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ラゴメラ村、愛しき証と尊き日々編
救済と慈愛
しおりを挟む「ツカサ君、お邪魔するわね」
軽くノックをして、ドアノブを回す。
鍵のかかっていないドアは容易に開き、軽く奥へと押されたが……部屋の中に居るはずのツカサは何も返してはくれない。
まだ寝ているのだろうかと部屋に入ると、そこには……うつろな目でぼうっと壁を見つめている、ベッドに座り込んだツカサが居て。
明らかに、いつもの相手の様子では無かった。
「ツカサ君」
これはいけないと感じ、シアンはドアを閉めるとすぐさまベッドに近付く。
呼びかけたが反応しない相手を見かねて、足の上に適当に乗せられている手を握ると――――やっと、ツカサがこちらを向いた。
「あ……」
小さな声を漏らして、シアンを見た、ツカサ。
その彼の顔は酷い状態だった。
(なんとむごい……)
目の下には酷い隈が出来て、顔には生気が無い。
口は力なく半開きになっており、とても普通の状態とは言えなかった。
「ツカサ君……こんなにやつれて……」
……この場合、大丈夫かとは聞いてはならない。
そう言えば、きっとツカサは「大丈夫です」と返してしまう。本当はもう限界なのに、他人に心配を掛けまいとして意地を張ってしまうのだ。
しかし、ツカサはこんな酷い状態でも我を押し通そうと言うのか、シアンの声にゆっくりとこちらを向くと、笑顔になり切れてない辛そうな顔で笑って見せた。
「大丈夫、です。……ちょっと休んだら、治るから……」
彼の中では、笑顔を完璧に作れているつもりなのだろう。
だが、もうそれを判断できる正気すらほとんど残っていないのだ。
今はただ起こった事に向き合おうとするので精一杯で、自分がどんな状態なのかも判らないに違いない。いや、解っていて、必死に目を逸らしているのか。
例え体に傷が無くとも、心はもう限界なのに。
(優しすぎる……本当に……)
人一人失った事で、それほどまでに悔やみ悲しむなんて。
それでも周囲を気遣って、感情を必死に押し込め泣く事すら我慢するなんて。
どうしてこんなに幼い少年に、それほどまでの意地が張れるのか。そう思うと心が痛くて、シアンはツカサを諭すように優しい声で呟いた。
「ツカサ君……お婆ちゃんね、嘘は嫌いよ……?」
「え……」
僅かに驚いたような表情を見せたツカサに、シアンは堪らず力のない彼の体を抱き寄せる。そうして、優しく懐に受け入れた。
相手の吐息が胸にしみて痛い。
愛しい己の子供を抱き締めた時だって、こんなに心は痛まなかった。
いっそ泣きじゃくって暴れてくれれば良い物をと考えるほどに、ツカサの体は軽く頼りなく、シアンが想像する「男」という生物とは、まるで似ても似つかない。
ツカサの体躯は……シアンがかつて胸に抱いた子供達のように、儚く柔く温かな、大人になりきれない少年そのものだった。
(こんな子に背負わせるには……辛すぎる……)
自分の子供にだって、こんな辛い思いはさせた事が無い。
そう思えば、シアンはツカサが哀れでならなかった。
「……ツカサ君、辛い事や悲しい事を押し込めてばかりいたら、いつか心が壊れてしまうわ。誰だって、心はそんなに頑丈ではない物よ。立派な大人だって……傷付いたままの心では、何も出来なくなってしまう」
「…………」
「男の子だから、人に迷惑が掛かるから……だから、我慢しようって思うのはとても立派だと思う。けれど……泣いていいって言われた時は、素直で良いの。男だって、泣いて良いのよ。貴方は頑張った。頑張ったのだもの……」
ツカサが意地を張る理由は、人に優しすぎて自分を許せないからだ。
泣いたら迷惑が掛かる。誰かが心配する。見放される。そう言った思いから、己の弱さを見せる事を恥と思って我慢してしまうに違いない。
(孤独になるのが、怖いのね…………)
そう。孤独。
他人の事を思い自分を雁字搦めにしてしまう理由は、孤独を恐れるがゆえ。
嫌われたくないという思いや、自分の情けない姿を見せて失望されたくないという思いが、これほどまでに苦しさを抑えつけてしまうのだろう。
頼る存在も無いこの異世界で、そうなってしまったのか。
……いや、恐らくこれは幼い頃からの癖に違いない。
(…………災厄にも、過去は存在するなんて……これほど残酷な事もない)
いっそ、記憶すら消してこの世界に放り込まれたら良かったかもしれない。
それならば、彼もまた赤子のように泣く事が出来ただろう。
だが、彼が歩いてきた過去がそれを許さない。ツカサは、過去の何かのせいで孤独を酷く怖がり、自分の心を必死に抑え込もうとしている。
シアンにはその過去を解ってやることが出来ないが、それでも、ツカサを見殺しにするような事は出来なかった。
過去の事は、解らない。しかし、今その事で我慢する必要など何もないのだ。
それを解って貰いたくて、シアンは彼を精一杯に抱き締めて頭を撫でた。
「ツカサ君、泣きたい時は泣いていいの。貴方を責める人なんて、ここにはいない。ブラックだって、クロウクルワッハさんだって、怒ったりしないのよ?」
「だ、けど……俺……全部、俺が……俺が、原因で…………」
「…………」
やはり、ツカサは全ての責任が自分にあると思っている。
そんなはずはない。あの場で起こった事は、彼では回避が不可能だった。
年齢ゆえの未熟さなど恥じる事ではない。力が無い事を悔やむのも仕方がないが、だからといってそれが悪だという事は決して有り得ない事なのだ。
あの時点のツカサでは、嬲られる事しか出来なかった。
事実はそうだ。しかし、それに関してツカサに何の責任があるのか。
……やはり、彼を立ち直らせるためには、全てを聞かねばなるまい。
「…………お婆ちゃんに、話してみて。何が悪いと思ったの……?」
ベッドに座り、ツカサの体を引き寄せて優しく抱きしめながら背中を擦る。
すると、ツカサは――体を震わせながら、ゆっくりと話し始めた。
――――やはり、口から出てくる言葉は自分を呪うような言葉ばかりだ。
自分が弱かったから、助けを求めたから、予測できなかったから、うまく立ち回れなかったから……人を恨むよりも先に自分を痛めつけるその言葉達は、最早滑稽とも思える程にツカサ自身を傷付ける刃にしかならなかった。
しかし、彼の話は時系列に沿って理路整然としており、こんな場合でまでシアンに迷惑を掛けまいと必死に頭の中で事象を思い出している。それがまた哀れでならず、シアンは話の途中だというのにツカサを強く抱きしめて慰めてやりたかった。
……他者を思いやる者が心を切り裂かれて、何故責められるのか。
だが、彼は怯えている。己の弱さを恥じ、恐れ、仲間を喪った事を大きな罪として自分を殺そうとしている。
そう考えるのは、異世界の人間だからなのだろうか。それとも……
(ブラックの事が、あったからかしら)
――以前ツカサは、ラッタディアの地下遺跡でブラックに助けられた。
だがブラックはツカサを守ったために一度は足を失い、命が尽きかけていたのだ。思えばあの頃から、ツカサは強迫観念を抱いていたのかも知れない。
自分が弱いから、役に立たないから、誰かが傷付くのだと。
「俺、が……俺が……気付いてたら、ラトテップさんは……っ、死ななくて、すんだのに……俺が、助けてって、言わなかったら……」
震えていても、泣かない。いや、泣けないのだ。
泣いてしまえば、それだけまた弱くなる。みっともない姿を見せれば見放されると思い込んでいるから……。
(……ずっと、無意識に自分の事を責め続けて来たのね…………)
震えながらラトテップの最期を話すツカサに、シアンは音を立てず息を吐いた。
そうして……ツカサの頭を、やさしく撫でてやる。
彼の大切な祖母とやらが、恐らくそうしたように。
「ぁっ……ぁ、う゛…………っ」
ツカサに、おざなりな慰めは通じない。
彼自身が自分を許せなければ、何も終わらないのだ。
「ツカサ君……ラトテップさんは……最期になんて言ったのかしら……?」
決まっている。ツカサが懐いた相手だ。言う事なんてシアンでも想像出来た。
きっと、彼は……――――
「……ラトテップ、さん、は……私が……し……しん、でも……気に、やむ、な……これは、つぐない……って……」
……そう。ツカサを責める事は無いと、解り切っていた。
何故ならラトテップというその男もまた……きっと、ツカサに救われたのだから。
――だからこそ、ブラックは、かの御子は、自分は……この子に、心を開いた。
彼と出会って来た人々は、彼に全身全霊を以って手を差し伸べた。
今までの自分を捻じ伏せて、光差す場所へ歩み出る事が出来たのだ。
ツカサが、ただ真っ直ぐに自分達の事を見て、受け入れてくれたから……。
「…………だったら……今のツカサ君は、間違っているわね」
「……え……?」
今にも泣きそうな真っ赤な顔で自分を見上げて来たツカサに、シアンは微笑む。
もう、解り切った事を言うつもりはない。ただ、今は、ツカサに自分の事を許せるだけの材料を与えてやりたかった。
だからこそ、間違っていると言うべきだったのだ。
今のツカサに慰めのような言葉は毒だ。苦痛にしかならない。
彼に必要なのは……シアンのような者の、厳しくも優しい言葉なのだから。
(叱るなんて、久しぶりね……)
それでもシアンには、ブラックと同様に可愛い息子だと思っているツカサを、酷く叱責することは出来そうになかったが。
「ツカサ君、考えてみて。貴方がもし誰かの為に死んだとしたら……貴方はその誰かに一生悲しんで、自分を悼んでほしいと思うかしら」
「え……」
「どう思う?」
考える時間を、悲しみから逃れる時間を作ってやる。
ツカサは涙を堪えて潤んだ瞳でシアンを見ながら、必死に首を振った。
「いやだ……そんなの、助けたって言わない……ずっと、ずっと笑っててほしくて、幸せになって欲しくて、助けたのに……」
「そうね、人を庇って死ぬという事は、その人の生を願うのと一緒……。これから先ずっと悲しみに暮れて過ごしてほしいなんて、誰も考えないはずよ。……考える間もなく飛び出したのなら、尚更ね」
見上げるツカサの目が、薄らと青に光っている気がする。
自分の瞳の色が写ったのだろうかと考えて――シアンは一瞬嫌な事を思い出し、己の心を厳しく律した。そうではない。今は、そうではないのだ。
一度目を閉じて、再度ツカサの瞳を見る。
その目に自分の顔が写っている事を確かめて、シアンはホッと胸を撫で下ろし今度こそ安堵に微笑んだ。
……そんな事よりも、ツカサを見てやらねば。
「ツカサ君、貴方は今、ラトテップさんが死んだことを自分のせいだと思っている。そしてその事で酷く自分を責めているけど……ラトテップさんはそんな事を願う人だったかしら」
そう言えば、すぐにツカサは首を横に振る。
ああ、そう言う子だ。自分を助けてくれた人の事を一分も疑わない。誰もが優しい思いを持っていると信じるような、優しくて易し過ぎる子なのだ、彼は。
だからこそ、ツカサの心を壊す訳にはいかなかった。
ラトテップと言う男だって、ツカサがこうなる事を望んではいないだろう。その男は笑って死んだのだ。彼の言動からして様々な事を苦しみ抜いただろうに、それでもツカサにそれを悟らせぬように。
……だから、彼の遺志は、決して失わせてはならない。
ツカサがあの地獄から救われる事も、彼の償いだったのだろうから。
「シア……さ……。俺、だって……でも……俺……っ」
「ねえ、ツカサ君……人の死を悼む事は、尊い事よ。どれほど相手を愛していたかを示して泣く事も、悪い事じゃない。でも……いつまでも泣いて弔い続ける事は、死者を苦しめる事にしかならないの。貴方は今『自分の死を長く悼んで欲しくはない』と言ったけれど……ラトテップさんも、きっとそう思っていたんじゃないかしら」
「ラトテップさん、も……?」
ツカサのその言葉に、シアンは微笑んだ。
「自分を戒める事は、立派な事よ。だけど、自分に厳しくする事で悲しむ人がいる。ブラックだって、貴方を責めるために助けたんじゃない。誰だってそうなのよ。……だからね、ツカサ君。自分を責めて彼の思いを無駄にしないであげて」
「っ…………」
少し、突き放した言い方だったと思う。
けれど意地っ張りな彼には、そう言い聞かせる事も必要だった。
「貴方の我慢は、間違ってる。……我慢とは、解放が存在するからこそ続けられる修行のような物なの。それを解らないまま続けていれば、貴方は壊れて……今度こそ、ブラック達を悲しませてしまう」
「あ……」
「だから、良いの。ここで、泣いていいのよ。誰も貴方の事を責めはしない。私が、貴方の事を守ります。だからここでだけは、理不尽に泣き喚いたっていいの。それは、次に自分を律する為に必要な事なのだから」
「でも、お……俺……」
眦に涙が溜まって、今にも溢れそうになっている。
それだけ意地を張れれば立派だと思い、シアンは彼を見つめて頭を撫でた。
「よく頑張ったわね、ツカサ君」
その言葉で、ツカサは――子供のように顔を崩して、泣き崩れた。
(ああ……随分と強固な意地だったわねえ……)
この世界の十七歳でも、これだけ自我を保てれば立派だ。
己が恐れる物を呼びこまないようにと抗った結果だとしても、そこまで己の衝動を抑え続けたのは称賛に値する。
何百年生き続けたシアンですらも舌を巻く程の、強い意地だった。
(だけど、その意地が彼をここまで…………。ああ、人と言うのはなんて不完全なのかしらね……。だからこそ、こんなにも愛しいのだけれど)
神族は己を律する事が有っても、他者を優遇するという事は滅多にしない。
仮にそれが有るとすれば身内に限られるし、協力関係にある者や友人と言った程度の間柄の者には、気を使う事無く対等に接するのが普通だった。
そうすることが、後々の禍根を生まないと知っているからだ。
だからこそ、排他的になって同じルールを持つ者で連なり、神族は数百年沈黙を守って神の使徒として下界を監視し続けていた。
……ブラック達と、出会うまでは。
(あの頃の私は、こうやって他者を慰める事も考えなかった。ブラック達に出会って人族を思いやる行為を知る事が出来たけど……けれども、こうして自分の記憶と経験を役立てる事が出来たのは……やっぱり、貴方のお蔭なのよ、ツカサ君)
泣きじゃくる相手に感謝すら抱きながら、シアンは彼の背中をゆっくりと擦る。
小さくて、暖かい背中。諦め全てを受け流していたこの老体を、もう一度母として神族として奮い立たせてくれた、異世界からの使者。
その到来の真意が悪意による物だったとしても、シアンは感謝したかった。
彼が泣いてくれた事で……シアンの仲間は、救われたのだから。
「少し厳しい事をいってごめんなさいね、ツカサ君」
徐々に声が収まって来たツカサにそう言うと、相手は泣き腫らし真っ赤になった顔で必死に首を振った。
「っ、く……俺……シアンさんが、聞いてくれて……良かった、です……っ」
「ツカサ君……」
「俺の、婆ちゃんも……怒る時、俺の事、考えて…………厳しく、言ってくれて……だから、俺……ばあちゃんに、抱き締められてるみたいで……嬉しかった……」
涙と鼻水で濡れて情けない顔のまま精一杯笑おうとするツカサに、シアンは何だか自分まで泣いてしまいそうになって、眩しげに眼を細めて笑った。
「私でも……貴方のお婆ちゃんに、なれたかしら……?」
つい、弱気な言葉が口を突く。
だけどツカサは崩れた笑顔で微笑んで、こう言った。
「俺、ずっと……っ、シアンさんの、こと、俺の婆ちゃんみたいに……思ってて……助けてくれるの、嬉しかったんです……」
「私の助けが……?」
思わず聞き返すと、ツカサは強く頷いて……すこし、窺うようにシアンを見た。
「だから……その……。いま、だけ……今だけ……俺の、婆ちゃんみたいに……呼んでも、いい、ですか……?」
鼻を啜り、嗚咽を漏らして体を震わせながらも、ツカサは純粋に慕う琥珀色の瞳でじっとシアンを見つめて来る。
こんな素性も知れない異種族を見て、身内に重ねていると。
最も信頼する者であろう存在のように呼んで良いかと、問いかけながら。
(…………本当に、貴方って子は……)
今のシアンには、その言葉はあまりにも強く響いてしまっていた。
そんな風に言われては、もう、怒りの仮面を付ける事すら出来ないではないか。
「本当に貴方は……良い子ね……」
「シアンさ……」
「良いわ……呼んで頂戴……いえ、ぜひとも呼んでほしいわ……。私は、ツカサ君のお婆ちゃん……この世界での、貴方のお婆ちゃん。貴方の家族よ……!」
抱きすくめて、その柔らかい頬に己の老いさらばえた頬で触れる。
だがツカサは嫌がりもせず、猫のように嬉しそうに擦り付けて来ると、幼子がする仕草で母親に甘えるように肩に頭を懐かせてきた。
それは、かつてツカサが家族に許して貰っていたこと。
自分の愛しい親にだけ見せたのだろう、甘えた仕草だった。
そして、彼は。
「シアン……お婆ちゃん……」
心底嬉しそうに、安堵したように――――呟いた。
「――――――……っ」
ああ。
だからこの子の許には……救われたがるものが集うのだろう。
打算も何もなく、ただ、純粋に自分を見つめて……欲しい言葉を、くれる。
醜い部分を見せようが、最後まで信頼してくれる。
己が心を開きさえすれば、無限の愛を持って……受け入れて、くれるのだ。
死んだ後ですら自分の死を悼んでくれると確信できるほどに……――
(この世界には……貴方を慕うものが多すぎるみたいね……)
シアンもまたその内の一人なのだと自覚して、自嘲する。
だが、この腕はその事を笑い飛ばせるほどに温かで……自分まで泣いてしまいそうなほどに、優しく頼りない腕だった。
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