言? え、えーっと……皆さんの日々の努力のおかげで、この領地はとても平和になっております。これからもよろしくお願いします……?」

 最期は声のボリュームが尻すぼみになったものの、団員たちは「はい!」と天につんざくような大声が響きわたった。

「ユーリ、ちゃんと手を洗ってくるのよ」
「はいっ」

 ユーリは泥だらけだった。毎日のように擦り傷をつくってくるが、訓練でできた傷のひとつひとつが彼にとっては勲章であるように、この傷はどこどこの練習の時……などと、寝る前に得意げに教えてくれるのだ。

 フリーデからしたらやっぱり心配で、喉元まで「そんなに傷だらけになってまでやる必要は……」という言葉が出かかるが、ユーリの楽しそうな顔を前にしたら、何も言い出えなかった。

 ――私にできることは、栄養のあるものを食べさせてあげることだけ。口うるさいだけの親になってはいけないわ。
 もどかしいけれど、しょうがない。

「洗ってきました!」
「顔に泥がついてるわ」
「あはは、すみません」

 ハンカチで拭うと、ユーリはくすぐったそうに笑う。
 他の団員たちはサンドイッチにかぶりつく。

「フリーデ様もご一緒に食べませんか?」
「いいの?」
「もちろんです!」
「私もお腹ぺこぺこ」

 ぱあっとユーリは顔を輝かせる。

 ――ギュスターブ様もいれば、ユーリはもっと喜ぶのに。

 訓練に付き合っているはずだが、彼の姿はない。

「奥様、伯爵様をお探しですか?」

 スピノザが言った。

「えっ。あ、いや、あの…………ええ。ギュスターブ様はどちらに?」
「伯爵様でしたら、遠乗りに出られましたよ」
「お昼も食べず?」
「ええ。馬が走りたがってるから、と仰って」
「馬の気持ちが分かるのですか?」
「まあ。命を預ける相棒ですから。そうして長い間駆けて、心の交流をするんです」
「な、なるほど」

 馬に乗れないフリーデにはあまりピンこない境地だ。

「――あれぇ? すげえ美人がいるじゃん!」
「!?」
「もしかしてスピカ様のコレ、ですか?」

 軽薄そうな男は小指を突き出す。

「伯爵様の奥方だ」
「えっ。伯爵の、お、おくが……え?」

 ついこの間、訓練場に顔を出したばかりだから、まだフリーデのことを認識していない騎士もいるようだ。
 でもまさかスピノザの愛人に間違えられるとは。

「すみませぇん、奥方様! 今のは聞かなかったことに……この通りでございます!!」

 騎士は額を床に擦りつけて土下座をする。

「わ、分かりましたから、顔を上げてください。別に怒っていませんから」

 団員はフリーデの反応に、そそくさと引っ込んでいった。

「待て、ゼロ」

 スピノザが呼び止める。

「は、はい?」
「マラソン五周。行け」
「はいぃぃぃぃぃ!」

 ゼロと呼ばれた団員は泣きながら、走り出す。それを他の団員たちが笑いながら見送った。

「馬鹿ですみません」

 スピノザは呆れ顔で頭を下げた。

「いいえ、大丈夫です。そもそも伯爵夫人でありながら騎士団の方々と交流してこなかった私にも責任がありますから……」
「あの、フリーデ様。これは、何ですか?」

 ユーリが聞いてくる。

「あ、それははちみつレモンって言ってね、疲労回復にいいのよ。甘酸っぱくて美味しいし」

 ユーリは恐る恐る食べると、「んー!」と目を丸くした。

「美味しくて、どんどん食べられます!」
「気に入ってくれて良かったわ」

 スピノザも興味津々だ。

「はちみつレモン……はじめて聞く料理名ですね。南部ではよく食べられるのですか?」
「南部というよりも、うちの家に伝わる秘伝のレシピ……みたいな?ものです」
「そんな貴重なものを振る舞ってくださったのですね。ありがとうございます。よければ作り方を教えてください」
「簡単ですからいいですよ」

 こんなに喜んでもらえるなら、現代の食事を作るようにしてもいいかもしれない。
 この世界は現代人が書いた物語の中だから食材も、フリーデがよく見知ったものがたくさんある。

「スピノザさん」
「スピノザで結構です。私は伯爵の家臣です。当然、優先順位としては伯爵様が上ではございますが、奥様にも従う責務がございます」
「なるほど……。ユーリの訓練はどうです?」

 いきなり自分の話になったことに、ユーリは不安そうに瞳を揺らしながらスピノザを窺う。

「真面目ですし、根性もあります。やや血気に逸るところはありますが、ま、はじめはみんなそうですからね。剣や馬の扱いには見込みがありますし、将来が楽しみです」

 ユーリはびっくりした顔をして、それから頬をあからめた。

「それなら良かった。そう言えば、ユーリ、背も伸びてきたんじゃない?」
「はい! 二センチも伸びました!」

 日頃の訓練のおかげか、細かった腕も健康的に肉付き、顔色もいい。

「ローランとはどう? 仲良くやってる?」
「はい。馬の乗り方もスピノザ様に教えて頂いております。ローランはすごく賢くて、まるで僕の言葉が分かるみたいに言うことを聞いてくれるんですっ」
「え、馬が?」
「ユーリがローランを大切にしているからだ。馬は賢いと同時に繊細だから。ユーリが自分を大切にしてくれていると分かっているから大人しく指示に従う。それこそ心と魂が噛み合っている、ということだ」
「そうなんですね。魂と心かぁ」

 ユーリは嬉しそう。

 ――私たちに見せるのとはまた別の表情だわ。

 スピノザはユーリにとっては兄のような存在かもしれない。彼から褒められるたび、その湖面のように鮮やかな青い瞳がキラキラと煌めく。
 感情は育てようとしなければ育たない。
 体だけでなく、心も着実に成長してくれているみたいだ。

「……スピノザ、ギュスターブ様は、どうですか。おかわりありませんか? 先日の、傷……。シオンによると傷そのものは順調に治りつつあると聞いてはいるんですけど、やっぱり頭への怪我なので」

 一応、寝る前に怪我の具合だったりとか、傷口の様子なんかをサルの毛繕いばりにチェックしてはいるけれど。

「大丈夫だと思います。我々への指摘も、巡回時も異常はみられませんから」

 ほっと胸を撫で下ろす。

「それなら良かったです」
「傷口を見てもらってるギュスターブ様、とても嬉しそうですよ?」

 ユーリがサンドイッチを頬張りつつ、言った。

 ――傷口を見られて嬉しそうって……。
 たしかにチェックをしていると、体を小刻みに震わせている。
 あれは感情をこらえているせいだったのか。
 たしかにお互いの距離がぐっと近くなるけど。

「ところでスピノザ。ギュスターブ様は人使いが荒いんじゃない? 大丈夫? もし不満がるなら、私経由で伝えてもいいわ」
「そんなことはありませんよ。我々にとっては尊敬すべき方です。ただ強いだけでなく、人望もございます。戦闘時はご自分から真っ先に動かれて。それに関しては私としてはやめて欲しいのですが。とにかく、我々にとってはあの方ほど頼もしい人はおりませんよ」

 冷静沈着で落ち着き払ったスピノザではあるが、ギュスターブについて語るその口調には尊敬と、彼に仕えられる誇らしさがある。
 同じギュスターブという人間でも、フリーデから見るのと、スピノザから見るのとではまったく違う人物なのだろう。

「でも皆さんにとっては大変なんじゃないですか? だって、ここ数年ずっと出征しっぱなしで休む暇もなかったから」
「……大変でなかったと言えば、嘘になります。最近は奥様のおかげでこの領地も豊かになりつつありますが、それまでここはただ土地ばかり広いばかりで、その内実はひどいものでしたから。主力の魚や木材は商人には足元を見られて買いたたかれ、商品作物を植えようにも雪と凍り付いた大地では難しい。ですから、まともに金銭を稼ぐには領地戦での出稼ぎがもっとも手っ取り早く、確実でしたから。領地戦のおかげで橋の補修や街道の整備をなんとか捻出できていましたし」
「え、そうだったの」

 そんなことは初耳だった。

「……ルードのおかげだとばっかり」
「ルードも頑張ってくれてはいましたが、それでも費用の捻出はぎりぎりでした。それほど北部の土地は痩せ、民は困窮しておりました。皇室はもちろん、南部の貴族ども……あ、失礼」
「いいのよ。続けて」
「南部は北部に一切、関心がありませんでしたから。ここにいる連中の中には、領地戦での伯爵様の勇姿に心を奪われ、他家から移ってきた騎士までいます」

 ごくりと唾を飲み込む。

「それじゃ、ギュスターブ様は、この領地の不足分を補うために休むこともなく出征を続けていたっていうこと? 自分の欲求を発散するためでなくて……」

 スピノザは苦笑する。

「そう思われてもしかたありません。伯爵様は奥様に何もお話にはならなかったから。伯爵様が狂犬や戦争狂と呼ばれていることは知っています。しかし伯爵様が私利私欲で、ましてや物語に出てくる魔物のように血に飢えて戦ったことなど一度もありませんでした。少なくとも私がお仕えするようになってからは」
「スピノザはいつから、伯爵様に仕えているんですか?」
「子どもの頃からです。両親が病で死に、頼るべき親戚もおらず途方にくれている時に、伯爵様に城で働かないかと誘っていただいたんです。私だけではありません。同じ境遇の子どもたちも雇い入れてくださった」
「兵士として?」
「まさか。雑用係です。そのうち目を掛けてもらうようになり、文字を教えてもらいました。騎士団に入ろうと思ったのはそう、ちょうどユーリより少し早いくらいの年齢です。最初は伯爵様に反対されました。子どもが血を知るな、と、しかし私を生かしてくれた伯爵様に恩返しをするにはこれが一番手っ取り早いと思ったんです。それに、伯爵様こそ、病で倒れられ先代様の代わりに十二歳の頃に帝国との戦いが初陣でしたから、説得力はありませんでした」

 ちらりと、スピノザが目を向けてくる。

「……その……私のようなものがこんなことを言うのは僭越だとは重々承知していますが」
「構わないわ。何でも言って」

 心臓がどきどきしている。自分はとんでもない勘違いをしているのではないか。知りたいという気持ちを抑えられない。

「……右も左も分からない土地に嫁いでこられて、心細く思われているあなたを、伯爵が想わぬ日々はありませんでした。もちろん、それで、奥様がこれまで覚えた寂しさがなくなることはありませんし、伯爵様への怒りは正当なものだと私も思います。ですが結婚してから、ずっと伯爵様の心にあったのはあなたのことだけです」

 ――……今さらそんなことを言われても。

 フリーデは戸惑い、喜ぶことも怒ることもできない曖昧な表情で、頷くことしかできなかった。
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