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序章

  孤独の穴倉2

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「うひゃっ」

 思わず変な声を出してしまうが、熊さんは何をしたいのか、俺の首回りに湿った鼻を押し付けて、スンスンと音を鳴らしながらニオイを確かめている。

 そんな事をされると、昨日今日と風呂に入れずじまいだった自分を思い出して急に恥ずかしさを覚えてしまい、俺はどうにか早く終らないかと足を動かしてしまった。
 や、約束だから仕方ないんだけど、やっぱ熊さんにやられてもこういうの恥ずかしいよ……ああもう、こんなことされるなら体を拭くぐらいしておけばよかった。

 こういう時に砂漠や乾いた場所にいるのが恨めしくなってしまう……。
 ううう、食われるとはいえ変な事を言われるのは嫌だ。
 汗臭いとか言われたら余計に恥ずかしくなっちまう。

 もういっそ自分から言った方がいいんじゃないかとトチ狂った事を考えてしまって、俺はつい口を滑らせてしまった。

「あ、あの、俺たぶん汗臭いから美味しくないかも……」

 ……ってなんだそのセリフ。

 そもそも自分が美味いかどうかなんて分かるワケがないだろーがっ!
 しかも汗臭くなくても別に美味くないかもしれないし、血の話だって“砂犬族”の人らの口に合っただけかもしれないし……あれっ、コレもしマズかったら俺逆に「マズイのはいらない」ってポイされるか殺されるかするのでは?

 なんか今更ながら我ながらヤバいことを言ってしまったのでは……。

 そう考えて一気に血の気が引いてしまった俺に、大きな黒い鼻頭を押し付けていた熊さんは、ふごふごとくぐもった声を漏らす。

「何を言っている。人族の体液は美味いからむしろ汗をかいていた方がいい」
「……え?」

 汗……え? 今なんて言った?
 なんか、物凄いセリフを熊さんの可愛い口から聞いたような気がするんだが。

「試しに味見だ。汗が美味いならお前を喰うのは勿体ない。オレは幸い、肉を喰う事の他に糧を得られる食い方があるからな」
「わーやっぱり汗がどうのこうの言ってるううう! ダメダメ汗舐めたら汚いってっ! 熊さんなら普通にハチミツ舐めて下さいよこれじゃ血の方がマシだってば!」
「血ではお前が衰弱するだろう。それに、味見のためにも一度舐めておきたい」
「でもあのやっぱ汗はっ」

 勘弁して、と、逃げようとしたが――――熊の体毛で覆われた大きな腕で、強く体を固定される。指代わりの長い黒爪が少し強く肌に食い込んで来て、俺はその刺激に恐怖を覚え思わず息を飲んだ。

 ああ、そうだ。
 喋れるって言っても、この熊さんは肉食だ。そもそも俺を喰おうとしていた相手じゃないか。「食わずに済む方法があるかもしれない」とは言ってたけど、食べないとは言っていない。つまり……相手は、いつでも俺を食い殺せるのだ。

 結局のところ、俺は熊さんの気まぐれで生かされているに過ぎないワケで。

 …………ど……どうしよう……パンツ一丁じゃあもう逃げられないぞ……。

 今更ながらに焦りを覚えてどんどん体が硬直して行く。
 そんな俺に、首筋を嗅いでいた熊さんが少し低い声をかけてきた。

「今更怖がるのか。だがそれでは困る。負の感情では不味くなる。汗をかいたまま、興奮して貰わねば」
「な、なに言って……」

 るんだ、という三文字を続けて言おうとしたのだが。
 いきなり首筋を生暖かい濡れた物が撫でて、俺は思わず悲鳴を上げてしまった。

「うわぁあっ!? な、なにっ」
「ム……」

 慌てて問いかけたが相手は答えてくれない。
 一体何が触れて来たんだと視線をなんとか自分の首筋に向けると、明らかに鼻の頭ではない、なにか赤味のあるものが再び自分の体を舐めるのが見えた。

 そ、それなに。濡れてる。もしかしてこれって、熊さんの舌なのか。

「っ、あ、やだっ、ぁ……!」

 弾力のある感触。
 少しざらついてて押し当てられると肌を擦られているようでぞわぞわする。それなのに生温い舌先は柔らかくて細かく動くから、肩の窪みや首のへこんだところにチロリと這われるとくすぐったくてどうしようもない。

 思わず体が抵抗するように動いてしまうが、熊さんの腕からは逃れられなかった。

「フ、フゥウッ、フーッ」
「い、息かけないで、っ、ぁ、ぅう……っ」

 うなじからぐるりと執拗に舌が這いずり回り、背中の筋をなぞって降りた。
 俺の頭なんて簡単に包めるほどの大きさと長さのせいで、尻のほうにまで舌は楽に下りて行ってしまう。こんなとこ、他人に触られたことなんてない。

 なのに、今俺の体には熊さんの大きすぎる舌が這いずり回っていて、背筋とか、脇腹とかを執拗に舌で撫でられて舐められてて……。

「っん……も、もう無理っ、これ無理ぃっ、くすぐったい、く、くすぐったいから……っ!」

 体がぞわぞわする。脇腹をねっとりと舌で舐め上げられて、気まぐれに体の前の方を舌先がなぞるだけで足が勝手に内股になってしまう。
 脇とか足とかくすぐったい所は舐められてないはずなのに、重苦しいねっとりとした水音を立てながら、あえて鎖骨や肩、脇腹や首筋をまんべんなく舌で触れて来るのを感じていると、恐怖からなのか尿意のような感覚が襲ってくる。

 決して“そういう気分”じゃないのに、どうかすると覚えのある興奮が込み上げてくるような気がして、俺はそちらの方が怖くなって首を振った。

 ち、ちがう。こんなので感じてたらただの変態じゃないか。
 熊に舐め回されてるだけなのに、それをいつもの孤独な興奮と勘違いして愚息を反応させてしまうなんて、俺はどんだけエロザルなんだ。

 敏感と言えば聞こえはいいが、熊の食欲による舌責めに興奮なんてしてたらタダの変態なんじゃないのか。違う、そうじゃない。これはくすぐったいからなんだ!

 う、ううう、そうか、やっと熊さんが言ってた言葉の意味が分かった。
 死の危険は無いけど生娘には恥ずかしいってこういう事だったんだな。そりゃこんな事されたら恥ずかしいわ。生娘じゃなくても恥ずかしいわい普通に!!

 でもこれ心配ないんだよな!?
 熊さんが執拗に舐めてるって事は一応大丈夫なんだよな!?

 なんかフーフー興奮してるの分かるし、鼻息がさっきより荒くなって来てて髪の毛をばっさばっさ浮かせてくるもんな。だから俺はセーフなんだよなっ!?
 興奮しすぎて食べられちゃうなんて事は無いはず。誰かそうだと言ってくれ。

 もう怖いんだかくすぐったいんだか変な感じなんだかよく分からなくなってきて、舌がしつこく自分の体を舐め回してくるのに体が震えて来る。

 足は閉じた状態で情けなくぎゅっと力が籠っていて、爪先は踏ん張るみたいに地面に強く押し付けられていた。

 ああもう、おれ、何やってんだ。
 分かんない、これどうすりゃいいんだよぉ……っ!

「……む……」

 声が背後から聞こえる。
 自分を抑える以上に大きな腕から熊の体毛を感じなければ、その声は低くて渋い、落ち着いた大人の男の声にしか思えなかっただろう。

 でも、この声の主は違う。
 ふうふうと息をうなじや頭に吹きかけて来るのは、俺をすぐにでも食ってしまえる、く……熊で……っ。

「涙……」
「ぇ…………」

 言われて、初めて視界が揺らいでいた事に気が付く。
 静かで無表情な声に釣られて舌が上がり、座布団くらいもある大きな舌が器用に俺の目じりを繊細に撫でた。

 舐められた後に夜の冷気が触れて来て、顔が熱くなっていたのが分かる。
 自分がいつの間にか醜態を曝していた事に息を飲んだ俺を見てか、熊さんは――俺をぐっと抑え込んでいた腕の力を緩めた。

「すまなかった。年恰好や味からして、まだオスを知らないとは思っていたが……こうまで初心とは思わなかったのだ。つい興奮して焦り過ぎてしまった」
「う、初心ってっ、うえぇっ?!」

 なにか聞き逃せない変な事を沢山言われて反論しようとするが、その前に熊さんは俺の体を軽々と掴むとくるりと自分の顔の方に向けさせる。
 目の前に現れたでっかい熊の顔は、なんだか嬉しそうな雰囲気で、熊耳や長い鼻をふむふむとせわしなく動かしていた。

 ……う、うう、さっきあんな事されたのに、すごい可愛い……っ!

 もうなんか全てが吹き飛んでしまって、つい体が弛緩してしまう俺に、熊さんは耳を嬉しそうにピンと立てて震わせながら俺の頬を舐めた。

「人族は獣人の何百倍も美味いと聞いていたが、予想以上だった。乾いた汗だけでこんなに美味いのだから、喰うなんて勿体ない。言った通りお前は生かすぞ」
「は、はえぇ……」
「だが食料が無くなったら共倒れだ。もしもの時は遠慮なく食わせて貰う」
「そ……そうっすか……」

 可愛い仕草に思わずキュンキュンしていたが、そう言えばそういう話だったな。
 この熊さんは別に俺を助けたかったわけじゃなくて、これはあくまでも「利益を齎し続けてくれるか否か」って判断でのことなんだ。

 でも、すぐさま食べないで居てくれるだけ有情ってもんだろう。
 とにかく助かったのは確かなんだから……これからどうするか考えないとな。

 相手が人と同じ言葉を話せる相手なら、もしかすれば懐柔できるかもしれない。
 “砂犬族”のオッサン達だって、ちょっと価値観が違ったけど話せばちゃんと分かる人達だったし、この熊さんだって「すまない」とか言ってくれる程度にはこっちのことを気遣ってくれてるんだから……たぶん、徐々に仲良くなっていけば大丈夫なハズ。

 それまでヘマをやらかさずに、相手に有用だと思って貰えれば何とかなる。
 とりあえず……この熊さんの機嫌を損ねないようにしないとな。

「……そういえば、まだ名を聞いてなかったな。食料とは言え一緒に暮らすのだから名が無いと不便だ。死んだ時に墓を立てるくらいはするから名を言え」
「ふ、不吉な……あ、いや、えーと……俺の名前は潜祇 司……です」
「クグルギツカサ? それが名前か?」

 キョトンと首を傾げる熊さんに、俺は慌てて訂正する。
 名前はツカサで、クグルギは家……というか一族の名前だと言うと、熊さんは過去に何か思い当たる事があったのか「ああ」と静かに声を漏らした。

「そういえば、人族は家名を持っている者が多いのだったな。なるほど、お前の家も何か功績を成し遂げた家なのか」
「あ、いやー……俺の故郷では家名があるのが普通ってか、当たり前で……。功績があったのかどうかは謎ですね……」
「人族は意味のない事をするな。まあいい。ツカサと呼べばいいのだな」

 さしてこちらの習慣に興味はないのか、熊さんはフムと鼻を動かす。
 やっぱり動物として可愛くてキュンと来てしまうが、相手は声からしてオッサンなのだから、あんまりキュンとしない方がいいのかも知れない。

 たぶんコイツ、人間になれたら普通にオッサンだぞ。
 くそっ、オッサンなのにモフモフの熊だから可愛いとしか思えないのが悔しいっ。

「じゃあ、今度は熊さんの番ッスよ。熊さんの名前は?」

 腹立ち紛れにそう言うと、熊さんは何故か少し悩んだ後――――
 暗い夜の洞窟の中で、静かな声をぽつりと零した。

「クロウクルワッハ。……オレはただの……クロウクルワッハという」

 熊さんの声は、相変わらずの感情が見えない声だ。

 けれど、どうしてだか俺には、自分の名前を告げる相手の声が、少し寂しげな色を含んでいるように思えてならなかった。










 
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