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参 海ノ妖ノ章
参ノ伍 悪しきあやかしの気配
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父から魚の入った桶を受け取ったサワは、はやる気持ちをおさえて駆けました。
ケンジロウは半月前に船が転覆して父を失い、同時に右足を負傷して、漁に出られなくなりました。
父亡き今、ケンジロウは母との二人暮らし。だからこれに深い意味はない。
自分にそういい聞かせながら、ケンジロウの家を尋ねます。
ここ数年はケンジロウと顔を会わせるたびに鼓動が早くなるのです。戸の前で大きく深呼吸して呼び掛けます。
「ケンジロウ、いる? あたし。サワよ。お父が『魚がたくさん取れたから』って、おすそわけにきたんだ」
入り口の戸を開けると、台所で菜を切っていたケンジロウの母がサワを見て笑みを浮かべます。
「サワちゃん。ありがとうね。また来てくれたのかい。ケンジロウ、ケンジロウ! でておいで。サワちゃんが来てくれたよ」
母に呼ばれ、ケンジロウが杖をつきながら姿を見せました。起き上がっているのもやっとの危うい足取りで、戸に寄りかかりました。
「……なにか用か」
「これ。お父が魚がたくさん取れたから持っていけって」
冷たい一言に、サワはあわてて桶を両手で差し出します。
「そ、それじゃ、あたしもう行くね。足、早く治るといいね。おばさんも、またね」
もっとたくさん話したい。子どものころのように笑いあいたい。そうは思っても、体が素直に言うことをききません。
ケンジロウは海に落ちて以来、こんな風に人を寄せ付けなくなりました。前はとても快活で、話好きな少年だったのです。
それがたった半月で様変わりしました。家にこもりきりで顔色は死人かと思うほど青白く、声にも覇気がありません。
手ぶらになったサワは肩を落とし、来たときよりも重い足取りで家に帰ります。
「はぁー。大丈夫かな、ケンジロウ」
医者は、足が折れている以外に異常はないと言っていました。
サワも母を早くに亡くしたからわかります。
ケンジロウの変化は家族を亡くした悲しみだけではないような、まるで、何か悪いものに憑かれているんじゃないかと思うほどの人のかわりようなのです。
このことを誰かに相談するべきか迷います。
「すみません、この村に宿はありますか?」
うつむくサワに、男が声をかけてきました。
聞きなれない声にそちらを見ると、浅葱色の狩衣をまとった若者がいました。
表情は固く、男にしては長い黒髪をうなじで一つに結び、きつい眼差しの右目だけが紫色の光を宿しています。
左腕は白い布に覆われています。
肩には白い毛の小さな生き物が乗っていました。
若者はなんだか常人とは違う異様な雰囲気を放っていて、サワはごくりとつばを飲みました。
「こ、ここに宿はないわ。小さい漁村だし」
ようやくそれだけ言うと、若者の肩に乗った動物がキュイ、と鳴き、若者が「そうか」と呟きます。
「……申し遅れました。おれはナギ。陰陽師の見習いです。貴女からは妖の残り香がする。貴女か、もしくは身近な誰かに最近異変はありませんでしたか」
若者ーーナギの言葉を聞き、真っ先にサワの頭に浮かんだのは、ケンジロウのことでした。
今出会ったばかりの人間に、しかも本当に陰陽師かどうかもわからない人間に相談していいものか。
「あなたは物の怪に憑かれている」と嘘八百を並べたてて形だけの祈祷をし、金品を無心する悪党もいると、風の噂で聞きます。
宿を探していることだけは本当だろうから、サワはひとまず、ナギを村長のもとに案内することにしました。
ナギが本物かどうかは、子どものサワに判断できないこと。だから今は村長に任せるのがきっと正しいのだと思いました。
ケンジロウは半月前に船が転覆して父を失い、同時に右足を負傷して、漁に出られなくなりました。
父亡き今、ケンジロウは母との二人暮らし。だからこれに深い意味はない。
自分にそういい聞かせながら、ケンジロウの家を尋ねます。
ここ数年はケンジロウと顔を会わせるたびに鼓動が早くなるのです。戸の前で大きく深呼吸して呼び掛けます。
「ケンジロウ、いる? あたし。サワよ。お父が『魚がたくさん取れたから』って、おすそわけにきたんだ」
入り口の戸を開けると、台所で菜を切っていたケンジロウの母がサワを見て笑みを浮かべます。
「サワちゃん。ありがとうね。また来てくれたのかい。ケンジロウ、ケンジロウ! でておいで。サワちゃんが来てくれたよ」
母に呼ばれ、ケンジロウが杖をつきながら姿を見せました。起き上がっているのもやっとの危うい足取りで、戸に寄りかかりました。
「……なにか用か」
「これ。お父が魚がたくさん取れたから持っていけって」
冷たい一言に、サワはあわてて桶を両手で差し出します。
「そ、それじゃ、あたしもう行くね。足、早く治るといいね。おばさんも、またね」
もっとたくさん話したい。子どものころのように笑いあいたい。そうは思っても、体が素直に言うことをききません。
ケンジロウは海に落ちて以来、こんな風に人を寄せ付けなくなりました。前はとても快活で、話好きな少年だったのです。
それがたった半月で様変わりしました。家にこもりきりで顔色は死人かと思うほど青白く、声にも覇気がありません。
手ぶらになったサワは肩を落とし、来たときよりも重い足取りで家に帰ります。
「はぁー。大丈夫かな、ケンジロウ」
医者は、足が折れている以外に異常はないと言っていました。
サワも母を早くに亡くしたからわかります。
ケンジロウの変化は家族を亡くした悲しみだけではないような、まるで、何か悪いものに憑かれているんじゃないかと思うほどの人のかわりようなのです。
このことを誰かに相談するべきか迷います。
「すみません、この村に宿はありますか?」
うつむくサワに、男が声をかけてきました。
聞きなれない声にそちらを見ると、浅葱色の狩衣をまとった若者がいました。
表情は固く、男にしては長い黒髪をうなじで一つに結び、きつい眼差しの右目だけが紫色の光を宿しています。
左腕は白い布に覆われています。
肩には白い毛の小さな生き物が乗っていました。
若者はなんだか常人とは違う異様な雰囲気を放っていて、サワはごくりとつばを飲みました。
「こ、ここに宿はないわ。小さい漁村だし」
ようやくそれだけ言うと、若者の肩に乗った動物がキュイ、と鳴き、若者が「そうか」と呟きます。
「……申し遅れました。おれはナギ。陰陽師の見習いです。貴女からは妖の残り香がする。貴女か、もしくは身近な誰かに最近異変はありませんでしたか」
若者ーーナギの言葉を聞き、真っ先にサワの頭に浮かんだのは、ケンジロウのことでした。
今出会ったばかりの人間に、しかも本当に陰陽師かどうかもわからない人間に相談していいものか。
「あなたは物の怪に憑かれている」と嘘八百を並べたてて形だけの祈祷をし、金品を無心する悪党もいると、風の噂で聞きます。
宿を探していることだけは本当だろうから、サワはひとまず、ナギを村長のもとに案内することにしました。
ナギが本物かどうかは、子どものサワに判断できないこと。だから今は村長に任せるのがきっと正しいのだと思いました。
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