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暗黒都市ガルデピュタン、消えぬ縛鎖の因業編
1.醜い男
しおりを挟む黄昏、という単語が在る。
由来は「誰そ彼時」……つまり「あれは誰だ」という言葉からであり、早朝や夕方などの太陽が地平線に接する時刻を指したものだ。
その時になると、世界は眩い光を放つと同時に薄暗い闇を纏う奇病にかかり、人を影のような姿へと変貌させてしまう。
――夜は世界の死である、と、どこかのふざけた吟遊詩人が言っていた。
ならば相手や己の存在すらも歪み霞ませる「黄昏」とは、死の直前の甘美な酩酊とでも言うのだろうか。そんな寒々しい酩酊があってたまるかと、常々思っていた。
酒は炎の液体だ。こんな荒れ地のように荒涼とし、体から熱を奪って行く酩酊などただの罰に等しい。それが死の間際の感覚であるとすれば、願い下げだった。
「たそがれ時」と言う言葉が現在は夕時しか指さなくなったのは、多くの者がその死の間際の酩酊を疎うたからかも知れない。
喉が夜に酒を乞うのは、正しき酩酊を認識しようとするからだ。
つまり「幸福でなければ死ではない」という事だろう。
だが、死というものがそもそも存在するのだろうか。
肉体的な死は完全なる死と呼べるのか。霊体として世を彷徨う者が存在する限り、それは難しい問答だった。
「……ハハッ……ごろつきに、そんな高尚な哲学なんぞ解る訳もねえか……」
己の思考を己でせせら笑って、夕暮れの空を見上げた。
……いつもこうだ。どんな時でも、自分は過去の栄光に縋ろうとしている。
荒野に逃げ延びて、その嘲笑ったごろつき共よりも惨めな暮らしを味わっていると言うのに、未だに己の尊大な自尊心は己を「高尚である」と思い込もうとしていた。
そんな心など、生きて行く上では畑の肥やしにすらもならないと言うのに。
「……さて、どうしたもんかな」
ボロボロになったズボンから見える膝は、擦り切れて血が滲んでいる。
先程までの優雅な思索とはまるで違う自分の姿に溜息を吐いて、伸ばしっぱなしにしている髪をがしがしと掻き回した。
陰毛頭だなと下卑た連中に言われるほど縮れ縺れる髪は、艶を持つ余裕も無い。
それでも、忌まれる黒髪でないだけマシというものだろう。
この国では特に、黒髪が嫌われている。
そういえば、不評だった自分の高く醜い鷲鼻に比べて、この薄ぼけた暗い色の髪は昔はご婦人方に人気だったなと思い出し、首を振った。
「チッ……余計な事ばかり思い出す……死ぬ間際の走馬燈って奴か」
そこまで窮地に居るとは思いたくない。
手に持った太い枯れ枝を砂混じりの黄土に突き刺し、とにかく足を進めた。
「クソ……何で俺がこんな事を……」
そんな事態でないのは自分でも理解しているのだが、急勾配を手負いのままで歩かされると言うのは非常に辛い。愚痴の一つでも吐かないとやっていられないのだ。
それもこれも、盗賊が悪い。
盗賊に襲われたのが運の尽きだった。
「畜、生……ッ、ガキのくせに鉄の剣なんぞ持ちやがって……ッ」
思い出しても、はらわたが煮えくり返るようだった。
――そもそも、あの場所を離れて商売をするのには最初から反対だったのだ。
欲を掻いた同業者の勧めで、連れ立って遠い街へ仕入れに行くことになり、軍資金代わりの商売道具と共に、馬車で“入らずの森”の近くを通ったのが運の尽き。そこで盗賊に襲われ、商売道具も奪われ、命からがら逃げ込んだのがこの草木もまばらな渓谷と言う訳だ。今ではもう、自分がどこに居るのかすら解らない。
緊急用の水も食料も、三日目ともなると尽きて来た。あの森に戻れば食料は何とかなるだろうが、地理が把握出来なければ盗賊の糧になるのがオチだ。そうならない為にも、何とかこの場所がどう言う所なのか把握しておく必要があった。
しかし、この渓谷がこんなにも荒れ果てた土地だとは思わなかったが。
「クソ……目が霞んできやがった……」
恐らく、空腹と渇きによる症状だ。医術書にそのような症例が在った。
こうなると体力がいつ切れるか解らない。早く、栄養を摂取して休む必要がある。
だが、目的の崖に着くまでは、食料を無駄に消費できなかった。
とにかく、場所だ。この場所の地理が解らねば何も出来やしない。
いずれこの腰に付けた皮袋からも水が消えるだろう。付け合せの汁物が無い干し肉など、汗の染み込んだ革靴を食べているに等しい。そんな物を食べていたら、どの道死んでも仕方がないのだ。森を彷徨ってもいつかは盗賊に殺されるか野垂れ死ぬ。
何も解らず逃げ惑っていては、再び絶望に落ちる愚か者にしかなれないのだ。
だから、何としてでも、街へ戻る足がかりが欲しかった。
希望を失わない為にも。
「…………なにが、希望だ」
自分で考えておいて、笑えてくる。
こうなってから、希望などという言葉とは縁遠い生活を送っていたと言うのに。
(今更希望など持って何になる。どん底まで堕ちたらそれきりだ)
そう、どうする事も出来ない。井戸の底に落ちたら、もう二度と這い上がれない。
己の運命を呪いながら、そのまま朽ちて行くだけだ。
だからこそ、自分はあの街でくすぶっているべきだった。近場で商売をちまちまとやっていれば、それで良かったのだ。そうすれば、こんな僻地で飢えに苦しむ事など無かっただろうに。
(まあ、後の祭りだがな……)
やはりあの時、屈辱に耐えきれないと発狂して、血管を破裂させ死んでおいた方が良かっただろうか。生き汚いと後ろ指をさされ、様々な物に嘲笑されながらも、這い蹲って生き延びたのに、結局はこんな事になるなんて。
「クソッタレ、神なんて滅びちまえ……ッ」
何が「神は信じる者を助ける」だ。
えり好みをする神なら、滅んでしまえばいいのだ。
そんな罰当たりな悪態を吐きながら、地獄のような坂の緩い曲がり角を登り、崖の裏に回り込んでいる部分にやっと辿り着くと。
「――――……!?」
急に、数日前に嗅いだ鮮烈な臭気が鼻に届いた。
この臭いには嗅ぎ覚えがある。
だが、まさかこんな人気のない場所にそんな物が在る訳が無い。焦り、思わず足が竦む。しかしこの道以外に目的の崖へ登る道は無いのだ。それに、今更後戻りも出来ない。進むしかない事は、もう解り切っていた。
(ええいクソッ、何で俺はこうツいて無いんだ……!)
もしモンスターであれば、今度こそ終わりだ。
手負いの獣ほど恐ろしい相手はいない。しかし、この世は何が起こるか解らない物なのだ。もしかしたら、鉄で出来た岩が聳えているだけかも知れない。まず、確かめなければ。そう思い、ゆっくりと緩い曲がり角の壁に近付き、背を押し当てて極力音を立てないように道の先を覗き見てみると……――
「あ……?」
少し広がり広場のようになった道の真ん中に、何かがある。
道を塞いでいるようだが、しかしその“何か”の下には――――
地面に染み込み、絨毯のように広がった血の跡がこびりついていた。
(なん、だ……あれは……)
血か。臭いからしてアレは血液の跡に違いない。だが、量が多すぎる。あれでは、体中から血が噴き出したかのようではないか。だったら、あの“何か”は死んでいるのだろうか。先程からぴくりとも動かない所からして、死体なのかも知れない。
しかしおかしい。何故こんな場所に死体があるのか。罠ではないのだろうか。
そう考えると体中から一気に冷や汗が湧き上がって来て、心臓が激しく脈打つ。
もうこれ以上塩分も水分も失う訳には行かないと言うのに、体は危険を感じて汗を絞り出す。そうなると最早渇きは決定的な物になって。
(……あの死体から……なにか……何か、奪えないか……)
水はもう心許ない。食料も尽きかけている。
生きる為にあの死体から奪っても、誰も罪には問わないだろう。
そもそも、これが罠であるなら自分はもう助からない。この荒れ地に居る時点で、逃げ場などないのだから。なら、取るべき行動は一つだ。
ゆっくりと、曲がり角を越えて、慎重に近付く。
高所特有の冷たい風が当たって来て体も肝も冷えたが、しかし血溜りの上の小さな死体はぴくりとも動かなかった。周囲は風の音以外何も聞こえない。
しかし信用出来ず、じりじりと時間をかけて近付くと――難なくその死体に近付く事が出来てしまった。どうも、罠では無かったらしい。
(しかし、何だってこんな所に……ガキ……? ガキの死体が転がってんだ)
そうは思うが、安堵してしまっている自分が憎らしい。
思わず死体の頭を蹴りそうになったが、それはやめておいた。
「…………盗賊の仲間か……?」
それにしては、服の質が違うような気がする。ボロボロになってはいるが、上着やズボンの生地は上質なようだ。そもそも、左腕に嵌っている美しい金の腕輪は盗賊が持てるような代物ではないだろう。
無意識に手が伸びたが、こんな状況では金目のものなど役にも立たない。
「チッ……食い物は持ってないか……」
金目の物は持っているが、それ以外の物は無い。
血だらけになっているせいか、顔にはどす黒くなった髪がこびり付いていて、所々腫れているせいか、少年という事は解るが詳細は把握出来なかった。
まあ何にせよ、今調べる事でもないが。
(食料が無ければ用は無いか……)
無駄な汗をかいてしまった。そう思い、先を急ごうとすると。
「ごぼっ」
「……!!」
少年の口から、鮮血がどろどろと流れ出す。
唐突な変化に目を見開き硬直していると、なんと死体だと思っていた相手は、急に痣だらけの腹を動かし始めたではないか。
(……そう言えば、腐った臭いはしなかったな……)
ということは、この“少年らしき物体”は生きているのだろうか。
その小さな口から流れ出る新鮮な血をじっと見て……ふと、思った。
(血なら、腹の足しくらいにはなるんじゃないのか)
人肉は流石に遠慮したいが、血液なら多少栄養になるはずだ。
多量に摂取する事は出来ないだろうが、塩分は折り紙つきだろう。幸い水はまだ残っているし、体力を回復するためにも飲んでおいた方が良いかも知れない。
どうせ、ここに放置されていれば、いずれは死ぬのだ。
なら、自分の為に役立ってくれた方がこの瀕死の誰かも浮かばれるだろう。
そう思い、地面に膝を付いて――――口の端から流れる血液を、啜った。
「――――!!」
どうせまずい。そう、思っていたのだが。
(なんだ、コイツ……本当に人族なのか……?!)
血液特有の嫌な味がしないどころか、どうかすれば美味いとすら思えてくる。
人の血と言うものは、同族食いを禁じる為に敢えてまずい物になっていると誰かが言っていたが……だとしたら、この血の美味さはどういう事なのだろう。
塩味は有る。鉄のような味もする。だが、甘い。渇きが癒えるほど、どうしようもなく甘露としか言えない味だった。
「ッ……」
有り得ない事だ。もしかすると、この少年はモンスターか悪魔かもしれない。
だが、それでももうこの血を啜る事からは逃れられなかった。
地面に手を付き、浅ましく血液を舐め、柔らかな唇に吸い付く。
すると、微かに息をしている事が解り、思わず飛び退いた。
「なっ……い……生きてるのか……コイツ……!?」
全身血塗れで、無事な所の方が少ないような状態なのに、それでもこの少年らしき存在は生きている。よく見れば、腫れていたと思っていた顔は痣に染まっている程度で、どこも歪んではいなかった。
(…………見間違い……? いや、だが、あの時見た顔は確かに変形していたはず。体だって、考えてみれば妙な方向に曲がっていたような……)
…………もしかすると、幻覚を見ていたのかも知れない。
そうだろう。きっと、そうに違いない。体力が尽きかけていたせいで、妙な幻覚を見たのだろう。何せ同族の血液を美味いと感じるほど追い詰められていたのだから。
「……生きてるのか……」
低い声で呟くと、今まで口から血を流していた少年は咳き込み始めた。
やはり、生きていたのか。
「ごほっ、けほっけっ、ッ……」
死体だと思っていた少年は「生きている」と示すように何度も咳き込み、首を横へと動かす。すると今まで自分が啜っていた血液がどろどろと流れ出て、また顔や髪が血に浸され染まった。……尋常ではない量の血液を流したはずなのに、それでまだ、これほどの血を流せると言うのだろうか。
(もしかして、地面の血痕はこいつの血じゃないのか……? 考えてみれば、腐臭や爛れた臭いがしないのだから、コイツは元々軽い怪我だったのかもしれん)
そんな事を考えていると、首を横たえた少年の目が、薄らと開いた。
「……!」
思わず驚き飛び退いてしまったが、相手は気付いていない。
だが、濁った目を酷くゆっくりと動かして、少年は遂にこちらを見つける。
そうして。
「あ……」
濁声の混じる、幼い声を口から漏らし――――
血と痣だらけの顔で、彼は笑った。
「…………」
笑った。笑っただと?
どういう、意味なのだろう。笑って死のうと思ったのか。それとも、ほぼ同じ境遇の自分を憐れんで笑ったのか、ざまあみろと思ったのか。しかしその笑みには邪気が一切感じられなかった。赤子のような笑みで、ただ、笑ったのだ。
こんな醜い自分を見つけて。
「……お……おい……」
何故か、呼びかけるような声が自分から漏れる。
すると今まで倒れていた少年は、生まれたての小鹿のようにガクガクと震えながら必死に上体を起こすと、こちらに再び顔を向けて来た。
酷く長い時間が経ち、最早夕方も終わろうとしている。
段々と薄暗くなってきた世界に起き上がり、少年は自分を見て、また笑った。
だが。
「あ……あー。あ……あー、うぅー……」
その言葉は言葉になっておらず、まさに赤子その物だった。
「…………お前は、誰だ?」
問いかけてみるが、相手は応えない。
ただ赤子のような声を出して、四つん這いでこちらに近付いて来る。
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「あー」や「うー」としか喋れない、血塗れの少年。普通に考えればモンスターの類だろうし、とてもじゃないが近付く事など出来ないだろう。
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「っ……」
血塗れの少年は、がくがくと震える手と足で必死に体を動かし、やっと自分のすぐ傍に辿り着く。すると、相手は嬉しそうに微笑み、震える手を伸ばして――
「あぅ、う……」
自分の無精ひげだらけの顔を撫で、何故か……涙を、流し始めた。
「…………お前……」
何故だかは解らない。だが、血だらけの少年は泣いている。泣いて、喜んでいる。
その事が何故か、酷く心を掻き乱し……落ち着かせた。
「あー。ぅああ」
「…………」
よく解らないが、この少年は敵ではないようだ。
涙を流して喜ぶくらいだ。きっと人恋しかったのだろう。ならば、少なくともこの少年には周囲に仲間がおらず、捨てられたような立場になっているはず。
血だまりに放置されていた所からすると、モンスターにでも攫われて、放置されていたのかも知れない。ならば、もう身分を証明する事も出来ないだろう。
(……だったら……幾らでも利用価値はあるな)
もしこういう理由で捨てられたのなら、使い道は幾らでもある。
どうせ、こんな風になった者は人扱いなどされない。人の形をした家畜になる。
生かすも殺すも搾取するも、所有した者の自由なのだ。
自分は、そんな哀れな“商売道具”を、数えきれないほど見て来た。
「クッ……ハハハッ……神様ってのがやっと俺に融通を利かせてくれたらしい」
「あうぅ」
無邪気に笑いながら自分のみすぼらしい顔や髪を撫でる少年に、下卑た笑みで笑い返しながら、節くれ立って痩せた手で相手の頬を軽く摘まんでやった。
「一緒に来い。上手くすれば……お前を高く買ってくれる奴に引き合わせてやろう」
……奴隷の扱いは、慣れている。
慣れていて当然だ。
何故なら、こんな哀れな者を家畜として売買するのが――――
このガストン・ドーレリアンが生き延びる為に選んだ、醜い生業だったのだから。
→
※新章は最初の頃のようにツカサがモブ等にセクハラされますが
アンケ結果(挿入ナシ)に忠実に行きますのでご安心頂けると嬉しいです。
また、番号が付いていますが、この章は基本的にツカサ視点と奴隷商人視点が
混ざっているので、そこのところもご注意ください。
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