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11 子守歌
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――ユーリはやる気満々だけど、大丈夫かな……。でも子どもがやりたいと思うことはさせてあげるべきだし。
夜、フリーデはベッドの縁に腰かけ、日中のことを考えていた。
ユーリは同年代よりも体が小さく、力も弱い。そんな彼が、兵士たちと一緒に訓練なんてついていけるのだろうか。どれだけ心配してもしたりない。
こんな描写は原作にはなかったことだ。
ちなみに今、ユーリは寝室のお風呂に入っている。しっかりした子だからメイドが付き添わなくても自分でほとんどのことは何でもできる。
「落ち着かないようだな」
窓際のテーブル席で書類に目を通していたギュスターブが視線を向けてくる。
ギュスターブは当たり前のように寝室にいる。
夫婦生活を邪魔させているなんてユーリに罪悪感を抱かせないためとはいえ、離婚予定の相手と普通に寝室に一緒にいるのは変な気持ちだ。
――前ほど、拒否感がなくなっているし。
「スピノザは冷静沈着で頭も切れる。あいつに任せておけば問題ない」
「それはもちろん分かって……いえ、話しぶりから、無茶をするような人ではないことは何となく分かります、という意味ですけどね」
「なら、何が心配なんだ?」
ギュスターブは書類をテーブルに置くと、フリーデの隣に自然と移動してくる。
体格が大きいから思った以上に、圧がある。
フリーデはそれとなく距離を空けるが、すぐに詰められてしまう。
ムッとした。
「私、本気で心配してるのに。あなたは私の心配にかこつけて、私をほだそうとしてるんですか? 伯爵たる人が姑息すぎませんか?」
「そんなつもりはない。心配する妻を慰めるのは夫として当然の責務だと思ってる。下心なんてない」
これまで夫としての責務を放り出しておきながらよく言う。
「……私が心配なのは、ユーリが無茶をしないかです。あの子はしっかりしすぎているし、真面目なんです。きっと早く成果が出したいあまり、無茶をしてしまうこともあると思うんです」
「そういうのも子どもらしいと思うけどな。むしろやる気がなければ伸びるものも伸びないぞ」
「あなたとユーリを一緒にしないでください」
悪かった、とギュスターブは苦笑まじりに頭を軽く下げる。
「周りには戦いの猛者たちが揃っているし、俺も目を光らせる。それに、ユーリは男だ。怪我の一つや二つして当然だ。俺と比べなくとも、子どもはそうやって強くなる」
「あんな年齢でも、男は男っていうことですか?」
ユーリはたしかに原作でも強くなることに対しても驚くほど貪欲だ。
それは自分の命を狙う者から逃れるためであったり、ギュスターブの仇を討つためだったり。色々な想いが混ざり合った結果。
しかしその姿は鬼気迫るものがあり、序盤の幼少時の無垢な姿を知っている身からすると、少し狂気じみたものさえ感じてしまう。
それがフリーデには心配なのだ。そんな未来を回避したくてフリーデはこうして日々、頑張っているのだから。
「男はそういうものだ。口を出すばかりでなく、見守るのも大切だ。簡単にできることではないが」
「それは……まあ、頭では分かりますけど」
「考えてばかりだと良くない。とにかく、今は見守ろう。本人がやる気になってるんだから」
「ですね」
フリーデは頷く。
ギュスターブに話を聞いてもらったおかげか、さっきよりも多少は胸が軽くなっていた。
「……俺から一つ聞きたいことがあるが、いいか?」
「何です?」
「昼間、矢がとんできた時、どうして刺客と思った?」
ギュスターブは鋭い光の浮いた眼差しで、じっと見つめてくる。
何かを疑っているように感じるのは、フリーデが転生者という秘密を抱えているからだろうか。もちろんギュスターブの眼差しの中に疑念があるのとは違う。ただ純粋に、疑問に思っているのだろう。
――ここは下手にはぐらかす必要はないわよね。
「きっと、ユーリの出自のせいだと思います。いつ皇帝が何かを仕掛けているのか。無視行きのうちに気を張っていてそれで」
「そうか……。頼りない夫だという自覚はあるが、昼間のようにお前も、ユーリも守るから安心してくれ」
「私のことはどうぞお構いなく」
と、フリーデは視線を感じてそっちへ目をやる。
「ユーリ!?」
扉の隙間からじっと見ていたユーリは気まずそうな顔をする。
「あの、今日は僕、自分の部屋で寝ます……」
そう虫の鳴くような声で呟く。
「お風呂から上がったのね。来て。せっかく温まったのに、湯冷めしちゃうわよ」
手招きすると、ユーリは「あの、でも……」と口ごもる。
「お二人が仲良くしているに……僕、甘えちゃってて」
ギュスターブはフッ、と笑う。
「仲良くならいつでも出来るから、遠慮せずに来い」
ギュスターブが右手を伸ばす。
色々もの申したい発言だが、ユーリはそれで安心したように、ててて、と走ってくると、ベッドにジャンプして乗っかる。
こういうちょっとした仕草が子どもらしい。
そしてベッドにもぐりこんだ。
「明日は朝早いからもう寝ましょう」
いつものようにユーリを間に挟んだ川の字に横になる。
「フリーデ様」
ユーリがおずおずと口を開く。
「どうかした?」
「怒っていますか? 僕が訓練に参加したいって言ったこと……」
フリーデは首を横に振り、不安そうなユーリに微笑みかける。
「昼間も言ったけど、心配なの。分かってる。あなたが強くなりたいという気持ちも。それでもね、やっぱり私はハラハラしてしまうの。だけど私のことは気にしなくても大丈夫。あなたはあなたのしたいことをして。それが一番。遠慮はいらないと言ったのは、私たちだもの」
「ありがとうございますっ」
ぎゅっと抱きついてくる。
この尊ささえ感じるような可愛さに、心臓が壊れてしまいそうなくらい高鳴る。
「……もう一つだけ、わがままを言ってもいいですか?」
「いいわ。じゃんじゃん言って!」
「歌をうたってくれませんか?」
想像していなかったリクエストに、フリーデはびっくりしてしまう。
「ど、どうして?」
「ギュスターブ様からお聞きしたんです。フリーデ様はとても歌が上で、聞く人を魅了するほどなんだって……」
フリーデは、ギュスターブを見る。
彼は静かな眼差しで見返してきた。
たしかにフリーデは帝都ではその美声で知らぬ人はいないと言われていた。
子どもの頃には、先帝の誕生日に歌を披露したこともあったほど。
気付けば、ノルラントの歌姫と言われていた。
転生した自分でもその歌声が出せるだろうか。
――大丈夫。歌は気持ちだもん!
「……いいわ」
フリーデは、ユーリの触り心地のいい美しい金髪を撫でながら、歌いはじめる。
それは子守歌。
フリーデが、亡き母に歌ってもらったことのあるもの。
前世を思い出した今でもちゃんとその時のことは覚えているし、亡き母のことを想うと、こみあげるものがある。
寂しさを紛らわせるため、フリーデはその歌を口ずさんだりもしていた。
“母の腕の中、眠るあなたは天使の顔。その小さく、あどけない、あなたを包み、良き夢を見られますよう、良き目覚めを迎えられますよう、母の願いを注ぎましょう”
伸びやかなソプラノが寝室にひっそりと響く。
――歌姫なんかじゃないとか言われたら、絶望なんだけど!
夢中で歌う。
ギュスターブと目が合うと、彼は口元に右手の人差し指を添える。
「?」
ギュスターブが視線をユーリに向ける。
ユーリは寝息をたてて眠っていた。
フッ、と口元を緩める。
「……おやすみなさい、ユーリ」
額にそっと口づけをする。
「……私の歌、どうでしたか?」
歌姫じゃないと言われたらどうしようとドキドキしながら尋ねる。
「良かった。さすがは歌姫」
「……からかってます?」
「褒めてるんだから素直に受け取ってくれ。なんならもう一曲くらい――」
「眠ります、おやすみなさい」
「おやすみ」
ギュスターブの声にかすかに笑みが混じった。
フリーデは目を閉じた。すぐに眠りがやってくる。
※
――さすがは、歌姫。あの日よりもずっと素晴らしいな。
フリーデの伸びやかで澄み切った歌声を耳にした途端、ギュスターブは全身が昂奮で熱くなるのを意識した。
子守歌で昂奮するなんて自分くらいなものだろう、と心の中で苦笑してしまう。
腕を伸ばし、フリーデの瞼にかかっている前髪をそっとどかす。
顔がよく見える。ギュスターブは一人満足する。
先帝から褒美を取らすと言われた時、迷わず、フリーデとの結婚を願い出た。
ギュスターブにとって、彼女が初恋だったから。
まだ父が健在だった時、皇帝に拝謁するためギュスターブは父と帝都を訪れた。
当時、十一歳。はじめての帝都だった。
領地とは比べものにならないくらい賑やかで、立派で大きな建物がちこちにある都に圧倒され、魅了された。
謁見を済ませた帰り、ギュスターブは用事があると父に言われ、一人で屋敷に帰ることになった。
しかしそこは嫡男としての自覚より、好奇心のほうが勝る年頃の子ども。
父の言いつけを素直に守るはずがない。
皇宮を探険するという誘惑に抗えず、広い庭先を回ってみた。
庭はそれだけでも領地の屋敷よりもずっと広くて、あっという間に迷子になってしまった。折悪く、誰とも擦れ違わなかった。
どこをどう歩いていただろうか。
ギュスターブの耳に可憐な歌声が聞こえて来たのは、心細さを感じていたその時のことだった。
まるで花の蜜に惹かれるように、自然と足が向いた。
それが、フリーデとの初対面。一方的なものだったけど。
白いドレス姿の少女が、大勢の令息や令嬢たちを前に、伸びやかな歌声を披露していた。
夏の青空のように深く美しい青い髪に、アメジストを思わせる澄み切った光を宿す紫色の瞳をした、あどけない少女。
その歌声は大人顔負けの伸びやかさで、はじめてそんな美しい歌声を聞いた。
――すごい……!
音楽に特別造形が深くもない田舎者のギュスターブの心は、あっという間に少女の可憐な出で立ちと歌声に魅了された。
屋敷に戻ってからも、頭から少女の姿と歌声が離れなかった。
それから父に少女のことを聞くと、ノルラント侯爵家の長女フリーデだと教えてくれた。
『どうした、フリーデ様のことが好きになったか?』
『はい! 私の妻にはできませんか?』
父は息子の初恋を微笑ましそうに聞いていた。
『無理だな。相手は侯爵家の姫君。貴族の末席である我が家には望むべくもない。なにせ侯爵家だ。公爵家や、もしかしたら皇族の方とも結婚できるような家柄だ』
『何とかなりませんかっ?』
普段ほとんど他者に感心を示さない息子がはじめて興味を持ったことに、父親なりに思うことがあったのかもしれない。
『……皇帝陛下からじきじきにお褒めの言葉を頂けるような、誰も文句をつけられないような素晴らしい功績をあげさえすれば、もしかしたら……』
領地も貧しく、学に優れていないギュスターブにできることは、戦だけだった。
皇帝からも目をかけられるような強い武人になる、とギュスターブはその時、はじめて心に誓った。
もちろんフリーデのためだけに戦場を駆け回ったわけではない。
しかし大戦に勝利したその夜には決まって、フリーデを腕の中に掻き抱く夢を見た。
――そんな彼女と結婚できたというのに俺は……。
ギュスターブはいつものように二人を起こさぬよう、そっとベッドから抜け出すのだった。
夜、フリーデはベッドの縁に腰かけ、日中のことを考えていた。
ユーリは同年代よりも体が小さく、力も弱い。そんな彼が、兵士たちと一緒に訓練なんてついていけるのだろうか。どれだけ心配してもしたりない。
こんな描写は原作にはなかったことだ。
ちなみに今、ユーリは寝室のお風呂に入っている。しっかりした子だからメイドが付き添わなくても自分でほとんどのことは何でもできる。
「落ち着かないようだな」
窓際のテーブル席で書類に目を通していたギュスターブが視線を向けてくる。
ギュスターブは当たり前のように寝室にいる。
夫婦生活を邪魔させているなんてユーリに罪悪感を抱かせないためとはいえ、離婚予定の相手と普通に寝室に一緒にいるのは変な気持ちだ。
――前ほど、拒否感がなくなっているし。
「スピノザは冷静沈着で頭も切れる。あいつに任せておけば問題ない」
「それはもちろん分かって……いえ、話しぶりから、無茶をするような人ではないことは何となく分かります、という意味ですけどね」
「なら、何が心配なんだ?」
ギュスターブは書類をテーブルに置くと、フリーデの隣に自然と移動してくる。
体格が大きいから思った以上に、圧がある。
フリーデはそれとなく距離を空けるが、すぐに詰められてしまう。
ムッとした。
「私、本気で心配してるのに。あなたは私の心配にかこつけて、私をほだそうとしてるんですか? 伯爵たる人が姑息すぎませんか?」
「そんなつもりはない。心配する妻を慰めるのは夫として当然の責務だと思ってる。下心なんてない」
これまで夫としての責務を放り出しておきながらよく言う。
「……私が心配なのは、ユーリが無茶をしないかです。あの子はしっかりしすぎているし、真面目なんです。きっと早く成果が出したいあまり、無茶をしてしまうこともあると思うんです」
「そういうのも子どもらしいと思うけどな。むしろやる気がなければ伸びるものも伸びないぞ」
「あなたとユーリを一緒にしないでください」
悪かった、とギュスターブは苦笑まじりに頭を軽く下げる。
「周りには戦いの猛者たちが揃っているし、俺も目を光らせる。それに、ユーリは男だ。怪我の一つや二つして当然だ。俺と比べなくとも、子どもはそうやって強くなる」
「あんな年齢でも、男は男っていうことですか?」
ユーリはたしかに原作でも強くなることに対しても驚くほど貪欲だ。
それは自分の命を狙う者から逃れるためであったり、ギュスターブの仇を討つためだったり。色々な想いが混ざり合った結果。
しかしその姿は鬼気迫るものがあり、序盤の幼少時の無垢な姿を知っている身からすると、少し狂気じみたものさえ感じてしまう。
それがフリーデには心配なのだ。そんな未来を回避したくてフリーデはこうして日々、頑張っているのだから。
「男はそういうものだ。口を出すばかりでなく、見守るのも大切だ。簡単にできることではないが」
「それは……まあ、頭では分かりますけど」
「考えてばかりだと良くない。とにかく、今は見守ろう。本人がやる気になってるんだから」
「ですね」
フリーデは頷く。
ギュスターブに話を聞いてもらったおかげか、さっきよりも多少は胸が軽くなっていた。
「……俺から一つ聞きたいことがあるが、いいか?」
「何です?」
「昼間、矢がとんできた時、どうして刺客と思った?」
ギュスターブは鋭い光の浮いた眼差しで、じっと見つめてくる。
何かを疑っているように感じるのは、フリーデが転生者という秘密を抱えているからだろうか。もちろんギュスターブの眼差しの中に疑念があるのとは違う。ただ純粋に、疑問に思っているのだろう。
――ここは下手にはぐらかす必要はないわよね。
「きっと、ユーリの出自のせいだと思います。いつ皇帝が何かを仕掛けているのか。無視行きのうちに気を張っていてそれで」
「そうか……。頼りない夫だという自覚はあるが、昼間のようにお前も、ユーリも守るから安心してくれ」
「私のことはどうぞお構いなく」
と、フリーデは視線を感じてそっちへ目をやる。
「ユーリ!?」
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ギュスターブはフッ、と笑う。
「仲良くならいつでも出来るから、遠慮せずに来い」
ギュスターブが右手を伸ばす。
色々もの申したい発言だが、ユーリはそれで安心したように、ててて、と走ってくると、ベッドにジャンプして乗っかる。
こういうちょっとした仕草が子どもらしい。
そしてベッドにもぐりこんだ。
「明日は朝早いからもう寝ましょう」
いつものようにユーリを間に挟んだ川の字に横になる。
「フリーデ様」
ユーリがおずおずと口を開く。
「どうかした?」
「怒っていますか? 僕が訓練に参加したいって言ったこと……」
フリーデは首を横に振り、不安そうなユーリに微笑みかける。
「昼間も言ったけど、心配なの。分かってる。あなたが強くなりたいという気持ちも。それでもね、やっぱり私はハラハラしてしまうの。だけど私のことは気にしなくても大丈夫。あなたはあなたのしたいことをして。それが一番。遠慮はいらないと言ったのは、私たちだもの」
「ありがとうございますっ」
ぎゅっと抱きついてくる。
この尊ささえ感じるような可愛さに、心臓が壊れてしまいそうなくらい高鳴る。
「……もう一つだけ、わがままを言ってもいいですか?」
「いいわ。じゃんじゃん言って!」
「歌をうたってくれませんか?」
想像していなかったリクエストに、フリーデはびっくりしてしまう。
「ど、どうして?」
「ギュスターブ様からお聞きしたんです。フリーデ様はとても歌が上で、聞く人を魅了するほどなんだって……」
フリーデは、ギュスターブを見る。
彼は静かな眼差しで見返してきた。
たしかにフリーデは帝都ではその美声で知らぬ人はいないと言われていた。
子どもの頃には、先帝の誕生日に歌を披露したこともあったほど。
気付けば、ノルラントの歌姫と言われていた。
転生した自分でもその歌声が出せるだろうか。
――大丈夫。歌は気持ちだもん!
「……いいわ」
フリーデは、ユーリの触り心地のいい美しい金髪を撫でながら、歌いはじめる。
それは子守歌。
フリーデが、亡き母に歌ってもらったことのあるもの。
前世を思い出した今でもちゃんとその時のことは覚えているし、亡き母のことを想うと、こみあげるものがある。
寂しさを紛らわせるため、フリーデはその歌を口ずさんだりもしていた。
“母の腕の中、眠るあなたは天使の顔。その小さく、あどけない、あなたを包み、良き夢を見られますよう、良き目覚めを迎えられますよう、母の願いを注ぎましょう”
伸びやかなソプラノが寝室にひっそりと響く。
――歌姫なんかじゃないとか言われたら、絶望なんだけど!
夢中で歌う。
ギュスターブと目が合うと、彼は口元に右手の人差し指を添える。
「?」
ギュスターブが視線をユーリに向ける。
ユーリは寝息をたてて眠っていた。
フッ、と口元を緩める。
「……おやすみなさい、ユーリ」
額にそっと口づけをする。
「……私の歌、どうでしたか?」
歌姫じゃないと言われたらどうしようとドキドキしながら尋ねる。
「良かった。さすがは歌姫」
「……からかってます?」
「褒めてるんだから素直に受け取ってくれ。なんならもう一曲くらい――」
「眠ります、おやすみなさい」
「おやすみ」
ギュスターブの声にかすかに笑みが混じった。
フリーデは目を閉じた。すぐに眠りがやってくる。
※
――さすがは、歌姫。あの日よりもずっと素晴らしいな。
フリーデの伸びやかで澄み切った歌声を耳にした途端、ギュスターブは全身が昂奮で熱くなるのを意識した。
子守歌で昂奮するなんて自分くらいなものだろう、と心の中で苦笑してしまう。
腕を伸ばし、フリーデの瞼にかかっている前髪をそっとどかす。
顔がよく見える。ギュスターブは一人満足する。
先帝から褒美を取らすと言われた時、迷わず、フリーデとの結婚を願い出た。
ギュスターブにとって、彼女が初恋だったから。
まだ父が健在だった時、皇帝に拝謁するためギュスターブは父と帝都を訪れた。
当時、十一歳。はじめての帝都だった。
領地とは比べものにならないくらい賑やかで、立派で大きな建物がちこちにある都に圧倒され、魅了された。
謁見を済ませた帰り、ギュスターブは用事があると父に言われ、一人で屋敷に帰ることになった。
しかしそこは嫡男としての自覚より、好奇心のほうが勝る年頃の子ども。
父の言いつけを素直に守るはずがない。
皇宮を探険するという誘惑に抗えず、広い庭先を回ってみた。
庭はそれだけでも領地の屋敷よりもずっと広くて、あっという間に迷子になってしまった。折悪く、誰とも擦れ違わなかった。
どこをどう歩いていただろうか。
ギュスターブの耳に可憐な歌声が聞こえて来たのは、心細さを感じていたその時のことだった。
まるで花の蜜に惹かれるように、自然と足が向いた。
それが、フリーデとの初対面。一方的なものだったけど。
白いドレス姿の少女が、大勢の令息や令嬢たちを前に、伸びやかな歌声を披露していた。
夏の青空のように深く美しい青い髪に、アメジストを思わせる澄み切った光を宿す紫色の瞳をした、あどけない少女。
その歌声は大人顔負けの伸びやかさで、はじめてそんな美しい歌声を聞いた。
――すごい……!
音楽に特別造形が深くもない田舎者のギュスターブの心は、あっという間に少女の可憐な出で立ちと歌声に魅了された。
屋敷に戻ってからも、頭から少女の姿と歌声が離れなかった。
それから父に少女のことを聞くと、ノルラント侯爵家の長女フリーデだと教えてくれた。
『どうした、フリーデ様のことが好きになったか?』
『はい! 私の妻にはできませんか?』
父は息子の初恋を微笑ましそうに聞いていた。
『無理だな。相手は侯爵家の姫君。貴族の末席である我が家には望むべくもない。なにせ侯爵家だ。公爵家や、もしかしたら皇族の方とも結婚できるような家柄だ』
『何とかなりませんかっ?』
普段ほとんど他者に感心を示さない息子がはじめて興味を持ったことに、父親なりに思うことがあったのかもしれない。
『……皇帝陛下からじきじきにお褒めの言葉を頂けるような、誰も文句をつけられないような素晴らしい功績をあげさえすれば、もしかしたら……』
領地も貧しく、学に優れていないギュスターブにできることは、戦だけだった。
皇帝からも目をかけられるような強い武人になる、とギュスターブはその時、はじめて心に誓った。
もちろんフリーデのためだけに戦場を駆け回ったわけではない。
しかし大戦に勝利したその夜には決まって、フリーデを腕の中に掻き抱く夢を見た。
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